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暁の騎士  作者: 満波ケン
第四章 騎士の戦い
37/45

37.子である者として

風は、白の節の終わりを告げるように乾いていた。

昼はまだ陽が残るのに、夕方になると骨の芯まで冷える。陣地の土塁に沿って吹き抜けるそれが、焚き火の煙を引き伸ばし、天幕の布をきしませる。


ハイネス高原の戦いから、幾日が過ぎたのか。兵たちは数えるのをやめていた。

数えるたびに、戻らなかった顔が頭に浮かぶからだ。


前線本営――丘陵の背に築かれた仮陣は、日々「小さな要塞」と化していた。

土を盛り、石を積み、柵を二重にし、堀を掘り直す。矢狭間の代わりに、盾板が並び、見張り台が増えている。


朝の点呼が終わると、兵は槍を立て、弓の弦を張り直し、壊れた鎧を繕う。

そして、昼が来ても誰も「出撃」を口にしない。


ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵は、中央の天幕にいた。

地図は広げられたまま、木駒は整列し、帳簿は閉じられている。外の喧騒が薄い布越しに伝わっても、彼の声は変わらなかった。


「前哨線を崩すな。柵の補修を優先。矢の消費は記録しろ」


命令は、いつもと同じ調子で下りる。

焦りはない。怒声もない。勝利の熱もない。あるのは、秩序だった。


彼の周囲には、戦場の泥を被った指揮官たちがいた。ツェルバハ子爵の寄騎、歩兵の隊長、輜重の担当。皆が、勝つための言葉ではなく、減らさないための言葉を待っている。


「敵が挑発しても、出るな」

ローデリクは繰り返した。


その「出るな」は、陣の外へ踏み出すな、という意味だけではない。感情を出すな、賭けへ出るな。あらゆる不確定の外へ、自軍を出すな――そう聞こえるほど、徹底していた。


陣の外では、グラーツ軍がそれを嗅ぎ取っていた。


午後、丘の下の平地に、敵の小さな一団が現れる。旗を高く掲げ、太鼓を叩き、角笛を吹く。

彼らは矢の届くぎりぎりの距離に陣取り、こちらを見上げて笑い、馬を輪にして駆けさせた。


盾板の隙間から覗く若い兵が、歯を食いしばる。

弓兵の指が、矢羽を撫でる。

だが、撃てという合図は来ない。


敵はさらに近づき、わざとらしく槍を突き上げる。

ある者は地面に何かを投げ捨てた。布包みだ。風にあおられ、赤黒いものが覗いた。血のついた破片――誰かの腕の鎧片かもしれないし、馬具かもしれない。


見張り台の兵が息を呑む。

怒鳴り声が上がりかけ、すぐに押し殺される。


そのとき、天幕の中から伝令が走って出てきた。


「総帥命令だ。挑発に乗るな。矢も使うな」


哨戒隊の長は唇を引き結び、頷くしかない。

彼自身も分かっている。外に出れば、敵が望む形で戦いが始まる。高原で起きたことは、もう一度起こり得る。今度こそ、逃げ道のない形で。


だが、分かっていることと、耐えられることは別だった。


夕方になると、敵は引く。

彼らは勝ち誇ったまま去っていく。こちらが反応しないことが、彼らにとっての戦果になる。


陣内に残るのは、言葉にしにくい重さだった。

勝てる戦を逃したのではない。負ける戦を避けたのだ。

その違いを理解するには、兵は若すぎた。あるいは、傷が深すぎた。


ローデリクはそれでも、崩れなかった。


夜。天幕の外で焚き火が揺れる。

冷えた空気が、火の粉を散らし、煤を舞わせる。傷兵のうめき声が、遠く近くで続く。乾いた咳、包帯の擦れる音、担架の木が軋む音。動かせられる者から徐々に後送をはじめているが、それでもまだ陣に残っている負傷者も多い。

