表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
32/45

32.遠き鐘音

――大陸暦三〇五年、白の節。


朝霧が、草を濡らしたまま低く地を這っていた。

前線陣地の杭と綱が薄白く浮かび、遠くの見張り台だけが、霧の向こうで輪郭を保っている。


槍の石突きが地を叩く音が、一定の間隔で続いていた。

革紐を締め直す指。留め具を返す指。乾いた布で刃を拭う指。

どれも同じ速度で動いている。


アルノルト・ツァ・ラウエンは、馬柵の外からその様子を眺めていた。

兵たちの準備を見ているだけで、彼の呼吸も、自然と落ち着いていく。


陣は生き物だ。

腐った布の匂い、濡れた穀物の匂い、焦げた油の匂い。

だが今は違う。乾草の甘い匂いと、革の匂いと、磨かれた鉄の匂い。

戦を迎える前の匂いが、過不足なく漂っていた。


馬房の方から、低い鼻息が聞こえた。オルヴァンだ。

青毛の巨体が柵の陰で首を振り、たてがみの水滴が小さく散る。


アルノルトが近づくと、馬は目だけを動かしてこちらを見た。

落ち着いている。今日は興奮していない。むしろ、力を溜めているようだった。


その脇で、シロウが手綱の革具を点検していた。

指先で縫い目をなぞり、何も言わずに一度だけ頷く。


「問題ないな」


アルノルトの言葉に、シロウは短く答えた。


「はい。問題ありません」


飼葉は足りている。

干し草は雨よけの布の下に積まれ、穀物袋には封がある。

矢は束ねられ、折れた矢の回収箱まで用意されていた。

矢羽根を直す小さな道具箱も、数を揃えて並んでいる。


予備の槍は刃を上にして立てられ、刃先は布で覆われていた。

雨が刃を鈍らせないように――そんな細かい気遣いが、陣のあちこちに行き届いている。


「……準備が整ってるな」


独り言に近い声だった。


戦争が近づくと、陣のどこかに必ず乱れが出る。

焦って余計な荷を積む者が現れ、逆に、肝心な備えを忘れる者も出る。

人が増えれば声は交錯し、命令は遅れ、責任の所在が曖昧になる。


だが、今の陣地には、その兆しがほとんどなかった。


動きは滑らかで、どこか余裕がある。

すべてが揃っているわけではない。

だが、足りないものがすぐ分かるようになっていた。


補給の帳簿も、兵の割り当ても、予備の矢も――

消耗する前提で、最初からそこにある。


これほど行き届いた戦争準備を、アルノルトはまだ見たことがなかった。


誰の采配かを、兵は口にしない。

言う必要がないからだ。

命令書に記された名を読まなくても、動けば分かる。


抜け目がなく、それでいて息苦しくない。

こういうやり方を知っている者は、多くない。


アルノルトはオルヴァンの首筋を撫でた。

皮膚の下で筋が静かに動き、馬は小さく鼻を鳴らす。温かい。


馬房の向こうで、若い兵が乾燥肉の束を運びながら、同僚に小声で話していた。


「予備、多いな。去年の倍はある」

「無駄に見えるくらいだな……でも、助かる」


アルノルトは、聞いていないふりをしながら耳を澄ませた。

戦場では、声の端に真実が落ちている。


「……総帥、まだ決まらないらしい」

「決まらないって、どういうことだよ」

「王都が慎重だとさ。便利な言葉だよな」

「今回も辺境伯だろ……?」

「……さあな。王都の空気が変だって、上が言ってた」


そこだけが、妙に曖昧だった。


同じ会話を耳にしたシロウが、わずかに眉を動かす。


「……なぜ決まっていないのでしょうか」


言外に、「決まりきっているはずだ」という響きが滲んでいた。


兵站命令は次々と届く。

補給、防衛線の補修、予備兵力の割り当て――どれも明確だ。

紙の上の線と数が、現場の土と汗に変わっていく。


だが、「誰がこの軍を率いるか」だけが、どこにも書かれていない。


命令書の束を受け取る騎士の手元を見る。

封蝋は割られ、紙は開かれ、読み上げられる。

名は、辺境伯府経由。あるいは、その印の下に整った字が並ぶ。


どれも手際がいい。

だが、総指揮権や大会戦、最終裁可――

それに関わる文言だけが、綺麗に抜かれていた。


「……そうか」


胸の奥に、細い針のような違和感が刺さる。


兵は動いている。

馬も肥えている。

物資も揃っている。

防衛線も固まりつつある。


戦う準備としては、申し分ない。

それなのに、どこか地に足がついていない感覚があった。


――もし、この軍が別の号令で動くとしたら。


号令とは、兵が命を預ける言葉だ。

退けと言われたとき、本当に退けるか。

押せと言われたとき、迷わず前に出られるか。

撤退の殿軍(リアガード)――最後に残って敵を食い止める役を、誰に任せるのか。


アルノルトは手綱の革を撫でた。

乾いている。手入れが行き届いている。

馬も落ち着いている。――だからこそ、不安が際立つ。


戦争は、まだ始まっていない。

だが、始まる前に決めておくべきものが、決まっていない。


霧の向こうで、見張り台の鐘が一度だけ鳴った。合図ではない。点検の音だ。


けれど、アルノルトにはそれが、妙に耳に残ったのだった。



王都の貴族院は、まるで石でできた箱のようだった。

王城のすぐそばに建ち、厳然とした威容で存在感を示していた。


その中でも最も広い議場には、天窓から淡い日差しが落ち、床の大理石に白い矩形を描いていた。

壁は高く、厚い。

誰かが咳払いをひとつすれば、その音が議場の隅々まで届く。


列席する貴族たちの衣擦れは静かで、羽根飾りの揺れも最小限だった。

白の節にふさわしい色合い――白、灰、深い青が目立つ。


議長席に近い場所で、ひとりの伯爵がゆっくりと立ち上がった。

声を張り上げる必要はない。この場では、小さな声ほどよく通る。


「諸卿。国境戦争の動員が始まった。前線の準備も、着実に進んでいると聞く」


静かな口調だった。

だが、“聞く”という言い回しが、すでに前線との間に距離を作っている。


「――だが、それを誰が主導しているか。考えた者はいるか」


返事はなかった。

答えを求める問いではないと、誰もが理解している。


「辺境伯セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル。彼は有能だ。だからこそ、ここで一度、問い直さねばならぬ」


