35.ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン
──大陸暦三〇五年、白の節。
前線本営は、丘陵の背に築かれていた。
なだらかな起伏の上に、土を盛り、石を積み、急ごしらえの柵や壁を巡らせた陣地である。
防御としては十分だが、恒久的な施設ではない。
あくまで「戦争の途中」に仮置きされた場所にすぎなかった。
このところ、緩衝地帯を挟んで睨み合っているグラーツ王国の動きは、奇妙なほど静かだった。斥候によると、今日も動きはないらしい。
風が強い。丘を越えて吹き下ろす風は、草の匂いと土埃を運び、天幕の布を絶えず揺らしている。
軍旗が翻る音が、一定の間隔で鳴り続けていた。
規則正しく並んだ天幕。
整然と整えられた通路。
警戒に立つ兵の足取りも、無駄がない。
一見すれば、前線は落ち着いている。
だがその秩序は、張り詰めた糸の上に成り立つものだった。
その糸を、王都からの使者が断ち切った。
丘の下から現れた一行は、王城の色を帯びた外套をまとい、馬を下りると同時に周囲の視線を集めた。
「……来たか」
誰かが小さく呟いた。
使者の手には、重ね封じされた公文書がある。
赤い封蝋には、王家の紋章と、貴族院の印。
二つが並ぶということは、それだけで意味を持っていた。
貴族や王国騎士たちは、自然と集まった。
ツェルバハ子爵は背筋を伸ばして立ち、表情を動かさない。
ヘルマンは腕を組み、地面に視線を落としている。
セリーヌは、周囲の視線を気にするように、わずかに表情を強張らせていた。
アルノルトは、その少し後ろに立っていた。
貴族でも、王国騎士でもないアルノルトは最前列には立てない。
だが、話の内容は聞こえる距離だ。
戦場で感じる緊張とは、質が違う。
読み上げ役の文官が、一歩前へ進み出た。
紙を広げる音が、やけに大きく響いた。
「──王都より、前線軍へ通達」
風が吹き、軍旗が一斉にはためく。
その音が止んだ瞬間、文官は続けた。
「辺境伯セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェルは、当面のあいだ王都に留め置かれる」
一瞬、誰も声を出さなかった。
次いで、抑えきれないざわめきが広がる。
小さな息遣い、視線の動き、指先の緊張。
反論はない。だが、誰もが同じ疑問を抱いた。
──当面、とは、いつまでだ。
その言葉が意味するのは、期限のない拘束かもしれない。
あるいは、二度と戻らないという決定かもしれない。
文官は、紙から視線を上げずに続ける。
「これに伴い、前線軍の総帥を新たに任命する」
紙を持つ手が、ほんの一瞬、止まった。
それだけで、全員が察する。
──代わりが、来る。
「軍の総帥に、ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵を任ずる」
空気が、はっきりと変わった。
ざわめきは止まり、代わりに重い沈黙が落ちる。
ツェルバハ子爵の眉が、わずかに動いた。
ヘルマンは何も言わない。ただ、目を伏せたままだ。
セリーヌは周りの雰囲気に気圧され、目を泳がせていた。
アルノルトは、その名を心の中で反芻した。
ヴァルゼイン伯。籠城戦、防衛戦の名手。
慎重で、秩序を重んじる。
人格者として知られ、王都での評判も悪くない。
──悪い人選ではない。
そう思えるからこそ、余計に不安だった。
「……野戦の経験は?」
誰かが、ほとんど独り言のように呟いた。
その声は小さかったが、周囲の耳には届いた。
だが、答える者はいない。
誰もが知っている。
ヴァルゼイン伯は、守る戦には強い。
だが、そうではない戦争はどうなのだろう。
聞いたことがなかった。
文官は、儀礼通りに頭を下げ、書状を閉じた。
「以上をもって、王都の決定とする」
今、陣内で最も爵位の高いツェルバハ子爵が書状を恭しく受け取った。
セルヴィオはいない。
そして、その空白に据えられたのは、秩序を愛する男。
反対できる理由はない。
だが、総帥が辺境伯ではないということに、不安を抱かずに済む理由も、どこにもなかった。
戦争は、静かに次の段階へ進もうとしていた。
◆
ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵が前線本営に到着したのは、その二日後の朝だった。
