47.荒野の猪
蝋燭の灯りが揺れている。
天幕の中には、蝋の甘い芳香と、外から流れ込む馬糞と泥の湿った気配が混じっていた。
ゲルハルド・ヴェン・ブロクは、卓に向かって手紙を書いていた。
巨体が椅子を軋ませる。だが筆の運びは静かなもので、太い指が羊皮紙の上を滑る様は、戦場にいるとは思えぬほど穏やかだった。
宛先は第三夫人。末の娘が四歳を迎えたという知らせへの返信である。
「お前の絵は、父の宝だ」
縮れたあごひげの下で、大きな口がわずかに弧を描き、呟きを漏らした。鉄の胸当ての内側には紙片が一枚挟んである。娘が描いた馬の絵だ。足が五本あり、頭が二つある。体温で温まった紙は胸の中央に張りつき、そこにあるだけで遠い家の匂いがした。
返信を書き終え、次の羊皮紙を引き寄せた。
第二夫人には息子たちの訓練について二行ほど記し、「倹約を怠るな」と添える。正妻への手紙はもっとも短い。「身体に気をつけよ」。二十年も連れ添えば、余計な言葉はかえって邪魔になる。
七人の息子には全員にことなる言葉をかけた。末の息子にはしばらく悩み、結局「父は元気だ」とだけ書く。まだ字を読めるかも怪しい歳だ。それでいい。
封蝋を溶かし、ひとつずつ押し終える。指先にこびりついた蝋の赤が、蝋燭の灯りに照らされて血のように見えた。
副官の声が天幕の外から落ちた。
「元帥閣下。斥候が戻りました」
ブロクは椅子を押しのけて立ち上がる。立つだけで天幕の天井に影が広がり、火がひとつ消えたように暗くなった。
◆
斥候は三人。顔は埃と汗で汚れている。
報告は簡潔だった。敵陣の位置。兵力の概算。土塁の高さ、杭列の間隔、見張り台の数。工兵の槌音が夜通し続いていたこと。
「敵が整う前に叩くべきかと」
副官が声を張った。教本の正解を言ったつもりなのだろう。
ブロクは鼻を鳴らした。
「急ぐな。あの陣には、ザーヴェル辺境伯の手が入っている」
太い指が地図の上を這う。陣の位置、稜線、谷筋。
「土塁の再建が速い。杭列の角度が整えられている。これは片手間の仕事ではない。急いで飛び込めば嵌められる。それは俺の好みではない」
副官は黙った。
「まず圧をかける。斥候を増やし、動いている姿を見せろ。敵が焦れるのを待つ。猪のように見せて、猪のようには突っ込まん」
天幕を出ると、初夏へ向かう朝風が縮れた髪を揺らした。泥と馬と、麦粥が混じった空気。鎧の下の汗が、朝風に冷える。戦場の朝だ。胸当ての内側に挟んだ紙片が、わずかに肌に触れる。足が五本の馬。頭が二つの馬。
元帥は呟いた。
「まだ死ぬ気はない」
◆
日が高くなる頃、最初の接触があった。
アルノルトは馬上にいた。陣の外縁、土塁の影が短くなる場所。風が強く、草は寝ては起き、寝ては起きる。遠くの稜線が揺れて見えるのは陽の熱のせいで、敵影ではない――と頭で分かっていても、目が勝手にそこを追った。
「敵騎兵、十騎。こちらへ向かっています」
斥候の報告に、アルノルトは息を吸って吐いた。数が少ないほど、厄介なことがある。
「追い払う。深追いはしない」
門が開く。杭列の間を抜けると、土塁の圧が途端に薄れ、風の肌触りが変わった。草を踏む蹄の音が、柔らかくなる。愛馬オルヴァンの青毛が陽光を受けて鈍く光る。鞍の下で、馬の筋肉が硬く動いた。横にシロウが並走し、後方に騎兵三騎が続く。
敵の姿が見えた。弓を構え、矢を放つ。狙いは胸ではなく、先頭の馬の脚元。矢が草を裂き、掠めた。威嚇だ。
敵騎兵は足を止め、互いに距離を測るように回り込み、やがて馬首を返した。追う必要はない。追えば、追う足音を敵が数えることになる。
陣に戻ると、カルディア男爵が土塁の上にいた。外套の襟を立て、頬に風を受けている。
「ブロク元帥の手だな」
声は低い。