“有能だ”という言い方は、褒め言葉であると同時に、警戒の言葉でもある。

議場の空気が、少しだけ固くなる。


「だからこそ、今一度、線を引く必要がある」


別の貴族が、椅子に深く腰掛けたまま口を開く。


「線、とは?」


「王権と軍権の距離だ。戦時には、どうしても判断が前線に集まる。だが、それが常態化すれば――」


言葉はそこで切られた。

続きを言わずとも、誰もが先を想像できる。


「我らが問うべきは、辺境伯の独走(・・)だ。王権と軍権の均衡だ。戦時にこそ、均衡は崩れやすい」


別の男が、わずかに身を乗り出す。

声に棘はない。棘が見えないことが、棘の強さだった。


「前線に任せきり、というのは便利だ。だが、便利さは習慣になる。習慣は暗黙の仕組みとなる。仕組みになれば、誰も止められぬ」


「止められぬ?何を止められぬというのか」


穏やかな反問が飛ぶ。対立ではない。確認だ。

議場では、議論は勝ち負けではなく、言葉を重ねて積み上げるものだ。


「権限の肥大化を、だ」


肥大化。嫌な言葉が、静かに転がった。


「戦時に権限が集中するのはやむを得ぬ。だが、その集中が“常態”になればどうなる?前線が王都の裁可を待たずに動くことが当たり前になれば――」


「王都は、後追いになる」


「あるいは、形式だけを残す存在になる」


否定の声は上がらない。正論だからだ。


「形式に落ちるものは、やがて軽んじられる。軽んじられれば、国が裂ける。――だからこそ、今だ」


椅子の脚が床を擦る音が、ひとつ。誰かが立ち上がろうとして、やめた。


低い声が、あえて曖昧な言葉を選んで言った。


「誤解のないように言っておく」

最初に立った伯爵が、静かに続ける。


「我々は、辺境伯を断じたいわけではない。罪を問うつもりもない」

その前置きが、かえって疑念を強めた。


「だが、説明は必要だ。軍の動きが速すぎる。物資手配が、あまりにも滞りなく進んでいる」


“滞りなく”という言葉に、何人かが視線を伏せた。

それは称賛にも聞こえるが、この議場では、別の意味を持つようだった。


「戦時で兵を集め、軍を動かしているからこそ、その判断の責任がどこにあるのかが問われる。王都に顔を出さぬ者は、疑念を招く」


「顔を出さぬ、ではない。出せぬのだ。前線におるのだ。敵がそこにある以上――」


「敵があるのは分かる。だが、王国の中枢は王都にある。国を預かる者が、中枢から長く離れれば離れるほど、国は不安になる。民も、貴族も、兵もだ」


“兵も”と付け加えたのは巧妙だった。

戦場の不安を、王都の理屈に取り込む。誰も反論しづらくなる。


「総帥の任命についても、同様だろう」


ここで、核心がさらりと口にされた。


「現時点で決める必要はない。前線は小競り合いが続く。まだ大会戦までは時間がある」


「慎重であるべき、ということか」


「そうだ。急ぐ理由はない」


議場の空気が、ほんのわずかに緩む。

“決めない”という判断が、共有された瞬間だった。


「戦争は、勝てばよいというものではない」


別の貴族が、静かに言った。


「勝ち方を誤れば、国の形が歪む。……それは避けねばならぬ」


誰も反論しなかった。

反論する理由が、用意されていない。


議場の隅で、若い男爵が小さく息を吐いた。

改革派として知られる人物だったが、この場で声を上げることが、誰の得になるか――

その計算が、彼の口を閉ざしていた。


「では、確認しよう」


議長が立ち上がる。

その声が出た時点で、議論はすでに終わっている。


「辺境伯の権限行使について、王都は説明を求める。軍権の均衡を保つため、総帥の任命は慎重に扱う。――以上だ」


異議は出なかった。

異議を唱える余地が、用意されていない。


こうして、剣の抜かれぬ場所で、戦争の形がひとつ歪められた。


