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暁の騎士  作者: 満波ケン
第四章 騎士の戦い
41/45

41.追憶

過去にも「度量衡」の設定で記載していますが、分かりにくいと思いますので再掲します。

1サフォ=1.2cm

1リューグ=1.2km

大陸暦三〇五年、黒の節。


ハイネス高原からブリューナ丘陵にかけて、ついに雪が降りはじめていた。

十サフォ――指一本分ほど積もれば、踏み固められた道は白く覆われ、その下で凍り始める。


車輪は滑り、馬は脚を取られる。

荷車で補給物資を送り込むのは難しくなる時期だ。


高原を貫く街道には、もはや轍の音はない。

残っているのは、歩兵の靴跡と、凍りかけた泥の割れる音だけだった。


レーヴェン軍は、すでに前線陣地を放棄している。

ヴァルゼイン伯爵が心血を注いで築き上げたあの堅陣――誘引撃滅のために用いられ、役目を終えた陣だ。


使える物資はすべて引き上げ、戦利品もまとめ、軍は三リューグ後方へと下がった。


新たに敷かれた陣は、地形を考慮した実務的なものだった。

やがてここも雪の影響を受けるだろう。だが、この一帯は例年、降雪が浅い。標高も下がっており、道が完全に凍ることも少ない。


現在は馬と荷車による補給が続いている。

万一凍結が進めば、歩荷へ切り替える手筈も、すでに整えられている。

とはいえ、戦が起こり得ない黒の節において、前線を維持する兵力は最低限でよい。

兵数は二千。

寄騎たちは交代で自領へ戻り、兵もまた帰郷を許されていた。


国境は静まり返っている。

だが、それは平穏ではない。

ただ、凍りついた沈黙だった。



ザーヴェル辺境伯セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェルは、すでに自領へ戻っていた。


辺境伯領の中心都市フォルティスは、初代辺境伯が築いた、完成された城塞都市である。

石壁は厚く、街路は広く、倉庫と水路は過不足なく配置されている。


王都のような装飾も、華やかな尖塔もない。

だが、兵が集まり、民が住み、戦が来ても持ちこたえる。

そのためだけに磨き上げられた都市だった。


執務室は、城塞の中枢に位置している。

石造りの壁。低い天井。風を通さぬ小窓。

机の上には地図が広げられ、重し代わりの短剣が角を押さえていた。


セルヴィオは、その地図を前に、しばらく動かなかった。


次の戦。

春に行われる戦は、国境の主導権そのものを賭けた戦いになる。


ここで敗ければ、どうなるか。

セルヴィオは、その答えを、誰よりも具体的に理解していた。


敗北は、即座に王都が落ちることを意味しない。

辺境伯領が滅びるわけでもない。


だが――緩衝地帯を失う。


その場合、防御線が、内側へ引き直される可能性が高い。

あらたな防御線の近くには、まだ耕され、住まわれている土地がある。


騎士ラウエンの開拓村。

エーベルハルト男爵領。

ツェルバハ子爵領。


本来なら、まだ戦場になるべきでない場所。

そこが、前線になることだってありえるのだ。

兵が通り、敵が踏み込む。

民は逃げ、畑は荒れ、回復には何年もかかる。

それを「戦争だから仕方がない」とは、セルヴィオは言えない。


彼は、地図の一点に指を置いた。

ハイネス高原。

ヴァルゼイン伯爵が築いた陣。

修繕をおこない、あそこに再び布陣するのか。


あるいは、ブリューナ丘陵の裏手に陣取るか。

それとも、もっと敵領へ押し出すか。

逆に、峠道の下りへ引き込むか。


どこを戦場に選ぶかで、戦の形は変わる。

そして、負けたときに失うものも変わる。


兵の補充について、王都へ申請は出している。

だが、十全に叶うとは考えていない。


先の戦で、壮年の男たちは多く失われた。

これ以上の徴発は、農地に影響が出る。

王都周辺貴族の増援も、貴族院議会の承認が必要だ。

予算も、人も、余裕はない。


次の戦は、兵数で劣る可能性が高い。

それでも、勝たねばならない。


セルヴィオは、静かに息を吐いた。


「……次は、必勝を期さねばならないね」

誰に聞かせるでもない言葉が、石の壁に吸い込まれる。


窓の外では、フォルティスの街がいつも通りに動いていた。

雪の気配は、ここまでは届いていない。


セルヴィオは、地図を畳み、短剣を元の位置に戻した。

思考は終わらない。

だが、覚悟は固まった。



寒気は、高原から一段低い土地にも確実に降りてきていた。

とはいえ、アルノルトの代官地である開拓村に雪が降ることは稀である。朝晩の霜が畑を白く縁取るだけで、土は凍てついてはいない。


父ヘルマンが切り拓いたこの村は、冬に弱い造りではない。家屋は低く、風を受け流し、納屋と倉は十分な余裕をもって築かれている。ここには、戦のためではなく、生き延びるための工夫が積み重なっていた。