「猪のように見えて、あの男は狡い。圧をかけ、こちらが焦れるのを待つ。挑発に乗れば陣形が崩れる。崩れた所を、巨躯で踏み潰しにくる」
風が土塁の上を撫でた。
「あの男の挑発には、乗るな」
カルディア男爵の言葉は、アルノルトに向けたものであると同時に、自分自身に言い聞かせてもいるようだった。
◆
指揮天幕は狭かった。天幕布が日射に焼かれ、中の空気は重く蒸している。油皿の灯りが地図の上に黄色い輪を落とし、男爵や騎士たちの鎧が身動きのたびに擦れて軋んだ。
昼過ぎ。伝令が届いた。辺境伯セルヴィオの署名がある。
「敵を正面から受け止め、消耗させよ。決戦は急ぐな」
指揮天幕の中、地図の上に灯が揺れている。ツェルバハ子爵が読み終えて紙を畳み、オルマン男爵が苦笑する。
「俺たちは壁になれということか。不得手ではないが、手持ち無沙汰になる」
アルノルトは口を開いた。
「軽騎兵による遊撃は、私の隊が引き受けます。敵の斥候を追い、荷駄の動きを探り、こちらへ戻す」
天幕の空気が変わった。子爵の目が細くなる。
「ラウエンか。任せよう」
一拍の間があった。
「無茶はするな。馬も、人も、代わりはきかん」
その一言に含まれるものを、アルノルトは喉の奥で受け止めた。
◆
天幕を出ると、西日が高原を赤く染め始めていた。
風が落ち、焚き火の煙が真っ直ぐに立ち上る。麦粥を煮る湯気と、干し肉を炙る煙が立ちのぼっていた。
コンラートが横に並んだ。二人は天幕脇の焚き火へ向かい、並んで腰を下ろす。薪が爆ぜ、小さな火の粉が舞い上がっては闇に溶けた。
粥の椀を受け取り、黙って食べた。木匙が椀の底を擦る音と、薪の爆ぜる音だけが二人の間にあった。
コンラートが椀を膝に置いて、ふと口を開く。
「なあ、アルノルト。お前がいつか男爵になったらさぁ」
「そのようなことは……」
ありえない、とでも言うように、アルノルトは眉を下げる。
「仮の話だよ」
コンラートは火を見ていた。炎が頬を赤く照らし、影が揺れる。いつもの軽い調子ではなかった。
「お前が男爵になったら、僕をお前の寄騎にしてくれないか」
アルノルトは手を止めて振り返った。コンラートの横顔は、火に照らされて彫りが深い。明るい金髪が額に垂れ、茶色い瞳に炎の色が映っている。冗談の顔ではなかった。
「寄騎ですって?コンラート様は子爵家の三男でしょう」
「三男だからこそだよ」
コンラートは膝の上の椀を指先で回した。
「兄上たちが家を継ぐ。僕は三男だ。自分で道を作らなきゃならない」
声は穏やかだった。不満ではなく、とうに受け入れた事実を語る声だ。
「それなら、信頼できる奴の下で戦いたいんだ。それならアルノルトがいいな」
言葉が出なかった。
コンラートは火を見つめたまま続ける。
「僕は、お前みたいに馬を読む目は持っていない。戦場で風向きが変わった瞬間に動ける勘も、弓の腕も、お前には敵わない」
声が少し低くなった。
「だけど、お前の隣で戦えば、僕にもできることがあると思う。お前が前を見ているとき、横を守る。お前が突っ込むとき、退き口を作る。そういうことなら、僕にもできる」
胸の奥で、何かが熱くなった。
火が爆ぜた。赤い粉が夜空へ吹き上がり、星の間に紛れて消えていく。
「……私はまだ士爵になったばかりです。男爵になれる望みはさほど高くはありません」
「だから『いつか』って言ったんだろ。約束じゃない。ただの願いだよ」
コンラートは笑った。照れ臭そうに後ろ頭を掻く。
「まあ、二年後には僕も婚約者のところへ婿入りするかもしれないしな。そうなったら、この話はご破算さ」
二年後。戦場の二年後は、遠い。遠すぎて、想像もできなかった。
アルノルトは短く息を吐いた。
「……分かりました。約束はできませんが、忘れません」
「それでいいよ。ありがと」
