42.ひとつの風景
100リューグ=120km
大陸暦三〇六年。
年は改まったが、国境の空気は変わらなかった。
黒の節の寒気は、国境の山地を越え、高原を越え、丘陵を越え、ゆっくりと低地へと降りてきている。とはいえ、アルノルトが代官を務める開拓村に雪はない。朝晩の霜が畑の畝を白く縁取るだけで、土はまだ柔らかく、踏めば鈍く応えた。
年が変わっても、戦争が終わったわけではない。
ただ、雪が降る時期は、刃を交えることがない。それだけの違いだった。
年が明けてすぐ、屋敷は慌ただしくなった。
なぜならば、庶弟が、オルマン男爵のもとへ引き取られていくからだ。
将来の騎士を目指し、従士としての奉公が始まる。
庶弟がそれを望み、男爵もまた、その約束を違えることがなかった。
アルノルトは脇に立ち、最後の準備を整える庶弟の背を見ていた。背丈はまだ低いが、立ち姿に迷いがない。十の子どもにしては、あまりに落ち着いていた。
――自分の奉公とは、随分違う。
そう思う。
アルノルトは、父に戦士としての基礎を叩き込まれ、ツェルバハ子爵領の御料牧場で奉公した。確かに厳しかったが、馬に囲まれ、自宅から通える環境でもあった。
それに比べれば、男爵邸への住み込み奉公は別物だ。
男爵領までは百リューグ。平坦な地が多いとはいえ、騎馬の速歩でも三日はかかる距離だ。辛いことがあっても、簡単に逃げ帰れる距離ではない。
それが従士の務めであることを、アルノルトは知っていた。
中庭には、家族と村人が集まっていた。
冬の朝の空気は張りつめ、吐く息が白く揺れる。
厩舎の扉が軋み、馬が一頭、短く鼻を鳴らした。
誰もが声を潜め、その音だけが妙に大きく響いていた。
思えば、二人の妹も、庶弟も、館が賊に襲撃されたあの日から、子どもながらにわがままを言わなくなった。
騎士家の子女としての立ち居振る舞いを、早くから身につけるようになったのだ。
戦線が近い村――それも理由の一つではある。
それにしても、随分と不憫なことだとアルノルトは思う。
本当なら、もっと子どもらしい時間を過ごしていてよかったはずなのに。
庶弟は一人ひとりに挨拶をして回る。
仲の良かった村の子どもたちとは抱き合い、再会を誓っている。
その振る舞いは、もう子どもの領分を越え立派なものだった。
とりわけ丁寧だったのは、シロウへの挨拶だ。
アルノルトが剣を教えることもあったが、最も多く手ほどきをしたのはシロウだった。短い期間で王国の剣技を修めたその剣士は、庶弟の成長を真剣に考え、惜しみなく時間を割いていた。
第二夫人は、赤くなった目を隠すこともなく、庶弟を見送っていた。別れは昨晩に済ませたのだという。
「ご立派です」
そう声を掛けた瞬間、彼女は小さく頭を下げ、館の中へと引っ込んだ。閉じられた扉の奥から、嗚咽が漏れる。
――余計なことを言った。
正しい言葉だったとしても、今、言うべきではなかった。
アルノルトは、遅れてそう悟った。
庶弟は、その背中を横目で見てから、家族の前に立った。
「それでは、行ってまいります」
そう言って、きちんと背筋を伸ばし、敬礼する。
小さな肩が、きゅっと上がる。
その動きが、子どものものではなくなっているのがつらかった。
迎えに来ていた先輩従士が、優しい口調で言った。
「しっかり務めていれば、年末か年始に、まとまった休みが出ます」
年の変わり目は、北方で戦が止まる時期だ。
あらかじめ知っていたとはいえ、その言葉に、妹たちや使用人の表情が、わずかに緩んだ。
安堵している妹らではあるが、彼女らも来年、再来年あたりにはいずこかへ嫁いでいくことになるだろう。
寄親であるツェルバハ子爵が世話をしてくれるというのは、騎士家としては栄誉だ。
あとは、良縁に恵まれ、彼女らが幸せになってくれるといい。
いよいよ、旅立ちの時だ。
先輩従士が合図を送り、馬が向きを変える。
歩いて付き従う庶弟は門をくぐる直前、振り返って大きく手を振った。
アルノルトも、思わず手を振り返す。
小さな頃、足にまとわりついていた弟の姿が重なる。
