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暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
35/45

35.ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン

──大陸暦三〇五年、白の節。


前線本営は、丘陵の背に築かれていた。


なだらかな起伏の上に、土を盛り、石を積み、急ごしらえの柵や壁を巡らせた陣地である。

防御としては十分だが、恒久的な施設ではない。

あくまで「戦争の途中」に仮置きされた場所にすぎなかった。


このところ、緩衝地帯を挟んで睨み合っているグラーツ王国の動きは、奇妙なほど静かだった。斥候によると、今日も動きはないらしい。


風が強い。丘を越えて吹き下ろす風は、草の匂いと土埃を運び、天幕の布を絶えず揺らしている。

軍旗が翻る音が、一定の間隔で鳴り続けていた。


規則正しく並んだ天幕。

整然と整えられた通路。

警戒に立つ兵の足取りも、無駄がない。


一見すれば、前線は落ち着いている。

だがその秩序は、張り詰めた糸の上に成り立つものだった。


その糸を、王都からの使者が断ち切った。


丘の下から現れた一行は、王城の色を帯びた外套をまとい、馬を下りると同時に周囲の視線を集めた。


「……来たか」


誰かが小さく呟いた。


使者の手には、重ね封じされた公文書がある。

赤い封蝋には、王家の紋章と、貴族院の印。

二つが並ぶということは、それだけで意味を持っていた。


貴族や王国騎士たちは、自然と集まった。

ツェルバハ子爵は背筋を伸ばして立ち、表情を動かさない。

ヘルマンは腕を組み、地面に視線を落としている。

セリーヌは、周囲の視線を気にするように、わずかに表情を強張らせていた。


アルノルトは、その少し後ろに立っていた。


貴族でも、王国騎士でもないアルノルトは最前列には立てない。

だが、話の内容は聞こえる距離だ。


戦場で感じる緊張とは、質が違う。


読み上げ役の文官が、一歩前へ進み出た。

紙を広げる音が、やけに大きく響いた。


「──王都より、前線軍へ通達」


風が吹き、軍旗が一斉にはためく。

その音が止んだ瞬間、文官は続けた。


「辺境伯セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェルは、当面のあいだ王都に留め置かれる」


一瞬、誰も声を出さなかった。


次いで、抑えきれないざわめきが広がる。

小さな息遣い、視線の動き、指先の緊張。


反論はない。だが、誰もが同じ疑問を抱いた。


──当面、とは、いつまでだ。


その言葉が意味するのは、期限のない拘束かもしれない。

あるいは、二度と戻らないという決定かもしれない。


文官は、紙から視線を上げずに続ける。


「これに伴い、前線軍の総帥を新たに任命する」


紙を持つ手が、ほんの一瞬、止まった。


それだけで、全員が察する。


──代わりが、来る。


「軍の総帥に、ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵を任ずる」


空気が、はっきりと変わった。

ざわめきは止まり、代わりに重い沈黙が落ちる。


ツェルバハ子爵の眉が、わずかに動いた。

ヘルマンは何も言わない。ただ、目を伏せたままだ。

セリーヌは周りの雰囲気に気圧され、目を泳がせていた。


アルノルトは、その名を心の中で反芻した。


ヴァルゼイン伯。籠城戦、防衛戦の名手。


慎重で、秩序を重んじる。

人格者として知られ、王都での評判も悪くない。


──悪い人選ではない。


そう思えるからこそ、余計に不安だった。


「……野戦の経験は?」


誰かが、ほとんど独り言のように呟いた。

その声は小さかったが、周囲の耳には届いた。

だが、答える者はいない。


誰もが知っている。

ヴァルゼイン伯は、守る戦には強い。

だが、そうではない戦争はどうなのだろう。

聞いたことがなかった。


文官は、儀礼通りに頭を下げ、書状を閉じた。


「以上をもって、王都の決定とする」


今、陣内で最も爵位の高いツェルバハ子爵が書状を恭しく受け取った。


セルヴィオはいない。

そして、その空白に据えられたのは、秩序を愛する男。


反対できる理由はない。

だが、総帥が辺境伯ではないということに、不安を抱かずに済む理由も、どこにもなかった。


戦争は、静かに次の段階へ進もうとしていた。



ローデリク・ヴェン・ヴァルゼイン伯爵が前線本営に到着したのは、その二日後の朝だった。


