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暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
30/45

30.若き騎士たちの黎明

レーヴェン王国北西部──大陸暦三〇五年。

夏の盛りを越え、草原が黄金色へと移りはじめる頃。


ツェルバハ領の前線陣地では、朝霧が消え切らぬうちから兵たちが動きはじめていた。

槍を磨く音。甲冑の留め具が打ち合う乾いた音。馬の鼻息。草いきれ。

戦の前にだけ訪れる、張りつめた静けさ。


アルノルト・ツァ・ラウエンは、その中心に立っていた。


傍らには、一際目を引く馬影がある。

青毛──黒に近い深い青黒の毛色。太くたくましい四肢。

名をオルヴァンという。


「今日も頼むぞ、相棒」


手綱に触れると、オルヴァンは耳を伏せ、鼻を鳴らした。

気難しさと主への信頼が同時に滲む仕草だ。


霜路重馬とソルディア・ロスの混血。重種の血が濃く、一見鈍重に見える。

だが実際は驚くほど速い。体高は百四十サフォ(170センチ)、筋肉の厚みも尋常ではない。

乳離れの頃には馬丁たちが手を焼き、馴致も難航したが──幼い頃から世話を続けたアルノルトの言うことは、それなり(・・・・)に聞いてくれた。


(……今日は落ち着いている。上出来だ)


