33.香、血、炎
打ち交される刃の音は、規律に似る──
揃っていれば美しいが、揃いすぎれば不気味だ。
グラーツ王国軍の練兵場では、毎朝、その不気味さが磨かれていた。
槍は斜め四十五度、盾は胸の高さ、踏み込みは一拍も遅れず──号令が飛ぶたび、十の足が同じ場所を叩く。
汗と鉄と、乾いた皮革。これらは、戦に勝つための匂いだ。
扇蔓ミチツラは、その列の外側に立っていた。
訓練の全体を見る位置。指揮をする位置である。
十名。
今、彼が預かっている兵の数だ。この国では「分隊」と呼ばれる。
彼は、指を一本だけ上げた。
その合図で、五名の部下が動いた。槍先が揃い、盾が滑るように動く。
五名ずつで向かい合い、木槍が鳴る。打ち合う音は乾いているのに、呼吸と気合の熱は濃い。
──悪くない。
ミチツラは、隊の評価を胸の内で短く切った。声に出す必要はない。
部下たちは、褒められることよりも、次に何をすべきかを求めている。
グラーツ軍の空気が、そう育てるのだ。
過日、レーヴェン王国に喫した痛手は、数字としては整理されても、拭い去ることはできない。盾の縁に残る刃痕、槍柄の割れ、空になった寝台、欠けた名前。
そういうものが、軍の規律をより強固にした。
勇敢さよりも確実性を、誇りよりも結果を。
次は負けない、では足りない。次は完全なる勝利を──それが今のグラーツの合言葉だった。
ミチツラはその空気に馴染んでいる。
馴染んでいることが、自分でも意外だった。
ここへ来たとき、彼は一兵卒として雇われた。
剣の腕だけが確かな、異国の流れ者。
極東の島国から来た、素性も曖昧な男。
グラーツ軍は、そういう人間を拒まない。
拒まない代わりに、試す。
試して、使えるなら戦場で使い潰す。
だが、彼は潰れなかった。
潰れなかったから、十人を預けられた。
「……よく動いている」
背後で、誰かが呟いた。将校の声だ。声色は驚きに寄っている。
羨望ではない。警戒でもない。
「なかなか良い隊に育っているな」
「はっ!」
襟元を見た瞬間、階級の差を悟り、ミチツラは最敬礼を返す。
「貴様も相当に使うと聞いているぞ」
最敬礼を崩さないまま恐縮の意を示した。
「恐れ入ります」
将官には悪意の欠片もなかったが、値踏みをされたような視線が送られた。
肩を叩かれる。ミチツラはそれを不快に思わなかったが、瑞穂国では考えられない距離感だった。
「黒目黒髪とは、どこの国の者だ」
「極東の島国ということです」
「はあ、とんだ田舎者ではないか」
少し離れた位置で別の将官と佐官が会話をしているのが耳に届く。
侮辱と受け取るには、あまりに露骨な言葉だった。
ミチツラは振り向かない。聞こえないふりをする必要もない。耳に入ったものを、顔に出さない訓練は、ここへ来る前から身についている。
彼は、瑞穂国の軍事貴族だった。
◆
大陸暦二九九年。──皇紀一七五七年、水無月晦日。
白都の空は薄く曇り、夏の輪郭だけが淡く残っていた。
清涼殿へ通じる回廊には、香が焚かれている。沈香とも白檀とも違う、穢れを祓うための匂いだった。鼻先に刺さるわけではないのに、吸い込むほどに胸の奥が乾く。
扇蔓ミチツラは殿上の外縁にいた。
祭祀参加者ではない。警備・供奉の役目であり、刀を帯びてよい側の人間だ。帯びてよいと言っても、軍事貴族としての誇りのためではない。必要があればここで刃を振るい、尊き人々を守るための許しだ。
彼はその立場を理解していた。理解していることが、かえって喉の奥を苦くした。
殿上の内側では、衣の色が重なり、風に揺れる袖は静かで、足音はほとんどしない。木の床は磨かれ、歩く者の重さを吸い込むように音を抑える。
夏越祓。この国の半年の穢れを祓い、夏を迎えるための国家祭祀。
茅の輪は、遠目にも大きかった。
くぐれば身が軽くなると言う。
だが、軽くなるのは身だけで、名まで軽くなるわけではない。
