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暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
33/45

33.香、血、炎

打ち交される刃の音は、規律に似る──

揃っていれば美しいが、揃いすぎれば不気味だ。


グラーツ王国軍の練兵場では、毎朝、その不気味さが磨かれていた。

槍は斜め四十五度、盾は胸の高さ、踏み込みは一拍も遅れず──号令が飛ぶたび、十の足が同じ場所を叩く。

汗と鉄と、乾いた皮革。これらは、戦に勝つための匂いだ。


扇蔓(オウギカヅラ)ミチツラは、その列の外側に立っていた。

訓練の全体を見る位置。指揮をする位置である。


十名。

今、彼が預かっている兵の数だ。この国では「分隊」と呼ばれる。


彼は、指を一本だけ上げた。

その合図で、五名の部下が動いた。槍先が揃い、盾が滑るように動く。

五名ずつで向かい合い、木槍が鳴る。打ち合う音は乾いているのに、呼吸と気合の熱は濃い。


──悪くない。


ミチツラは、隊の評価を胸の内で短く切った。声に出す必要はない。

部下たちは、褒められることよりも、次に何をすべきかを求めている。

グラーツ軍の空気が、そう育てるのだ。


過日、レーヴェン王国に喫した痛手は、数字としては整理されても、拭い去ることはできない。盾の縁に残る刃痕、槍柄の割れ、空になった寝台、欠けた名前。

そういうものが、軍の規律をより強固にした。


勇敢さよりも確実性を、誇りよりも結果を。

次は負けない、では足りない。次は完全なる勝利を──それが今のグラーツの合言葉だった。


ミチツラはその空気に馴染んでいる。

馴染んでいることが、自分でも意外だった。


ここへ来たとき、彼は一兵卒として雇われた。


剣の腕だけが確かな、異国の流れ者。

極東の島国から来た、素性も曖昧な男。


グラーツ軍は、そういう人間を拒まない。

拒まない代わりに、試す。

試して、使えるなら戦場で使い潰す。


だが、彼は潰れなかった。

潰れなかったから、十人を預けられた。


「……よく動いている」


背後で、誰かが呟いた。将校の声だ。声色は驚きに寄っている。

羨望ではない。警戒でもない。


「なかなか良い隊に育っているな」

「はっ!」

襟元を見た瞬間、階級の差を悟り、ミチツラは最敬礼を返す。


「貴様も相当に使う(・・)と聞いているぞ」

最敬礼を崩さないまま恐縮の意を示した。

「恐れ入ります」


将官には悪意の欠片もなかったが、値踏みをされたような視線が送られた。

肩を叩かれる。ミチツラはそれを不快に思わなかったが、瑞穂国(みずほのくに)では考えられない距離感だった。


「黒目黒髪とは、どこの国の者だ」

「極東の島国ということです」

「はあ、とんだ田舎者ではないか」

少し離れた位置で別の将官と佐官が会話をしているのが耳に届く。

侮辱と受け取るには、あまりに露骨な言葉だった。


ミチツラは振り向かない。聞こえないふりをする必要もない。耳に入ったものを、顔に出さない訓練は、ここへ来る前から身についている。


彼は、瑞穂国の軍事貴族だった。



大陸暦二九九年。──皇紀一七五七年、水無月晦日。


白都(はくと)の空は薄く曇り、夏の輪郭だけが淡く残っていた。


清涼殿へ通じる回廊には、香が焚かれている。沈香とも白檀とも違う、穢れを祓うための匂いだった。鼻先に刺さるわけではないのに、吸い込むほどに胸の奥が乾く。


扇蔓(おうぎかづら)ミチツラは殿上の外縁にいた。

祭祀参加者ではない。警備・供奉の役目であり、刀を帯びてよい側の人間だ。帯びてよいと言っても、軍事貴族としての誇りのためではない。必要があればここで刃を振るい、尊き人々を守るための許しだ。


