表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁の騎士  作者: 満波ケン
第四章 騎士の戦い
42/45

42.ひとつの風景

100リューグ=120km

大陸暦三〇六年。

年は改まったが、国境の空気は変わらなかった。


黒の節の寒気は、国境の山地を越え、高原を越え、丘陵を越え、ゆっくりと低地へと降りてきている。とはいえ、アルノルトが代官を務める開拓村に雪はない。朝晩の霜が畑の畝を白く縁取るだけで、土はまだ柔らかく、踏めば鈍く応えた。


年が変わっても、戦争が終わったわけではない。

ただ、雪が降る時期は、刃を交えることがない。それだけの違いだった。


年が明けてすぐ、屋敷は慌ただしくなった。

なぜならば、庶弟(おとうと)が、オルマン男爵のもとへ引き取られていくからだ。

将来の騎士を目指し、従士としての奉公が始まる。

庶弟がそれを望み、男爵もまた、その約束を(たが)えることがなかった。


アルノルトは脇に立ち、最後の準備を整える庶弟の背を見ていた。背丈はまだ低いが、立ち姿に迷いがない。十の子どもにしては、あまりに落ち着いていた。


――自分の奉公とは、随分違う。


そう思う。


アルノルトは、父に戦士としての基礎を叩き込まれ、ツェルバハ子爵領の御料牧場で奉公した。確かに厳しかったが、馬に囲まれ、自宅から通える環境でもあった。

それに比べれば、男爵邸への住み込み奉公は別物だ。


男爵領までは百リューグ。平坦な地が多いとはいえ、騎馬の速歩でも三日はかかる距離だ。辛いことがあっても、簡単に逃げ帰れる距離ではない。

それが従士の務めであることを、アルノルトは知っていた。


中庭には、家族と村人が集まっていた。

冬の朝の空気は張りつめ、吐く息が白く揺れる。

厩舎の扉が軋み、馬が一頭、短く鼻を鳴らした。

誰もが声を潜め、その音だけが妙に大きく響いていた。


思えば、二人の妹も、庶弟も、館が賊に襲撃されたあの日から、子どもながらにわがままを言わなくなった。

騎士家の子女としての立ち居振る舞いを、早くから身につけるようになったのだ。


戦線が近い村――それも理由の一つではある。

それにしても、随分と不憫なことだとアルノルトは思う。

本当なら、もっと子どもらしい時間を過ごしていてよかったはずなのに。


庶弟は一人ひとりに挨拶をして回る。

仲の良かった村の子どもたちとは抱き合い、再会を誓っている。

その振る舞いは、もう子どもの領分を越え立派なものだった。


とりわけ丁寧だったのは、シロウへの挨拶だ。

アルノルトが剣を教えることもあったが、最も多く手ほどきをしたのはシロウだった。短い期間で王国の剣技を修めたその剣士は、庶弟の成長を真剣に考え、惜しみなく時間を割いていた。


第二夫人は、赤くなった目を隠すこともなく、庶弟を見送っていた。別れは昨晩に済ませたのだという。


「ご立派です」

そう声を掛けた瞬間、彼女は小さく頭を下げ、館の中へと引っ込んだ。閉じられた扉の奥から、嗚咽が漏れる。


――余計なことを言った。


正しい言葉だったとしても、今、言うべきではなかった。

アルノルトは、遅れてそう悟った。


庶弟は、その背中を横目で見てから、家族の前に立った。

「それでは、行ってまいります」

そう言って、きちんと背筋を伸ばし、敬礼する。

小さな肩が、きゅっと上がる。

その動きが、子どものものではなくなっているのがつらかった。


迎えに来ていた先輩従士が、優しい口調で言った。

「しっかり務めていれば、年末か年始に、まとまった休みが出ます」


年の変わり目は、北方で戦が止まる時期だ。

あらかじめ知っていたとはいえ、その言葉に、妹たちや使用人の表情が、わずかに緩んだ。

安堵している妹らではあるが、彼女らも来年、再来年あたりにはいずこかへ嫁いでいくことになるだろう。

寄親であるツェルバハ子爵が世話をしてくれるというのは、騎士家としては栄誉だ。

あとは、良縁に恵まれ、彼女らが幸せになってくれるといい。


いよいよ、旅立ちの時だ。

先輩従士が合図を送り、馬が向きを変える。

歩いて付き従う庶弟は門をくぐる直前、振り返って大きく手を振った。

アルノルトも、思わず手を振り返す。

小さな頃、足にまとわりついていた弟の姿が重なる。


「……がんばってこい!」

声が少し震えたことに気づき、アルノルトは照れくさくなって、視線を逸らした。


これは、戦争の前に訪れる、静かな別れだった。



寒気が畑を縁取り、風が納屋の板を鳴らす。霜が解けるのは昼だけで、陽が落ちるとまた薄氷が張る。村道はぬかるみと凍りが交互に現れ、足を取られる。荷車は慎重に進み、牛馬は鼻息を白くする。