扇蔓家は新興だった。
武をもって仕える家。血統の古さがなくとも、尊き人々の役に立つことを誇りにする家。
ミチツラは、祝詞が始まる前の空気を知っている。ここに立つのはもう何度目だろう。
祭祀の場では、人は息を合わせる。合わせることで、穢れが外へ押し出される。合わせ損ねた者は目立つ。目立てば穢れになる。穢れになれば、祓われる側に回される。
その仕組みが、恐ろしいほどよくできていることを、彼は知っていた。
武で生きる者ほど、それに気づく。戦場の規律と似ているからだ。
揃えさせることで、揃わない者を浮き立たせる。
殿上の中央──視線の集まる場所に、日向家の当主がいた。四大貴族、橘家の由緒正しき分家だ。
祀典副監。祭祀の実務を担う役割である。
ミチツラは、その背中を見ていた。
見ているうちに、無意識に自分の姿勢を正していることに気づいた。腹立たしい。正されることが腹立たしい。
正しているのは自分の意思のはずなのに、正させられているように感じる。
——ここで失敗すれば、家は笑われる。
扇蔓家は軍事貴族だが、貴族だ。貴族であるがゆえに、礼法を知らねばならなかった。礼を知らねば、恥をかく。恥をかけば、家が沈む。家が沈めば、郎党が散る。
ミチツラに礼を教えたのは日向家の当主だった。
日向。宮中に近く、古い血を重んじ、刃よりも作法を武器にする家。
ミチツラは、日向家の当主から多くを教わった。教わったはずだった。
祝詞が始まった。
声は滑らかで、遠い水音のようだった。言葉の意味より先に、音が身体に入ってくる。
胸の内側に冷たいものが広がる。
供奉の列は微動だにしない。
ミチツラも動かない。動けば目立つ。目立てば穢れになる。
彼は動かない代わりに、思考だけを動かしていた。思考の奥で、何度も「足りない」という言葉が跳ねた。
分担金。付け届け。作法。順序。席次。挨拶の作法。沈黙の長さ。
扇蔓は足りない。足りないと言われる。足りない、足りない、足りない……。
日向当主が、視線をこちらへ寄越した──ように見えた。
実際には違うかもしれない。殿上の視線は複雑で、誰が誰を見ているかは分かりにくい。だが、ミチツラの身体はその視線を“自分に向けられた”と受け取った。
そして、誰かが「足りておらぬな」と言った。
衣擦れが、止んだ。
その一瞬で、彼の中の何かが壊れた。
日向当主が言ったわけでもない。
殿上人が声を張り上げたわけでもない。
むしろ声は低く、淡々としていた。
「————!」
自分がその時何を叫んだのか、言葉の内容を、ミチツラは正確に思い出せない。
覚えていないのではない。ただ「屈辱」という塊だけが胸に落ちた。
指摘だったのかもしれない。職責としての助言だったのかもしれない。
あるいは、別の誰かへ向けた言葉だったかもしれない。
だが殿上の言葉で、ミチツラは斬られたと思った。
呼吸が一拍だけ乱れた。
乱れたことに「気づかれた」と感じた。
気づかれた瞬間、殿上全体が彼を見ているように思えた。
実際には、誰も見ていないかもしれない。
だが、見られたと思い込んだ者は、もう自分の内側だけでは済まない。内側の恥が、外側の恥になる。外側の恥は、家の恥になる。
ミチツラは、自分の手が袖の中で動いていることに気づいた。
気づいたときには、もう止まらなかった。
刃を抜く感覚は、慣れているはずだった。
だがこのときの刃の重さは、戦場のものとは違っていた。
鉄の重さではない。言葉の重さだった。殿上の空気の重さだった。
半年の穢れを背負わせてくる、国家の重さだった。
音がした。
乾いた音ではない。
布が裂け、骨に触れ、息が切れる音。
次に何が起きたのか。
どれだけの目がこちらを向いたのか。
誰が叫んだのか。
誰が止めようとしたのか。
ミチツラは、そのすべてが薄靄の向こう側で起こった出来事のように感じた。
ただ確かなのは、自分の刃が鞘へ戻らなかったことだ。