霧がまだ丘の谷間に溜まり、天幕の布がしっとりと湿っている時刻。
警戒の兵が交代を終え、陣地が一日の始まりへと切り替わる、その隙間のような時間だった。
護衛は最小限。
王都の貴族が好みそうな過剰な従者も、目立つ旗印もない。
身につけている鎧も、装飾を削ぎ落とした実用一点張りのものだった。
馬から降りる所作は静かで、無駄がない。
周囲を見回す視線にも、侮りや過剰な警戒はなかった。
──第一印象は、悪くなかった。
むしろ、前線の空気に溶け込もうとする誠実さがあった。
集められた貴族や騎士たちの前に立ち、ローデリクは一歩前へ出る。
髪は白く、額には深い皺。だが視線は落ち着いて、周囲の顔を一人ずつ拾っていく。
「前線を預かることになった、ローデリク・ヴェン・ヴァルゼインだ」
声は低く、落ち着いている。
威圧も、気取りもない。
「皆の働きによって、王国はここまで持ちこたえている。そのことに、まず敬意を表したい」
何人かの騎士が、反射的に姿勢を正した。
こうした言葉を、王都の人間から正面切って向けられることは、あまりない。
ローデリクは、一人ひとりの顔を見るように、ゆっくりと視線を巡らせた。
「私は戦の天才ではない」
開口一番、そう言った。
一瞬、空気が止まる。
「だが、王国を預かる者として、無謀な賭けだけは許されぬと考えている」
勝てる見込みのない戦いを選ばない。
補給を絶やさない。
──正論だった。
その場にいた誰もが、それを否定できなかった。
むしろ、これまでの戦で消耗を重ねてきた前線にとって、魅力的な言葉ですらあった。
◆
初日の作戦会議は、簡潔に始まり、淡々と進んだ。
広げられた地図。
その上に置かれる木駒と石。
脇には、帳簿と計算表。
ローデリクは、数字を丁寧に追いながら説明を聞き、判断をする。
彼我の兵数比。
消耗数。
進軍に要する日数。
補給線の長さ。
「この条件であれば、こちらが有利だ」
「損耗は、この範囲に収まるだろう」
理路は明快だった。前提も、間違ってはいない。
だが──
「この程度の損耗は、想定内と見るべきだろう」
その言葉が発せられた瞬間、ヘルマンの指が、机の縁を少しだけ強く押した。
損耗。数字にすれば、確かに小さい。
だが、その損耗の「五分」や「一割弱」の中身は、名も、顔も、家族も持つ兵の命だ。
戦場では、数字通りにはいかない。
地形がある。
天候がある。
士気がある。
だが、ローデリクはそのことを、知識としてしか知らない。
知識として知っていて、身体で理解してはいないのだ。
だからこそ、彼の判断は善意に満ちていた。
正面での局地的優位を作り、短時間で戦線を押し切る――それが、ローデリクの描いた勝ち筋だった。
異論を挟めるほど、ローデリクの策は破綻してない。
数字も、理屈も、すべて揃っている。
少なくとも、この作戦で前線が即座に崩れることはない。
それだけは、誰の目にも明らかだった。
だが、皆が思ったのだ。
辺境伯ならばどうだったろうか、と。
何よりも、味方の損耗を嫌うあの人だったなら、と。
それとも、我々は辺境伯の戦に慣れすぎたのだろうか、と。
──会議のあと、陣の外れで、ツェルバハ子爵とヘルマンが並んで立っていた。風が、乾いた草を鳴らす。
「……間違っている、と否定できるほど、あの方──ヴァルゼイン伯の作戦は悪くはないな」
ツェルバハ子爵の声は低かった。
ヘルマンは、しばらく黙ってから、短く息を吐く。
「理には適っています。ただ、ですが……」
この作戦は、理屈の上では勝てる。だがその勝ち方は、前軍同士を削り合う以外に道がないようにも思えた。
ツェルバハ子爵もヘルマンも、同じように不安を抱くのであった。
◆
──翌日、新たな布陣が通達された。
前軍は厚い。
中央も十分な兵力が割かれている。
だが、前軍に割いた分、後軍が薄かった。
一見すれば、堅実な陣形だ。
グラーツ軍が得意とするの前進攻撃を見据え、無理に賭けに出ないようにも見える。
教科書通りの布陣と言い換えてもいい。
予定された前進。予定された消耗。
アルノルトは、行軍する兵たちを見つめた。
まだ名も顔も知らない兵。
冗談を言い合い、武具を整え、「今回も大丈夫だろう」と笑っている兵たち。
それは、悪意ではなかった。
正しい選択の積み重ねだった。
だがその正しさは、誰かに血を流させることでしか成り立たないものだ。
アルノルトは思うのだ。
次に流れる血は──一体、誰の血なのだろう、と。




