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暁の騎士  作者: 満波ケン
第四章 騎士の戦い
38/45

38.アコレード

風は冷たく、雨は細かった。

黒の節の霧雨は、降っているのかいないのか分からない顔をして、陣の土塁と盾板をじわじわ濡らし、踏み固めた泥をもう一段だけ重くする。


前線本営――丘陵の背に築かれた仮陣は、いまや仮ではなかった。

土は盛られ、柵は二重にされ、堀は掘り直されている。矢狭間の代わりに盾板が並び、見張り台が増えた。雨除けの油布が張られ、馬繋ぎの杭が打ち直され、補給の声が絶えず行き交う。


アルノルトは、任務に戻っていた。槍列の整理、後送の列の誘導、馬の手配。小さな要塞を保つための歯車のひとつとして動いている。

動きながら、心のどこかがまだ置き去りだと分かっている。蹄が止まる音。消えた気配。前を向いたまま振り返らなかったこと。あの一瞬が、まだ自分を(さいな)んでいる。


土塁の下、後送の列が今日も続いていた。担架の軋む音が雨に濡れた地面に吸われ、車輪の跡がぬかるみに深く残る。民兵らが槍を杖代わりに歩き、荷車を押す者の肩からは湯気が立った。護衛の歩兵は無言で列を守り、遠くへ続く道の先だけを見ている。


――戦線は動かない。だが、戦争は終わっていない。


ローデリクの命令系統は相変わらず徹底していた。哨戒は日課として行われ、柵の補修は優先された。何も起きない日でも、やることがある。手を動かす。


その朝も、同じだった。


陣門の方から、先触れの伝令の足音が走ってきた。濡れた泥を跳ね、息を切らし、声を張る。大声ではない。だからこそ、周囲の耳が勝手に拾ってしまう種類の声だった。


「――帰って来た」


短い言葉。

それだけで、空気の張りが変わる。


角笛は鳴らない。歓声もない。旗が揺れる音もしない。ただ、門の衛兵が背筋を正し、見張り台の兵が視線を外へ向け、武器を修繕する陣鍛冶の槌が一度だけ遅れた。


アルノルトは、土塁の脇で足を止めた。自分でも意識しないうちに、視線が陣門へ向いている。周りの兵も同じだった。


門の外から、騎影が現れた。

護衛の数は多くない。旗も派手ではない。外套は泥に汚れ、馬は肩で息をし、泥が詰まった蹄は重い。


先頭の男は、馬上でも背を反らさない。鎧は実用的で、雨除けの革が濡れて鈍く光る。手袋の革は使い込まれ、鞍の金具には装飾よりも頑丈さがある。視線は高くない。だが低すぎもしない。兵一人ひとりの顔を追うというより、陣そのものを一息で把握していくように見回した。


セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯だ。


セルヴィオは、中央の天幕へと向かいながら、視線を巡らせる。

堀の深さ。柵の二重化。盾板の並び。見張り台の位置。炊事場の煙。補給の荷の置き方。矢筒の束。馬の飼葉の山。


余分な言葉はなかった。


迎えに出たのは、ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵だった。

中央天幕の前、雨除けの布の下に整然と並べられた側近たちとともに、丁重に、だが決して卑屈ではなかった。


「辺境伯。お待ちしておりました」

ローデリクの声音は疲れていたが、それでも威厳を保っていた。


セルヴィオは雨を払うような仕草もせず、下馬するとそのまま短く礼を返す。

「ご苦労でした。――よく、陣を守られましたね」


その一言に、周囲の空気が少しだけ緩むのが分かった。


セルヴィオは続けた。

「要塞化が効いています。盾板の置き方も、堀を掘り直した判断も。持久に持ち込んだのは正しいと思います」

褒める言葉は短い。だが具体的だ。だから嘘にならない。


ローデリクの顔に、一瞬だけ何かが浮かんだ。救いと、悔いが同時に(よぎ)ったような、短い影。

「勝てる戦を逃したのではありません。負ける戦を避けました」

彼は言い訳ではなく、報告として言った。


「理解しております」

セルヴィオは頷き、すぐに話を次へ移した。


引き継ぎは天幕の中で行われた。

哨戒線の位置。巡察の刻限。敵の挑発の癖――午後のどの時間帯、矢の届く距離、どんな旗を立てるか。消耗の数字。矢の残数。乾パン。塩。飼葉。負傷者の後送の状況と、護衛に回せる兵の余裕。