戻す前に、すでに誰かが死んでいた。
殿上の空気が、音もなく変わった。
夏越祓の香が、別の匂いに変わった。それは戦場で嗅ぎ慣れた匂い。
ミチツラは足元の定まらぬまま、外縁に立ち尽くし、自分が今、どちら側にいるのか分からなくなった。
祓う側なのか、祓われる側なのか。
守る側なのか、壊す側なのか。
だが、夏を穢すには——
一太刀で足りた。
◆
夜、兵舎の寝台で、ミチツラは天井を見ていた。
分隊長だけが集う四人部屋だが、いまはミチツラしかいない。
木の梁の影が、灯りに揺れている。
瑞穂国。
扇蔓の家。
家臣や郎党たちの顔。
それらは、もはや帰る場所ではない。
取り戻す名でもない。
彼が失ったものは、すでに過去の中で完結している。
悔いがないとは言わない。
だが、やり直せるとは、最初から思っていない。
今の自分は、グラーツ王国軍の兵であり、ゲルハルドの配下であり、勝利のために振るわれる刃だ。
忠義は、どこに向くのか。
国ではない。
理念でもない。
ましてや正義ではない。
勝てる戦を選ぶ。
それだけだ。
そのために壊れるものがあるなら、
それは戦争の中で壊されたのではない。
戦争が始まる前に……すでに壊れているのだ。
そう線を引かなければ、剣は振れない。
ミチツラは、静かに目を閉じた。
33.5.夏を穢す火
──皇紀一七五七年、水無月晦日。
日向シロウと日向チトセは、父の依頼で供回りとともに、洛外南方の大社へ出向いていた。
夏越祓の奉納と、いくつかの確認。名門貴族の日向家にとっては、珍しくもない役目だった。
帰りの馬車は揺れも少なく、穏やかだった。
大社の森は深く、蝉の声が遅れて響く。涼風が簾越しに肌へ流れ、夏はまだどこか慎ましく感じられた。
だが、白都に近づくにつれ、空気が変わった。
洛外からでも、洛中の方角に薄い煙がたなびいているのが見える。
──おかしい。
夏越祓の日に、都が煙る理由がない。
火を焚くにしても、こんな煙の筋にはならない。
羅城門をくぐって洛中へ入ると、匂いが先に来た。
夏越祓の日の都には香が漂う。──だが、これは香ではない。
鼻の奥を刺す、焦げた木の匂い。焚き火とも窯とも違う。
もっと荒々しい、燃え広がった火の匂いだった。
「……何か、焼けています」
供回りの一人が、低い声で言った。
その声が低いだけで、事態の大きさが伝わる。
市街へ入ると、違和感ははっきりした。
人は多い。だが、賑わいではない。
立ち尽くす者。荷を抱えて走る者。門の方を振り返り、何度も空を見上げる者。
通りの片側では露店が出しっぱなしで、反対側では店主が戸を閉め、家族を中へ押し込んでいる。
「何があった?」
供回りが通りすがりの男に声をかける。
「分からん……御所の南で火が出たとか……いや、殿上で刃傷だとも……」
男の言葉は、すぐ別の怒鳴り声にかき消された。
別の声が重なり、通り全体がざわめきに沈む。噂が噂を呼び、形になる前に溶けていく。
シロウの耳に届くのは、断片だけだった。
だが、断片の端が、どれも同じ方向を指している。──御所。殿上。火。
隣を見ると、チトセは半分眠っていた。
役目の疲れが出たのだろう。馬車の中まで入り込む焦げた匂いのなかで、うとうとと首を揺らしている。
簾越しに伴の声がかかった。
「もし、もし。若、姫君、急ぎますぞ」
手綱が波打ち、馬車の揺れが少し荒くなる。速度が上がった。
七条から五条、四条へ。景色が流れていく。
本邸へ向かう曲がり角を過ぎたとき、匂いが一段と強くなった。
焦げた木の匂いに、別のものが混じる。
甘く、重く、鉄を含んだ匂い。
──死の匂いだった。
◆
御所から大通りを二つ隔てた日向の本邸は、焼け落ちていた。
門は無惨に崩れ、壁は黒く焦げ、庭の白砂は灰に覆われている。
火はすでに勢いを失っていたが、地の奥に残る熱気が空気を歪ませていた。
