37.子である者として
風は、白の節の終わりを告げるように乾いていた。
昼はまだ陽が残るのに、夕方になると骨の芯まで冷える。陣地の土塁に沿って吹き抜けるそれが、焚き火の煙を引き伸ばし、天幕の布をきしませる。
ハイネス高原の戦いから、幾日が過ぎたのか。兵たちは数えるのをやめていた。
数えるたびに、戻らなかった顔が頭に浮かぶからだ。
前線本営――丘陵の背に築かれた仮陣は、日々「小さな要塞」と化していた。
土を盛り、石を積み、柵を二重にし、堀を掘り直す。矢狭間の代わりに、盾板が並び、見張り台が増えている。
朝の点呼が終わると、兵は槍を立て、弓の弦を張り直し、壊れた鎧を繕う。
そして、昼が来ても誰も「出撃」を口にしない。
ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵は、中央の天幕にいた。
地図は広げられたまま、木駒は整列し、帳簿は閉じられている。外の喧騒が薄い布越しに伝わっても、彼の声は変わらなかった。
「前哨線を崩すな。柵の補修を優先。矢の消費は記録しろ」
命令は、いつもと同じ調子で下りる。
焦りはない。怒声もない。勝利の熱もない。あるのは、秩序だった。
彼の周囲には、戦場の泥を被った指揮官たちがいた。ツェルバハ子爵の寄騎、歩兵の隊長、輜重の担当。皆が、勝つための言葉ではなく、減らさないための言葉を待っている。
「敵が挑発しても、出るな」
ローデリクは繰り返した。
その「出るな」は、陣の外へ踏み出すな、という意味だけではない。感情を出すな、賭けへ出るな。あらゆる不確定の外へ、自軍を出すな――そう聞こえるほど、徹底していた。
陣の外では、グラーツ軍がそれを嗅ぎ取っていた。
午後、丘の下の平地に、敵の小さな一団が現れる。旗を高く掲げ、太鼓を叩き、角笛を吹く。
彼らは矢の届くぎりぎりの距離に陣取り、こちらを見上げて笑い、馬を輪にして駆けさせた。
盾板の隙間から覗く若い兵が、歯を食いしばる。
弓兵の指が、矢羽を撫でる。
だが、撃てという合図は来ない。
敵はさらに近づき、わざとらしく槍を突き上げる。
ある者は地面に何かを投げ捨てた。布包みだ。風にあおられ、赤黒いものが覗いた。血のついた破片――誰かの腕の鎧片かもしれないし、馬具かもしれない。
見張り台の兵が息を呑む。
怒鳴り声が上がりかけ、すぐに押し殺される。
そのとき、天幕の中から伝令が走って出てきた。
「総帥命令だ。挑発に乗るな。矢も使うな」
哨戒隊の長は唇を引き結び、頷くしかない。
彼自身も分かっている。外に出れば、敵が望む形で戦いが始まる。高原で起きたことは、もう一度起こり得る。今度こそ、逃げ道のない形で。
だが、分かっていることと、耐えられることは別だった。
夕方になると、敵は引く。
彼らは勝ち誇ったまま去っていく。こちらが反応しないことが、彼らにとっての戦果になる。
陣内に残るのは、言葉にしにくい重さだった。
勝てる戦を逃したのではない。負ける戦を避けたのだ。
その違いを理解するには、兵は若すぎた。あるいは、傷が深すぎた。
ローデリクはそれでも、崩れなかった。
夜。天幕の外で焚き火が揺れる。
冷えた空気が、火の粉を散らし、煤を舞わせる。傷兵のうめき声が、遠く近くで続く。乾いた咳、包帯の擦れる音、担架の木が軋む音。動かせられる者から徐々に後送をはじめているが、それでもまだ陣に残っている負傷者も多い。
昼の挑発よりも、夜のそれらの方が、戦争を実感させた。
ローデリクは灯火の下で帳簿をめくり、補給の数字を追っていた。
矢の残数、乾パンの消費、馬の飼葉、塩。
戦は血を流した量で決まるのではない。戦を続けられるかどうかで決まる。彼の頭の中には、それが確信としてあった。
「こちらが出なければ、敵も無理はできません」
ローデリクの嫡子、アデルベルトが言う。
先ごろの敗戦では最前線で血を流す役割を務めていた。
