46.動く山
朝靄は薄かった。高原の稜線が灰色の空に溶け込み、遠景までよく見える。
アルノルトは土塁の上で、頭からすっぽりと毛布をかぶり膝を抱えていた。
視線だけが毛布の影の奥から鋭く周囲を警戒している。
夜半にオルマン男爵の手勢が敵歩兵を追い払ってから、敵に新たな動きはなかった。交代で仮眠を取ったものの、眠れた実感はない。瞼の裏に残る焚き火の残像と、聞こえるともなく耳にこびりついていた槌音が、頭の芯から離れない。
「ラウエン」
名を呼ばれ、遅れてそれが自分だと理解する。声はカルディア男爵だった。
男爵は甲冑の上に外套をまとい、土塁の下に立っていた。腰に差した片手剣の柄に手を添え、外套の裾を風に揺らしている。夜通し見回りを続けていたはずなのに、疲労の色がほとんど表に出ていない。
「降りてこい」
呼ばれるまま梯子を降りると、カルディア男爵は背を向けて天幕のほうへ歩き出した。付いてこい、という意味だった。
◆
天幕の中には、すでにオルマン男爵がいた。
腰掛けた木箱の上に地図を広げ、干し肉の切れ端を噛みながら、指で稜線をなぞっている。アルノルトの姿を認めると、干し肉を口に含んだまま片手を上げた。
カルディア男爵が地図の前に立つと、入口の油布が下ろされた。外光が遮られ、卓上の蝋燭の火だけが残る。揺れる灯りが、地図の凹凸を浮かび上がらせた。
昨夜、オルマン男爵の手勢が敵を追い払った際の報告が一通り終わり、敵動線と哨戒線の再整理がひと段落したところだった。
オルマン男爵が干し肉を飲み込み、水筒で喉を潤して言う。
「昨日の報告、なかなか堂に入ったものだったぞ、ラウエン。陣の再建工事の進み具合、敵斥候の排除、その戦いぶり。俺はお前のことがますます気に入ったよ」
思わず背筋が伸びる。
「……恐縮であります」
「堅いな。まあ座れ」
オルマン男爵は気にした様子もなく、地図の南側を指で叩いた。
「以前の国境戦争でな、お前の親父ヘルマンと轡を並べて走ったことがある。十年以上も前だ。敵の方陣に穴を開けたのはヘルマンだった。お前の親父と一緒に戦えたのは、俺らにとって幸運だったよ」
ヘルマンの名が出ると、天幕の空気がわずかに沈んだ。
「エルドリヒ殿とも共に駆けた。三年前、あの人の腕が失われなければ、と今でも思うことがある。そうでなければ、エーベルハルトの嬢ちゃんに鎧を着せずに済んだかもしれん」
エルドリヒとは、セリーヌの父、エーベルハルト男爵のことである。
軽い口調のまま、重いことを言う。
アルノルトは何も返せなかった。
カルディア男爵が低く口を開く。
「ヘルマンは、よい騎士だった」
たった一言だった。声は低く、抑揚はない。それでも、その言葉は重く、確かな質量を持っていた。
知っている。父を知る者は、皆そう言う。
アルノルトは唇を引き結ぶ。
「父の名に恥じぬよう務めます」
カルディア男爵はそれ以上何も言わず、地図に目を落とした。
◆
まだ朝のうちに、見張り台から南西の街道を見張っていたセリーヌが、鋭い声を上げた。
「土煙!」
高原の空気は乾き、視界は遠くまで抜けている。街道の先に立ち上る砂埃は、相当規模の隊列を示していた。
角笛が三度鳴る。味方の大部隊の合図だ。
ツェルバハ子爵が率いる子爵軍と輜重隊である。
街道いっぱいに広がる歩兵の列。荷駄の車輪が軋み、幌を張った輜重車が連なり、馬群が砂埃を巻き上げる。旗が黄金風に翻り、陽光を受けて鋭く光った。陣門の脇では工兵が整列し、門を全開にする。
受け入れの準備が始まると、陣の奥からコンラートが駆けてきた。ツェルバハ家の陣所は離れた位置にある。角笛を聞いて飛び出してきたのだろう。
「来たぞ! 父上だ!」
声は弾みきっている。
門をくぐる先頭の騎馬に子爵旗が翻る。コンラートはその場で背筋を正し、敬礼した。子爵は鞍上から息子を一瞥し、小さく頷くだけで通過する。武門の親子のやり取りは簡素だ。
その背後に続く歩兵と荷駄。兵糧、矢、木材、油、替えの武具。前線を支えるすべてが、泥に汚れた車輪に載せられて運び込まれる。