コンラートは立ち上がり、膝の土を払った。
「さて、ご飯だ。戦は明日もある。今夜は食って寝るぞー」
その背中を見送りながら、アルノルトは焚き火に目を戻した。
二年後。コンラートは婿に行くかもしれない。自分は男爵になれるかも分からない。それでもコンラートは「いつか」を口にした。未来があると信じていた。
――俺も、信じなければ。
崩れた薪の中で、最後の炎がひとつ、まだ燃えていた。
◆
翌朝から、遊撃が始まった。
夜明け前に鞍と鐙を確認し、弓弦の張りを確かめた。陣門の前でセリーヌが見送る。何も言わず、ただ頷いた。それだけで十分だった。
アルノルトは騎兵五騎を率いて陣を出た。自分とシロウ、それからカルディア男爵の手勢から選ばれた三騎。いずれも馬の扱いに長け、弓が射れる者たちだ。
高原の稜線を縫うように走る。朝の空気は冷たく、草の露が馬の脚を濡らす。
初日は敵の斥候二組と遭遇した。いずれも三人組の軽騎兵。こちらの姿を見ると退いていく。追わない。彼らがどちらへ退いたかだけを記憶し、帰って報告する。斥候線の境目が、少しずつ見えてくる。
夜は火を焚けなかった。敵の目がある。五人は窪地に馬を寄せ、闇の中で干し肉を齧った。馬の吐く息が白い。シロウだけが音もなく座り、刀の柄に手を置いたまま眠っているのか起きているのか分からなかった。星だけがやたらと近く、草の先に霜が降り始めている。アルノルトは外套の上から毛布を深く被り、馬の脇腹に背を預けて目を閉じた。オルヴァンの腹が、ゆっくりと膨らんでは縮む。その拍子に合わせていると、いつの間にか意識が途切れた。
二日目。南側を回って敵の補給線を確かめた。街道から外れた草地に荷駄の轍が残っている。幅、深さ、本数。大軍を養う規模の物資が動いていた。午後、敵の斥候と弓の応酬があった。シロウの矢が敵の一騎の肩を掠め、相手は引き返す。こちらに被害はない。
グラーツ軍は着実に前進していた。大軍が地を踏む振動が、遠くにいても足裏から伝わってくる。土が鳴る、としか言いようがない低い響きだった。
三日目の夕刻。
西の稜線を越えた先で、敵の前哨部隊と出くわした。歩兵五十、騎兵十。丘の裏に布陣しており、稜線を越えた瞬間に目が合った。
心臓が跳ねた。
「退く」
声を絞った。馬首を返す。五騎で六十の兵にぶつかる理由はない。
敵騎兵が追ってきた。蹄音が背中に迫る。
オルヴァンの脚が地面を蹴った。身を伏せ、馬の首筋に頬を寄せる。たてがみの匂い。汗の熱。温い。首筋の脈が、自分の鼓動と重なった。
「走れ、オルヴァン」
愛馬は応えた。脚の回転が一段上がり、風が耳元を裂く。後ろを振り返ると、シロウの馬が半馬身遅れて続き、他の三騎もついてきている。敵との距離が少しずつ開いた。三リューグほど追われ、敵はようやく馬首を返した。
深追いをしてこない。敵軍の指示が、末端まで行き届いている証だ。
人心地ついて馬の脚を緩めたとき、指が手綱に張りついていた。
汗が冷えて、鎧の下で肌が粟立つ。
陣の土塁が見えたとき、五人は無言のまま顔を見合わせ、安堵の色をにじませた。
陣に戻り、報告した。前哨部隊の規模、位置、兵種の構成。補給線の動き。斥候線の移り変わり。三日ぶんの記録を、地図の上に並べた。
カルディア男爵が頷いた。
「よくやった」
男爵は地図に目を落としたまま背を向ける。
その肩越しに、もうひとつ言葉が落ちた。
「ヘルマンも、お前のような息子を誇りに思うだろう」
アルノルトは頭を下げた。声が出なかった。喉の奥で何かが詰まり、それを飲み込むのに少しだけ時間がかかった。
天幕を出ると、夕闇が高原を赤黒く染めていた。
夕陽が、その日最後の残滓を投げる。空は、もう紫と濃紺の境界をあやふやにして、かすかに星々が輝きはじめていた。