彼はその立場を理解していた。理解していることが、かえって喉の奥を苦くした。


殿上の内側では、衣の色が重なり、風に揺れる袖は静かで、足音はほとんどしない。木の床は磨かれ、歩く者の重さを吸い込むように音を抑える。


夏越祓(なつごしのはらえ)。この国の半年の穢れを祓い、夏を迎えるための国家祭祀。


茅の輪は、遠目にも大きかった。

くぐれば身が軽くなると言う。

だが、軽くなるのは身だけで、名まで軽くなるわけではない。


扇蔓家は新興だった。

武をもって仕える家。血統の古さがなくとも、尊き人々の役に立つことを誇りにする家。


ミチツラは、祝詞(のりと)が始まる前の空気を知っている。ここに立つのはもう何度目だろう。

祭祀の場では、人は息を合わせる。合わせることで、穢れが外へ押し出される。合わせ損ねた者は目立つ。目立てば穢れになる。穢れになれば、祓われる側に回される。


その仕組みが、恐ろしいほどよくできていることを、彼は知っていた。

武で生きる者ほど、それに気づく。戦場の規律と似ているからだ。

揃えさせることで、揃わない者を浮き立たせる。


殿上の中央──視線の集まる場所に、日向(ひゅうが)家の当主がいた。四大貴族、(たちばな)家の由緒正しき(・・・・・)分家だ。

祀典副監(してんふくかん)。祭祀の実務を担う役割である。


ミチツラは、その背中を見ていた。

見ているうちに、無意識に自分の姿勢を正していることに気づいた。腹立たしい。正されることが腹立たしい。

正しているのは自分の意思のはずなのに、正させられているように感じる。


——ここで失敗すれば、家は笑われる。


扇蔓家は軍事貴族だが、貴族だ。貴族であるがゆえに、礼法を知らねばならなかった。礼を知らねば、恥をかく。恥をかけば、家が沈む。家が沈めば、郎党が散る。


ミチツラに礼を教えたのは日向家の当主だった。

日向。宮中に近く、古い血を重んじ、刃よりも作法を武器にする家。


ミチツラは、日向家の当主から多くを教わった。教わったはずだった。


祝詞が始まった。

声は滑らかで、遠い水音のようだった。言葉の意味より先に、音が身体に入ってくる。

胸の内側に冷たいものが広がる。


供奉(ぐぶ)の列は微動だにしない。

ミチツラも動かない。動けば目立つ。目立てば穢れになる。

彼は動かない代わりに、思考だけを動かしていた。思考の奥で、何度も「足りない」という言葉が跳ねた。


分担金。付け届け。作法。順序。席次。挨拶の作法。沈黙の長さ。


扇蔓は足りない。足りないと言われる。足りない、足りない、足りない……。


日向当主が、視線をこちらへ寄越した──ように見えた。

実際には違うかもしれない。殿上の視線は複雑で、誰が誰を見ているかは分かりにくい。だが、ミチツラの身体はその視線を“自分に向けられた”と受け取った。

そして、誰かが「足りておらぬな」と言った。


衣擦れが、止んだ。


その一瞬で、彼の中の何かが壊れた。


日向当主が言ったわけでもない。

殿上人が声を張り上げたわけでもない。

むしろ声は低く、淡々としていた。


「————!」


自分がその時何を叫んだのか、言葉の内容を、ミチツラは正確に思い出せない。

覚えていないのではない。ただ「屈辱」という塊だけが胸に落ちた。


指摘だったのかもしれない。職責としての助言だったのかもしれない。

あるいは、別の誰かへ向けた言葉だったかもしれない。


だが殿上の言葉で、ミチツラは斬られたと思った。


呼吸が一拍だけ乱れた。

乱れたことに「気づかれた」と感じた。

気づかれた瞬間、殿上全体が彼を見ているように思えた。


実際には、誰も見ていないかもしれない。

だが、見られたと思い込んだ者は、もう自分の内側だけでは済まない。内側の恥が、外側の恥になる。外側の恥は、家の恥になる。


ミチツラは、自分の手が袖の中で動いていることに気づいた。

気づいたときには、もう止まらなかった。


刃を抜く感覚は、慣れているはずだった。

だがこのときの刃の重さは、戦場のものとは違っていた。

鉄の重さではない。言葉の重さだった。殿上の空気の重さだった。

半年の穢れを背負わせてくる、国家の重さだった。


音がした。

乾いた音ではない。

布が裂け、骨に触れ、息が切れる音。


次に何が起きたのか。

どれだけの目がこちらを向いたのか。

誰が叫んだのか。

誰が止めようとしたのか。


ミチツラは、そのすべてが薄靄の向こう側で起こった出来事のように感じた。


ただ確かなのは、自分の刃が鞘へ戻らなかったことだ。

戻す前に、すでに誰かが死んでいた。


殿上の空気が、音もなく変わった。

夏越祓の香が、別の匂いに変わった。それは戦場で嗅ぎ慣れた匂い。


ミチツラは足元の定まらぬまま、外縁に立ち尽くし、自分が今、どちら側にいるのか分からなくなった。

祓う側なのか、祓われる側なのか。

守る側なのか、壊す側なのか。


だが、夏を穢すには——


一太刀で足りた。



夜、兵舎の寝台で、ミチツラは天井を見ていた。

分隊長だけが集う四人部屋だが、いまはミチツラしかいない。


木の梁の影が、灯りに揺れている。


瑞穂国(みずほのくに)