コンラートがアルノルトのそばに寄り、小声で言った。
「昨夜の件、聞いた。オルマン男爵が敵を追い払ったって? お前は大丈夫だったのか」
「大丈夫だったのは、俺より誰かさんだろう」
「……あ、それは。その。僕は、交代で休めと言われたから休んだだけで……」
顔を赤らめる。
セリーヌが背後から冷ややかに漏らす。
「まあ、正直でよろしいこと」
コンラートの頬がさらに赤くなった。
笑いが起こる。一瞬だけ、戦場であることを忘れる。
◆
昼頃に陣は完成した。
子爵軍と輜重隊が吸収され、二重の杭列は三重に強化され、堀は掘り増され、見張り台が増設された。天幕は整然と張り直され、馬繋ぎの杭が打ち直され、輜重区画も明確に整理された。千を超える兵を抱える前線拠点として、ようやく骨格が整った。
風の向きが変わった気がした。人と馬と荷の匂いが陣の中に充満し、踏み固められた地面が少しだけ揺れるような感覚がある。陣に厚みが増していた。
子爵は陣を一巡した。カルディア男爵、オルマン男爵、工兵長が後ろに従い、要所ごとに短い問答が交わされる。
「よかろう。ここを前線の軸とする」
短い承認だった。
それで全員の労が報われる。
子爵はカルディア男爵、オルマン男爵の順に指示を出し、その後で若手指揮官にも目を向けた。
「騎士ラウエン」
名を呼ばれ、背筋が伸びる。
「明日の哨戒、一番手はお前だ。西の稜線沿い。騎兵五、歩兵二十五を率いよ」
「はっ」
子爵の目は厳しい。だが声には、わずかに柔らかさが含まれていた。
「ヘルマンであれば、自ら哨戒の任に名乗り出るぞ」
子爵の微笑に混じり、また父の名が出る。
赤面したアルノルトが頭を下げると、隣のカルディア男爵が無言で頷いた。その向こうで、オルマン男爵が苦笑する。
父を知る者たちの視線が、自分に集まる。それは身の引き締まる思いであると同時に、胸の奥を鈍く圧す重みでもあった。
――やはり父上の成したことは大きい。父上の名は、まだ俺には重い。
一瞬だけ弱気が過ったが、すぐに飲み込む。今はそれでいい。まだ、自分の名で何かを成したわけではないのだから。
その夜は静かだった。
敵の斥候は現れず、焚き火の番をしながらアルノルトは翌朝の支度を確かめた。
騎兵五、歩兵二十五。西の稜線沿いに出て、敵の動きを探る。
シロウが傍らに控え、刀の手入れをしていた。
油を含んだ布が刃を撫でる音だけが、夜気に溶ける。
「殿。お気をつけて」
静かな声だった。アルノルトは頷いた。
◆
翌朝。
暁を払った空は淡い紫を帯び、星がまだ三つ四つ瞬いていた。
アルノルトは先頭に立ち、陣門を出る。背後に騎兵五騎、そのさらに後ろに歩兵二十五が続いた。槍の穂先に朝露が宿り、土を踏む足音と馬具の軽い金属音だけが、高原の冷気を裂く。
西の稜線へ向かう。ここから先は味方の哨戒線の外側だ。
空気が変わる。陣中に満ちていた木と泥と人いきれの匂いが消え、代わりに湿った草と冷えた岩の匂いが広がった。視界が開け、高原の起伏が遠くまで見渡せる。
ゆるやかな草原が西へ伸び、その先に針葉樹林が壁のように立ちはだかる。その向こうが、グラーツ王国の勢力圏だった。
「散開。騎兵は稜線上。歩兵は斜面の中腹。互いの視界が切れない距離を保て」
指示を出し、自らは最も高い地点へ馬を進める。低い角度の朝光が地面の凹凸を強調し、影を鋭く落としていた。
動くものはない。鳥の声が遠く、風だけが草を揺らす。
一刻ほど進んだところで、斥候に出ていたシロウが馬を寄せてきた。声を落とし、前方を指す。
「殿。あの稜線の裏手を」
馬を降り、稜線の縁から身を乗り出して覗き込む。斜面の草が広く踏み荒らされていた。
アルノルトは片膝をつき、地面を観察する。蹄の跡が複数。深く刻まれている。駆け抜けたのではない。斜面に長時間留まった痕だ。その周囲には歩兵の足跡が散っている。革底の踏み跡は硬く、軍靴のものだった。
「……斥候にしては数が多い」