シロウは呆然としながら、伴に促されて馬車を降りた。
日向家の邸宅──三百有余年、代々受け継がれてきた大邸宅が、目の前で瓦解している。
「……これは、ひどい……いったい」
供回りが言いかけて、口をつぐんだ。
そのとき、邸の奥から人影がまろび出てきた。灰にまみれ、髪を乱し、まともに立てずにいる。
「若……! 若っ……!」
泣いていないのに、泣いているより痛ましい声だった。
長く邸に仕えてきた老僕だ。喉を焼いたのか、声が途中で掠れる。
シロウは老僕を伴に任せ、自分は邸の中へ駆けた。
足裏が灰を踏み、わずかに滑る。砂利の音がしない。
邸が、音を返してこない。
火の跡は深かった。
梁は崩れ、襖は落ち、長い廊下は途中で途切れている。
ここが日向の邸だという感覚が、遅れて追いついてくる。その遅れが、胸を締めつけた。
邸内へ踏み込むと、足元に何かが転がっていた。
鎧を着けたまま焼けた家臣。庭に伏せた郎党。
焼けていない身体からは、血の匂いが立ち上る。
焦げと、血。
焼けた死と、焼けていない死が、同じ場所にあった。
「……父上は」
問いは、願いに近かった。
答えを聞きたくないのに、確認しないわけにはいかない。
老僕は、目を逸らした。
頬に黒く濡れた跡がある。灰と涙と──別のものが混じった色。
「……殿上でございます」
喉の奥が冷えた。
「清涼殿の、殿上で……夏越祓の最中に……」
殿上。夏越祓。
その二つだけで、場の重さが分かる。
老僕は言葉を探すように俯き、震える息をひとつ吐いて続けた。
「……それだけでは、ございません」
その一言で、シロウは目をつむった。
「本邸に残っていた若君方──三人とも……御前の弟君も……皆、斬られました」
声は淡々としていた。淡々としているぶん、胸に刺さった。
父。弟たち。叔父上。
日向の名を継げる直系の男子は──嫡子の自分を残して、誰一人生きていない。
シロウは、その事実をすぐには受け止めきれなかった。
嘆く前に理解してしまったのだ。日向家の重責が、否応なく自分の肩へ落ちてくることを。
「誰が……やった」
絞り出した問いに、老僕は首を振った。
知らないのではない。言いたくないのだ。言えば、それが現実になる。
代わりに、別の供回りが低く言った。
「扇蔓が郎党を率いて……」
誰かが息を飲んだ。だが、それ以上は続かなかった。
名を口にした瞬間、都の災いが“形”を持った気がした。
いつの間にか隣にいたチトセが、一歩だけ前へ出た。
足元の灰が舞い、白い衣の裾を汚す。
泣きはしなかった。声も上げなかった。
ただ、唇を強く噛み、邸の奥を見ている。
その沈黙が、重かった。
◆
夜が来るまで、邸には人が出入りした。
役人が来て検分が行われ、帳面に何かが書かれ、印が押された。
遺体は布で包まれて運ばれ、灰の上に残る跡だけが、風で薄くなっていった。
シロウもチトセも、供回りも、橘本家へ頼るのではなく、延焼を免れた庭の土倉に身を寄せて夜を明かした。
払暁の頃、使者が来た。
橘本家の紋の入った文が、冷たい声で読み上げられる。
「──日向家、扇蔓家。両家ともに、都を騒乱に陥れ、国家祭祀を穢したる不名誉により、家名を没収する」
シロウが息を飲んだ。読み上げは続いた。
「──ただし、日向家については、橘本家の奏上により、特別な恩情を賜った。仇討ち成就の暁には、家名回復の途を開こう」
恩情──その言葉が、より冷たく感じられた。
片膝をつき、書状を恭しく受け取る。生き残った兄妹に残された道は、ひとつしかない。
土倉の隅で見つけた、父の形見の刀を、チトセが握りしめていた。
「……行こう」
声は掠れていた。それでも、シロウは言った。
チトセが小さく頷く。
夏越祓の香は、もう消えている。
残っているのは、焦げと灰と、終わらない血の匂いだけだった。
その匂いは、都の外へ出ても──きっと離れない。