昼の挑発よりも、夜のそれらの方が、戦争を実感させた。


ローデリクは灯火の下で帳簿をめくり、補給の数字を追っていた。

矢の残数、乾パンの消費、馬の飼葉、塩。

戦は血を流した量で決まるのではない。戦を続けられるかどうかで決まる。彼の頭の中には、それが確信としてあった。


「こちらが出なければ、敵も無理はできません」

ローデリクの嫡子、アデルベルトが言う。

先ごろの敗戦では最前線で血を流す役割を務めていた。

父親への言葉は、励ましというより、確認だった。

参謀らも控えめ同調した。

ローデリクは頷いた。


「そうだ。相手は挑発を繰り返すことで、我が軍の暴発を狙う賭けに出た。賭けの次は、息切れだ。こちらは持久に持ち込む」


その言い方は、正しい。

だが、正しいとしても、軍の士気を高めるものではなかった。


天幕の入口がふと揺れ、冷たい空気が入り込む。

伝令が一礼し、低い声で告げた。


「……今日も、敵は退きました。夜襲の気配は――ありません」


ローデリクは筆を止めずに答えた。

「よい。見張りは厳に。追う必要はない」


追わない。出ない。賭けない。

その繰り返しが、陣を守っている。


外では、若い兵が焚き火に手をかざしながら、ぽつりと漏らす。

「辺境伯がいれば……」

誰も返さない。返した瞬間、その言葉が刃になることを皆が知っていたからだ。


白の節は終わろうとしていた。

乾いた風は、止まらない。

そして、戦線もまた――動かないまま、時が過ぎていった。



冷たい雨が、王都ルミナスの石畳を濡らしていた。

風は北から吹き込み、城壁の上を歩く衛兵の外套をはためかせる。

戦場から遠く離れたこの都にも、戦争の匂いは確かに届いていた。


王城内、貴族院の大議場には、開会を待たずして人が集まり始めていた。

声は低く、しかし熱を帯びている。


議長席の前には、前線から届いた戦況報告書がまとめて置かれていた。

封蝋はすでに割られ、議員らによって何度も繰られた痕がある。


やがて、議長が小さく鐘を打った。

ざわめきが、潮が引くように静まっていく。

「――これより、臨時の貴族院を開会する」


議長の視線が、大議場をゆっくりと一巡した。

誰も口を開かない。


「……ローデリク伯が敗れた」

その一言が、空気を震わせた。


敗北――。

全滅ではない。陣は保たれ、軍は存続している。

だが、野戦での敗北という事実は、重い意味を持っていた。


報告書には、事実が並べられていた。


「兵一〇〇〇余の死傷」

「前軍の突出により、半包囲を受ける」

「連携不全」

「騎兵部隊の一部潰走」


淡々と記された文字の一行一行が、議場の空気を沈めていく。

数字は誤魔化しようがなく、言い訳の余地もない。


敗北は、明白だった。

だが、報告書はそこで終わらない。

行を改めるように、次の項目が続いている。


「完全包囲を回避」

「中軍および後軍の救出」

「騎兵部隊による果断な行動」


それらは、敗北を覆すものではない。

戦の結果が変わったわけでもない。


しかし――。

全軍の崩壊を免れた理由が、そこにはあった。


議場に、わずかな間が落ちる。

誰も口を開かない。

だが、同じことを考えていた。


この敗北を、敗北のままにしておくのは、体裁が悪い。

前線では士気の低下が避けられず、このままでは国境方面軍の崩壊すら招きかねなかった。

さらに、王都に厭戦気分が広がることも、貴族院としては看過できない問題だった。


アウステア子爵が議場に視線を巡らせながら言う。

「陣に籠もれば、持久戦はできましょう。ですが、グラーツはそれを許すでしょうか。挑発を繰り返し、消耗を狙ってくることは必定です」


「時間は、味方ではありますまい」

応じたのは、ライオス男爵だった。

若いが、戦地の空気を知っている。その声には現場の重さがあった。


「こちらは時間とともに士気は()がれましょう」

さらに、ハーゼ男爵が続ける。

かつてセルヴィオの麾下で剣を振るった経験を持つ男だ。


再び、沈黙が落ちた。


その沈黙を、貴族派の上座に控えていたグランベール伯爵が断ち切った。

