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暁の騎士  作者: 満波ケン
第四章 騎士の戦い
40/45

40.雪が降る前に 断章

地面は中途半端に硬く、中途半端に滑る。凍り切らない泥は、踏めば鈍く鳴り、踏み抜けば足を引く。

――戦をやるには、いちばん嫌な季節だ。


ブリューナ丘陵の起伏に沿って伏せた騎馬隊は、遠目にはただの黒い塊に見える。


アルノルトは、オルヴァンの首筋に掌を当てていた。

青毛の馬体は、寒気に身震いする。筋肉が細かく波打ち、鞍がわずかに揺れる。だが、嘶きは出ない。馬は口には革を巻いた木片が噛まされ、声は喉の奥で押し殺されている。馬も分かっているのだ。今は走ってはいけない。走るなら――合図のあとだ。


周囲には、同じ沈黙が並んでいた。

少し先にはカルディア男爵の騎馬。オルマン男爵の騎馬。そして、すぐそばには、男爵代行であるセリーヌの騎馬。馬の鼻息は布で抑えられ、金具は布で巻かれ、鎧の擦れる音さえ許されない。


「……寒いな」

誰かが言いそうな空気がある。それでも、声は出ない。出せば、その瞬間に、この待ち伏せは終わる。


アルノルトは槍を握り直した。


息を吸うと、冷気が肺の奥で痛んだ。

吐けば白くなる。だから誰もが喉の奥で息を砕く。


丘陵の向こうで、かすかなざわめきが起きた。

荷車の軋み。樽の転がる鈍い音。人の笑い声。歓喜の声。


物資を抱えて帰る最中の隊列は、伸び、膨らみ、鈍重だ。


オルヴァンが、もう一度身震いした。

アルノルトは首筋を撫で、蹄が地面を叩かないよう、膝で静かに締めた。


(落ち着け、相棒。まだだ。今じゃない)