戦が止まったとて、暮らしは止まらない。


屋敷の帳簿には、数字が並んでいた。穀物の残り。薪の割り当て。馬の飼葉。負傷者の治療に回す薬草。

読み書きのできる従士を失った穴は、想像以上に深かった。

父とともに行方不明になった者たちが書き留めていたのは、税の計算だけではない。村人の揉め事の記録。借金の返済期限。誰の納屋が壊れ、どの畑が痩せたか。用水路の順番。

そういう「忘れると村が歪む」細部だった。

アルノルトは、机の前で一つ息を吐き、インク壺の蓋を閉めた。


しかし、今は代わりに支えてくれる者がいる。

朝、まだ霜が地面を掴んでいるうちに、シロウは外へ出る。

門を開け、村中を駆け、アルノルトからの伝言や指示を触れ回り、木材を運び、時に荷を担いで戻る。足音は軽いが、肩に乗る仕事は軽くない。それを顔に出さないのが、彼の強さだった。


一方で、代官室には別の者が常に付き従っていた。

チトセだ。

彼女は朝の稽古にも顔を出す。

木剣を手に取り、構え、打ち合いの間合いを測る。踏み込みは控えめだが、距離の詰め方に迷いがない。息を乱さず、終わりの合図まで集中を切らさない。

稽古が終われば、長居はしない。

朝食後は厩へ向かい、馬の世話を手早く済ませ、外套を脱ぐ。

袖をまくり、代官室の机に向かうまでに、動きに無駄はなかった。

陽が落ちるまで、ほとんど席を外さない。


そのことで、家での役割は自然と変わっていった。

チトセが代官の補佐的な立場として動くようになってから、家事に手を出そうとすると、母や女中たちに止められるようになった。

「それは、もう私たちの仕事ですから」と。


いつしか妹たちも率先して家事に加わるようになり、気がつけば、チトセがいなくとも、屋敷の中は滞りなく回っていた。


彼女の居場所は、いつのまにか、アルノルトの机の傍らに移っていた。

昼食後の短い休憩のあいだだけ、彼女は席を外した。

それ以外の時間、彼女はアルノルトの傍に居続けた。


「ここ、計上の単位が揃っていません」

チトセは、言い方を柔らかくする癖がある。

それでも指摘は的確だ。

アルノルトが手を止めると、彼女は筆先で行を示し、指を折って説明する。声は小さい。それでも、言葉に芯がある。


「……助かる」

アルノルトが感謝とともに視線を合わせると、チトセはほんの少しだけ赤らんで目を伏せた。



ひと月もすれば、チトセは仕事を覚えたどころか、この村の「癖」まで掴んでいた。

どの家が見栄を張り、どの家が口数が少なく、どの家が困っていても助けを求めないのか。

帳簿の数字の裏にある、村人の性格まで読むようになっていく。


数字を並べるだけではなく、理由を考える癖があった。

出来事を因果で捉え、先を読む。

村では珍しい思考の仕方だ。


「若者に読み書きを教えましょう」

チトセが言ったのは、雪のない曇天の朝だった。

代官室の窓は小さく、外の光は薄い。

それでも、筆を動かす手元は見える程度に明るい。


「次の春、また徴募があるかもしれません。書ける者がいれば、伝令も、記録も、早くなります」

言葉は穏やかだが、前提にあるのは戦だった。

アルノルトは頷いた。

戦場で学んだことは、ひとつだ。速さは、強さになる。


数日後から、夕方の短い時間、納屋の一角で若者たちが文字を習うようになった。

シロウをはじめとした男手によって納屋は片付けられ、積まれていた藁や道具は壁際へ寄せられた。

木箱が机代わりに並べられ、その上には、やすった木板と木炭が置かれる。

納屋の梁から落ちる埃が、傾きかけた陽の光を受け、細い筋となって浮かんでいた。

外はまだ明るいが、ここで使える光は、それだけだった。

集まるのは、毎日十名ほど。

畑仕事や荷運びを終えた若者たちだ。


初めは、木炭を持つ手が震えた。

力の加減が分からず、線は太くなりすぎ、時には木炭そのものを折ってしまう。

それを見て、短い笑い声が起きる。

やがて、笑いが途切れると、自然と静けさが戻った。

