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暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
36/45

36.戦塵烈風

風は、乾いていた。

高原の地表は固く締まり、馬の蹄が踏みしめるたび、粉のような土埃が舞い上がった。


ハイネス高原。

なだらかで、広く、視界を遮るものの少ない戦場だった。


ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵は、軍の中央の天幕で、斥候や伝令の報告を聞いていた。

机上には、石で押さえた地図と、損耗を書き込んだ帳面。乾いたインクの匂いが残っていた。


視界の中央には、整然と進む自軍の歩兵隊列。

槍の穂先が、風に揺れながら一定の間隔を保っている。


──悪くない。


いや、むしろ理想的だ、と彼は判断した。


中央は厚く、左右は必要以上に張り出させない。

敵は正面から受け止め、数で押す。

騎兵は牽制に徹し、無理な突撃は行わない。


野戦において、最も避けるべきは「賭け」だ。

勝敗を一瞬の機動や英雄的判断に委ねる戦いなど、早々起こり得ないことだ。


ローデリクは、地図上で何度も線を引いた配置を思い返す。

兵数、補給、地形、風向き──

すべては計算の中にあった。


前線では、すでに矢戦が始まっている。

弓弦の音や鬨の声が、かすかに聞こえる。

敵味方の散発的な動きも、土埃の向こうにぼんやりと見えていた。


「中央、前進を維持」


伝令が命令を復唱し、走り去る。

声は落ち着いている。慌てはない。


敵──グラーツ王国軍は、後退していた。

敵陣の槍列が、わずかに間隔を乱しながら下がっていくのが見える。

それは敵軍に、踏みとどまる余力が削られている証だった。


ローデリクは目を細める。


やはり、前軍を厚めに配置したのが功を奏した。

我々は堅実に、着実に前軍の歩みを進め、相手を徐々に押している。


もし、一当たりするなり、敵軍が急激に崩れるようなことがあれば策を疑うところであるが、じわじわとした力勝負となっており、今、我軍が優勢なのだ。


「数で勝っている以上、焦る必要はない。ゆっくりと歩を進めよとアデルベルトに伝えよ」


彼は、隣に控える参謀にそう告げた。

参謀は頷き、前線の指揮をする、ローデリクの嫡子アデルベルトへと伝令を走らせる。


中央が押せば、戦は傾く。

敵が後退を続ければ、その消耗はさらに積み重なる。

最終的には、戦線を維持できなくなる。


それが、堅実な戦争の結末だ。


彼は知っている。

戦場では、感情に流される判断が最も危険だということを。


戦争での損耗は避けられない。

しかし、より効率的な損耗をすることによって、被害を軽減できる。

指揮官に大切なのは、預かった命をできうる限り効率的に使うこと。それが重要なのだ。


「この程度の消耗は、想定内だ」


かつて作戦会議で口にした言葉を、心の中で反芻する。


五分(ごぶ)。多く見積もっても、一割弱。

その損耗率で戦争が一歩終わりに近づくなら、受け入れるべき犠牲だろう。


ローデリクは、戦を「管理」していた。

感情を排し、秩序を保ち、全体を俯瞰する。


それは、彼がこれまで歩んできた戦歴──

籠城、防衛、耐久戦の中で培ってきたやり方だった。


そして今、この高原でも、その方法は通用している。


風が強まる。

視界の奥で、土埃が濃くなる。

その向こうで何が動いているのかまでは、見通せなかった。


それでも、ローデリクは目を逸らさない。



ゲルハルド・ヴェン・ブロク元帥は、自陣の天幕の前で、ほとんど動かずに立っていた。


甲冑は重い。

だが、その重さを気にする様子は微塵もない。


風が、元帥の外套を打ち、乾いた土の匂いを運んでくる。

土埃が数度、視界を遮った。


ハイネス高原と呼ばれるこの場所は、起伏が少なく、東西に広がっている。

南には密な針葉樹林、北にはブリューナ丘陵。

その地形と吹き下ろす風が、土埃を生みやすかった。


今回、ゲルハルドはレーヴェン軍を誘い出し、このハイネス高原を戦場に選んだ。

この立地条件が、自らの作戦と合致したためだ。


ゲルハルドは、北側のブリューナ丘陵の中腹あたりに視線をやった。

そこには、数日前から複数の斥候を送り込んでいる。

鏡で光を反射させ、高所からつぶさに敵軍の状況を報告するようにしていた。