セルヴィオは「勝つための策」より先に、「続けるための整備」を確認した。

そして、それを確認し終えたところで初めて、ローデリクを見た。


「王都へはいつ戻りに」

「はい。ただちに」

「陣はこちらで引き継ぎます。――あなたが守った時間を無駄にはしません」


ローデリクは深く礼をした。

その背中は少し細く見えた。戦争は、勝っても負けても、人を痩せさせる。


一刻ほどし、ローデリクは、息子や参謀ら、自らの護衛を連れて陣を後にした。

見送りは静かだった。兵は姿勢を正し、槍を立て、敬礼をする。


その背が陣門の向こうへ消えたとき、陣の中で止まっていた槌音が、また響き始めた。


雨は相変わらず細く降り、黒の節の始まりを告げる風は土塁に沿って吹き抜けていた。


戦線は――少しだけ、動き出す予感を帯びていた。



霧雨は、日が昇ってもなお、陣の土塁を鈍く濡らしていた。


その日の午後、中央天幕には雨除けの油布が重ねられていた。

縫い目から滲んだ水がゆっくりと落ちる。

下は踏み固めた泥。

足が動くたび、ぬかるみが音もなく吸い付く。


中はそれほど広くない。湿った羊皮紙の匂いと、インクの匂いがまず鼻に来る。その上に、金属の匂いが乗っていた。剣の鞘、鎧の留め具、拍車、槍の穂先――磨いたはずの鉄が、冷たい空気の中でかすかに錆びを孕む匂いだ。


外では水が跳ねる音がしていた。樽を移す音、馬が鼻を鳴らす音、担架を担ぐ足音。幕舎の布越しに、兵の気配が行き来する。


アルノルトは、入口で一度だけ深く息を吐いた。

鎖帷子に長丈着(サーコート)姿。鎧は外した。

中から、オルマン男爵が出てきて、アルノルトを見るや、無言で肩に手を置いた。

力強く、大きな手だった。

彼の右手に握られた革袋からジャラと重い音がした。

無言のまま、オルマン男爵は立ち去る。


それを合図にするようにして、アルノルトは天幕に入っていった。

セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯がいた。


彼は座っていない。立ったまま、アルノルトが来るのを待っていた。

周囲には、立会人が数名。文官が一人、インク壺と羽ペンを手に控える。

護衛の騎士が二人。

必要最小限の人数が、必要最小限の距離で立っていた。


「アルノルト・ツァ・ラウエン」


名を呼ばれる。

アルノルトは天幕を進み、文官が指し示した敷物に両膝を付いた。

敷物(ナイトスツール)が沈み込む。


セルヴィオが近づく。足音が軽い。濡れた布の擦れる音だけがする。


彼の手に、剣があった。飾りのない、実用の剣だ。鍔の金具も華美ではない。刃は拭われ、しかし温度はない。鉄は、冷えた空気と同じ温度でそこにある。


セルヴィオは、アルノルトの肩に剣を置いた。


その瞬間、金属の重みが鎖帷子越しに伝わった。


右肩。次に左肩。


動作は短く、迷いがない。


「戦時略式により、士爵を授ける」


セルヴィオの声が聞こえる。


「すまないね。本来であれば、王がこの役割を担わなければならないのだが」


少し言い訳がましい言葉が続いて、騎士叙勲(アコレード)は終了となった。

戦中ということであれば、前例も少なくない。

アルノルトは、ヴァルゼイン伯爵ではなく、セルヴィオが儀式親であったことに感謝の念を抱いていた。


文官が一歩進み、書面にペンを走らせる。インクの匂いが強くなる。羊皮紙が湿り、羽ペンが少しだけ引っかかる音がした。


セルヴィオが、アルノルトへ布袋を渡した。中で硬いものが触れ合い、乾いた音を立てる。


「立て」


アルノルトは立ち上がる。礼をする。教わった通りに、背筋を伸ばし、目線を上げ天幕を辞した。


天幕の入口に、セリーヌが立っていた。濡れた外套の裾から水が落ち、床の泥に小さな穴を作っている。彼女はそれ以上、アルノルトに近づくことはしなかった。


セリーヌは口を開きかけ、閉じる。唇がわずかに震え、それを噛み殺すように、短く声を出す。


「……おめでとう」


声は小さい。祝いの言葉なのに、目を逸らした。

アルノルトは頷き返すしかない。


その隣に、シロウがいた。雨を吸った髪が頬に張り付き、目だけが静かにこちらを見ている。

シロウは一拍置いた。喉が動き、しかし祝辞は出ない。代わりに、呼び方が変わった。


「……殿()


殿(との)」と言われた瞬間、空気が一段重くなる。これから先は、お前が一家の主だ、という宣告にも聞こえた。


アルノルトは返事をしなかった。代わりに、シロウの瞳を見て、頷き、目を閉じた。言葉ではなく姿勢で十分だった。


称号は、死者の代わりにならない。


それでも称号は、生き残った者を前へ押す。


アルノルトは、押されるように歩き出した。終わった感覚はない。むしろ――始まってしまった感覚だけが、濡れた地面の底から足に絡みついていた。

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