板に刻まれていくのは、拙くとも確かな線だ。

誰も、ふざけようとはしなかった。


チトセは、まず数字から教えた。

一、二、三。

数を数え、並べ、引いて、足す。


「文字は、あとでいいです」

そう言って、彼女は木板に大きく数字を書き、若者たちに同じ形をなぞらせた。


収穫の数。

薪の束。

人の頭数。

彼らが日々、身を持って理解しているものから始めることで、文字は少しずつ「意味」を持ちはじめていった。


戦は遠いようで近い。

村の空気が、それを知っている。


アルノルトはふと思い、チトセに言った。

「チトセを、ツェルバハ子爵に推薦してもいいんじゃないか。ここに置いておくには――もったいない」


その瞬間、チトセは勢いよく顔を上げた。

そして、はっきり首を横に振った。

「私も兄も、この村だからこそ、この国にとどまっているのです」

熱を帯びた声だった。

冷えた室内で、その言葉だけが少し温かい。


アルノルトは、言い返す言葉を持たなかった。

それほどの村ではない、と頭のどこかで思う。

けれど、嬉しさが先に来てしまう。



最近、隣村からの来客が頻繁である。

セリーヌだ。


男爵代行としての務めを理由に、彼女は時間を見つけてはこの村に来る。

馬の足音は規則正しい。冬の地面を踏む音が、遠くからでも分かる。

彼女は外套の雪を払うでもなく、代官室へ入ってくる。

外套から冷気が落ち、部屋の湯気が一瞬だけ薄くなった。

寒さのせいだろうか、頬が赤い。


「相談があるの」

そう言って椅子に腰を下ろし、机の端を指で叩く。

相談の内容は、半分は本物で、半分は――そうではない。


水路の凍り方。

飼葉の分け方。

村人の労役の割り当て。


それらは確かに重要だ。

ただ、それらの話は一刻もすれば終わる。

そのあとは、雑談になる。

セリーヌは、チトセを見る回数が増えていた。

言葉は丁寧だ。笑みもある。なのに、その視線の端が鋭い。

チトセはそれに気づいているのか、いないのか。

いつも通りに湯や葡萄酒を出し、帳簿を整え、必要なときだけ口を開く。


「あなたの従士、優秀ね」

セリーヌが言う。


「私にはもったいない従士です」

アルノルトが答える。


その短い会話の間に、この部屋の空気が一瞬だけ硬くなる。

アルノルトは、その理由をまだ言葉にできない。

分からないまま放置できる種類のものでもないと、どこかで感じている。


朝の稽古には、以前のように、セリーヌはたびたび顔を出すようになった。

霜が残る庭で、剣を構え、呼吸を整え、踏み込みを合わせる。

打ち合いの音は乾いている。

木剣と白い息がぶつかるたび、寒気が震える。


セリーヌの剣は速く、鋭い。ところが、どこか乱れたり、一転して冴え渡る日がある。

その日は決まって、彼女とチトセとの打ち合いだった。



夕方、村の外れに立つと、国境の山が遠くに黒く見えた。

雪雲がかかり、稜線がぼやける。


庶弟は今ごろ、男爵邸で命令を聞き、床を磨き、馬の世話をし、剣を握っているのだろう。

妹たちは、いつか嫁ぐ日のために、家事を学び、言葉を学び、姿勢を学んでいる。

村の若者は、文字を学び、木槍を握り、次に呼ばれる日を待っている。


アルノルト自身もまた、待っている。

青の節を。

決戦を。

そして、父が戻らない現実を、いつか受け入れる日を。


机の上に、新しく切り揃えられた羊皮紙が置かれていた。

チトセの筆跡で、今日のまとめが綺麗に書かれている。余白の取り方まで美しい。

その横に、薪の割り当ての表がある。

文字が読める者が増えれば、村は少し強くなる。

アルノルトは羊皮紙に指を置き、そっと押さえた。


外では、寒風が鳴っている。

屋敷の中では、インクの匂いと湯気の匂いが混じる。

アルノルトは、筆を取り直した。


これは戦争の前の、ひとつの風景であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