36.戦塵烈風
風は、乾いていた。
高原の地表は固く締まり、馬の蹄が踏みしめるたび、粉のような土埃が舞い上がった。
ハイネス高原。
なだらかで、広く、視界を遮るものの少ない戦場だった。
ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵は、軍の中央の天幕で、斥候や伝令の報告を聞いていた。
机上には、石で押さえた地図と、損耗を書き込んだ帳面。乾いたインクの匂いが残っていた。
視界の中央には、整然と進む自軍の歩兵隊列。
槍の穂先が、風に揺れながら一定の間隔を保っている。
──悪くない。
いや、むしろ理想的だ、と彼は判断した。
中央は厚く、左右は必要以上に張り出させない。
敵は正面から受け止め、数で押す。
騎兵は牽制に徹し、無理な突撃は行わない。
野戦において、最も避けるべきは「賭け」だ。
勝敗を一瞬の機動や英雄的判断に委ねる戦いなど、早々起こり得ないことだ。
ローデリクは、地図上で何度も線を引いた配置を思い返す。
兵数、補給、地形、風向き──
すべては計算の中にあった。
前線では、すでに矢戦が始まっている。
弓弦の音や鬨の声が、かすかに聞こえる。
敵味方の散発的な動きも、土埃の向こうにぼんやりと見えていた。
「中央、前進を維持」
伝令が命令を復唱し、走り去る。
声は落ち着いている。慌てはない。
敵──グラーツ王国軍は、後退していた。
敵陣の槍列が、わずかに間隔を乱しながら下がっていくのが見える。
それは敵軍に、踏みとどまる余力が削られている証だった。
ローデリクは目を細める。
やはり、前軍を厚めに配置したのが功を奏した。
我々は堅実に、着実に前軍の歩みを進め、相手を徐々に押している。
もし、一当たりするなり、敵軍が急激に崩れるようなことがあれば策を疑うところであるが、じわじわとした力勝負となっており、今、我軍が優勢なのだ。
「数で勝っている以上、焦る必要はない。ゆっくりと歩を進めよとアデルベルトに伝えよ」
彼は、隣に控える参謀にそう告げた。
参謀は頷き、前線の指揮をする、ローデリクの嫡子アデルベルトへと伝令を走らせる。
中央が押せば、戦は傾く。
敵が後退を続ければ、その消耗はさらに積み重なる。
最終的には、戦線を維持できなくなる。
それが、堅実な戦争の結末だ。
彼は知っている。
戦場では、感情に流される判断が最も危険だということを。
戦争での損耗は避けられない。
しかし、より効率的な損耗をすることによって、被害を軽減できる。
指揮官に大切なのは、預かった命をできうる限り効率的に使うこと。それが重要なのだ。
「この程度の消耗は、想定内だ」
かつて作戦会議で口にした言葉を、心の中で反芻する。
五分。多く見積もっても、一割弱。
その損耗率で戦争が一歩終わりに近づくなら、受け入れるべき犠牲だろう。
ローデリクは、戦を「管理」していた。
感情を排し、秩序を保ち、全体を俯瞰する。
それは、彼がこれまで歩んできた戦歴──
籠城、防衛、耐久戦の中で培ってきたやり方だった。
そして今、この高原でも、その方法は通用している。
風が強まる。
視界の奥で、土埃が濃くなる。
その向こうで何が動いているのかまでは、見通せなかった。
それでも、ローデリクは目を逸らさない。
◆
ゲルハルド・ヴェン・ブロク元帥は、自陣の天幕の前で、ほとんど動かずに立っていた。
甲冑は重い。
だが、その重さを気にする様子は微塵もない。
風が、元帥の外套を打ち、乾いた土の匂いを運んでくる。
土埃が数度、視界を遮った。
ハイネス高原と呼ばれるこの場所は、起伏が少なく、東西に広がっている。
南には密な針葉樹林、北にはブリューナ丘陵。
その地形と吹き下ろす風が、土埃を生みやすかった。
今回、ゲルハルドはレーヴェン軍を誘い出し、このハイネス高原を戦場に選んだ。
この立地条件が、自らの作戦と合致したためだ。
ゲルハルドは、北側のブリューナ丘陵の中腹あたりに視線をやった。
そこには、数日前から複数の斥候を送り込んでいる。
鏡で光を反射させ、高所からつぶさに敵軍の状況を報告するようにしていた。
それ故に、相手の各部隊がどのような陣容であるか、手に取るように把握できていた。
中央。