扇蔓(おうぎかづら)の家。

家臣や郎党たちの顔。


それらは、もはや帰る場所ではない。

取り戻す名でもない。


彼が失ったものは、すでに過去の中で完結している。

悔いがないとは言わない。

だが、やり直せるとは、最初から思っていない。


今の自分は、グラーツ王国軍の兵であり、ゲルハルドの配下であり、勝利のために振るわれる刃だ。


忠義は、どこに向くのか。


国ではない。

理念でもない。

ましてや正義ではない。


勝てる戦を選ぶ。

それだけだ。


そのために壊れるものがあるなら、

それは戦争の中で壊されたのではない。

戦争が始まる前に……すでに壊れているのだ。


そう線を引かなければ、剣は振れない。


ミチツラは、静かに目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

33.5.夏を穢す火


──皇紀一七五七年、水無月晦日。


日向シロウと日向チトセは、父の依頼で供回りとともに、洛外(らくがい)南方の大社へ出向いていた。

夏越祓の奉納と、いくつかの確認。名門貴族の日向家にとっては、珍しくもない役目だった。


帰りの馬車は揺れも少なく、穏やかだった。

大社の森は深く、蝉の声が遅れて響く。涼風が簾越しに肌へ流れ、夏はまだどこか慎ましく感じられた。


だが、白都に近づくにつれ、空気が変わった。

洛外(らくがい)からでも、洛中(らくちゅう)の方角に薄い煙がたなびいているのが見える。


──おかしい。


夏越祓の日に、都が煙る理由がない。

火を焚くにしても、こんな煙の筋にはならない。


羅城門(らせいもん)をくぐって洛中へ入ると、匂いが先に来た。

夏越祓の日の都には香が漂う。──だが、これは香ではない。


鼻の奥を刺す、焦げた木の匂い。焚き火とも窯とも違う。

もっと荒々しい、燃え広がった火の匂いだった。


「……何か、焼けています」


供回りの一人が、低い声で言った。

その声が低いだけで、事態の大きさが伝わる。


市街へ入ると、違和感ははっきりした。

人は多い。だが、賑わいではない。


立ち尽くす者。荷を抱えて走る者。門の方を振り返り、何度も空を見上げる者。

通りの片側では露店が出しっぱなしで、反対側では店主が戸を閉め、家族を中へ押し込んでいる。


「何があった?」


供回りが通りすがりの男に声をかける。


「分からん……御所の南で火が出たとか……いや、殿上で刃傷だとも……」


男の言葉は、すぐ別の怒鳴り声にかき消された。

別の声が重なり、通り全体がざわめきに沈む。噂が噂を呼び、形になる前に溶けていく。


シロウの耳に届くのは、断片だけだった。

だが、断片の端が、どれも同じ方向を指している。──御所。殿上。火。


隣を見ると、チトセは半分眠っていた。

役目の疲れが出たのだろう。馬車の中まで入り込む焦げた匂いのなかで、うとうとと首を揺らしている。


簾越しに伴の声がかかった。

「もし、もし。若、姫君、急ぎますぞ」


手綱が波打ち、馬車の揺れが少し荒くなる。速度が上がった。


七条から五条、四条へ。景色が流れていく。

本邸へ向かう曲がり角を過ぎたとき、匂いが一段と強くなった。


焦げた木の匂いに、別のものが混じる。

甘く、重く、鉄を含んだ匂い。


──死の匂いだった。



御所から大通りを二つ隔てた日向の本邸は、焼け落ちていた。


門は無惨に崩れ、壁は黒く焦げ、庭の白砂は灰に覆われている。

火はすでに勢いを失っていたが、地の奥に残る熱気が空気を歪ませていた。


シロウは呆然としながら、伴に促されて馬車を降りた。

日向家の邸宅──三百有余年、代々受け継がれてきた大邸宅が、目の前で瓦解している。


「……これは、ひどい……いったい」


供回りが言いかけて、口をつぐんだ。

そのとき、邸の奥から人影がまろび出てきた。灰にまみれ、髪を乱し、まともに立てずにいる。


