40.雪が降る前に 断章
地面は中途半端に硬く、中途半端に滑る。凍り切らない泥は、踏めば鈍く鳴り、踏み抜けば足を引く。
――戦をやるには、いちばん嫌な季節だ。
ブリューナ丘陵の起伏に沿って伏せた騎馬隊は、遠目にはただの黒い塊に見える。
アルノルトは、オルヴァンの首筋に掌を当てていた。
青毛の馬体は、寒気に身震いする。筋肉が細かく波打ち、鞍がわずかに揺れる。だが、嘶きは出ない。馬は口には革を巻いた木片が噛まされ、声は喉の奥で押し殺されている。馬も分かっているのだ。今は走ってはいけない。走るなら――合図のあとだ。
周囲には、同じ沈黙が並んでいた。
少し先にはカルディア男爵の騎馬。オルマン男爵の騎馬。そして、すぐそばには、男爵代行であるセリーヌの騎馬。馬の鼻息は布で抑えられ、金具は布で巻かれ、鎧の擦れる音さえ許されない。
「……寒いな」
誰かが言いそうな空気がある。それでも、声は出ない。出せば、その瞬間に、この待ち伏せは終わる。
アルノルトは槍を握り直した。
息を吸うと、冷気が肺の奥で痛んだ。
吐けば白くなる。だから誰もが喉の奥で息を砕く。
丘陵の向こうで、かすかなざわめきが起きた。
荷車の軋み。樽の転がる鈍い音。人の笑い声。歓喜の声。
物資を抱えて帰る最中の隊列は、伸び、膨らみ、鈍重だ。
オルヴァンが、もう一度身震いした。
アルノルトは首筋を撫で、蹄が地面を叩かないよう、膝で静かに締めた。
(落ち着け、相棒。まだだ。今じゃない)
セリーヌが、視線だけでこちらを見た。
口は動かさない。頷きもしない。ただ、手綱の角度で、距離の確認をする。
――合図があれば、右へ。
――右へ出たら、槍は水平。
――刺すのは隊列の横腹。
アルノルトの胸の奥で、何かがじり、と鳴った。
鬱憤。悔しさ。
それらが、走り出す前の馬の筋肉みたいに、ぎゅっと縮まっている。
まだ「合図」はない。
動き出すのはそれからだ。
カルディア男爵の腕が上がる。
拳が握られ、開く。
開いた掌は、前を指した。
――走れ。
合図は一つ。丘陵の影に伏せていた騎馬が、同時に息を吐いた。
アルノルトは、オルヴァンに噛ませていた木片を抜かない。その代わり、拍車をかけた。
オルヴァンの背が、弓みたいにしなった。次の瞬間、地面が後ろへと滑った。
走るというより、世界が後ろへ滑り、消える。
蹄が硬い泥を叩き、鈍い音が連打となる。息が白くならないよう抑えていた肺が、今度は一気に燃える。
凍った空気が喉を裂き、視界が冴える。
丘陵の影から出ると、炎の匂いが鼻を刺した。
燃えているのは、レーヴェンの陣だ。
敵の退路を塞ぎ、焦りを煽るための火だ。
油布が燃え、縄が弾け、盾板が倒れ、煙が風で横へ流れている。その煙の向こうに、グラーツの隊列が見えた。
荷駄が詰まり、馬が横を塞ぎ、兵が袋を抱えたまま叫んでいる。
アルノルトは槍を水平にした。
槍の穂先が、風を切る音が聞こえた気がする。実際には風と蹄でかき消される。
オルヴァンが、敵隊列の腹へ滑り込む。
アルノルトは狙いを一点に絞った。荷車の脇、袋を抱えて身を捻った兵、盾を構える暇のない角度――そこに、槍は吸い込まれる。
槍の穂先が、最初の標的に触れる寸前。
オルヴァンの蹄が、硬い泥を噛んだ。
槍の穂先が、突き抜けた。
衝撃は、思ったよりも軽かった。
荷を抱えた兵が、横から押し潰されるように崩れ、そのまま槍に縫い止められる。
オルヴァンは止まらない。
蹄が地面を叩き、次の一歩を探す。槍は抜かれ、即座に次へ向けられる。突き捨てる。