レーヴェン王国軍の歩兵が、厚い塊となって前進してくる。
ゲルハルドは当初、前軍を整然と布陣させていた。
しかし土埃を目眩ましにして相手の目を欺き、前軍を半円状に突出させる奇妙な陣形へ、静かに組み替えていた。
丘陵から、相手の動きが、チカチカと光で伝達される。
「……来るな」
ゲルハルドは低く呟いた。
まもなく前軍同士が激突する。
数は、相手が上。
それは最初から分かっている。
だからこそ、中央を厚くした。
剣盾歩兵と長槍兵を、幾重にも並べている。
「中央、後退。速度は一定」
伝令が走り、命令が流れる。
陣鐘が鳴り、合図が返る。
グラーツ中央の歩兵は、乱れず、しかし確実に下がった。
レーヴェンの前軍は、押していると錯覚するだろう。
水が高きから低きへ流れるように、兵士の流れも同じである。
相手の前軍は、ここが押せる場所だと、そこへの圧力を加え、徐々に突出していく。
実際、彼らは前進している。
しかし、それは──進まされているだけだと気付いていない。
中央が引けば、敵は追う。
レーヴェン軍の槍列が、中央へ中央へと引き寄せられていく。ゆっくりと、だが着実に、敵の両端が中央へと動き始めていた。
追えば、左右が縮む。
左右が縮めば、中央は袋になる。
強い土埃が、戦場を覆い始めていた。
乾いた地面と強風が、視界を曇らせる。
それは、ゲルハルドにとって好機だった。
視認が落ちれば、距離感は狂う。
レーヴェン軍も、自軍の隊列の歪みを確認しづらくなる。
中央の歩兵は、レーヴェン軍をさらに誘引し、緩やかな弧を描くように受け止めていた。
完全な半円ではないが、十分だ。
敵はまだ気づかない。
中央を押していることに、意識を奪われている。
ゲルハルドは、ゆっくりと右手を上げた。
両翼の向こうで、鉄の鎧が擦れ合う低い音が重なり始める。
馬が地面を蹴り、土埃がわずかに渦を巻いた。
「右翼重騎兵──準備」
その声に、周囲の将校が息を詰める。
「左翼も同様だ。合図を待て」
両翼が動くのは、一度きり。
早すぎれば、逃げられる。
遅すぎれば、中央が耐えきれない。
敵は、まだ勝利を疑っていない。
むしろ、手応えを感じているだろう。
それでいい。
「……もう少しだ」
半包囲はほぼ完成していた。
中央は耐えしのぎ、敵はまだ気付いていない。
あとは──閉じるだけだ。その瞬間を待ちわび、呼吸が浅くなる。
興奮のためか古傷が疼き、外套の左肩を握りしめた。
ゲルハルドは、短く息を吐く。
「右翼、左翼重騎兵隊、突撃!」
風が鳴る。
陣鐘が鳴る。
命令が下った瞬間、この高原は、血で塗り替えられようとしていた。
◆
バルディオ・ヴェン・カルディア男爵は、左翼騎兵の中央にいた。
乾いた風が、高原を横切る。
土埃が巻き上がり、視界は常に揺れていた。
正面に見えるのは、グラーツ軍右翼。
重装騎兵──密度の高い、鉄の塊だ。
「……多いな」
数は一目で分かった。
こちらの数を遥かに凌駕している。
また馬格も、騎兵の体躯も、こちらより一回り大きい。
レーヴェンの騎兵隊は、相手を正面から叩き潰す編成ではない。
ローデリクの作戦では、左翼は「耐える役」だった。
中央が押し切るまで、相手重騎兵を牽制し、踏みとどまらせる。
それだけでいい。
「各隊、正面衝突は避けろ。横に広がれ。距離を取れ」
軽騎兵は機動力が命だ。
突進を受け止めるのではなく、受け流す。
バルディオは、それを分かっていた。
だが、敵もまた分かっている。
重装騎兵は、横に広がらない。
密集を保ったまま、ゆっくりと前へ出てくる。
速度は遅い。
だが、止まらない。
一頭が止まれば後ろが押し、後ろが止まればさらに後ろが押す。
それは突撃ではなく、圧殺だった。
蹄の重なった音が、腹の底に来る。鎧の軋みが唸る。
土埃が舞う。その土埃の向こうで、圧力が高まった。
「来るぞ……!笛、鳴らせ!」
合図の角笛が鳴った。
土埃の中、蹄の音が響きわたり、重騎兵の影が見えた。
衝突。
鉄と木がぶつかる音が、地面を震わせる。
軽騎兵の槍は、甲冑に弾かれ、刃は滑る。
それでも、簡単には崩れなかった。
軽騎兵は下がりながら、刺し、斬り、間合いを切る。
一進一退。
時間を稼ぐ。
「いいぞ、そのまま引きつけろ!追わせるな!」