それ故に、相手の各部隊がどのような陣容であるか、手に取るように把握できていた。


中央。

レーヴェン王国軍の歩兵が、厚い塊となって前進してくる。


ゲルハルドは当初、前軍を整然と布陣させていた。

しかし土埃を目眩ましにして相手の目を欺き、前軍を半円状に突出させる奇妙な陣形へ、静かに組み替えていた。


丘陵から、相手の動きが、チカチカと光で伝達される。


「……来るな」


ゲルハルドは低く呟いた。

まもなく前軍同士が激突する。


数は、相手が上。

それは最初から分かっている。


だからこそ、中央を厚くした。

剣盾歩兵と長槍兵を、幾重にも並べている。


「中央、後退。速度は一定」


伝令が走り、命令が流れる。

陣鐘が鳴り、合図が返る。


グラーツ中央の歩兵は、乱れず、しかし確実に下がった。


レーヴェンの前軍は、押していると錯覚するだろう。

水が高きから低きへ流れるように、兵士の流れも同じである。


相手の前軍は、ここが押せる場所だと、そこへの圧力を加え、徐々に突出していく。


実際、彼らは前進している。

しかし、それは──進まされているだけだと気付いていない。


中央が引けば、敵は追う。

レーヴェン軍の槍列が、中央へ中央へと引き寄せられていく。ゆっくりと、だが着実に、敵の両端が中央へと動き始めていた。


追えば、左右が縮む。

左右が縮めば、中央は袋になる。


強い土埃が、戦場を覆い始めていた。

乾いた地面と強風が、視界を曇らせる。


それは、ゲルハルドにとって好機だった。


視認が落ちれば、距離感は狂う。

レーヴェン軍も、自軍の隊列の歪みを確認しづらくなる。


中央の歩兵は、レーヴェン軍をさらに誘引し、緩やかな弧を描くように受け止めていた。

完全な半円ではないが、十分だ。


敵はまだ気づかない。

中央を押していることに、意識を奪われている。


ゲルハルドは、ゆっくりと右手を上げた。

両翼の向こうで、鉄の鎧が擦れ合う低い音が重なり始める。

馬が地面を蹴り、土埃がわずかに渦を巻いた。


「右翼重騎兵──準備」


その声に、周囲の将校が息を詰める。


「左翼も同様だ。合図を待て」


両翼が動くのは、一度きり。

早すぎれば、逃げられる。

遅すぎれば、中央が耐えきれない。


敵は、まだ勝利を疑っていない。

むしろ、手応えを感じているだろう。


それでいい。


「……もう少しだ」


半包囲はほぼ完成していた。

中央は耐えしのぎ、敵はまだ気付いていない。


あとは──閉じるだけだ。その瞬間を待ちわび、呼吸が浅くなる。

興奮のためか古傷が疼き、外套の左肩を握りしめた。


ゲルハルドは、短く息を吐く。


「右翼、左翼重騎兵隊、突撃!」


風が鳴る。

陣鐘が鳴る。


命令が下った瞬間、この高原は、血で塗り替えられようとしていた。



バルディオ・ヴェン・カルディア男爵は、左翼騎兵の中央にいた。


乾いた風が、高原を横切る。

土埃が巻き上がり、視界は常に揺れていた。


正面に見えるのは、グラーツ軍右翼。

重装騎兵──密度の高い、鉄の塊だ。


「……多いな」


数は一目で分かった。


こちらの数を遥かに凌駕している。

また馬格も、騎兵の体躯も、こちらより一回り大きい。


レーヴェンの騎兵隊は、相手を正面から叩き潰す編成ではない。

ローデリクの作戦では、左翼は「耐える役」だった。


中央が押し切るまで、相手重騎兵を牽制し、踏みとどまらせる。

それだけでいい。


「各隊、正面衝突は避けろ。横に広がれ。距離を取れ」


軽騎兵は機動力が命だ。

突進を受け止めるのではなく、受け流す。


バルディオは、それを分かっていた。


だが、敵もまた分かっている。


重装騎兵は、横に広がらない。

密集を保ったまま、ゆっくりと前へ出てくる。


速度は遅い。

だが、止まらない。

一頭が止まれば後ろが押し、後ろが止まればさらに後ろが押す。


それは突撃ではなく、圧殺だった。

蹄の重なった音が、腹の底に来る。鎧の軋みが唸る。

土埃が舞う。その土埃の向こうで、圧力が高まった。


「来るぞ……!笛、鳴らせ!」

合図の角笛が鳴った。


土埃の中、蹄の音が響きわたり、重騎兵の影が見えた。

衝突。


鉄と木がぶつかる音が、地面を震わせる。

軽騎兵の槍は、甲冑に弾かれ、刃は滑る。


それでも、簡単には崩れなかった。


軽騎兵は下がりながら、刺し、斬り、間合いを切る。