馬の呼吸が胸に流れ込むように、アルノルトも深く息を整えた。



「お、おはよう、アルノルト……」


控えめな声が背後から届いた。

振り向けば、緊張で頬をこわばらせた青年が立っている。


ツェルバハ子爵家三男、コンラート・ヴェン・ツェルバハ。

輝く明るい金髪に、愛嬌のある顔立ち。実年齢より若く見える。本人はそれを気にしていて、「兄上らは年相応の顔なのだが」と不満を漏らすこともしばしばだ。


……が、今日はそんな軽口すら出ない。


馬上で鎖帷子の端をぎこちなく直し、槍を握る手がわずかに震えている。

鎖帷子の重みが、いつもより肩に食い込む。呼吸のたび金属と革が擦れ、その音がやけに大きく耳に残る。


「大丈夫ですか、コンラート様」

「だ、大丈夫……の、つもりだ……っ」


声が裏返った。


コンラート、十八歳。今日は彼にとっての初陣である。

本来なら十五、十六で迎えるはずだったが、戦況の変化と巡り合わせの悪さで、ここまで延びてしまった。


周囲では同年代の兵たちが黙々と準備を進めている。

その視線が時折、自分の胸元の紋章へ向けられているのが分かった。

期待なのか、確認なのか、あるいは不安なのか──コンラートには判別がつかない。


「落ち着けば普段通りにできます。コンラート様の槍も馬術も、戦場で通用します」

「……君にそう言われると、だいぶ心強いよ」


十歳で出会って以来、二人は身分の差を越えた親友となった。

馬から転げ落ちて泥だらけだった少年は、いまや初陣に臨む若き騎士である。


もっとも、今日の戦でコンラートに課せられている役目は、最前列で血煙を浴びることではない。

隊の中央で兵たちの「目印」となることだ。


左右にはヘルマンと歴戦の騎士たちが並ぶ。不測の事態があれば即座に庇える布陣が敷かれていた。

軍旗は風を孕み、大きくはためく。布が揺れるたび、旗手が旗竿を握る腕に力が入る。

あれは敵に威を示すためでもあるが、それ以上に味方が位置を確かめ、心を奮い立たせるための印でもある。


倒れてはならないのは旗であり、そして自分だ。

コンラートは何度も自分に言い聞かせた。


それは「貴族の子弟の初陣」としては、ごく自然で、そして十分に重い役目だった。



「若、コンラート様」


声のした方を見ると、黒髪の青年が近づいてきた。

シロウ──念流を使う瑞穂の剣士。ラウエン家の客分であり、ヘルマンやアルノルトの護衛を務める。今回の戦ではアルノルトの従士としての役割を担っていた。


「オルヴァン、よく仕上がっているな」

「ええ。今日は……機嫌が良いようです」


シロウはわずかに口角を上げた。

戦場では冷徹な眼を向ける彼も、こうした時には年相応の若者に見える。


「コンラート様、今日が初陣と伺いました」

「う、うん……ああ、その……頼りにしている」

「恐れ入ります。お背中は我々皆でお守りします。コンラート様は隊の中心で、堂々としていてください」


慰めではなく、役割分担そのものの言葉だった。

自分は支える側に徹する──その静かな決意が、自然と伝わってくる。


コンラートの強張った表情が、少しだけほぐれた。



やがてツェルバハ子爵家本隊の進軍準備が整う。


「各隊、前進準備に入れ!」


今回のツェルバハ軍を実質的に率いる父ヘルマンから号令が飛び、アルノルトも槍を握り直した。兵たちの視線が一斉に前方へ向く。

湿った草の匂いに、鉄の錆の匂いが混ざる。


アルノルトは静かに槍を握り直す。

第三次国境戦争から四年。戦は終息したかに見えたが、国境では小競り合いが絶えない。今日もその一つだ。


馬上で並んだまま、アルノルトとコンラートはしばし無言で進んでいた。

蹄が草を踏みしめる音、遠くの金属音が会話の隙間を埋める。

風が吹き抜け、兜の内側にこもった熱を一瞬だけさらっていった。

そのわずかな涼しさが、かえって現実を強く意識させる。


いよいよというところで、アルノルトが軽騎兵の配置場所へ移る直前、コンラートがぽつりと言った。


「……アルノルト、やっぱり怖いよ」

アルノルトは頷く。

「正直、私も怖いです」

「え……お前も?」

「ええ。戦いの前はいつも。でも、逃げたいという気持ちは、いささかもありません」


アルノルトは笑ってみせた。


「私も初陣の時は震えました。あのときは……」


ふとシロウへ視線を向ける。シロウは無言で頷いた。

言葉はなくとも、「覚えている」という意志を感じる。


四年前の光景が蘇る。初めて敵を斬った日。自分の死も、人の死も、間近に感じた瞬間。

そして──シロウに命を救われたこと。


(……あの日が、すべての始まりだった)

ほんの少し、過去に思いを馳せる。


遠くで、敵軍の進軍を告げる鐘が鳴り響く。

その音が、回想の扉を静かに閉じていった。


「参りましょう、若。コンラート様も」

シロウが声をかける。


コンラートは深く息を吸い込み、馬腹を軽く蹴った。

自分の声が隊の支えになる──そう思って、喉を一度鳴らす。


「──うん、行こう!」


そして三人は戦場へ向けて馬を進める。背へ戦の風が吹きつけた。

こうして、コンラートの初陣が始まった。



朝靄の晴れた草地の向こう、黒灰色の甲冑をまとったグラーツ兵五十ほどが盾を重ねた密集陣形を組み、ゆっくりと前進してくるのが見えた。

威力偵察──その動きには、過度な殺気も、慎重さもない。


距離、およそ三ストラ(360メートル)


盾が擦れる低い音が波のように近づいてくる。槍先の林が揺れ、面頬が朝日に鈍く光った。

土の震えが、馬の脚からじわりと伝わる。


「……あと六半刻(10ティク)ほどで接敵です」


アルノルトはオルヴァンの首を軽く撫でながら、中央のコンラートへ声をかけた。

初陣の緊張を隠すように、コンラートはわざと鷹揚に頷く。

だが、馬のたてがみを撫でる手はわずかに震えていた。


「心配はいりません。普段通りになさってください」

「……わ、分かってる」


グラーツ軍はいつもの密集方陣。盾を重ね、槍を森のように突き出して前進する。

左右には少数の騎兵を配し、正面突破と側面迎撃、どちらにも対応できる陣。


対してレーヴェン軍は騎馬が合計十二騎 ── これにはコンラートの他、コンラートのお目付け役の平騎士や、軍監として実戦指揮を執るヘルマンも含まれているから、実働できる数はもう少し少なかった。

