39.雪が降る前に
風が鳴っていた。
黒の節の乾いた寒気が、地表を舐めるように走り、土塁の肩を撫で、盾板の隙間を探っては抜けていく。
国境の山脈は、すでに雪化粧を済ませていた。
遠くの稜線が薄く白い。
だが、ハイネス高原はまだ――雪が降りはじめる手前で踏み止まっていた。
陣は要塞といえるほどになっている。
土は盛られ、堀は掘り直され、柵は二重に組まれ、盾板が矢狭間の代わりに並ぶ。見張り台が増え、油布が張られ、馬繋ぎの杭は打ち直されている。
セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェルは総帥として、天幕の奥で風の音を聞いていた。
彼は羽扇を口元に当て、息を白くしないようにして、帷幕の影で目を細めた。
ローデリクが去って、まだ日が浅い。
陣の空気は、表面上は落ち着いている。指揮系統も乱れがない。
セルヴィオは手元の羊皮紙に目をやる。
そこには、彼の指示で集められた、両軍の軍勢についての比較情報がまとめられていた。
――斥候によってもたらされた、最新のグラーツ軍将兵は約八千。
負傷兵の後送で少し減っているが、こちらを挑発するだけの余裕がある数字だ。
――一方でレーヴェン軍は五千を割り込む。
ハイネス高原の戦いの死傷。後送。相当に数を減らしていた。
本格的な黒の節が来れば、戦は止まる。
ここで言う黒の節は暦の上での話ではない。雪だ。降雪となれば両軍は退かざるを得ない。
雪が降れば、道は通れぬ。物資は運べず、矢は湿り、火は起こしにくくなる。兵は眠れず、馬は倒れ、攻める側も守る側も、選択肢が減っていく。
だから両軍とも、雪が来た瞬間に一時休戦という形になる。誰かの意思で止めるのではなく、止まってしまう。これは共通の認識だった。
セルヴィオは扇の縁を唇に当てたまま、帷幕の隙間から外を見る。
門の方では歩兵が無言で道をならし、騎士の従卒が馬の脚を洗っている。
兵の目が「外」より「内」に向いているのが分かる。挑発に耐える疲れが、視線を内側へ向かせているのだ。
――このまま雪が落ちれば、互いに退いて終わる。
――そのまま春を待てば、次は決戦になる。
士気を上げる。
主導権を取り戻す。
そして、来春の決戦に向けて、戦の感覚を兵の体に思い出させる。
セルヴィオは、ゆっくりと扇を下ろし、机上の地図に指を置いた。
ブリューナ丘陵。ハイネス高原。新しい防衛線。補給路。水場。
深い思考に身を沈めていく。
天幕の布が、風に小さく鳴った。
その音に混じって、車輪が泥に取られる音。押し上げる息。馬の嘶き、そういった音が聞こえてくる。
セルヴィオは目を閉じ、ひとつだけ息を吐いた。
「――雪が来る前に、だね」
外の音が途切れない。
陣は今日も働き、今日も耐え、今日も生き延びようとしている。
セルヴィオは羽扇を口元へ戻し、帷幕の影で次の一手を組み立て始めた。
必要なのは、兵が「まだやれる」と思い出す瞬間だけだ。
◆
グラーツ軍の陣は、寒風に晒されながらも整然としていた。
ハイネス高原の西縁、緩やかな起伏を背に置いた野営地は、土塁と簡易柵で囲まれ、幕舎が規則正しく並んでいる。火は焚かれているが、無駄な明かりは少ない。冬が近いことを、こちらもまた理解していた。
しかし、陣内の空気は、どこか張りを欠いていた。
若手将校たちは、焚き火を囲むように集まり、寒さに襟を立て、声を潜めながらも、言葉の端に苛立ちを滲ませていた。
ここ数日、彼らは幾度も前線へ小部隊を進め、旗を振らせ、太鼓や鐘を鳴らし、矢の届く距離まで踏み出している。それでも、レーヴェン軍は出てこない。
「……また引っ込んだな」
誰かが吐き捨てるように言う。
別の将校が鼻で笑った。
「やつら、先の敗戦でよほど心意気を挫かれたと見える。腰が引けている」
「臆病者、というやつだな」
その言葉に、誰も否定しなかった。
彼らの視線は、自然と高原の東――レーヴェン軍の陣がある方角へ向けられる。はるか先のため、視認することはできないが、土塁は高く、盾板も多い。だが、それは守る意思の表れであって、攻めてくる気配からはかけ離れていた。
陣の奥、中央幕舎では、ゲルハルド・ヴェン・ブロク元帥が地図を前にしていた。
彼は数多の戦いを戦い抜いた経験豊富な将だった。背は高く、筋骨隆々としており、それでいて視線は落ち着いている。長年の戦で刻まれた皺は、年齢よりも経験を物語っていた。
考えるよりも先に声と剣が出る激情家だったが、大敗北を経て、今は少しだけ思考が先に立つようになっていた。
「敵を侮るな」
