45.暗兆
一刻=60ティク=1時間
半刻=30ティク=30分
四半刻=15ティク=15分
六半刻=10ティク=10分
三リューグ=3.6キロメートル(約4キロメートルと換算)
黄金風の夜は、冷えが早い。高原であればなおさら。
日中にぬかるんだ土は半刻もすれば表面だけ乾き、踏むたびに泥と砂が鎧の裾へ貼りつく。再生中の陣中では、焚き火が点々と揺れている。
工兵の槌音が、夜になっても細く続いていた。
陽のあるうちに大枠は整っていたが、まだ細かい修繕が必要であるらしい。叩く音は一定で、息のように途切れない。板塀の継ぎ手を合わせ、縄を締め、杭を打つ。火の粉が上がり、煤けた匂いに生木の青さが混じった。
「……来たぞ」
陣の入口に、馬の鼻息が白く膨らんだ。伝令が駆け込む。泥で濡れた外套の裾が跳ね、鞍の革がきしむ。距離は三リューグ。第二陣との間に横たわるのはわずかな距離だった。だから、返事は早かった。
「子爵より。至急!」
アルノルトは、書状の受け取り場所を焚き火の脇に選んだ。風下なら声が流れにくい。灯りは足りる。
封蝋はまだ柔らかさが残っている。子爵が、まさに先ほど筆を走らせた証拠だ。
セリーヌが肩越しに覗き込む。コンラートも、眠気を押し殺した顔で寄ってきた。工兵長は手袋を外さぬまま近づいた。
アルノルトは封蝋を切り、羊皮紙を開いた。
まず、明日。
夜明けとともに、第二陣より輜重隊を含めた千が進発し、こちらへ移動すること。
次に、今夜。
それに先んじ、あと一刻ほどでカルディア男爵とオルマン男爵の手勢、合計で歩兵二百を向かわせる。夜襲があれば協力して守り切ること。
最後に、責任。
カルディア男爵到着次第、この陣の責任者をカルディア男爵に渡すこと。
短い文面だった。貴族らしい修辞もなく、余白が多い。間違えようのない命令だけがそこには記されていた。
アルノルトは安堵した。胸の奥にあった重しが、ほんの少しだけ軽くなる。
カルディア男爵。辺境伯軍の騎馬筆頭と言われる指揮官。
オルマン男爵。常に先鋒を任される、騎馬隊指揮官。
頼れる大人が来てくれる。若い指揮官にとって、重い責任を肩から降ろせるのは救いだ。
それでも夜襲があるとするなら、今夜。こちらの陣が完全ではないうちに火を付ける。風次第だが、それで工兵の仕事は一晩で灰になる。
ふと、オルマン男爵の名で思い出す。
庶弟は十歳。従士奉公でオルマン男爵のもとにいる。もちろん戦場へ連れてくる年齢ではない。分かっていても、男爵の名前を見るだけで心がざわめいた。
アルノルトは紙を畳み直し、言葉を切った。
「迎え入れの準備をします。歩哨を増やし、合図は小さく、音は立てないよう」
セリーヌが頷く。「当家の隊を中心に回すわ」
彼女の声は落ち着いていた。迎撃戦に出撃していない分、いま動かせる兵が多い。
アルノルトは配置を決めた。
谷の出口方向と陣の背面を別系統で監視する。針葉樹林側は見通しが悪い。影が濃く、枝が音を吸う。人数を多めに割り当てる。交代は短く。眠気が致命になる前に替える。
アルノルトは工兵長に向き直る。
「天幕を増やしてください。寝床だけではなく、指揮所、負傷者用、武具置き場。男爵二人の幕も必要です」
工兵長は短く頷いた。言葉は少ないが、工兵に指示が飛ぶ。
槌音がまたひとつ増え、夜の陣が少しずつ形を整えていく。
一刻。
待つには短いが、敵が襲ってくるには十分な時間だ。
敵影は、出なかった。
焚き火の炎が風で傾き、煤が舞う。針葉樹林が揺れ、葉の擦れる音が一定の波をつくる。遠くで馬が鼻を鳴らし、荷駄の鎖が一度だけ鳴った。誰かが咳を噛み殺す。夜は、音が少ないほど大きく感じる。
見張りの合図が、陣の内側へ短く回った。
やがて、足音が揃って近づいてきた。
歩兵二百。その先頭は騎馬。
二人の男爵が来た。
カルディア男爵は、背筋が真っ直ぐで、馬の首を無駄に揺らさない。
オルマン男爵は、目が鋭く、陣の灯りと影を一息で測ったように見えた。到着の瞬間から、夜襲の警戒をしていた。
若手は整列して迎えた。
アルノルトは右拳を胸に当て、敬礼する。セリーヌも同じく。コンラートも眠気を払って姿勢を正す。工兵長が一歩後ろに立つ。
アルノルトは報告した。