何度も、何度も。
中央を見る余裕はない。
しかし、バルディオは信じていた。
──中央は、勝っている。
──だから、ここは耐えればいい。
だが、重装騎兵は止まらない。
隊列を崩さず、じわじわと押し込んでくる。
一人、また一人と、馬を失い、引きずり下ろされる。
「……くそっ」
数の差が、じわじわと効いてくる。
「回り込まれるぞ!」
叫びは上がったが、遅かった。
いつの間にか、視界の端に重装の影が増えていた。
正面の圧力を維持したまま、一部の重装騎兵が、横へと展開する。
軽騎兵では、押し返せない。
「各隊、退却!潰走するな、隊列を保て!」
バルディオは即断した。
ここで踏みとどまり重騎兵を相手し続ければ、全滅する。
しかし、今ならまだ──撤退できる。
剣を振るい、最後尾に立つ。
逃げる兵を怒鳴りつける。
背中を見せ逃げるのではない。
下がるのだ。
重装騎兵の追撃は激しかった。それでも、完全には追わせない。
軽騎兵は散り、また集まり、追撃を断ち切るように徐々に後退する。
馬を替え、負傷兵を引き上げ、笛で呼び戻し、また散る。
気づけば、左翼は戦場から押し出されていた。
バルディオは、馬上で振り返る。
「……役目は果たした、か」
誰に言うでもなく呟き、バルディオは左翼騎兵をまとめ直すのだった。
◆
アルノルトは、右翼騎兵の中にいた。
高原の風は、すでに土埃だけでなく、血の匂いを含んでいる。
乾いた地面を蹴る馬の蹄が、鈍い振動となって体に伝わっていた。
右翼では、戦線が膠着しつつあった。
そんな中でも、「笑う猛将」と異名をとるヴォルフラム・ヴェン・オルマン男爵の指揮は冴え、軽騎兵は散開と再集合を繰り返しながら、敵の重騎兵を縛っていた。
だが──違和感があった。
戦線の「音」が、左から崩れていく。
金属の衝突音が、不自然に遠ざかる。
代わりに、重い振動が、斜め左後方から近づいてきた。
──バルディオ男爵の左翼が、崩れたのか。
「……背後に回り込まれる」
気づいた瞬間には、遅かった。
土埃の向こうから、現れる影。
──グラーツ軍の右翼重装騎兵だ。
長駆してきたためか、速度は落ちているが、質量がある。
突破を前提とした隊列だ。
「五名でも十名でもいい、ついて来い!」
あの重装騎兵を、そのままの勢いでこちらへぶつからせるわけにはいかない。
シロウ他、ラウエン家から数名名乗りがあがり、少数の騎馬隊を編成した。周囲には、自由に動ける騎兵は多くない。
「行くぞ」
槍を高く掲げ、合図とした。
乗馬のオルヴァンは、まるで掻き込むように走り、足元をものともせず駆けた。
「若っ」
シロウから声がかかる。少し突出しているらしい。
それでもお構いなしに、先頭を切っていく。
裂帛の気合を乗せ、槍をぶうんと振り回す。
敵の隊列とすれ違い、槍に叩かれた二名三名の重騎士を馬から叩き落とした。
相手を斃すことは狙っていない。
狙いは、勢いを削ぐことだった。
アルノルトは馬首を巡らせる。
やがてシロウら従士も相手騎馬を数人馬から落とし、アルノルトに合流した。
「もう一度だ!」
アルノルトの合図で、また皆が駆け出した。
今度は、敵騎馬隊の斜め後ろから当たりに行く。
突撃を繰り返すこと数回。
その奮闘もむなしく、徐々に重騎兵が増え、多勢に無勢となった。
レーヴェン軍の騎馬隊は、戦線が瓦解しつつあった。
笛の合図も届かず、隊列は互いを見失い始めていた。
まとまりなく散開してしまい、隊として秩序ある動きが取れない。
指揮していたオルマン男爵も無事なのか、それすら不明だった。
「包囲だ!」グラーツ訛りで誰かが叫んだ。
鉄の塊が塞ごうとしている。
このままでは、レーヴェンの中軍と後軍が敵重装騎兵に閉じ込められてしまう。
アルノルトの馬が、反射的に身を翻す。
そこに、低い声が飛んだ。土埃の向こうで、輪郭だけが見えた。
「アルノルト!」
父ヘルマンだった。
鎧は傷だらけで、肩当てには深い凹みがある。
それでも、声ははっきりしていた。
「完全包囲を許すな。裂け目を作れ」
短い命令だった。
中央はまだ戦っている。
ツェルバハ子爵も、セリーヌも、そこにいる。
包囲が閉じれば、逃げ場はない。
「右翼、戦える者は俺に続け!」