父親への言葉は、励ましというより、確認だった。
参謀らも控えめ同調した。
ローデリクは頷いた。
「そうだ。相手は挑発を繰り返すことで、我が軍の暴発を狙う賭けに出た。賭けの次は、息切れだ。こちらは持久に持ち込む」
その言い方は、正しい。
だが、正しいとしても、軍の士気を高めるものではなかった。
天幕の入口がふと揺れ、冷たい空気が入り込む。
伝令が一礼し、低い声で告げた。
「……今日も、敵は退きました。夜襲の気配は――ありません」
ローデリクは筆を止めずに答えた。
「よい。見張りは厳に。追う必要はない」
追わない。出ない。賭けない。
その繰り返しが、陣を守っている。
外では、若い兵が焚き火に手をかざしながら、ぽつりと漏らす。
「辺境伯がいれば……」
誰も返さない。返した瞬間、その言葉が刃になることを皆が知っていたからだ。
白の節は終わろうとしていた。
乾いた風は、止まらない。
そして、戦線もまた――動かないまま、時が過ぎていった。
◆
冷たい雨が、王都ルミナスの石畳を濡らしていた。
風は北から吹き込み、城壁の上を歩く衛兵の外套をはためかせる。
戦場から遠く離れたこの都にも、戦争の匂いは確かに届いていた。
王城内、貴族院の大議場には、開会を待たずして人が集まり始めていた。
声は低く、しかし熱を帯びている。
議長席の前には、前線から届いた戦況報告書がまとめて置かれていた。
封蝋はすでに割られ、議員らによって何度も繰られた痕がある。
やがて、議長が小さく鐘を打った。
ざわめきが、潮が引くように静まっていく。
「――これより、臨時の貴族院を開会する」
議長の視線が、大議場をゆっくりと一巡した。
誰も口を開かない。
「……ローデリク伯が敗れた」
その一言が、空気を震わせた。
敗北――。
全滅ではない。陣は保たれ、軍は存続している。
だが、野戦での敗北という事実は、重い意味を持っていた。
報告書には、事実が並べられていた。
「兵一〇〇〇余の死傷」
「前軍の突出により、半包囲を受ける」
「連携不全」
「騎兵部隊の一部潰走」
淡々と記された文字の一行一行が、議場の空気を沈めていく。
数字は誤魔化しようがなく、言い訳の余地もない。
敗北は、明白だった。
だが、報告書はそこで終わらない。
行を改めるように、次の項目が続いている。
「完全包囲を回避」
「中軍および後軍の救出」
「騎兵部隊による果断な行動」
それらは、敗北を覆すものではない。
戦の結果が変わったわけでもない。
しかし――。
全軍の崩壊を免れた理由が、そこにはあった。
議場に、わずかな間が落ちる。
誰も口を開かない。
だが、同じことを考えていた。
この敗北を、敗北のままにしておくのは、体裁が悪い。
前線では士気の低下が避けられず、このままでは国境方面軍の崩壊すら招きかねなかった。
さらに、王都に厭戦気分が広がることも、貴族院としては看過できない問題だった。
アウステア子爵が議場に視線を巡らせながら言う。
「陣に籠もれば、持久戦はできましょう。ですが、グラーツはそれを許すでしょうか。挑発を繰り返し、消耗を狙ってくることは必定です」
「時間は、味方ではありますまい」
応じたのは、ライオス男爵だった。
若いが、戦地の空気を知っている。その声には現場の重さがあった。
「こちらは時間とともに士気は削がれましょう」
さらに、ハーゼ男爵が続ける。
かつてセルヴィオの麾下で剣を振るった経験を持つ男だ。
再び、沈黙が落ちた。
その沈黙を、貴族派の上座に控えていたグランベール伯爵が断ち切った。
老いたとはいえ、その声はよく通る。
「ここはローデリク伯を責める場ではない」
彼は短く断じた。
「彼は敗北した。それは事実だ。だが、軍は失われていない。秩序も保たれている。敗戦の責任を糾すより先に、為すべきことがある」
老伯爵は、議長席へと視線を向けた。