二人目は、盾を構えようとしていた。
だが、アルノルトの突撃を見てから構え直すには、遅すぎた。
槍の石突きが顎を跳ね上げ、体が仰け反る。そこへ、オルヴァンの肩が叩き込まれた。馬体の質量が人を吹き飛ばす。鎧が鳴り、兵が転がる。
グラーツの隊列が、音を立てて壊れ始める。
荷車を押していた兵が止まり、後ろが詰まり、前が振り返る。その瞬間に、次の騎馬が腹を割る。カルディア男爵の騎馬が左から噛み込み、オルマン男爵の隊がさらに深くえぐる。
アルノルトとオルヴァンは、ただ走った。
走りながら、距離を測り、数を数え、次の穴を探す。
一、二、三――
数えながらも、手近な穴へ突撃を繰り返す。
敵が多いのではない。多く見えるだけだ。
秩序を失った隊列は、もう軍ではない。
騎馬隊は横撃を成功させ、グラーツ軍を突き抜けた。
突き抜けるや、弓の弦が鳴る音が聞こえた。
丘から、矢が降る。レーヴェンの弓隊だ。
騎馬隊に気を取られていたグラーツ兵は、盾を上げる暇もなく後ろから射抜かれ、倒れる。動揺が広がっていく。
さらにその背後からは、レーヴェン軍の歩兵部隊が迫っていた。
「捨てろ!」
誰かが叫ぶ。包囲されつつあることに、ようやく敵も気づいた。
だが判断が遅い。
アルノルトの視界の端で、炎が跳ねた。
陣が燃え、風が火を運ぶ。
その炎を背にして、敵は前へと逃げるしかなくなっていた。
オルヴァンが、低く唸る。
もう抑えは要らない。
アルノルトは手綱を操りながら、噛ませていた板を外した。
嘶きが空を裂く。
「突撃ーッ!」
カルディア男爵の合図に、再び騎馬隊が猛る。
いったん突き抜けた騎馬は、短く距離を取り、再び隊形を整えていた。
吶喊の声を放ちながら、怒りを剣と槍に乗せる。
アルノルトは、槍を振り替えた。
石突きが、兜の縁を叩き、首が横へ折れる。倒れた兵を踏まないよう、オルヴァンは駆ける。
老馬を駆り、いつのまにかアルノルトにぴったりとくっついていたシロウは、討ち漏らした敵を確実に狩っていた。
アルノルトの若さが、燃えた。
しかし、それは暴走ではなかった。
敵の最後の抵抗は、歩兵だった。
盾も槍も揃えきれず、互いの位置を探る声だけが重なる。
槍列を組もうと、合図が飛ぶが、列は半分しかできない。
合図が届く前に、もう逃げ出した者がいた。
アルノルトとシロウは、馬に軽く気合を入れると斜めから切り込み、列の端を削る。
敵が一人倒れる。隣が詰まる。詰まったところへ、次の騎馬が突く。
アルノルトは暴風のようで、当たるを幸い敵を蹴散らす。
敵の心が完全に折れた。
音が変わる。
剣戟の響きでも、悲鳴でもない。
逃げる音だ。
鎧を捨てる音。盾を落とす音。
潮が引くように、脇目も振らず去っていく音だった。
レーヴェン軍は後を追わなかった。
アルノルトは、オルヴァンを止めた。
止まった瞬間、脚が震える。腕が重い。肺が焼ける。
それでも、視界は澄んでいた。
従者として付き従ったシロウと目線を交わす。
互いに返り血を浴び、赤黒い姿になっていた。
丘の上から、戦場を見る。
炎。煙。散った敵。
戻ってくる味方。
夕刻の陽が、高原を真っ赤に染め上げ、血と泥とを覆い隠していた。
セリーヌの騎馬が並んだ。
彼女は何も言わない。ただ、一度だけ頷く。
アルノルトは、オルヴァンの首を叩いた。
「よくやった」
声は低く、短い。
オルヴァンは「当然だ」とばかりに鼻を鳴らした。
こちらが「断章」でいいのでしょうか……。
どう考えても第39話のほうが断章ですよね。




