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暁の騎士  作者: 満波ケン
第四章 騎士の戦い
43/45

43.弔い

あけましておめでとうございます。

 

 

 


大陸暦三〇六年。青の節、黄金風(アウリス)の月


雪解けの水が土に染み込み、畑の色が一段、深くなった。

冬のあいだ沈黙していた地面は息を吹き返したように柔らかく、踏みしめれば湿り気を含んだ感触が靴底に伝わる。


秋に蒔かれた小麦は春化の時期を越え、茎を伸ばしはじめていた。

分蘖(ぶんげつ)も進み、畑仕事は女たちに任せても差し支えない。畝の間を抜ける風にはまだ冷たさが残るが、凍えるほどではない。


水争いも起きていなかった。

上流と下流の取り決めは守られ、互いに顔を合わせれば短い会釈で済む。ここ数年、村に流れる水は、争いの種ではなく、暮らしを支えるものとして扱われるようになっていた。


だからこそ、彼は村を離れられる。


アルノルトは、シロウら数名の従士と五十名の民兵を伴い、前線へ戻る準備を整えていた。

出立に先立ち、代官領の判断はチトセに一任される。補佐という名目ではあるが、実質的な代理だ。書付は整えられ、村人たちもそれを受け入れている。よほどの事が起こった場合のみ、アルノルトの判断を仰ぐことになっていた。


その出征の前に、ひとつだけ果たさねばならないことがあった。


父、ヘルマンの葬儀である。



村の教会の鐘は、低く、重く鳴った。

音は霧を含んだ朝の空気に溶け、畑と家並みの上をゆっくりと渡っていく。


墓地は教会の裏手、小さな林に囲まれている。

掘り返されたばかりの土は色が違い、祖父母の墓碑の隣に新しい石が据えられていた。まだ角の取れていない墓碑は、春の光を鈍く返している。


参列者は多かった。

隣村の男爵代行であるセリーヌ、エーベルハルト男爵、ツェルバハ子爵の名代として嫡子と、三男コンラート。

それだけではない。戦場で父の世話になったという騎士や、男爵家の名代が列を作り、その後ろに数百人の村人たちが静かに並んでいた。


ザーヴェル辺境伯セルヴィオの手配により、光祖教の正式な司祭が派遣されていた。

祈りの言葉は簡潔で、飾り気がない。戦場で倒れた者を送るには、それで十分だった。


墓碑に刻まれた言葉は短い。


――強き男、強き父。


まったく、父らしい墓碑文だとアルノルトは思う。

美辞麗句を好まない人だった。


棺に納められたのは、家に残されていた予備の剣のみだ。刃は磨かれ、柄は布で包まれている。

戦地から何一つ形見を持ち帰れなかった事実が、祈りの最中も胸の奥に沈んだまま動かない。父をあの地に置き去りにしたような感覚が、離れなかった。


母も第二夫人も、泣き崩れることはなかった。

ただ静かに目を伏せ、祈りの言葉に耳を傾けている。その姿を見て、アルノルトは「春まで待とう」と決めたことは正しかったと感じた。悲しみを受け入れるには、時間が必要だったのだ。


