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暁の騎士  作者: 満波ケン
第四章 騎士の戦い
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44.春の訪れ

高原の斜面には、まだところどころ白が残っていた。雪解け水が筋になって流れ、土は黒く湿り、踏めば靴底に重たくまとわりつく。風は冷たい。けれど凍えるほどではなく、日が差すと、岩肌の陰から湯気のような靄が立つ。


ヴァルゼイン伯爵が堅固化した陣は、その高原の東縁にあった。昨年末の火計の痕が、いまも生々しく残っている。炭化した杭。焼け焦げて縮んだ陣幕の切れ端。土塁の一部は熱で崩れ、堀の縁には黒い煤がこびりついていた。


その「死んだ陣」が工兵の手によって息を吹き返していく。


夜明けとともに、護衛の角笛が鳴り、荷駄の列が到着する。運び込まれるのは木材だけではない。規格の決まった杭、板塀の継ぎ手、縄、金具、天幕の骨組み。後方の前線基地で拵えられた部材が、札と刻印で管理され、手順に従って積み下ろされる。


「外側の杭、間隔を揃えろ。堀は先に泥を掻き出す。板塀は順番を間違えるな」


工兵長の声は乾いていた。指示は短く、迷いがない。作業に当たる手も、一般兵の「手伝い」とは違う。槌の打ち方、縄の締め方、土の突き固め方――動きが揃っている。アルノルトはそれを見て、辺境伯が作り出した「工兵」の意味を、ようやく理解していた。


ここまで「現地で働ける」専門の兵科は、王国の中に存在しないのではないだろうか。

また陣そのものが規格化されているから、部材が合う。人が替わっても、手順が崩れない。


それら工兵の、警護と運搬補助にあてられたのは、若い指揮官たちだ。アルノルトの五十名の民兵、コンラートの百、セリーヌの百余。三人の麾下が入れ替わりで荷を引き、見張りを立て、工兵が作業しやすいように周囲を整える。


斥候の影も、何度か現れた。グラーツの軽騎が尾根の向こうに点のように見えたかと思うと、また消える。追い散らすと、彼らは追われるのを嫌って引く。まだ双方に死人は出ていない。血が出ていなくとも、空気が張り詰めていた。


作業は異様な速さで進んだ。

昼には土塁の形が戻り、堀の水が抜け、杭が立ち並びはじめる。日が傾くころ、板塀が繋がり、天幕の骨が立つ。工兵の長は、泥だらけの手で札をめくり、刻印を確認しながら、後方へ伝令を走らせた。


「本日中の着陣、可能」


その言葉が現実になるのか、とアルノルトは息を飲んだ。



日が西へ落ちかけたころ、騎馬斥候が陣へ滑り込んだ。馬の脇腹は白く泡立ち、鼻息が荒い。斥候は鞍から飛び降りるなり叫ぶ。


「グラーツ軍に動きあり!数、百!」


偵察ではない。遠目にも、妨害のための出兵だと分かる数だ。火計の痕が残る陣に、火を運ぶ連中が来る――それだけで胃の奥が冷たくなる。


コンラートが、肩をすくめて笑った。


「まだ向こうさんは雪が残ってそうなのに、ご苦労なことで。……またアルノルトに蹴散らされるとも知らずに」


アルノルトは渋い顔のまま返した。


「コンラート様も一緒に出るのですよ……」


本来、彼に敬語は要らない。アルノルトは正式な王国騎士で、コンラートは爵位もない平騎士だ。それでも、兵が見ている。子爵家の三男という立場を軽んじるわけにはいかない。戦場では、言葉の扱いひとつで軽重が乱れるのだ。


「分かってる、分かってる」


コンラートは笑いを消し、視線を前へ向けた。目だけが、戦の色に切り替わる。


五十では百を受け止めきれない。アルノルトはすぐにセリーヌを呼び、地図の上に指を置いた。

地図の端は風にめくれ、重石の石が小さく鳴った。

指が止まった場所は、ちょうど谷の口だった。

短い協議で結論が出る。


セリーヌ隊の百余は陣に残し、万一に備え再建中の土塁と部材を守る。アルノルト隊とコンラート隊を合わせ、百五十で迎撃に出る。指揮権は一時的にアルノルトが預かり、もしも最後に自分が突出する場合、コンラートに代行させる。


「さあ、コンラート様。ともに蹴散らしに参りましょう」

「ようし!出るぞぉ!」


アルノルトは配置を告げた。平騎士と従士で構成される騎兵二十はシロウと、ツェルバハ家の古参平騎士に預ける。弓を含む歩兵はコンラートに任せる。自分は全隊を束ねる役割だ。