「若……! 若っ……!」


泣いていないのに、泣いているより痛ましい声だった。

長く邸に仕えてきた老僕だ。喉を焼いたのか、声が途中で掠れる。


シロウは老僕を伴に任せ、自分は邸の中へ駆けた。

足裏が灰を踏み、わずかに滑る。砂利の音がしない。

邸が、音を返してこない。


火の跡は深かった。

梁は崩れ、襖は落ち、長い廊下は途中で途切れている。

ここが日向の邸だという感覚が、遅れて追いついてくる。その遅れが、胸を締めつけた。


邸内へ踏み込むと、足元に何かが転がっていた。

鎧を着けたまま焼けた家臣。庭に伏せた郎党。

焼けていない身体からは、血の匂いが立ち上る。


焦げと、血。

焼けた死と、焼けていない死が、同じ場所にあった。


「……父上は」


問いは、願いに近かった。

答えを聞きたくないのに、確認しないわけにはいかない。


老僕は、目を逸らした。

頬に黒く濡れた跡がある。灰と涙と──別のものが混じった色。


「……殿上でございます」


喉の奥が冷えた。


「清涼殿の、殿上で……夏越祓の最中に……」


殿上。夏越祓。

その二つだけで、場の重さが分かる。


老僕は言葉を探すように俯き、震える息をひとつ吐いて続けた。


「……それだけでは、ございません」


その一言で、シロウは目をつむった。


「本邸に残っていた若君方──三人とも……御前(ごぜん)の弟君も……皆、斬られました」


声は淡々としていた。淡々としているぶん、胸に刺さった。


父。弟たち。叔父上。

日向の名を継げる直系の男子は──嫡子の自分を残して、誰一人生きていない。


シロウは、その事実をすぐには受け止めきれなかった。

嘆く前に理解してしまったのだ。日向家の重責が、否応なく自分の肩へ落ちてくることを。


「誰が……やった」


絞り出した問いに、老僕は首を振った。

知らないのではない。言いたくないのだ。言えば、それが現実になる。


代わりに、別の供回りが低く言った。


扇蔓(おうぎかづら)が郎党を率いて……」


誰かが息を飲んだ。だが、それ以上は続かなかった。

名を口にした瞬間、都の災いが“形”を持った気がした。


いつの間にか隣にいたチトセが、一歩だけ前へ出た。

足元の灰が舞い、白い衣の裾を汚す。


泣きはしなかった。声も上げなかった。

ただ、唇を強く噛み、邸の奥を見ている。


その沈黙が、重かった。



夜が来るまで、邸には人が出入りした。

役人が来て検分が行われ、帳面に何かが書かれ、印が押された。

遺体は布で包まれて運ばれ、灰の上に残る跡だけが、風で薄くなっていった。


シロウもチトセも、供回りも、(たちばな)本家へ頼るのではなく、延焼を免れた庭の土倉(どそう)に身を寄せて夜を明かした。


払暁(ふつぎょう)の頃、使者が来た。

橘本家の紋の入った文が、冷たい声で読み上げられる。


「──日向家、扇蔓家。両家ともに、都を騒乱に陥れ、国家祭祀を穢したる不名誉により、家名を没収する」


シロウが息を飲んだ。読み上げは続いた。


「──ただし、日向家については、橘本家の奏上により、特別な恩情を賜った。仇討ち成就の暁には、家名回復の(みち)を開こう」


恩情──その言葉が、より冷たく感じられた。

片膝をつき、書状を恭しく受け取る。生き残った兄妹に残された道は、ひとつしかない。


土倉の隅で見つけた、父の形見の刀を、チトセが握りしめていた。


「……行こう」


声は掠れていた。それでも、シロウは言った。

チトセが小さく頷く。


夏越祓の香は、もう消えている。

残っているのは、焦げと灰と、終わらない血の匂いだけだった。


その匂いは、都の外へ出ても──きっと離れない。

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