ヘルマンが叫ぶ。
命令は、誰に向けたものでもあった。
アルノルトは、父に続き即座に馬を蹴った。
数十に膨れ上がった軽騎兵が、斜め前へ突っ込む。
狙いは明確だった。
包囲を完成させようとする、敵重装騎兵の側面。
槍が折れ、剣がぶつかる。
重装騎兵の隊列が、一瞬だけ揺れた。
「今だ!」
その隙を、逃さなかった。
アルノルトは、オルヴァンの巨体を深く踏み込ませ、敵と敵の間を強引にこじ開ける。
シロウらが一人、二人と、後ろから続く。
裂け目は、わずかだ。だが、確かにそこにある。
「ツェルバハ子爵をお救いしろ!」
ヘルマンの声が、背後で響いた。
アルノルトは、振り返らずに歯を食いしばって前を向いたまま頷いた。
「生き残れ!アルノルト!」
振り返れば、足が止まる。今は、前を見るしかない。
裂け目の向こうに、ツェルバハ子爵の旗が見えた。
月毛にまたがるセリーヌの姿も、確認できる。
――間に合う。
その確信と同時に、背後から、蹄が止まる音がした。
ふっと、すぐそばにあった父の気配が消えた。
「目標、敵、重騎兵! 抑えるぞ!」
ヘルマンの声だった。
戦場で、何度も聞いたことのある、兵を指揮する声。
続いて、いくつもの短い返答が重なった。
聞き慣れた声も、混じっていた。
剣が鞘走る音。手綱が引かれる気配。
それ以上、音は追ってこなかった。
アルノルトは、歯を食いしばり、前へ進む。
この戦いは、まだ終わっていない。
◆
夕刻、レーヴェン軍は高原を離れた。
分裂し、一部が潰走しかけた騎兵は、オルマン男爵とカルディア男爵によって集め直された。
彼らの奮闘もあり、決定的な敗北は免れ、完全包囲の危機から脱することができた。
アルノルトも残存する自家の兵とともに、男爵らの手足となって協力し、軍の瓦解を防ぐ立役者の一人となった。
そこから戦況は膠着し、夕日が沈む頃、両軍とも鉾を引いた。
決定的な敗北とはならなかったが、明らかにレーヴェン軍の被害が大きく、戦術的な敗北と言っていいだろう。
隊伍は乱れ、傷を負った兵が多い。
馬を失った者は歩き、歩けぬ者は担がれていた。
戦塵は、まだ空に残っている。
戦場は背後にあるのに、風の音が、いつまでも追いすがってくる。
アルノルトは、セリーヌの馬の少し後ろを進んでいた。
ツェルバハ子爵は無言で、隊列の中央にいる。
陣地へ戻ったのは、夜に入ってからだった。
松明が焚かれ、ツェルバハ子爵とその寄騎らの軍が、天幕の前に集った。
そこにあるはずの顔が、いくつも見当たらない。
かつては祖父に仕え、今はヘルマンと共にあった老従士たちも。
アルノルトと一緒に馬の世話をしていた若い従士も。
そして、父ヘルマンの姿も。
アルノルトは、ツェルバハ子爵の天幕に入らず、その場に立ち尽くしていた。
剣はまだ血を拭っていない。鎧の傷も、そのままだ。
あの時、全軍の瓦解を防ぐため踏みとどまった者たちは、一人も戻らなかった。
それだけが、今わかっている確かな事実だった。
セリーヌが、ゆっくりと近づいてくる。
顔を伏せ、何も言わない。
その姿が、ひどく小さく見えた。
ツェルバハ子爵は、深く息を吐き、天を仰いだ。
言葉はなかった。
だが、その沈黙が、すべてを語っていた。
アルノルトは、ふと気づく。
帰陣した兵たちの中に、ヘルマンの姿を探している者が、何人もいることに。
皆、同じように、わかっていながら、それでも目を走らせている。
それが、答えだった。
遠くで、負傷兵を運ぶ担架の軋む音がしていた。
夜が深まるにつれ、泣き声が混じり始めた。
誰も、大声では泣かなかった。
戦場では、それが礼儀だった。
アルノルトは、天幕の外に出た。
冷たい風が、高原から吹き下ろしてくる。
昼間の熱は、もう残っていない。
星が、静かに瞬いていた。
ヘルマンの声が、耳に残っている。
──生き残れ、アルノルト。
それは命令だった。同時に、託されたものでもあった。
アルノルトの剣を握る手が、わずかに震えた。
戦争は、終わっていない。
しかし、何かが、確かに終わった。
夜風が、火を揺らす。
その光の中で、生き残った者として。
そして、継ぐ者として。
アルノルトは立っていた。
──ハイネス高原の戦いは、こうして幕を閉じた。