「完全包囲を防ぎ、中軍と後軍を救った者がいる。それを正しく評価せねば、前線の士気は立ち直らぬ」
それは、敗北を美化するための言葉ではなかった。
「そして、それを語らねば、敗北だけが残る」
三人の名が挙がる。
ヴォルフラム・ヴェン・オルマン。
バルディオ・ヴェン・カルディア。
そして――アルノルト・ツァ・ラウエン。
議場のあちこちから、低い声が上がり始めた。
「左翼をまとめ直した判断は見事だった」
「右翼での突破阻止がなければ、中軍は包囲されていた」
「……若いが、胆力がある」
一つひとつは小さな声だった。
だが、それらは次第に、同じ方向を向いていく。
敗北の責任を論じるより、「救った者」を語る方が、はるかに扱いやすいのだ。
特に、アルノルトの名には、別の色が塗り重ねられていく。
父を失い、なお退かず。
包囲の裂け目を切り開き、寄親を救った若き騎士。
「士爵家の出だったな」
「ならば、その者に士爵号を与えてやるのが筋だろう」
議論は自然と論功へと移った。
戦時であることを理由に、褒賞は迅速に。
オルマン、カルディアには金貨。
アルノルトには金貨と、士爵叙任。
それを前線へ、ただちに伝えさせる。
戦地の士気を保つためには、勝利の論功行賞よりも早く行われるべきだ、という判断だった。
この件は、速やかに可決された。
議場には、わずかな安堵の空気が流れた。
敗北の中にも秩序がもたらされ、前線へ送るべき言葉と体裁は整った。
だが――それで戦況が変わるわけではない。
論功が一段落した後、再び沈黙が訪れる。
その沈黙を破ったのは、またアウステア子爵だった。
「……これで戦線が動くわけではありません」
「陣は堅持されています。だが、今、押し返す力はない。このままでは、敵に主導権を握られ続けましょう」
彼の言葉が発言を誘発させる。
ライオス男爵が頷く。
「必要なのは、流れを変える一手です」
ハーゼ男爵が、静かに言い切った。
「陣を固めるだけでは、戦は終わりませぬ」
その場にいる者たちは、皆、同じ名を胸の内で思い描いていた。
「……セルヴィオ辺境伯を、前線に戻すべき時ではありますまいか」
アウステアが言った。
「王都に留め置かれているのは政治的理由にあります。ですが、戦場は政治を待ちますまい」
「皆さんのご懸念は理解します」ライオスが低く頷く。
「あの方しかいない、という論法は危険でありましょう。しかし……」
「しかし、事実でもあります」
ハーゼが続けた。
討議は長引いた。
保守貴族派は慎重を求め、王権派と改革派は決断を促す。
軍功派は声を荒げず、数字と事例を積み上げていく。
そして、その討議の最中だった。
議場の扉が、控えめに叩かれる。
議長が眉をひそめ、合図を送ると、伝令が一礼して中へ入った。
「――前線より、早馬です」
濡れた外套の裾から、冷たい空気が議場に流れ込む。
伝令は封を解かぬまま、一通の書状を差し出した。
前線総帥、ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵からの嘆願書だった。
その中に敗北の言い訳はなかった。
ただ、現状の分析と、率直な一文だけが記されている。
――この戦線を動かすためには、私以外の才が必要である。
議場は、静まり返った。
自らの限界を認める言葉ほど、重いものはない。
これを機に、流れは変わった。
採決は満場一致ではなかった。だが、多数は傾いた。
「セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯を、前線へ復帰させる」
二つの決定――
アルノルトらへの特別論功行賞。
セルヴィオ辺境伯の前線復帰。
その双方を、王は追認した。
形式的な文言とともに、命令は下る。
白の節が終わる、その直前だった。
王都の空に、鐘の音が低く響く。