夕陽の赤が、再生しかけた板塀の端を染めていた。工兵の槌音が、遠くでまだ続いている。

陣が再生する前に、戦いがやって来る。


アルノルトは馬上槍の柄を握り直し、出撃の合図を出した。



先発は騎兵、それに歩兵が続く。

隊は谷の口へ向けて動いた。

谷へ向かう道は、まだ雪解けの泥を抱えていた。蹄が沈み、引き抜くたびに湿った音がする。左右の針葉樹林は青く濃い。風が通れば、針葉の奥から樹脂と冷えの匂いが立った。


斥候の報せは確かだった。谷の向こう、尾根の切れ目に、黒い点が列を作っている。数は百。重馬の体格は立派だが、光るものが少ない。重騎兵ではない。馬鎧もない。騎士たちの上衣も薄く、胸当て、肩当てがある程度だ。


そして――赤い火。


二人に一人が、槍ではなく松明を掲げている。火の揺れが、まだ遠いのに目に刺さる。狙いは一つ。再生しかけた陣に火を入れ、工兵の仕事を灰にすること。


アルノルトは馬を止め、地形を見た。谷は浅く折れ、左右の林が壁のように迫っている。

谷の口は狭い。左右は林で、馬が広がる余地がない。ここなら、食い止め易い。


「ここで受ける」


彼は槍の穂先で地面を叩き、隊を寄せた。コンラートがすぐ脇まで来る。こちらは百五十。弓兵は多くない。民兵の腕は揃っていない。


「弓兵、前へ。斜めに!」


弓兵が膝をつき、矢をつがえる。狙撃ではなく、斜め上に飛ばすのだ。上げた矢は空に散り、落下の勢いで馬と人を叩く。命中の確率は落ちる。代わりに、面で押さえられる。


アルノルトは槍を従卒へ預け、弓を受け取った。三人張りの剛弓だ。弦を引くたび、肩と背が軋む。


「距離、測れ」


木陰を抜けた風が、火の匂いを運んできた。アルノルトは指の間の感覚で、矢が落ちる地点を読む。


「放てっ!」


声が谷に跳ね返る。コンラートも騎馬のまま左右へ走り、復唱する。


「放てーッ!」


弓弦の音が連なり、矢羽が空気を裂いた。幾十の矢が弧を描く。落ちていく黒い雨の中で、アルノルトの矢だけが一直線に伸びた。


松明を掲げた先頭の騎士の胸を、貫く。


火が一瞬だけ高く跳ね、泥に落ちて消えた。続けざまに二射、三射。松明が倒れ、馬がつまずき、列が乱れる。火を持つ者ほど狙う目印になる。


「弓、戻せ!」


弓兵が後退し、入れ替わりに槍兵が前へ出る。盾が並び、槍の穂先が林の影から突き出す。谷の口が、棘だらけの柵になった。


「槍、構えっ!」


アルノルトの命令を、コンラートがまた復唱する。若く高い声がよく通る。槍が揃い、前列の民兵が息を止める。


グラーツの軽騎は、一瞬たじろいだ。勢いだけでは突っ込めない。槍の壁は、馬にとって本能的な恐怖だ。


彼らは転回し、間合いを取った。隊列が伸び、半分ほどの松明持ちが前へ出る。投げる気だ。


「来るぞ!」


炎が飛んだ。松明が弧を描き、こちらの前列へ落ちる。熱に兵が身を引き、槍の先がわずかに下がる。そこへ敵の軽騎が、下がった槍先へ滑り込もうとする。突破点を作りに来た。


アルノルトは息を吸い、吐いた。


「弓兵、盾構え、抜剣!前へ!」


弓兵が弓を捨て、地面に刺していた盾を抜く。腰の剣を引き、穴になりかけた場所へ走った。盾の縁がぶつかり、火が押し返される。


その瞬間、アルノルトの矢が唸る。また先頭の騎馬が倒れ、後ろの馬がつんのめって列が詰まる。松明が散り、火が泥に食われる。


グラーツの騎兵は距離を取った。気勢が削がれたのが見える。松明が減り、火の揺れが細くなった。


「火を消せ!負傷者を後ろへ!」


コンラートが指示を飛ばし、歩兵が火を踏み消す。アルノルトは剛弓を従卒へ渡し、矢筒も下ろした。手に戻るのは馬上槍だ。柄の硬さが掌に馴染む。


彼は左翼へ視線を送った。シロウが騎兵二十をまとめ、林の際で待っている。アルノルトは合図として二度、頷いた。


側面を突き抜けろ――そう伝える頷きだった。


谷の空気が一段、重くなった。グラーツの軽騎が隊列を整える。槍の穂先のように尖った楔形。今度は、押し切る気だ。


蹄の音が近づく。地面が震え、槍が揺れる。盾が鳴る。ぶつかる直前の静けさが、一拍だけあった。


激突。


金属が擦れ、木が割れ、肉が潰れる音が混じる。馬の悲鳴が上がり、槍が折れ、盾が押し倒される。前列の民兵が踏ん張り、くぐもった声が漏れ、後列が肩を貸して押し返す。


コンラートは馬上から指示し、突破されかけた地点へ歩兵を集める。槍を持つ者、盾を持つ者、剣を抜く者。彼の指示で、左右の列が詰まり、両側に騎馬が飛び出るだけの空間が生まれた。