セリーヌが、視線だけでこちらを見た。

口は動かさない。頷きもしない。ただ、手綱の角度で、距離の確認をする。

――合図があれば、右へ。

――右へ出たら、槍は水平。

――刺すのは隊列の横腹。


アルノルトの胸の奥で、何かがじり、と鳴った。

鬱憤。悔しさ。

それらが、走り出す前の馬の筋肉みたいに、ぎゅっと縮まっている。


まだ「合図」はない。

動き出すのはそれからだ。


カルディア男爵の腕が上がる。

拳が握られ、開く。

開いた掌は、前を指した。


――走れ。

合図は一つ。丘陵の影に伏せていた騎馬が、同時に息を吐いた。


アルノルトは、オルヴァンに噛ませていた木片を抜かない。その代わり、拍車をかけた。

オルヴァンの背が、弓みたいにしなった。次の瞬間、地面が後ろへと滑った。


走るというより、世界が後ろへ滑り、消える。

蹄が硬い泥を叩き、鈍い音が連打となる。息が白くならないよう抑えていた肺が、今度は一気に燃える。

凍った空気が喉を裂き、視界が冴える。


丘陵の影から出ると、炎の匂いが鼻を刺した。

燃えているのは、レーヴェンの陣だ。

敵の退路を塞ぎ、焦りを煽るための火だ。

油布が燃え、縄が弾け、盾板が倒れ、煙が風で横へ流れている。その煙の向こうに、グラーツの隊列が見えた。


荷駄が詰まり、馬が横を塞ぎ、兵が袋を抱えたまま叫んでいる。


アルノルトは槍を水平にした。

槍の穂先が、風を切る音が聞こえた気がする。実際には風と蹄でかき消される。


オルヴァンが、敵隊列の腹へ滑り込む。

アルノルトは狙いを一点に絞った。荷車の脇、袋を抱えて身を捻った兵、盾を構える暇のない角度――そこに、槍は吸い込まれる。


槍の穂先が、最初の標的に触れる寸前。

オルヴァンの蹄が、硬い泥を噛んだ。


槍の穂先が、突き抜けた。


衝撃は、思ったよりも軽かった。

荷を抱えた兵が、横から押し潰されるように崩れ、そのまま槍に縫い止められる。


オルヴァンは止まらない。

蹄が地面を叩き、次の一歩を探す。槍は抜かれ、即座に次へ向けられる。突き捨てる。


二人目は、盾を構えようとしていた。

だが、アルノルトの突撃を見てから構え直すには、遅すぎた。

槍の石突きが顎を跳ね上げ、体が仰け反る。そこへ、オルヴァンの肩が叩き込まれた。馬体の質量が人を吹き飛ばす。鎧が鳴り、兵が転がる。


グラーツの隊列が、音を立てて壊れ始める。


荷車を押していた兵が止まり、後ろが詰まり、前が振り返る。その瞬間に、次の騎馬が腹を割る。カルディア男爵の騎馬が左から噛み込み、オルマン男爵の隊がさらに深くえぐる。


アルノルトとオルヴァンは、ただ走った。

走りながら、距離を測り、数を数え、次の穴を探す。


一、二、三――


数えながらも、手近な穴へ突撃を繰り返す。

敵が多いのではない。多く見えるだけだ。

秩序を失った隊列は、もう軍ではない。

騎馬隊は横撃を成功させ、グラーツ軍を突き抜けた。


突き抜けるや、弓の弦が鳴る音が聞こえた。

丘から、矢が降る。レーヴェンの弓隊だ。

騎馬隊に気を取られていたグラーツ兵は、盾を上げる暇もなく後ろから射抜かれ、倒れる。動揺が広がっていく。

さらにその背後からは、レーヴェン軍の歩兵部隊が迫っていた。


「捨てろ!」

誰かが叫ぶ。包囲されつつあることに、ようやく敵も気づいた。

だが判断が遅い。


アルノルトの視界の端で、炎が跳ねた。

陣が燃え、風が火を運ぶ。

その炎を背にして、敵は前へと逃げるしかなくなっていた。


オルヴァンが、低く唸る。

もう抑えは要らない。

アルノルトは手綱を操りながら、噛ませていた板を外した。

嘶きが空を裂く。


「突撃ーッ!」

カルディア男爵の合図に、再び騎馬隊が(たけ)る。

いったん突き抜けた騎馬は、短く距離を取り、再び隊形を整えていた。

吶喊の声を放ちながら、怒りを剣と槍に乗せる。

アルノルトは、槍を振り替えた。

石突きが、兜の縁を叩き、首が横へ折れる。倒れた兵を踏まないよう、オルヴァンは駆ける。


老馬を駆り、いつのまにかアルノルトにぴったりとくっついていたシロウは、討ち漏らした敵を確実に狩っていた。


アルノルトの若さが、燃えた。

しかし、それは暴走ではなかった。


敵の最後の抵抗は、歩兵だった。

盾も槍も揃えきれず、互いの位置を探る声だけが重なる。

槍列を組もうと、合図が飛ぶが、列は半分しかできない。

合図が届く前に、もう逃げ出した者がいた。


アルノルトとシロウは、馬に軽く気合を入れると斜めから切り込み、列の端を削る。

敵が一人倒れる。隣が詰まる。詰まったところへ、次の騎馬が突く。

アルノルトは暴風のようで、当たるを幸い敵を蹴散らす。


敵の心が完全に折れた。


音が変わる。

剣戟の響きでも、悲鳴でもない。

逃げる音だ。

鎧を捨てる音。盾を落とす音。

潮が引くように、脇目も振らず去っていく音だった。


レーヴェン軍は後を追わなかった。


アルノルトは、オルヴァンを止めた。

止まった瞬間、脚が震える。腕が重い。肺が焼ける。

それでも、視界は澄んでいた。


従者として付き従ったシロウと目線を交わす。

互いに返り血を浴び、赤黒い姿になっていた。


丘の上から、戦場を見る。

炎。煙。散った敵。

戻ってくる味方。

夕刻の陽が、高原を真っ赤に染め上げ、血と泥とを覆い隠していた。


セリーヌの騎馬が並んだ。

彼女は何も言わない。ただ、一度だけ頷く。


アルノルトは、オルヴァンの首を叩いた。

「よくやった」

声は低く、短い。


オルヴァンは「当然だ」とばかりに鼻を鳴らした。

こちらが「断章」でいいのでしょうか……。

どう考えても第39話のほうが断章ですよね。

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