31.余熱
小戦の勝利を得た帰途には、張りつめた糸がぷつりと切れたあとのような、柔らかな空気が満ちていた。
夕陽が草原を金色に染め、風はひどく涼しい。汗と鉄と草いきれが薄まっていく代わりに、冷えた土と遠い川の匂いが鼻を通る。馬たちもどこか安堵した息を吐き、それが白く揺れた。
コンラートは、その安堵を一気に爆発させた。
「は、はぁ……っ!うわぁぁ……っ、生きて帰れたぁぁ!!」
「……はい、生きていますね。おめでとうございます」
「ちょ、ちょっと!真顔で言わないでよアルノルト!僕、今すっごく感動してるんだから!」
周囲の平騎士たちが堪えきれずに苦笑し、歩兵の若者たちがくすりと笑う。十八歳の若者が緊張から解き放たれてはしゃぐ様子は、もはや微笑ましいほどだった。
コンラートは馬上で肩をすくめ、胸を押さえ、そして突然、何かに取り憑かれたように首を左右へ振った。
「いやぁ……っ。僕、ちゃんとやれてたよね!?……ね!?ね!?」
「はい。堂々としていましたよ」
「だ、だよね!?ああ~~兄上たちに自慢できるぅ~~っ!」
言葉が跳ねるたび、鎖帷子がしゃらりと鳴った。鳴っているのは金属だけではない。胸の奥の怯えが、笑いに形を変えてほどけていく音が、そこに混じっていた。
やがて、ツェルバハ領へ向かう道が分岐する地点に差しかかると、コンラートに随行していた騎士や歩兵たちは、編成を整え直した。
夕暮れの光が道標の木柱を赤く染め、影が長く引き延ばされる。そこだけが、戦場と屋敷とをつなぐ継ぎ目のように見えた。
「じゃあ……僕はここから戻るよ!」
「コンラート様。近いとはいえ、どうぞお気をつけて」
「う、うん!き、気をつける!今日は……その……ありがとう!」
最後の言葉は、子どもが急に背伸びをしたみたいにぎこちなかった。
コンラートは何度も馬首を返しながら去っていった。振り返り、振り返り、そのたびに夕陽が彼の金髪を薄く燃やす。まるで、恐怖がまだ背中のどこかに縫い付けられているのを確かめるように。
その背を見送り、ラウエン家一行は村へ戻る道を進みはじめた。
勝った。生きている。――その事実だけで、胸の中の何かが熱を持ち、まだ冷めきらない。
◆
ラウエン家の邸宅の前で、エーベルハルト男爵と数騎の供回りが待っていた。
ツェルバハ子爵へ、コンラートの初陣祝をする途上だという。
ツェルバハ領へ向かう街道は、この開拓村の先で枝分かれする。
男爵は「帰投するラウエン家一行を出迎え、労ってから向かう」と決めていたらしい。
エーベルハルト男爵が馬上から声をかけた。
左腕の袖は空で、風に揺れている。
第三次国境戦争で失われたその腕は、勇将と称えられた男の名残であった。
ラウエン家とその従者たちは、男爵を前に一斉に下馬した。ヘルマンもまた、騎士として礼を尽くす。
鎧の留め具が静かに軋み、馬の鼻息が白く立つ。
「ヘルマン殿、よくぞご無事で」
「男爵様こそ──ご壮健で」
「変わらんよ。……娘に叱られてな。寝ている暇はない、と」
男爵は短く言い、口の端だけで笑った。笑いはすぐに消える。
代わりに残ったのは、折れかけた男が、再び立ち上がろうとしている強い意気であった。
男爵の視線はアルノルトへ移る。
「アルノルト。無事で重畳」
「ありがとうございます、男爵様」
「……セリーヌも、お前を案じておった」
アルノルトの胸が、熱に触れられたように、わずかに疼く。だが、彼は姿勢を崩さない。
男爵はほんの一瞬だけ目を細めた。
(……本当に、良い若者になった。あの子が惹かれるのも、無理はない)
しかし現実として──いまのままでは二人が結ばれることはない。男爵はそれを誰よりよく理解していた。理解しているからこそ、言葉は余計に短くなる。
「ヘルマン殿。互いに子を持つ身……戦は、心臓に悪いですな」
「ええ。どれほど経験を重ねても、慣れぬものです」
「──次の戦では、うちの娘も出るやもしれません。左腕のない我が身の代わりとなる」
空の袖が、風にふわりと膨らんで、しぼんだ。失ったものは戻らない。
「セリーヌ殿が……ですか」