敵騎兵隊による妨害、迎撃の概略。陣の再生状況。土塁と堀はほぼ戻りつつあるが、細かい修繕は残っており、天幕や宿営幕の設置はまだ途上。火付けが一番怖いこと。針葉樹林側の影が深いこと。夜襲を想定して哨戒線を張ったこと。
カルディア男爵は短く受け、指揮権を受領した。
受け取ると同時に、陣を動かす。哨戒位置、哨戒数、交代間隔、合図の統一。言葉が簡潔で、判断が早い。
「お前たちには休息を出す。交代で休め。火の番は残せ」
厚意と合理が合わさった命令だった。眠気はときに刃よりも恐ろしい。
アルノルトは胸の奥で礼を言い、敬礼で応えると隊へ伝達を回した。
宿営の準備はまだ不十分だった。兵の宿営幕は組み上げの途中で、隊伍で協力しながら継続している。
天幕の骨組みが風に鳴り、縄が伸び縮みする。泥の上に敷いた藁が湿り、足の裏が冷える。
アルノルトはラウエン家の天幕へ潜り込んだ。
鎧のまま寝床へ潜り込む。鉄は冷たく、皮は湿っている。肩当てが鎖骨に食い込み、胸当てが肋を押す。背中の金具が藁の上で当たり、体勢が決まらない。息を吸うたび、どこかが鳴る。敵襲を警戒している以上、アルノルトに脱ぐ選択肢はない。
「交代で休め。お前たちも、寝ろ」
アルノルトの声にシロウは頷き、従卒たちへ指を振った。
彼らは鎧をゆるめ、火の番と見張りの番を残して潜り込んでいく。
重みと硬さで、しばらく眠れなかった。
目を閉じても、槌音が耳の奥で続く。焚き火の匂いが天幕布を通って染みる。外の風が縄を鳴らし、針葉の影が揺れる。
それでも、眠気が勝った。
意識が沈む。身体の輪郭が曖昧になり、泥と火と鉄が一緒に溶ける。
何かを見た気がした。
火が走る。矢雨が落ちる。黒い影が列を作る。誰かの声のようなものが混じった気もする。けれど形は曖昧で、掴めない。夢は霧のまま、指の間から抜けていく。
遠くで、鐘が鳴った気がした。
その音が現実だと理解した瞬間、意識が浮上した。
アルノルトは跳ね起きかけ、身体が動かず驚いた。鎧の重みだ。着たまま寝ていたことを、すぐには思い出せなかった。肩と背に鉄が乗り、息が詰まる。
隣の寝床で、シロウが同時に跳ね起きた。
胸当てを付け直し、帯を締める手が早い。彼の目がすでに外を見ている。
鐘は、陣内で鳴っていた。合図の音だ。
アルノルトは二度、三度、頭を振った。
膝に手をついて立ち上がり、卓上の兜を掴んで頭に被る。顎紐を引き、息を整えた。
◆
鐘の音は、天幕布を震わせていた。
外へ出ると、夜気が頬を刺す。焚き火は低く、火の粉だけが時折跳ねた。陣の中を走る影は少ない。陣鐘――合図を大きくする必要がある類の報せだと、アルノルトは理解した。
天幕入口に控えていた従士が、槍を抱えたまま背筋を伸ばす。顔は青い。
「何事だ」
「はっ。詳細は不明ですが、歩哨が敵兵を発見したとのことです」
「わかった」
アルノルトは従士の肩を軽く叩き、報告を労う。
シロウが武具を携え後ろに付く。革の鞘が擦れ、金具が短く鳴った。陣内の道は泥が乾ききらず、踏めば湿った音が返る。焚き火の間を縫うように進むと、指揮幕の前に二人の衛士が立ち、槍先を交差させて止めた。
「騎士ラウエン。通ります」
名を告げると、すぐに槍が開く。シロウには目で合図し、入口の外に残した。天幕の内へ入れる者は限られている。
男爵の天幕の中には、灯りが二つ。油皿の火が小さく揺れ、地図の上の影が動いていた。カルディア男爵とオルマン男爵が、地図を挟んで向かい合っている。指が走り、止まり、また走る。戦争はまず紙の上から始まる。
アルノルトは右拳を胸に当て、敬礼した。
「騎士ラウエン、参りました」
二人の男爵も簡潔に敬礼を返す。カルディア男爵の視線が一瞬だけアルノルトの鎧姿に留まった。目が細くなる。
言葉にはならない沈黙があった――父ヘルマンを思い出したのかもしれない、とアルノルトは思った。
「歩哨が捉えたのは少数の歩兵だ」
カルディア男爵が地図の縁を指で叩く。乾いた音だった。
「夜陰に紛れて、陣の外周へ寄ってきた。針葉樹林の影を使っている。火付けの前段だろう」
オルマン男爵が言葉を継ぐ。声は低く、眠気を許さない。