老いたとはいえ、その声はよく通る。


「ここはローデリク伯を責める場ではない」

彼は短く断じた。


「彼は敗北した。それは事実だ。だが、軍は失われていない。秩序も保たれている。敗戦の責任を(ただ)すより先に、為すべきことがある」


老伯爵は、議長席へと視線を向けた。


「完全包囲を防ぎ、中軍と後軍を救った者がいる。それを正しく評価せねば、前線の士気は立ち直らぬ」


それは、敗北を美化するための言葉ではなかった。


「そして、それを語らねば、敗北だけが残る」


三人の名が挙がる。


ヴォルフラム・ヴェン・オルマン。

バルディオ・ヴェン・カルディア。

そして――アルノルト・ツァ・ラウエン。


議場のあちこちから、低い声が上がり始めた。

「左翼をまとめ直した判断は見事だった」

「右翼での突破阻止がなければ、中軍は包囲されていた」

「……若いが、胆力がある」


一つひとつは小さな声だった。

だが、それらは次第に、同じ方向を向いていく。

敗北の責任を論じるより、「救った者」を語る方が、はるかに扱いやすいのだ。


特に、アルノルトの名には、別の色が塗り重ねられていく。


父を失い、なお退かず。

包囲の裂け目を切り開き、寄親を救った若き騎士。


「士爵家の出だったな」

「ならば、その者に士爵号を与えてやるのが筋だろう」


議論は自然と論功へと移った。


戦時であることを理由に、褒賞は迅速に。

オルマン、カルディアには金貨。

アルノルトには金貨と、士爵叙任。

それを前線へ、ただちに伝えさせる。

戦地の士気を保つためには、勝利の論功行賞よりも早く行われるべきだ、という判断だった。


この件は、速やかに可決された。


議場には、わずかな安堵の空気が流れた。

敗北の中にも秩序がもたらされ、前線へ送るべき言葉と体裁は整った。


だが――それで戦況が変わるわけではない。


論功が一段落した後、再び沈黙が訪れる。

その沈黙を破ったのは、またアウステア子爵だった。

「……これで戦線が動くわけではありません」


「陣は堅持されています。だが、今、押し返す力はない。このままでは、敵に主導権を握られ続けましょう」

彼の言葉が発言を誘発させる。


ライオス男爵が頷く。

「必要なのは、流れを変える一手です」


ハーゼ男爵が、静かに言い切った。

「陣を固めるだけでは、戦は終わりませぬ」


その場にいる者たちは、皆、同じ名を胸の内で思い描いていた。


「……セルヴィオ辺境伯を、前線に戻すべき時ではありますまいか」

アウステアが言った。

「王都に留め置かれているのは政治的理由にあります。ですが、戦場は政治を待ちますまい」


「皆さんのご懸念は理解します」ライオスが低く頷く。

「あの方しかいない、という論法は危険でありましょう。しかし……」


「しかし、事実でもあります」

ハーゼが続けた。


討議は長引いた。

保守貴族派は慎重を求め、王権派と改革派は決断を促す。

軍功派は声を荒げず、数字と事例を積み上げていく。


そして、その討議の最中だった。


議場の扉が、控えめに叩かれる。

議長が眉をひそめ、合図を送ると、伝令が一礼して中へ入った。


「――前線より、早馬です」


濡れた外套の裾から、冷たい空気が議場に流れ込む。

伝令は封を解かぬまま、一通の書状を差し出した。


前線総帥、ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵からの嘆願書だった。


その中に敗北の言い訳はなかった。

ただ、現状の分析と、率直な一文だけが記されている。


――この戦線を動かすためには、私以外の才が必要である。


議場は、静まり返った。

自らの限界を認める言葉ほど、重いものはない。

これを機に、流れは変わった。

採決は満場一致ではなかった。だが、多数は傾いた。


「セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯を、前線へ復帰させる」


二つの決定――

アルノルトらへの特別論功行賞。

セルヴィオ辺境伯の前線復帰。


その双方を、王は追認した。