「行くぞ!」


シロウの声が、隊列の端から飛んだ。騎兵二十が、歩兵の脇を抜けて飛び出す。数は少ない。敵の騎兵のほうが多い。それでも、真横から突っ込まれる衝撃は別物だ。


シロウが先頭で駆ける。剣が閃き、敵の喉元が裂けた。返された槍を受け、穂先だけを切り落とす。続くレーヴェン騎兵が槍で突き、馬体で押し、隊列を崩した。


軽騎は速い。速いぶん、押し返されると脆い。楔の芯が折れた瞬間、列が波打って崩れた。


グラーツの指揮官は判断が早かった。秩序を保ったまま退くために号令が飛ぶ。馬が向きを変え、残った松明が投げ捨てられ、火が谷の泥に消える。


追撃は深追いしない。目的は勝つことではなく、守ることだ。


アルノルトは槍を下げ、息を吐いた。肩の内側が熱い。呼気が白いまま、春の匂いが戻ってくる。


谷の泥は踏み荒らされ、松明の残り火が黒い煙を上げていた。折れた槍柄が転がり、馬の汗が白く冷えて、甘い匂いを漂わせていた。



戦後の処理は淡々としていた。死体を寄せ、負傷者を運び、盾の割れを数える。血は少ない。小勢同士の戦いだ。グラーツの死者は十に届くかどうか。こちらは重傷者が一名。突撃の衝撃をまともに受け、胸が潰れている。まだ息はある。呻きが細い。

担架の布が、胸で上下しているのか分からない。誰かが耳を近づけ、ようやく細い息を拾う。


戦場には、軍馬が二頭残された。大柄なグランデ種だ。鼻息が荒く、目がぎらついている。手綱を取る兵の腕が震えた。


「生きてるなら十分だ。連れて帰る」


アルノルトの命令で、馬を落ち着かせ、鹵獲物として引き取る。残る馬は、乗り手を失った空馬のままグラーツとともに去った。


夕暮れまでに、隊は陣へ戻った。再建中の板塀の向こうで、工兵の槌音がまだ続いている。この陣が無事であること、それだけで価値がある。


セリーヌが出迎え、アルノルトの肩に触れた。

「見事ね。これで陣は守れたわ」


言葉は短い。微笑む彼女の目が、陣の資材へ向く。守るべきものが何か、よく分かっている視線だ。


コンラートが口を尖らせる。

「僕も頑張ったんだけどなぁ」


そのつぶやきに周りの兵が笑いをこらえきれず、肩を揺らした。


シロウが血を拭いながら言う。

「素晴らしいお働きでしたよ」


その一言で、コンラートの顔がぱっと明るくなる。

「なあ、シロウ。僕の従士にならないか?」


どっと笑いが起きた。シロウは困ったように目を伏せ、アルノルトは苦笑した。血の匂いの中に、ほんの少しだけ人心地がついた。


今回の百騎は、焦って準備した隊だったのだろう。相手が本気なら、千でも二千でも動かせたはずだ。だが、その数ではなかった。敵は準備ができなかったのだ。


もちろん、こちらの兵が少なく、陣が完全ではない今であれば夜の火付けでも十分効果が得られるだろう。その場合、寡兵でも良いのだ。哨戒が少なく、静かな闇は忍びやすい。


彼は伝令を呼び、羊皮紙に要点だけを書いた。宛先はツェルバハ子爵。


――第二陣から本陣への移動時期、至急伺いたい。

――今夜、敵夜襲の危険あり。警戒強化を乞う。


封蝋が固まるのを待ち、伝令に渡す。

伝令の馬の尻が泥を跳ね、夜気の中へ消える。見張り台では交代の角笛が鳴り、火の番が薪をくべた。


夜風が吹いた。火の匂いは薄れ、代わりに湿った草の匂いが来る。春の風だ。なのに、背の内側が冷えた。


アルノルトは陣の外れに立ち、闇の向こうを見た。


自分の予想が外れることを願いながら。

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