三人五人の偵察ではない。数十人規模の部隊がここにいた。それも単なる通過ではない。稜線の裏に身を隠し、東――レーヴェン陣地の方向――を観察していたことが、草の倒れ方から読み取れる。
さらに西へ進むと、シロウが足を止めた。
「殿。こちらに」
窪んだ岩陰に灰が残っている。小さな火の跡。夜営の焚き火ではない。煙を抑えるため岩で囲い、風除けを施した見張り火だ。
灰に手をかざす。
冷えている。だが薪片の焦げはまだ黒く、雨にも流されていない。二日は経っていない。
「ここで見張りを立てていた。煙を上げないやり方です。手慣れている」
シロウの声は低い。その目は鋭く、戦を知る者の色を帯びていた。
アルノルトは立ち上がり、西方を見渡す。
緩衝地帯は本来、両軍とも大規模な兵力を入れない暗黙の了解で保たれている。にもかかわらず、ここまで奥へ偵察を差し入れ、陣地の方角を丹念に探り、見張りまで据えている。
これは単なる偵察ではない。地形の下調べだ。大軍を通すための。
「帰る。急げ」
馬に飛び乗り、哨戒隊を率いて陣へ駆け戻った。
◆
陣門を駆け抜け、馬を降りるなり中央の天幕へ向かう。
「報告いたします」
子爵は地図を前にしていた。報告を聞くと即座に士爵以上の指揮官を集める。
天幕にカルディア男爵、オルマン男爵、セリーヌ男爵代行、士爵らが集結する。アルノルトは見てきたものを正確に、余計な感情を挟まず述べた。
報告が終わると、天幕内が静まり返る。
子爵が地図に指を置いた。
「緩衝地帯の奥まで偵察を入れてきたか。少数の斥候ではない。地形を丹念に調べ、こちらの陣地の方角を確かめ、見張りまで立てている」
カルディア男爵が低く言う。
「進攻路の下見です。大軍を通す前に道筋を確認している」
オルマン男爵が腕を組んだ。
「俺も同じ見立てだ。偵察にしては手間を掛けすぎている。本気で攻める腹だ」
子爵は頷いた。
「騎兵で斥候を出す。速さが要る。カルディア男爵、手勢から精鋭六騎を選抜しろ。敵陣の動きを確かめ、旗を読んでこい。確認でき次第、即座に戻せ」
「承知」
即答だった。六騎の精鋭が腹帯を締め直し、馬に跨る。陣門を抜け、西へ駆ける。その姿はあっという間に稜線の向こうへ消えた。
◆
日差しが傾き、高原の影が東へ長く伸びる。天幕の中、地図を囲む首脳部の空気は乾ききっていた。
誰もが口数を減らしていた。
地図の上を指が何度も同じ稜線をなぞり、水筒の水が減り、蝋燭が一本燃え尽きた。
六騎が戻ったのは夕刻。
歩兵の足では、この速さは出せない。
この判断がなければ、情報は半日は遅れただろう。
先頭の騎士が馬から飛び降り、子爵の前に片膝をつく。
「グラーツ軍旗、ブロク元帥旗を確認。歩騎混合。数は未確定ですが陣規模から数千単位。進発方向、北東。こちらへ向かっています」
ゲルハルド・ヴェン・ブロク。三元帥の一人。
レーヴェン王国軍と幾度も槍剣を交えた難敵である。
天幕の空気が凍る。
オルマン男爵が、珍しく笑わなかった。
「ゲルハルドか。あの巨漢は厄介だ。力押しが巧い。正面で受ければ戦列が割れる」
カルディア男爵は腕を組んだまま沈黙する。ただ、指先が一瞬だけ剣の柄を撫でた。経験がある。その圧力を知っている。
子爵は即座に伝令を走らせた。
「ブロク軍動く。数は数千。至急指示を乞う」
伝令が駆け去った後、子爵はアルノルトを見る。
「騎士ラウエン。お前の報告がなければ、斥候を出す判断は遅れていたかもしれん。機先を制する手が打てたのは、お前のお陰だ。よい働きだった」
アルノルトは深く頭を下げた。
父の名ではなく、自分の目で見たものが、認められた。それだけのことが、胸の奥で静かに熱かった。
◆
天幕を出ると、コンラートが待っていた。
「大変なことになった?」
声は低い。
「……大きな山が、動き始めました」
アルノルトは稜線を見据えたまま答える。踏み荒らされた草。岩陰の灰。すべてがまだ瞳の奥に残っている。
コンラートはしばらく黙り、やがて肩を竦めて笑った。
「なら、受けて立つだけだろ」
その通りだ、とアルノルトは思う。
高原に吹く風が、鉄の匂いを濃く孕みはじめていた。