一進一退。

時間を稼ぐ。


「いいぞ、そのまま引きつけろ!追わせるな!」


何度も、何度も。


中央を見る余裕はない。

しかし、バルディオは信じていた。


──中央は、勝っている。

──だから、ここは耐えればいい。


だが、重装騎兵は止まらない。


隊列を崩さず、じわじわと押し込んでくる。

一人、また一人と、馬を失い、引きずり下ろされる。


「……くそっ」

数の差が、じわじわと効いてくる。


「回り込まれるぞ!」

叫びは上がったが、遅かった。


いつの間にか、視界の端に重装の影が増えていた。

正面の圧力を維持したまま、一部の重装騎兵が、横へと展開する。


軽騎兵では、押し返せない。


「各隊、退却!潰走するな、隊列を保て!」

バルディオは即断した。


ここで踏みとどまり重騎兵を相手し続ければ、全滅する。

しかし、今ならまだ──撤退できる。


剣を振るい、最後尾に立つ。


逃げる兵を怒鳴りつける。

背中を見せ逃げるのではない。

下がるのだ。


重装騎兵の追撃は激しかった。それでも、完全には追わせない。


軽騎兵は散り、また集まり、追撃を断ち切るように徐々に後退する。

馬を替え、負傷兵を引き上げ、笛で呼び戻し、また散る。

気づけば、左翼は戦場から押し出されていた。


バルディオは、馬上で振り返る。

「……役目は果たした、か」

誰に言うでもなく呟き、バルディオは左翼騎兵をまとめ直すのだった。



アルノルトは、右翼騎兵の中にいた。


高原の風は、すでに土埃だけでなく、血の匂いを含んでいる。

乾いた地面を蹴る馬の蹄が、鈍い振動となって体に伝わっていた。


右翼では、戦線が膠着しつつあった。

そんな中でも、「笑う猛将」と異名をとるヴォルフラム・ヴェン・オルマン男爵の指揮は冴え、軽騎兵は散開と再集合を繰り返しながら、敵の重騎兵を縛っていた。


だが──違和感があった。

戦線の「音」が、左から崩れていく。


金属の衝突音が、不自然に遠ざかる。

代わりに、重い振動が、斜め左後方から近づいてきた。


──バルディオ男爵の左翼が、崩れたのか。


「……背後に回り込まれる」

気づいた瞬間には、遅かった。


土埃の向こうから、現れる影。

──グラーツ軍の右翼重装騎兵だ。


長駆してきたためか、速度は落ちているが、質量がある。

突破を前提とした隊列だ。


「五名でも十名でもいい、ついて来い!」

あの重装騎兵を、そのままの勢いでこちらへぶつからせるわけにはいかない。


シロウ他、ラウエン家から数名名乗りがあがり、少数の騎馬隊を編成した。周囲には、自由に動ける騎兵は多くない。


「行くぞ」

槍を高く掲げ、合図とした。


乗馬のオルヴァンは、まるで掻き込むように走り、足元をものともせず駆けた。

「若っ」

シロウから声がかかる。少し突出しているらしい。

それでもお構いなしに、先頭を切っていく。


裂帛の気合を乗せ、槍をぶうんと振り回す。

敵の隊列とすれ違い、槍に叩かれた二名三名の重騎士を馬から叩き落とした。


相手を斃すことは狙っていない。

狙いは、勢いを削ぐことだった。


アルノルトは馬首を巡らせる。

やがてシロウら従士も相手騎馬を数人馬から落とし、アルノルトに合流した。


「もう一度だ!」

アルノルトの合図で、また皆が駆け出した。

今度は、敵騎馬隊の斜め後ろから当たりに行く。


突撃を繰り返すこと数回。

その奮闘もむなしく、徐々に重騎兵が増え、多勢に無勢となった。


レーヴェン軍の騎馬隊は、戦線が瓦解しつつあった。

笛の合図も届かず、隊列は互いを見失い始めていた。

まとまりなく散開してしまい、隊として秩序ある動きが取れない。


指揮していたオルマン男爵も無事なのか、それすら不明だった。


「包囲だ!」グラーツ訛りで誰かが叫んだ。


鉄の塊が塞ごうとしている。

このままでは、レーヴェンの中軍と後軍が敵重装騎兵に閉じ込められてしまう。


アルノルトの馬が、反射的に身を翻す。

そこに、低い声が飛んだ。土埃の向こうで、輪郭だけが見えた。

「アルノルト!」

父ヘルマンだった。


鎧は傷だらけで、肩当てには深い凹みがある。

それでも、声ははっきりしていた。


「完全包囲を許すな。裂け目を作れ」


短い命令だった。


中央はまだ戦っている。

ツェルバハ子爵も、セリーヌも、そこにいる。

包囲が閉じれば、逃げ場はない。


「右翼、戦える者は俺に続け!」