庶弟(おとうと)の姿もあった。

従士奉公に出ていた彼は、当初「数か月で実家に戻るなど筋が通らない」と言っていたらしい。だが、オルマン男爵にこう叱り飛ばされたと聞く。


――親父さんの葬儀に出ないとは何事だ。だったら俺の名代として行ってこい。


半ば尻を蹴飛ばされるようにして戻されたという。

少年は背筋を伸ばし、年齢以上に落ち着いた振る舞いを守っていた。その横顔に、アルノルトの胸がわずかに痛む。


祈りが終わると、参列者は一人ずつ短い言葉を残して去っていった。

形式的な挨拶もあれば、言葉を詰まらせる者もいる。それらすべてが、父の生きた時間の重さだった。


立ち去る間際、コンラートがアルノルトの前に立つ。

軽く拳で肩を叩き、笑顔で言った。


「僕も今回の出征に出る。一緒に、ヘルマンさんの戦を終わらせよう」


努めて明るい声だった。

それだけ言って、彼は列を離れた。


司祭がフォルティスへ戻るのを見届け、村の助祭に礼を告げる。

館へ戻る道すがら、畑の若い麦が風に揺れていた。春の色だ。その緑は、墓地の土の色とあまりにも対照的だった。


その夜、家族と近しい者たちが集まり、葡萄酒を開けた。

シロウも、チトセも、使用人たちも席にいる。


語られるのは、戦場での無茶や、家での失敗談だ。笑いが混じるたび、胸の奥に沈んでいたものが、少しずつほどけていく。


翌朝、庶弟は再びオルマン男爵のもとへ去っていった。


それから数日後、ツェルバハ子爵から触れが届く。

本格的な出征の命だった。


アルノルトは、辺境伯領の方角へと向き直り、静かに感謝を捧げる。

まるで、ザーヴェル辺境伯セルヴィオが父の葬儀を待ってくれていたかのように思えたのだ。



出征の触れは、村の教会前の広場で、村民へ通達された。

門番が角笛を鳴らし、助祭とシロウが鐘楼の下で名を読み上げる。村では薪割りの斧が止まり、鍬の柄が土に立てられる。誰もが「来たな」と思う顔をしていた。


アルノルトは、チトセに最後の書付を渡した。代官室の机の上、羊皮紙の端に押された封蝋がまだ柔らかい。


「村を、頼む」


返事は短い。「はい」とだけ。

その声と視線ははっきりとしており、いまは頼もしく感じた。


民兵は五十。槍を持てる者、弓を引ける者、荷を背負える者。

冬のあいだに板で補修した盾は木目が新しく、革紐はまだ硬い。シロウは列を見回し、結び目を直し、足袋のような古布を履かせてやっている。行軍は、出立の前から始まっているのだ。


出立の朝、畑の若い麦は風に撫でられ、青い波のように揺れていた。


前線への道は、雪解け水が掘った溝でまだ荒れていた。車輪がぬかるみに取られ、馬が鼻を鳴らして踏ん張る。丘を越えるたび、遠くの山地が近づき、空の色が冷たくなる。国境の匂いが、土と鉄で混じりはじめる。


昨年末に急ごしらえされた臨時陣は、冬を越えてそのまま残っていた。

杭と土嚢、粗い板塀。風雨で削られた稜線に、縄がたるみ、見張り台の梯子が軋む。


一方、陣の内側には、別の音が満ちていた。

木槌の乾いた連打。鋸の歯が材を裂く音。工兵たちが高原の雪解けを待っているのだ。

ヴァルゼイン伯爵が堅固化した陣を再生するために準備を進めていた。


補給の隊列も動いていた。干し肉、麦粉、矢束、槍の柄、鍛冶の炭。

荷の札には粗い字で番号が振られ、受け取りの刻印が押される。


アルノルトは民兵を点呼し、名簿に指で線を引いた。

紙の節約のために、記録は最小限。

それでも確認は念入りに行われた。



夕刻、仮の集会が開かれた。

焚かれた火の明かりが、甲冑の縁を赤く縁取っていた。

火の数だけ影が揺れ、誰もが口を閉ざして子爵を待っていた。

男爵家の名代、騎士たち、従士長、工兵の頭。

火が焚かれ、煙が低くたなびく。青の節の夜はまだ冷える。火の周りに集まる人の輪が、ひとつの陣形のように見えた。


ツェルバハ子爵が立ち、短く告げた。


「この陣を仮の前線とするが、高原の雪解け後は、昨年建てたヴァルゼイン伯爵の陣の再生を急ぐ。再生が完了次第兵も物資も、そこへ集める。グラーツ側に動きが出る前に、完成させねばならない」


言葉には飾りがなく、命令はすでに骨子ができている。

さらに子爵は続けた。


「それほど時を置かず、ザーヴェル辺境伯が着陣する。辺境伯の意図は、その場で明かされよう」


火がぱちりと爆ぜた。誰かが息を呑む音がした。


アルノルトは、隣で肩を並べるコンラートの横顔を見た。

子爵家の三男は、戦場の話になると目が冴える。普段の軽口が薄れ、口角だけが硬く上がるのが見えた。



夜、仮陣の外れに立つと、国境の山地は黒く沈み、雲が稜線を隠していた。

遠くで狼の声がする。見張り台の灯が揺れ、風が縄を鳴らす。春の匂いと、鉄の匂いが同じ空気に混じっていた。


ここは、あくまで仮の陣だ。

昨年、セルヴィオが戦線を押し留めるために急造させた場所にすぎない。


本当の前線は、雪解けの先、高原の向こう。

ヴァルゼイン伯爵が堅固化するも、火計での誘引撃滅に用いられた陣がある。

そこが再び息を吹き返したとき、この戦争は、次の段へ進むだろう。


だが、その先に待つものを、アルノルトは知っていた。

例の火計に使われた陣は、もともとセルヴィオの軍が建て、ヴァルゼイン伯爵が堅固化したのですが、もう兵らの間ではヴァルゼイン伯爵が建てたように錯覚されています。

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