「見えた数が少ないからといって、少数とは限らん。囮もあり得る。確認と追い払いを優先する。深追いはしない」
そこへ、天幕の入口が揺れた。
セリーヌが入ってくる。髪をまとめ、肩に外套を掛け、鎧の継ぎ目を指で押さえながら敬礼した。
男爵らは軽く敬礼を返し、説明を切らさない。カルディア男爵が短く整理する。
「セリーヌ殿。状況は騎士ラウエンから聞け。コンラート殿も同じだ」
「承知しました」
セリーヌは頷き、視線をアルノルトへ寄せた。言葉を挟まず、合図だけで理解する。
「若手は待機」
カルディア男爵の結論は早い。夜の戦場では、動かす兵を増やすほど音が増える。線が膨らむ。
「敵影を認めた地点へは、俺が手勢を出す」
オルマン男爵が地図の一点を指した。針葉樹林の端、谷の際だ。
「百を完全武装で。松明も持たせる。見つけたら追い払う。捕捉できれば御の字。戻れなくなるほどは追わん」
最後に、敬礼。火の揺れが影を揺らし、決定だけが残った。
行動が開始される。
オルマン男爵は真っ先に外へ出た。幕を上げた瞬間、夜気が流れ込み、油火がひとつ揺れた。男爵は自軍の天幕へ向かう道すがら、立ち止まらず指示を連打する。
「数は百。槍は五十。前に立て。剣盾兵も五十。両端を守れ。合図灯は遮れ。谷へは二列で入り、戻るときは合図を打て」
指示が飛ぶたび、誰かが短く返答し、影が動く。熟練の軍は、動きも機敏である。
セリーヌとアルノルトも天幕を辞した。外に出ると、シロウが一歩下がって付く。エーベルハルト家の従士も、少し離れて続いた。
アルノルトは歩きながら、セリーヌが来る前に伝達された内容を伝えた。
ラウエン家の天幕と、エーベルハルト家の天幕は距離が近い。隣村ということもあり、人同士の交流も多いため連携を取らせやすく、先代から変わらず継続されていた。
コンラートの天幕だけは離れている。ツェルバハ家の陣所として、少し離れた場所に置かれていた。距離があるほど、伝達は遅れる。今夜はそれが裏目に出なければいい。
ラウエン家の天幕前の焚き火で、二人は足を止めた。火は弱く、薪が湿って煙が多い。煙が鎧の金具へまとわりつく匂いがした。
セリーヌが小さく言う。
「やはり、あなたの予想通りになったんじゃない?」
アルノルトは一拍置いた。シロウと従士の目がある。丁寧な言葉遣いを心がける。
「嫌な予想は、当たってほしくないものですね……」
焚き火の火が、二人の頬を赤く照らす。ただ、背中側は冷えたまま。春の夜は、まだまだ寒さが厳しい。
「当座は待機です。交代で休息を取りつつ、警戒態勢を継続しましょう」
セリーヌは頷いた。
「了解」
言葉は短い。しかし二人はそれだけで通じ合っていた。セリーヌは自陣へ戻っていった。外套の裾が泥を払う音が、すぐに夜に吸われた。
払暁までの時間は、長い。
交代の刻は短く、眠りは途切れ途切れだった。
見張りの交代札が回り、合図灯が点滅する。針葉樹林がざわめき、枝が擦れて音をつくる。焚き火は明滅し、火の粉が上がるたびに兵が顔を上げる。眠気が襲う。まぶたが重くなる。指先が冷え、槍の柄が滑る。
そのたび、誰かがあくびを噛み殺し、誰かが肩を叩く。起こすのも、起こされるのも、戦のうちだった。
夜半過ぎ。遠くで短い合図が走った。合図灯の灯りだ。
オルマン男爵の手勢が戻ってきたのだ。
報告は簡潔だった。敵歩兵は追い払った。闇の中で一人討ち取った。こちらの損害は軽微。
敵は「陣の状況」を確かめに来た。警備状況がどうなのか、火付けられる距離まで寄れるかを測りに来た。今夜がその程度で済んだのは幸運に近い。
アルノルトは見張り台へ登り、警戒線をもう一度確かめ、コンラートの陣所へ目をやった。
……ツェルバハ家の陣所が静かすぎた。
後で聞いた話では、コンラートは昨晩から朝まで、すやすや夢の中だったらしい。カルディア男爵の「交代で休め」が、彼にだけ効きすぎたのだ。
朝になって、ようやく目をこすりながら現れ、はっと気付いた第一声がこれだ。
「僕、なんか……やっちゃいましたーーー!」
周囲が笑う声に誘われて、アルノルトは苦笑した。
だが笑えるというのは、命があるからだ。
アルノルトは針葉樹林の向こうを見た。春の風の匂いの中に、まだ鉄が混じっている。