ヘルマンが叫ぶ。


命令は、誰に向けたものでもあった。

アルノルトは、父に続き即座に馬を蹴った。

数十に膨れ上がった軽騎兵が、斜め前へ突っ込む。


狙いは明確だった。

包囲を完成させようとする、敵重装騎兵の側面。


槍が折れ、剣がぶつかる。

重装騎兵の隊列が、一瞬だけ揺れた。


「今だ!」

その隙を、逃さなかった。

アルノルトは、オルヴァンの巨体を深く踏み込ませ、敵と敵の間を強引にこじ開ける。

シロウらが一人、二人と、後ろから続く。


裂け目は、わずかだ。だが、確かにそこにある。


「ツェルバハ子爵をお救いしろ!」

ヘルマンの声が、背後で響いた。

アルノルトは、振り返らずに歯を食いしばって前を向いたまま頷いた。


「生き残れ!アルノルト!」


振り返れば、足が止まる。今は、前を見るしかない。


裂け目の向こうに、ツェルバハ子爵の旗が見えた。

月毛にまたがるセリーヌの姿も、確認できる。

――間に合う。


その確信と同時に、背後から、蹄が止まる音がした。

ふっと、すぐそばにあった父の気配が消えた。


「目標、敵、重騎兵! 抑えるぞ!」

ヘルマンの声だった。

戦場で、何度も聞いたことのある、兵を指揮する声。


続いて、いくつもの短い返答が重なった。

聞き慣れた声も、混じっていた。

剣が鞘走る音。手綱が引かれる気配。


それ以上、音は追ってこなかった。

アルノルトは、歯を食いしばり、前へ進む。


この戦いは、まだ終わっていない。



夕刻、レーヴェン軍は高原を離れた。


分裂し、一部が潰走しかけた騎兵は、オルマン男爵とカルディア男爵によって集め直された。

彼らの奮闘もあり、決定的な敗北は免れ、完全包囲の危機から脱することができた。

アルノルトも残存する自家の兵とともに、男爵らの手足となって協力し、軍の瓦解を防ぐ立役者の一人となった。


そこから戦況は膠着し、夕日が沈む頃、両軍とも鉾を引いた。

決定的な敗北とはならなかったが、明らかにレーヴェン軍の被害が大きく、戦術的な敗北と言っていいだろう。


隊伍は乱れ、傷を負った兵が多い。

馬を失った者は歩き、歩けぬ者は担がれていた。


戦塵は、まだ空に残っている。

戦場は背後にあるのに、風の音が、いつまでも追いすがってくる。


アルノルトは、セリーヌの馬の少し後ろを進んでいた。

ツェルバハ子爵は無言で、隊列の中央にいる。


陣地へ戻ったのは、夜に入ってからだった。

松明が焚かれ、ツェルバハ子爵とその寄騎らの軍が、天幕の前に集った。

そこにあるはずの顔が、いくつも見当たらない。


かつては祖父に仕え、今はヘルマンと共にあった老従士たちも。

アルノルトと一緒に馬の世話をしていた若い従士も。

そして、父ヘルマンの姿も。


アルノルトは、ツェルバハ子爵の天幕に入らず、その場に立ち尽くしていた。


剣はまだ血を拭っていない。鎧の傷も、そのままだ。


あの時、全軍の瓦解を防ぐため踏みとどまった者たちは、一人も戻らなかった。

それだけが、今わかっている確かな事実だった。


セリーヌが、ゆっくりと近づいてくる。

顔を伏せ、何も言わない。

その姿が、ひどく小さく見えた。


ツェルバハ子爵は、深く息を吐き、天を仰いだ。

言葉はなかった。

だが、その沈黙が、すべてを語っていた。


アルノルトは、ふと気づく。

帰陣した兵たちの中に、ヘルマンの姿を探している者が、何人もいることに。

皆、同じように、わかっていながら、それでも目を走らせている。

それが、答えだった。


遠くで、負傷兵を運ぶ担架の軋む音がしていた。


夜が深まるにつれ、泣き声が混じり始めた。

誰も、大声では泣かなかった。

戦場では、それが礼儀だった。


アルノルトは、天幕の外に出た。


冷たい風が、高原から吹き下ろしてくる。

昼間の熱は、もう残っていない。


星が、静かに瞬いていた。


ヘルマンの声が、耳に残っている。


──生き残れ、アルノルト。


それは命令だった。同時に、託されたものでもあった。

アルノルトの剣を握る手が、わずかに震えた。


戦争は、終わっていない。

しかし、何かが、確かに終わった。


夜風が、火を揺らす。


その光の中で、生き残った者として。

そして、継ぐ者として。

アルノルトは立っていた。


──ハイネス高原の戦いは、こうして幕を閉じた。

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