アルノルトは、その中心となっていた。


屋敷には母と二人の妹、父の第二夫人、そして庶弟たちがいる。

誰も、父の死を口にしなかった。


捕虜としての情報はなく、身代金の話もない。それでも「確定した死」には至っていない。母も第二夫人も、まだそれを認めていなかった。アルノルトも、それを否定することはなかった。


——春が来るまで待とう。


葬儀は、そのあとでいい。

それは情ではなく、代官としての判断だった。


冬に入ってから、アルノルトの仕事は増えていた。

村から出征した民兵に死者はいなかったが、負傷者は十名ほどいる。骨折し、ひと月以上働けぬ者。剣傷で、しばらく働けぬ者。


この村の領主は国だ。アルノルトは代官でしかない。

だが、国の補償は、まだこれからなのだ。

アルノルトは、国の補償を待ちながら、先に動いた。倉を開き、負傷者家族への配給を保証し、治療に必要な費用は代官として肩代わりした。

父の補佐として積んできた経験が活きていた。


「戦は国のものだが、冬は皆のものだ」

そう言って、誰にも恩を着せなかった。


父ヘルマンとともに、あの場に残った従士は、三名いた。

いずれも長年ラウエン家に仕え、父を補い続けてきた男たちだ。


彼らもまた、行方不明だった。

彼らについても捕虜の報はなく、身代金の請求もない。

従士の家族への補償は、慣例に従い、まず主家であるラウエン家が引き受ける。

武具の補償、そして今後数年分の扶持金。

それは決して十分とは言えないが、残された者が生き延びるための最低限だ。


アルノルトは、書付を整え、自ら家族のもとへ足を運んだ。

泣き崩れる者もいれば、黙って頭を下げる者もいた。


ある家では、従士の長男が、歯を食いしばって言った。

「父は……立派に務めを果たしたのでしょうか」


アルノルトは、即座に答えた。

「果たした。その役割を最後まで、な」


それ以上の言葉は、要らなかった。



冬にもかかわらず、来客や書状が絶えなかった。


最初に訪れたのはエーベルハルト男爵だった。重い外套を脱ぎ、卓にとびきりの葡萄酒を置くと、夜更けまで父との戦の話を語った。剣の冴え、陣での癖、突撃や撤退での判断——語られるたびに、父はまだ戦場にいるようだった。


ツェルバハ子爵は、二人の妹の将来を案じ、縁組の話を持ってきた。

それは寄親としての情だけではなく、ヘルマンのこれまでの功績に報いるためのものであった。


ザーヴェル辺境伯からは書状が届いた。

父が借りたまま行方不明となった馬について、返還は不要と明記されていた。


「困ったことがあれば、子爵を通じてでもよい。直接でも構わぬ」

短い一文が、重かった。


そして、オルマン男爵が訪れた。

同じ戦場で剣を振るい、父と戦功を競い合った男だ。

「お前の親父さんとは、よく張り合った」

酒を飲みながら、オルマン男爵はそう言った。

「槍働きで勝ったこともある。負けたこともある。だが、あの人がいる戦場は、いつも楽しかった」


父との功績争いについて、いくつもの戦場での話を聞かせてくれる。そのどれもが、アルノルトにとって初めて聞く話だった。


一段落すると、オルマン男爵は真剣な眼差しでアルノルトを見る。


「……来年で、庶弟(おとうと)が十になるそうだな」

唐突ではなかった。

それは、武人同士の自然な流れだったろう。


「従士として、俺に預けてみないか」

友情でも、同情でもない。

それは、騎士国家としての連続性と言い換えてもよかった。


「良い騎士が育たねば、次はない。お前の親父さんの戦は、まだ終わっていないのだ」


アルノルトは、深く頭を下げ感謝を述べた。


セリーヌとコンラートも、ラウエン家を訪れた。

セリーヌは、父が村祭りの力比べで優勝したときの話を懐かしそうに語り、コンラートは、自分の父や兄が父をどう評していたかを伝えてくれた。


そのたびに、アルノルトは思う。


父は、ここにいる。

冬の静けさの中に、父は、確かに生き続けているのだ、と。

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