彼は、若手将校たちの進言に、そう答えた。
「出てこないのは、弱いからとは限らん。出ない方が得だと判断しているだけだ」
「ですが元帥、このままでは――」
「雪が来る」
言葉は短い。だからこそ、重かった。
「雪が降れば、こちらも動けぬ。無理に前へ出て、事故を起こす必要はない。我々はもう既に勝ったのだ」
慎重な判断だった。
そうだとしても、その慎重さが、若手には歯がゆかった。
幕舎を出た彼らは、元帥に声が届かないであろう場所まで来ると抑えきれなかった。
「元帥も、老いたものだな」
「追撃戦で名を馳せた将が、ここまで慎重になるとは」
「臆病風に吹かれた、というやつではないか」
陰口は、まだ冗談めいている。
だが、そこには確かに、言葉になりきらない慢心が含まれていた。
数日後、空気が変わる。
斥候が報告を持ってきたのだ。
泥に汚れ、息を切らしながら、状況を語った。
「……敵陣の人影が、減っています」
その一言に、天幕が静まった。
「撤退準備か?」
「確証は?」
「日ごとに、減っています。夜間に人馬の列が動いているのを確認しました。幕舎も畳まれ始めています」
ざわめきが走る。
若手将校たちの目が、次第に光を帯びていく。
ついに敵の継戦能力が失われたか。
「逃げる気です、元帥」
「ならば、追うべきではありませんか」
彼らは再び、元帥へ意見を述べた。
今度は、言葉に熱があった。
ゲルハルドは、しばらく黙っていた。
「あと二日待て」
若い将校らは、元帥の消極性にあきれつつも、さらに二日待った。
そして、斥候から追加としてもたらされた報告は、さらにレーヴェン軍の決定的な撤退状況を伝えていた。
陣では炊煙も減り、一部の物資は運び出され、兵も少ない。
「元帥。敵は退いています」
「このまま逃がすのですか?」
「追撃はいまです。これ以上待てば好機を逃します」
もうそこには、情熱とともに、抑えきれない若さの暴走があった。
ゲルハルドは、ようやく口を開いた。
「二千。精鋭のみ。深入りはするな。陣を捨てた敵を突くに留めろ」
それは、許可だった。
同時に、暴走のし過ぎを防ぐ歯止めの言葉でもあった。
若手将校たちは、深く礼をした。
しかし、その表情は抑えきれていない。
「必ずや、戦果を挙げてみせます」
彼らは意気揚々と準備を始める。
鎧が鳴り、馬が嘶き、槍が揃えられる。
数刻のうちに準備が整えられ、若者たちは我先にと、陣を飛び出して行った。
ゲルハルドは、駆け往く将校らの背中を静かに見送るのだった。
◆
ハイネス高原の乾いた風が、追撃の背を押した。
頬を切り、唇を割り、吐く息を短くする風だった。
足元の泥は凍り切ってはいないが、表だけが硬く、踏み抜くたびに鈍い音を返した。
若手将校らは、二千の兵を率い、緩い起伏を越えていった。
その先にやがて、敵陣が見えてきた。
土塁。二重の柵。見張り台。黒ずんでいる盾板。門に続く踏み固めた道は、車輪の跡がくっきりと刻まれていた。
「……本当に、退いたのか」
先頭の将校が呟く。声は歓喜でも安堵でもなく、拍子抜けに近かった。敵が残っていれば斬れる。
とはいえ、残っていないのなら、斬る相手はいないのだ。
門は閉じられていない。木の扉が半ば開いていた。覗くと、陣内は空に近い。人影はなく、旗もなく、天幕は畳まれ、杭は抜かれ、焚き火の灰は冷えている。
それが、余計に若い血を煽った。
「これだけの堅陣を築いておきながら撤退するとは……」
別の将校が、土塁を軽く叩いた。木と土は硬く、音も鈍い。
「決戦を挑む腹を括れなかったのだ。レーヴェンは、もう攻めに出る力がない」
陣の奥で、荷の残りが見つかった。乾パンの樽。塩の袋。矢束。飼葉の端切れ。
物資は山ほど残っているわけではなかったが、二千人の功績と考えれば、戦果と呼ぶに足る量だった。
「敵がいない、というのであれば、物資を持ち帰ろうではないか」
兵がどっと動き、肩に担ぎ、荷車を引き寄せる。金具が鳴り、樽が転がり、笑い声が漏れた。
騎兵は馬を降り、荷物を積んだ荷車を、馬に取り付ける作業に没頭した。
「元帥が……もっと早く決断していれば」
誰かが言った。今度は確信を帯びた調子だった。
「あと一日二日早ければ、逃げる敵を撃滅できていたものを」
若手将校のひとりが、陣の中心を見回した。
「見れば見るほど堅い陣だ。元帥に進言して、この陣自体を乗っ取ってしまおう。冬の間、ここを前進拠点にすれば――」
言い終える前に、鼻を刺す匂いが走った。
油の匂い。
乾いた布の焦げる匂い。
風が、一瞬だけ向きを変えた。