厚い石壁を越えて、聖堂の鐘がかすかに響く。

王都ルミナスは、まもなく夕暮れを迎えようとしていた。



前線の夜は深かった。


日が落ちると、霧は薄くなり、代わりに冷えが降りてくる。草は昼より硬く、土は昼より重い。焚き火の火は小さく、煙は低く流れた。敵に見せるための火ではない。暖を取るための火だ。


兵は休み、馬は草を噛んでいる。武具は磨かれ、革は乾かされ、矢筒は揃えられている。


アルノルトは火の近くに腰を下ろし、掌をかざした。皮膚の奥まで温まるほどの熱はない。それでも火は火だ。存在しているだけで、ありがた味がある。


少し離れた位置に、シロウが控えている。従士として火の番をしながら、音を立てずに周囲へ目を配っていた。動きに無駄がない。視線だけで周囲を測り、必要とあらば即座に動ける姿勢を保っている。


そのさらに外側では、ラウエン家の老いた従士が、地に腰を下ろしたまま目を閉じていた。眠っているようにも見えるが、決して気配は途切れていない。長年、父の背を守ってきた者の振る舞いだった。


焚き火の向こう側に立つ影が一つあった。

エーベルハルト家の平騎士だ。鎧兜は外しているが、直立の姿勢は崩していない。


少し離れて、もう一人。


セリーヌ・ヴェン・エーベルハルトは、焚き火の明かりの縁に歩み寄ってきた。剣は腰に帯びたまま、だが鎧も鎖帷子も脱ぎ去り、鎧下着(ガルベゾン)に外套という出で立ちだった。視線は前線の闇へ向けられ、表情は硬い。


アルノルトは立ち上がり、姿勢を正した。


「……お疲れのところ、恐れ入ります。セリーヌ様」


セリーヌは小さく首を振った。


「構いません。状況を確認していただけです」


言葉は短い。だが、その声音には前線に立つ者としての緊張があった。


アルノルトは再び腰を下ろし、焚き火に目を落とす。


「……決まらないものがあると、落ち着かないな」


ぽつりとこぼした言葉は、誰かに向けたものではなかった。


しばらくして、シロウが火を見たまま、静かに口を開く。


「軍総帥のことでしょうか」


「それだけじゃない。……声だ。『辺境伯がいれば』という声が、な」


「声」


シロウは問い返さなかった。ただ、その言葉を噛み締めるように、低く繰り返す。


アルノルトは焚き火の枝を一本だけ足した。

ぱち、と小さく爆ぜた音がして、火が一瞬だけ明るくなる。その明るさが、かえって周囲の闇を濃くした。


「命令書は届く。物資も届く。人も集まる。――だが、今この前線は最後に『俺が決めた』と言う者がいない」


老従士が、わずかに顎を引いた。

平騎士の肩が、一瞬だけ強張る。

セリーヌは何も言わず、視線を逸らさなかった。


「辺境伯がいてくだされば、迷いはないのですが」

シロウが、初めてはっきりと言った。


それは断定でも、願望でもない。ただの事実だった。


アルノルトは息を吐いた。吐いた息は暗がりに溶ける。


「……そういう声が、多すぎるのかもしれないな」


「多すぎる?」


「英雄は便利だ。皆が頼る。皆が安心する。……だから、怖がる者も出る」


政治の言葉を、アルノルトはまだ上手く紡げない。だが、肌で感じることはある。


馬柵の方から、オルヴァンの鼻息が聞こえた。草を噛む音が、ゆっくりと続く。


アルノルトは立ち上がり、馬柵まで歩いた。柵の向こうで、青毛の大きな影が動く。


陣容は整っている。

整っているからこそ、欠けているものが、よりはっきりと見える。


誰の号令で、この軍が動くのか。


その答えだけが、まだここにはなかった。


背後で、見張り台の鐘が鳴った。昼と同じく、点検の音だ。合図ではない。敵影もない。何も起きていない。


けれど、アルノルトにはその音が、遠い場所で誰かが何かを決めた知らせのように聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