「ふむ。アルノルト、あの子の力になってくれ。……父親としての頼みだ」
アルノルトは驚きの表情を一瞬だけ浮かべ、すぐに引き締めた。
命じられたのではない。頼まれたのだ。その違いが、胸の奥へ重く沈む。
「承知しました、男爵様。力の及ぶ限り」
男爵は満足げに一度だけ頷き、馬を進めた。
短いやりとりだが、その言葉には揺るぎない信頼が込められていた。信頼とは鉄のように重い。だが、その重みをアルノルトは受け止めていた。
◆
ラウエン家の館が見えてくると、戸が勢いよく開いた。
「アル兄さまーーっ!!」「アル兄さまーーっ!!」
「アル兄さま!」
双子の妹と幼い庶弟が、転がるように駆け寄ってくる。涙をこらえていたのだろう、頬が赤い。足音が地面を叩き、布が擦れ、息が弾む。
アルノルトは馬から降りると、笑って三人の頭を交互に撫でた。
「ただいま」
その一言で、弟妹の不安がほどけていく。
家というものが、アルノルトの胸のざわめきを静かに溶かしていった。
玄関先では、母が胸に手を当てていた。夫と息子が五体無事であることを確認して、愁眉がゆるむ。
「アルノ……無事で……本当に……」
「心配をかけました、母上」
その後ろで、黒髪の小柄な影がタッと駆けた。
「兄さまっ……!!ご無事で……!」
「チトセ、泣くな。俺は何ともない」
チトセは涙を浮かべてシロウの胸に飛び込み、しばらく顔を埋めていた。シロウは慣れないながらも、優しく妹の頭を撫でつづける。
彼の手つきは戦場のそれではない。剣を握る指が、今は髪の柔らかさを確かめるように動く。そのぎこちなさが、かえって真実だった。
やがてチトセは小さく息を吸い、兄の手を離れた。
くるりと方向を変え──その瞳にかすかな熱を宿し、アルノルトへ向かう。
「……アルノルト様。お帰りなさいませ」
その声音は、先ほどよりずっと澄んでいた。胸の奥で芽生えてしまった“何か”を、誰にも悟られぬよう丁寧に包んで差し出すかのように。
アルノルトは柔らかく返す。
「ただいま、チトセ。留守をありがとう」
その一言で、チトセの肩がふるりと震えた。だが彼女はすぐに小さく礼をして下がった。礼儀は盾であり、鎧でもある。薄いのに、よく心を守ってくれる。
◆
夜。
館が落ち着いたころ、アルノルトは馬房のそばで剣の刃こぼれを月明かりに照らしながら確かめていた。剣身の欠けを月光へかざして確認し、布でそっと磨く。冷たい夜気の中で、布の擦れる音だけが小さく響いた。
戦が終わっても、鉄は雄弁である。
その欠けた場所一つひとつが、今日の距離と速度と恐怖を、無言で教えてくれるのだ。
そこへ──
カツ、カツ……。聞き覚えのある蹄の音。
銀髪が月に光り、月毛の馬が立ち止まった。
馬の息は白く、鼻面が月光を受けて淡く濡れている。
セリーヌが軽やかに降り立つ。外套は短く、騎行に適したものだった。
館へは入らず、馬房へ回ったのは――きっと、ここなら誰にも聞かれずに話せると思ったからだ。
「巡察の帰りよ。……父の許しももらってきた」
言い訳のように言って、彼女は一歩、距離を詰めた。
アルノルトの顔を認めた刹那、彼女から抑えきれない感情がこぼれた。
「アルノ……無事でよかった……!」
声が震えていた。「アルノ」と呼ぶのは、母とセリーヌだけである。その特別さが胸の奥で弾け、アルノルトの声も自然に柔らかくなる。
二人きりのときだけ、アルノルトはいつしかセリーヌに対し、敬語をはずすようになっていた。
「心配をかけたな、セリーヌ」
「っ……!」
胸を突かれたように半歩後退り、セリーヌは赤面した。月光が頬の熱を隠してくれない。
「べ、別に……!そ、そういうんじゃないのよ!」
その赤面を見てアルノルトが吹き出すと、セリーヌはごにょごにょと言葉にならない何かを口にして、ぷいと顔を背けた。
しかし背けた横顔が、ひどく真剣だった。
「でも…………ほんとに、よかった……」
その小さな声が、夜気の中でほどけた。
セリーヌは恥ずかしさを振り払うように話題を変えた。
「コンラート様は……どうだったの?」
共通の友人の名。初陣ということもあり、彼女も気にかけていたのだろう。