陣の端、盾板の影から、細い煙が立ち上がる。誰かが火を付けたのだ。火の粉が油布を舐め、縫い目に染み込んだ油が一気に燃え上がる。黒の節の乾いた風は、火にとっては味方だった。
「――火だ!」
声が上がる。将校が叫び、兵が走る。
「誰だ、火を付けたのは!」
「気が逸ったかッ……もったいないことをする!」
誰も気づかない。
火を付けたのが自軍ではないことに。
まるで合図のように立ち上がったことに。
火は、風に煽られて伸びた。油布が燃え、縄が弾け、盾板が乾いた音を立てて倒れる。煙が喉を刺し、目が潤む。陣の中は、瞬く間に「奪う場所」から「逃げる場所」に変わった。
「物資を持て!退くぞ!」
将校が叫ぶ。撤退判断は早い。とはいえ、撤退に移る兵の足は遅かった。
肩には樽。背には袋。腕には矢束。奪ったものが、急に重りになる。
門へ向かう列は詰まり、荷車が泥にはまり、馬が嘶いて道を塞ぐ。後ろは炎に包まれ、前は狭い。
ようやく全軍が陣を脱し、人心地ついた──その瞬間だった。
ブリューナ丘陵の影から、角笛が響く。
蹄。
乾いた地面を叩く連続の衝撃が、腹の底に響く。
「――騎馬だ!」
横合いから、レーヴェンの騎馬隊が突き刺さる。数は多くない。だが、狙いは正確だった。隊列の腹。荷車と荷を抱えた兵が固まっているところ。退くために伸びた首根っこ。
騎馬の槍が突っ込み、盾が弾け、樽が転がり、塩の袋が裂けて白い粉が舞う。粉と煙と火の匂いの中で、兵は方向を失った。
騎馬が引き抜くように去った直後、今度は矢が降った。
弓隊だ。
丘の肩から、斜めに射ち下ろす。盾を構える暇がない。荷を捨てるか、命を捨てるか。若い兵が迷った一拍の間に、矢は喉と脇腹に吸い込まれる。
「捨てろ!捨てろ!」
将校が叫ぶ。今さら遅い。
荷を捨てた兵は、足を取られ、捨てない兵は、矢に刺される。
そして最後に、歩兵が来た。
低い声。短い合図。槍列。
火と煙の向こうから、丘陵を駆け下りる勢いで押し出してくる。騎馬で裂き、弓で削り、歩兵で押し潰す。
波状となって攻め立てた。
グラーツ軍は、壊れた。
若手将校が叫び、旗を振り、立て直そうとする。立て直そうとするが、炎に包まれた陣が背にあり、丘陵が横にあり、荷車が足を塞ぎ、風が煙を目に流し込む。隊はばらけ、戻る道は狭まり、気づけば「撤退」が「潰走」へ変わっていた。
生き残った者は、這々の態で戻った。
泥にまみれ、矢が刺さり、鎧の留め具を失い、口の中に煙の苦みを残したまま。
◆
ゲルハルド・ヴェン・ブロク元帥は、陣門の前に立っていた。空は鉛色だった。敗残兵の列が見えたとき、周囲の空気が凍りつく。怒号が出そうになり、誰もが喉で止めた。
元帥は、一歩だけ前に出た。
拳が握られる。肩が持ち上がる。激情家の名残が、ほんの一瞬、輪郭として現れる。
だが、次の瞬間に彼はそれをほどいた。
拳を開き、息を吐き、視線を落ち着かせる。去年の敗北が、彼に与えたのは小さくない成長だった。
「帰れた者から治療へ回せ」
声は荒げない。
「勝敗は戦う者のの常だ。……学びになったな」
生きて戻った若手将校が項垂れ唇を噛む。言い訳は出なかった。
出した瞬間、言い訳が次の敗北の種になることを、元帥は知っていたし、彼らも今、痛みで理解していた。
遠く、風が変わった。
まもなく高原は雪へと変わるだろう。
◆
誘引撃滅の報は、レーヴェン軍にも届く。
帷幕の中、セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェルは報告を聞き終え、羽扇を静かに動かした。火に煽られた風の向き。襲撃地点。回収した物資の内訳。新たに引いた防衛線までの距離。
ほんの、一当たり。主導権の回収。士気の回復。冬に入る前に必要だったのは、軍の「まだやれる」という感覚だった。
大半の兵を退き、新しい陣を築き、精兵を密かに伏せ、敵の意気をくじいた。
(此れ何もかも、人の心を流し動かす策士の技……)
そして、彼は書記官へ顔を上げた。
羽ペンを握る手が止まる。
セルヴィオは、短く言った。
「この策は、ヴァルゼイン伯爵が、ここまでの堅陣を作り上げてくれたこと、そして敵の挑発に乗らなかったことが勝ち筋に繋がりました」
扇の骨を机に軽く当てる。
「この功績を、必ず史書に記してください」
羊皮紙の上で、羽ペンが走り出す音がした。
外では風が鳴り、陣は新しい線の上で静かに息を整えていた。
やがて雪が来て、戦は止まる。
兵らの心まで止めてしまわず済んだことに、今はそれで十分だと、セルヴィオは満足して瞳を閉じた。