霧がまだ丘の谷間に溜まり、天幕の布がしっとりと湿っている時刻。

警戒の兵が交代を終え、陣地が一日の始まりへと切り替わる、その隙間のような時間だった。


護衛は最小限。

王都の貴族が好みそうな過剰な従者も、目立つ旗印もない。

身につけている鎧も、装飾を削ぎ落とした実用一点張りのものだった。


馬から降りる所作は静かで、無駄がない。

周囲を見回す視線にも、侮りや過剰な警戒はなかった。


──第一印象は、悪くなかった。

むしろ、前線の空気に溶け込もうとする誠実さがあった。


集められた貴族や騎士たちの前に立ち、ローデリクは一歩前へ出る。

髪は白く、額には深い皺。だが視線は落ち着いて、周囲の顔を一人ずつ拾っていく。


「前線を預かることになった、ローデリク・ヴェン・ヴァルゼインだ」


声は低く、落ち着いている。

威圧も、気取りもない。


「皆の働きによって、王国はここまで持ちこたえている。そのことに、まず敬意を表したい」


何人かの騎士が、反射的に姿勢を正した。

こうした言葉を、王都の人間から正面切って向けられることは、あまりない。

ローデリクは、一人ひとりの顔を見るように、ゆっくりと視線を巡らせた。


「私は戦の天才ではない」

開口一番、そう言った。

一瞬、空気が止まる。

「だが、王国を預かる者として、無謀な賭けだけは許されぬと考えている」


勝てる見込みのない戦いを選ばない。

補給を絶やさない。


──正論だった。


その場にいた誰もが、それを否定できなかった。

むしろ、これまでの戦で消耗を重ねてきた前線にとって、魅力的な言葉ですらあった。



初日の作戦会議は、簡潔に始まり、淡々と進んだ。


広げられた地図。

その上に置かれる木駒と石。

脇には、帳簿と計算表。


ローデリクは、数字を丁寧に追いながら説明を聞き、判断をする。


彼我の兵数比。

消耗数。

進軍に要する日数。

補給線の長さ。


「この条件であれば、こちらが有利だ」

「損耗は、この範囲に収まるだろう」


理路は明快だった。前提も、間違ってはいない。


だが──


「この程度の損耗は、想定内と見るべきだろう」


その言葉が発せられた瞬間、ヘルマンの指が、机の縁を少しだけ強く押した。

損耗。数字にすれば、確かに小さい。


だが、その損耗の「五分(ごぶ)」や「一割弱」の中身は、名も、顔も、家族も持つ兵の命だ。


戦場では、数字通りにはいかない。

地形がある。

天候がある。

士気がある。


だが、ローデリクはそのことを、知識としてしか知らない。

知識として知っていて、身体で理解してはいないのだ。

だからこそ、彼の判断は善意に満ちていた。


正面での局地的優位を作り、短時間で戦線を押し切る――それが、ローデリクの描いた勝ち筋だった。


異論を挟めるほど、ローデリクの策は破綻してない。

数字も、理屈も、すべて揃っている。


少なくとも、この作戦で前線が即座に崩れることはない。

それだけは、誰の目にも明らかだった。


だが、皆が思ったのだ。

辺境伯ならばどうだったろうか、と。

何よりも、味方の損耗を嫌うあの人だったなら、と。

それとも、我々は辺境伯の戦に慣れすぎたのだろうか、と。


──会議のあと、陣の外れで、ツェルバハ子爵とヘルマンが並んで立っていた。風が、乾いた草を鳴らす。


「……間違っている、と否定できるほど、あの方──ヴァルゼイン伯の作戦は悪くはないな」

ツェルバハ子爵の声は低かった。


ヘルマンは、しばらく黙ってから、短く息を吐く。

「理には適っています。ただ、ですが……」


この作戦は、理屈の上では勝てる。だがその勝ち方は、前軍同士を削り合う以外に道がないようにも思えた。

ツェルバハ子爵もヘルマンも、同じように不安を抱くのであった。



──翌日、新たな布陣が通達された。


前軍は厚い。

中央も十分な兵力が割かれている。

だが、前軍に割いた分、後軍が薄かった。


一見すれば、堅実な陣形だ。

グラーツ軍が得意とするの前進攻撃を見据え、無理に賭けに出ないようにも見える。


教科書通りの布陣と言い換えてもいい。

予定された前進。予定された消耗。

アルノルトは、行軍する兵たちを見つめた。


まだ名も顔も知らない兵。

冗談を言い合い、武具を整え、「今回も大丈夫だろう」と笑っている兵たち。


それは、悪意ではなかった。

正しい選択の積み重ねだった。


だがその正しさは、誰かに血を流させることでしか成り立たないものだ。


アルノルトは思うのだ。

次に流れる血は──一体、誰の血なのだろう、と。

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