「頑張っていたよ。最初は顔が真っ青だったが、隊の中央で声を張って、しっかりしていた」
「ほんと!?コンラート様が……!」
目を丸くするセリーヌに、アルノルトは小さく笑った。脳裏に「コラコラコラコラ~ッ!」と可愛らしくむくれる姿が幻視される。
「弓兵に号令を出す声なんて震えていたけどな。それでも逃げずに、皆の前で立ち続けていた。……立派だったよ」
「怖がりなのに意地っ張りで……。あとで、褒めて差し上げなくちゃ」
「褒めるのか?」
「当然でしょ。あの方、褒められたら次も頑張るわ、きっと」
「……確かに。そういう方だな」
二人で顔を見合わせ、思わず噴き出した。笑いは短い。笑ったあとに残る静けさが、さっきよりも深い。
「……それで」
セリーヌがふっと表情を引き締めた。
「アルノは?今日の戦では、どう動いたの?」
「聞きたいのか?」
「あなたがどう戦っているのか、知っておきたいの」
その言葉に、アルノルトは少しだけ息を吸った。
セリーヌの瞳は真剣でありながら、わずかに期待を帯びている。
「方陣の正面に向かうふりをして、迎撃が固まった瞬間に横へ切り込んだ。……騎兵を崩せば、歩兵も揺らぐ」
「横へ……。正面じゃなくて……?」
「正面は槍の森だ。突っ込めばこちらも削られる。だから、“狙い目”をずらす」
語りながら、アルノルトは剣を布で拭く手を止めた。刃に映る月光が、ほんの少し揺れる。
セリーヌはふいに、その手元へ視線を落とす。指先に薄く残った擦り傷。血はもう止まっているのに、赤い線が夜の白さに浮いた。
「……痛む?」
「いや。これくらいは」
アルノルトがそう言いかけたとき、セリーヌは無意識に一歩近づき、指先でその傷のすぐ脇をなぞりかけて──はっとして手を引っ込めた。
触れていない……が、触れたに等しい熱が、二人の指先に残った。
「……オルヴァンがよく応えてくれた。あいつがいなければ、今日の動きは成立していない」
「オルヴァンも、すごい馬ね。あなたの無茶に付き合えるんだもの」
「まあな」
馬房からオルヴァンの嘶きが聞こえる。低く、短い。自慢を聞きつけたような、不機嫌なような。
セリーヌがくすっと笑い、夜の空気が少しだけ柔らかくなる。
その柔らかさのまま、何気ない口調でセリーヌが告げる。
「ねえ……アルノ。次の戦からは、私も前線で戦うことになるかもしれないの」
「……」
「弟が成人するまで、父の代わりに家を守らないといけないわ。怖くないと言えば嘘だけど」
エーベルハルト男爵家は武勇の誉れ高い家系だ。
勇猛な家臣団を率い、戦場では常に最前線に配置される。それはセリーヌが男爵代行になってからも変わらない――アルノルトはそう理解していた。
月光を受けた横顔は凛然としていた。凛としているのに、脆さが隠しきれていない。
それが、胸を痛ませる。
「だから……」
一拍置き、彼女はそっと目を伏せる。
「また稽古をつけてくれない?」
「もちろんだ。いくらでも付き合おう」
即答した自分の声が、思ったより優しかったことに、アルノルトは少しだけ驚く。
セリーヌは小さく笑った。
◆
ふたりのやり取りを──
馬房の影から、ひとつの影が静かに見守っていた。
チトセである。
気配を消したその立ち姿は、そこにいることに誰も気づかないほど静かだった。
月明かりが床の藁を淡く照らし、塵がきらりと浮く。彼女の睫毛も、その光の中で薄く震えた。
セリーヌの口から落ちた呼び名が、耳の奥に残って離れない。
「アルノ」
それは特別な呼び方。
チトセはほんの少し、胸に手を当てた。そこには鎧も盾もない。あるのは、息をするたび勝手に温度を上げていく小さな恋心だけだ。
いつの間にか、心に人を愛おしいと思う感情が息づいていることに気づきながら、彼女はそれを彼に悟られないようにそっとしまい込む。
しまい込んだ瞬間、胸の内側が、痛いほど静かになる。
夜風が吹いた。馬房の隙間を抜け、乾いた藁をわずかに揺らし、月光の粉を散らす。
その音の中で、チトセは身じろぎひとつせず、ただ、余熱が消えるのを待っているように見えた。