「……がんばってこい!」
声が少し震えたことに気づき、アルノルトは照れくさくなって、視線を逸らした。
これは、戦争の前に訪れる、静かな別れだった。
◆
寒気が畑を縁取り、風が納屋の板を鳴らす。霜が解けるのは昼だけで、陽が落ちるとまた薄氷が張る。村道はぬかるみと凍りが交互に現れ、足を取られる。荷車は慎重に進み、牛馬は鼻息を白くする。
戦が止まったとて、暮らしは止まらない。
屋敷の帳簿には、数字が並んでいた。穀物の残り。薪の割り当て。馬の飼葉。負傷者の治療に回す薬草。
読み書きのできる従士を失った穴は、想像以上に深かった。
父とともに行方不明になった者たちが書き留めていたのは、税の計算だけではない。村人の揉め事の記録。借金の返済期限。誰の納屋が壊れ、どの畑が痩せたか。用水路の順番。
そういう「忘れると村が歪む」細部だった。
アルノルトは、机の前で一つ息を吐き、インク壺の蓋を閉めた。
しかし、今は代わりに支えてくれる者がいる。
朝、まだ霜が地面を掴んでいるうちに、シロウは外へ出る。
門を開け、村中を駆け、アルノルトからの伝言や指示を触れ回り、木材を運び、時に荷を担いで戻る。足音は軽いが、肩に乗る仕事は軽くない。それを顔に出さないのが、彼の強さだった。
一方で、代官室には別の者が常に付き従っていた。
チトセだ。
彼女は朝の稽古にも顔を出す。
木剣を手に取り、構え、打ち合いの間合いを測る。踏み込みは控えめだが、距離の詰め方に迷いがない。息を乱さず、終わりの合図まで集中を切らさない。
稽古が終われば、長居はしない。
朝食後は厩へ向かい、馬の世話を手早く済ませ、外套を脱ぐ。
袖をまくり、代官室の机に向かうまでに、動きに無駄はなかった。
陽が落ちるまで、ほとんど席を外さない。
そのことで、家での役割は自然と変わっていった。
チトセが代官の補佐的な立場として動くようになってから、家事に手を出そうとすると、母や女中たちに止められるようになった。
「それは、もう私たちの仕事ですから」と。
いつしか妹たちも率先して家事に加わるようになり、気がつけば、チトセがいなくとも、屋敷の中は滞りなく回っていた。
彼女の居場所は、いつのまにか、アルノルトの机の傍らに移っていた。
昼食後の短い休憩のあいだだけ、彼女は席を外した。
それ以外の時間、彼女はアルノルトの傍に居続けた。
「ここ、計上の単位が揃っていません」
チトセは、言い方を柔らかくする癖がある。
それでも指摘は的確だ。
アルノルトが手を止めると、彼女は筆先で行を示し、指を折って説明する。声は小さい。それでも、言葉に芯がある。
「……助かる」
アルノルトが感謝とともに視線を合わせると、チトセはほんの少しだけ赤らんで目を伏せた。
◆
ひと月もすれば、チトセは仕事を覚えたどころか、この村の「癖」まで掴んでいた。
どの家が見栄を張り、どの家が口数が少なく、どの家が困っていても助けを求めないのか。
帳簿の数字の裏にある、村人の性格まで読むようになっていく。
数字を並べるだけではなく、理由を考える癖があった。
出来事を因果で捉え、先を読む。
村では珍しい思考の仕方だ。
「若者に読み書きを教えましょう」
チトセが言ったのは、雪のない曇天の朝だった。
代官室の窓は小さく、外の光は薄い。
それでも、筆を動かす手元は見える程度に明るい。
「次の春、また徴募があるかもしれません。書ける者がいれば、伝令も、記録も、早くなります」
言葉は穏やかだが、前提にあるのは戦だった。
アルノルトは頷いた。
戦場で学んだことは、ひとつだ。速さは、強さになる。
数日後から、夕方の短い時間、納屋の一角で若者たちが文字を習うようになった。
シロウをはじめとした男手によって納屋は片付けられ、積まれていた藁や道具は壁際へ寄せられた。
木箱が机代わりに並べられ、その上には、やすった木板と木炭が置かれる。
納屋の梁から落ちる埃が、傾きかけた陽の光を受け、細い筋となって浮かんでいた。
外はまだ明るいが、ここで使える光は、それだけだった。
集まるのは、毎日十名ほど。