形式的な文言とともに、命令は下る。


白の節が終わる、その直前だった。


王都の空に、鐘の音が低く響く。

それは勝利の鐘ではない。

敗北を整理し、次の一手を選んだことを告げる音だった。


戦争は、再び動き出そうとしていた。



風が止む夜は、かえって寒い。

陣の土塁の上を渡る空気は乾き切っていて、焚き火の匂いも、馬の匂いも、負傷兵の血の匂いも、薄い布一枚で隔てたままこちらへ染み込んでくる。


陣は眠らない。

見張り台の交代の足音。松明の爆ぜる音。水桶が揺れる音。誰かが咳き込み、誰かが短く祈る。


アルノルトは天幕の中で、膝の上に板を置き、紙を広げた。

戦場に紙は贅沢だ。だが、前線本営の文官が無言で渡してきた。墨と筆も同じだ。

彼はその意図だけを受け取り、礼も言えずに持ち帰った。


灯火は小さく、油は惜しまれている。

火皿の炎は揺れ、影が天幕の布に揺らぐ。アルノルトの鎧は脱がれて脇に置かれ、剣だけが手の届くところに立て掛けてある。鎧を外したところで、身体の中の重さは抜けない。蹄が止まる音が、まだ耳の奥に残っている。


――母上。


そう書いたところで、筆が止まった。

宛名だけで喉が詰まる。

母の顔が浮かぶ。館の台所。火の前。冬支度の匂い。乾いた薪の音。自分が帰ってくると、何も言わずに湯を沸かしてくれた背中。


そして、父の背中が重なる。

振り返ってはいけないと分かっていた。前を見るしかないと、自分で言い聞かせた。だが、背後の気配が消えた瞬間だけは、見ていなくても分かった。そこに、父がいないことが。


アルノルトは息を吐き、もう一度、筆を動かした。

余計な飾りは要らない。母に届く言葉は、短くていい。



書き終えても、封ができなかった。

封蝋を押す力が、今の自分にはなかったのだ。

封をするということは、これで確定させることだ。父が帰らないことを、紙の上で事実にしてしまう。


アルノルトは手紙を板の上に置いたまま、しばらく動かなかった。

灯火の炎が、墨の濃淡を揺らし、文字が微かに踊る。


外で、見張りの交代の声がした。短い合図。槍の石突きが地面を叩く音。馬が鼻を鳴らす音。

そしてまた、遠くで担架の軋む音がする。負傷兵を後送する列が、夜のうちに動いているのだ。敵に悟られぬよう、声を殺し、足音を揃えず、闇に紛れて。


アルノルトは天幕の口を少しだけ開け、外を見た。

陣の灯が、土塁の上に点々と揺れている。風に煽られ、松明の火は伸び、縮み、夜の闇に小さな穴を開けては塞ぐ。

その光の下を、兵が歩く。声はない。笑いもない。あるのは仕事だけだ。生き残った者の仕事。


戦争は終わっていない。

だが、何かが終わったのだと、理解していた。


アルノルトは手紙に視線を戻し、指先で紙の端を押さえた。

墨はもう乾いている。


彼は封をせず、ただ置いた。

明け方になれば、出す予定だ。

いずれ館へ届く。母が読む。


天幕の外で、風が火を揺らした。

その光の中で、アルノルトは座っていた。

生き残った者として。

そして――子である者として。

 

 

 

37.5 手紙


母上


父上は、戦場から戻ってきませんでした。


戦いが終わり、私は陣へ戻ることができました。

父上と、父上と共にいた者たちが、戻ってきません。


私は、最後に父上の背中を見ました。

見た、と言っていいのか分かりません。


ただ、蹄が止まる音がして、父上の声がして、すぐ近くにあった気配が消えました。

そのあと、追ってくる音はありませんでした。


私は、生きています。

生きて帰れ、と父上に言われました。

だから、私は生きます。


母上に謝る言葉が、ありません。

何に謝ればいいのか分からないまま、筆だけが止まります。


父上のことは、誰かが必ず話すと思います。

けれど、母上にとって大事なのは、そういうことではないと分かっています。


私は、帰ります。

必ず帰ります。


夜は冷えます。

館の薪は、足りていますか。

母上の手が荒れていないといい。


――アルノルト

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