それに弓兵が十三人。歩兵が三十人と、人数だけみればおおよそ両軍互角といったところである。


レーヴェン軍はコンラートを中央に置き、左右にヘルマンとアルノルトが侍る。その周囲を熟練の兵が囲んでいた。


コンラートの初陣の役目は、お目付け役らとともに中央で軍旗を保たせ、号令を発し、陣形を崩さないこと。

彼もまた、隊の中心として戦に臨んでいるのだ。


「まずは矢戦を」

ヘルマンが小声で進言する。


はっとしたように瞬きをしたコンラートは、すぐ顔を引き締めた。


「弓兵、構え──放て!」


十数本の矢が放たれる。だがグラーツ歩兵の分厚い盾壁はそれを受け止め、崩れもしない。

倒れたのは二名ほど。敵は歩調すら緩めなかった。


(……やはり堅い)


ヘルマンは距離を測り、アルノルトへ視線で合図を送る。

アルノルトも無言で頷いた。


「コンラート様」

ヘルマンが再び馬を寄せる。

「アルノルトに突撃をお命じください」


「……わ、分かった」



「四名、私に続け!」


アルノルトの号令に、平騎士たちが応じる。


「シロウ」

「承知!」


シロウはアルノルトの予備槍を二本背負い、前方へ視線を定めた。


アルノルトを加えた五騎と、(かち)のシロウは疾風のように戦列を飛び出す。


グラーツ側にざわめきが走る。

密集方陣の内部で怒号が飛び交い、槍を前へ突き出す迎撃態勢が整えられていく。


アルノルトは方陣の真正面へ向かっていくように見えた。

だが、敵が長槍を構えて迎撃を固めた瞬間──


(……今だ)


距離を測って指笛を鋭く鳴らすと、オルヴァンの巨体が弾かれたように横へ切り込んだ。


一騎だけではない。後続の四騎も、まるで事前に示し合わせていたかのように一斉に方向転換する。

蛇行するように、密集方陣の脇で構えていたグラーツ騎馬へ切り込んだ。


敵騎兵は左右に割れていた。アルノルトらは左翼の五騎へ殺到する。


対応が半拍遅れた敵左翼へ、速度を乗せたレーヴェン騎兵が迫る。


アルノルトは加速の頂点で槍を放った。


「──エイッ!」


槍は風を裂いて一直線に飛び、敵騎兵の胸板を貫く。

衝撃に耐えきれず、男は馬上から弾き飛ばされた。


アルノルトの投槍からの突撃、敵中突破──それは彼の得意とする戦術だった。


だが敵も黙ってはいない。

次の瞬間、アルノルトは背の剣を抜き放ち、槍を構えようとした敵騎兵の懐へ飛び込む。

敵騎が踏み込み、進路へ槍をしごいた。アルノルトは受けるのではなく、咄嗟に柄を断つ。

折れた槍先が地面へ落ちる。


その一瞬の隙を、後続のレーヴェン騎兵は逃さない。

敵味方入り乱れての乱戦となった。


ここで、グラーツの歩兵方陣が揺らぎ始めた。

側面を守る騎兵を失い、レーヴェン歩兵の圧力を受けて盾壁が軋む。


シロウは(かち)のまま戦場を駆けていた。

一騎の突進を見切り、手槍で武器を弾き落としざま、二騎目が迫る前に距離を取る。

無理に倒さず、敵を背後へ抜けさせない。

その動きが、アルノルトの命を守っていた。


やがてグラーツ軍に撤退の鐘が鳴る。


密集陣形は崩れ、兵たちは散り散りに後退を始めた。


「追うな!」


ヘルマンに促され、コンラートが号令を飛ばした。

深追いはしない。これは小戦だ。


レーヴェン軍は一定距離で追撃を止めた。

退く敵兵の背が、草原の向こうへ溶けていく。


味方陣では、抑えた声で勝利を確かめ合うざわめきが広がり始めていた。

血の匂いと、踏み荒らされた草の青臭さが混じり、鼻腔を刺す。

戦場は静まりつつあるのに、胸の内だけが、まだ追いついていなかった。


前線から、それを見つめていたコンラートは、静かに息を吐く。

霧の名残の向こうで、小さくなっていく黒灰色の背を見届けながら──


「……勝った、のか」


誰にともなく漏れた言葉。


胸の内の緊張が、勝敗の決した安堵とともに、少しだけ(ほど)けていくのを感じていた。


こうして、若き騎士たちの戦争が幕を開けた。

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