それは勝利の鐘ではない。
敗北を整理し、次の一手を選んだことを告げる音だった。
戦争は、再び動き出そうとしていた。
◆
風が止む夜は、かえって寒い。
陣の土塁の上を渡る空気は乾き切っていて、焚き火の匂いも、馬の匂いも、負傷兵の血の匂いも、薄い布一枚で隔てたままこちらへ染み込んでくる。
陣は眠らない。
見張り台の交代の足音。松明の爆ぜる音。水桶が揺れる音。誰かが咳き込み、誰かが短く祈る。
アルノルトは天幕の中で、膝の上に板を置き、紙を広げた。
戦場に紙は贅沢だ。だが、前線本営の文官が無言で渡してきた。墨と筆も同じだ。
彼はその意図だけを受け取り、礼も言えずに持ち帰った。
灯火は小さく、油は惜しまれている。
火皿の炎は揺れ、影が天幕の布に揺らぐ。アルノルトの鎧は脱がれて脇に置かれ、剣だけが手の届くところに立て掛けてある。鎧を外したところで、身体の中の重さは抜けない。蹄が止まる音が、まだ耳の奥に残っている。
――母上。
そう書いたところで、筆が止まった。
宛名だけで喉が詰まる。
母の顔が浮かぶ。館の台所。火の前。冬支度の匂い。乾いた薪の音。自分が帰ってくると、何も言わずに湯を沸かしてくれた背中。
そして、父の背中が重なる。
振り返ってはいけないと分かっていた。前を見るしかないと、自分で言い聞かせた。だが、背後の気配が消えた瞬間だけは、見ていなくても分かった。そこに、父がいないことが。
アルノルトは息を吐き、もう一度、筆を動かした。
余計な飾りは要らない。母に届く言葉は、短くていい。
◆
書き終えても、封ができなかった。
封蝋を押す力が、今の自分にはなかったのだ。
封をするということは、これで確定させることだ。父が帰らないことを、紙の上で事実にしてしまう。
アルノルトは手紙を板の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
灯火の炎が、墨の濃淡を揺らし、文字が微かに踊る。
外で、見張りの交代の声がした。短い合図。槍の石突きが地面を叩く音。馬が鼻を鳴らす音。
そしてまた、遠くで担架の軋む音がする。負傷兵を後送する列が、夜のうちに動いているのだ。敵に悟られぬよう、声を殺し、足音を揃えず、闇に紛れて。
アルノルトは天幕の口を少しだけ開け、外を見た。
陣の灯が、土塁の上に点々と揺れている。風に煽られ、松明の火は伸び、縮み、夜の闇に小さな穴を開けては塞ぐ。
その光の下を、兵が歩く。声はない。笑いもない。あるのは仕事だけだ。生き残った者の仕事。
戦争は終わっていない。
だが、何かが終わったのだと、理解していた。
アルノルトは手紙に視線を戻し、指先で紙の端を押さえた。
墨はもう乾いている。
彼は封をせず、ただ置いた。
明け方になれば、出す予定だ。
いずれ館へ届く。母が読む。
天幕の外で、風が火を揺らした。
その光の中で、アルノルトは座っていた。
生き残った者として。
そして――子である者として。
37.5 手紙
母上
父上は、戦場から戻ってきませんでした。
戦いが終わり、私は陣へ戻ることができました。
父上と、父上と共にいた者たちが、戻ってきません。
私は、最後に父上の背中を見ました。
見た、と言っていいのか分かりません。
ただ、蹄が止まる音がして、父上の声がして、すぐ近くにあった気配が消えました。
そのあと、追ってくる音はありませんでした。
私は、生きています。
生きて帰れ、と父上に言われました。
だから、私は生きます。
母上に謝る言葉が、ありません。
何に謝ればいいのか分からないまま、筆だけが止まります。
父上のことは、誰かが必ず話すと思います。
けれど、母上にとって大事なのは、そういうことではないと分かっています。
私は、帰ります。
必ず帰ります。
夜は冷えます。
館の薪は、足りていますか。
母上の手が荒れていないといい。
――アルノルト