畑仕事や荷運びを終えた若者たちだ。
初めは、木炭を持つ手が震えた。
力の加減が分からず、線は太くなりすぎ、時には木炭そのものを折ってしまう。
それを見て、短い笑い声が起きる。
やがて、笑いが途切れると、自然と静けさが戻った。
板に刻まれていくのは、拙くとも確かな線だ。
誰も、ふざけようとはしなかった。
チトセは、まず数字から教えた。
一、二、三。
数を数え、並べ、引いて、足す。
「文字は、あとでいいです」
そう言って、彼女は木板に大きく数字を書き、若者たちに同じ形をなぞらせた。
収穫の数。
薪の束。
人の頭数。
彼らが日々、身を持って理解しているものから始めることで、文字は少しずつ「意味」を持ちはじめていった。
戦は遠いようで近い。
村の空気が、それを知っている。
アルノルトはふと思い、チトセに言った。
「チトセを、ツェルバハ子爵に推薦してもいいんじゃないか。ここに置いておくには――もったいない」
その瞬間、チトセは勢いよく顔を上げた。
そして、はっきり首を横に振った。
「私も兄も、この村だからこそ、この国にとどまっているのです」
熱を帯びた声だった。
冷えた室内で、その言葉だけが少し温かい。
アルノルトは、言い返す言葉を持たなかった。
それほどの村ではない、と頭のどこかで思う。
けれど、嬉しさが先に来てしまう。
◆
最近、隣村からの来客が頻繁である。
セリーヌだ。
男爵代行としての務めを理由に、彼女は時間を見つけてはこの村に来る。
馬の足音は規則正しい。冬の地面を踏む音が、遠くからでも分かる。
彼女は外套の雪を払うでもなく、代官室へ入ってくる。
外套から冷気が落ち、部屋の湯気が一瞬だけ薄くなった。
寒さのせいだろうか、頬が赤い。
「相談があるの」
そう言って椅子に腰を下ろし、机の端を指で叩く。
相談の内容は、半分は本物で、半分は――そうではない。
水路の凍り方。
飼葉の分け方。
村人の労役の割り当て。
それらは確かに重要だ。
ただ、それらの話は一刻もすれば終わる。
そのあとは、雑談になる。
セリーヌは、チトセを見る回数が増えていた。
言葉は丁寧だ。笑みもある。なのに、その視線の端が鋭い。
チトセはそれに気づいているのか、いないのか。
いつも通りに湯や葡萄酒を出し、帳簿を整え、必要なときだけ口を開く。
「あなたの従士、優秀ね」
セリーヌが言う。
「私にはもったいない従士です」
アルノルトが答える。
その短い会話の間に、この部屋の空気が一瞬だけ硬くなる。
アルノルトは、その理由をまだ言葉にできない。
分からないまま放置できる種類のものでもないと、どこかで感じている。
朝の稽古には、以前のように、セリーヌはたびたび顔を出すようになった。
霜が残る庭で、剣を構え、呼吸を整え、踏み込みを合わせる。
打ち合いの音は乾いている。
木剣と白い息がぶつかるたび、寒気が震える。
セリーヌの剣は速く、鋭い。ところが、どこか乱れたり、一転して冴え渡る日がある。
その日は決まって、彼女とチトセとの打ち合いだった。
◆
夕方、村の外れに立つと、国境の山が遠くに黒く見えた。
雪雲がかかり、稜線がぼやける。
庶弟は今ごろ、男爵邸で命令を聞き、床を磨き、馬の世話をし、剣を握っているのだろう。
妹たちは、いつか嫁ぐ日のために、家事を学び、言葉を学び、姿勢を学んでいる。
村の若者は、文字を学び、木槍を握り、次に呼ばれる日を待っている。
アルノルト自身もまた、待っている。
青の節を。
決戦を。
そして、父が戻らない現実を、いつか受け入れる日を。
机の上に、新しく切り揃えられた羊皮紙が置かれていた。
チトセの筆跡で、今日のまとめが綺麗に書かれている。余白の取り方まで美しい。
その横に、薪の割り当ての表がある。
文字が読める者が増えれば、村は少し強くなる。
アルノルトは羊皮紙に指を置き、そっと押さえた。
外では、寒風が鳴っている。
屋敷の中では、インクの匂いと湯気の匂いが混じる。
アルノルトは、筆を取り直した。
これは戦争の前の、ひとつの風景であった。




