30.若き騎士たちの黎明
レーヴェン王国北西部──大陸暦三〇五年。
夏の盛りを越え、草原が黄金色へと移りはじめる頃。
ツェルバハ領の前線陣地では、朝霧が消え切らぬうちから兵たちが動きはじめていた。
槍を磨く音。甲冑の留め具が打ち合う乾いた音。馬の鼻息。草いきれ。
戦の前にだけ訪れる、張りつめた静けさ。
アルノルト・ツァ・ラウエンは、その中心に立っていた。
傍らには、一際目を引く馬影がある。
青毛──黒に近い深い青黒の毛色。太くたくましい四肢。
名をオルヴァンという。
「今日も頼むぞ、相棒」
手綱に触れると、オルヴァンは耳を伏せ、鼻を鳴らした。
気難しさと主への信頼が同時に滲む仕草だ。
霜路重馬とソルディア・ロスの混血。重種の血が濃く、一見鈍重に見える。
だが実際は驚くほど速い。体高は百四十サフォ、筋肉の厚みも尋常ではない。
乳離れの頃には馬丁たちが手を焼き、馴致も難航したが──幼い頃から世話を続けたアルノルトの言うことは、それなりに聞いてくれた。
(……今日は落ち着いている。上出来だ)
馬の呼吸が胸に流れ込むように、アルノルトも深く息を整えた。
◆
「お、おはよう、アルノルト……」
控えめな声が背後から届いた。
振り向けば、緊張で頬をこわばらせた青年が立っている。
ツェルバハ子爵家三男、コンラート・ヴェン・ツェルバハ。
輝く明るい金髪に、愛嬌のある顔立ち。実年齢より若く見える。本人はそれを気にしていて、「兄上らは年相応の顔なのだが」と不満を漏らすこともしばしばだ。
……が、今日はそんな軽口すら出ない。
馬上で鎖帷子の端をぎこちなく直し、槍を握る手がわずかに震えている。
鎖帷子の重みが、いつもより肩に食い込む。呼吸のたび金属と革が擦れ、その音がやけに大きく耳に残る。
「大丈夫ですか、コンラート様」
「だ、大丈夫……の、つもりだ……っ」
声が裏返った。
コンラート、十八歳。今日は彼にとっての初陣である。
本来なら十五、十六で迎えるはずだったが、戦況の変化と巡り合わせの悪さで、ここまで延びてしまった。
周囲では同年代の兵たちが黙々と準備を進めている。
その視線が時折、自分の胸元の紋章へ向けられているのが分かった。
期待なのか、確認なのか、あるいは不安なのか──コンラートには判別がつかない。
「落ち着けば普段通りにできます。コンラート様の槍も馬術も、戦場で通用します」
「……君にそう言われると、だいぶ心強いよ」
十歳で出会って以来、二人は身分の差を越えた親友となった。
馬から転げ落ちて泥だらけだった少年は、いまや初陣に臨む若き騎士である。
もっとも、今日の戦でコンラートに課せられている役目は、最前列で血煙を浴びることではない。
隊の中央で兵たちの「目印」となることだ。
左右にはヘルマンと歴戦の騎士たちが並ぶ。不測の事態があれば即座に庇える布陣が敷かれていた。
軍旗は風を孕み、大きくはためく。布が揺れるたび、旗手が旗竿を握る腕に力が入る。
あれは敵に威を示すためでもあるが、それ以上に味方が位置を確かめ、心を奮い立たせるための印でもある。
倒れてはならないのは旗であり、そして自分だ。
コンラートは何度も自分に言い聞かせた。
それは「貴族の子弟の初陣」としては、ごく自然で、そして十分に重い役目だった。
◆
「若、コンラート様」
声のした方を見ると、黒髪の青年が近づいてきた。
シロウ──念流を使う瑞穂の剣士。ラウエン家の客分であり、ヘルマンやアルノルトの護衛を務める。今回の戦ではアルノルトの従士としての役割を担っていた。
「オルヴァン、よく仕上がっているな」
「ええ。今日は……機嫌が良いようです」
シロウはわずかに口角を上げた。
戦場では冷徹な眼を向ける彼も、こうした時には年相応の若者に見える。
「コンラート様、今日が初陣と伺いました」
「う、うん……ああ、その……頼りにしている」
「恐れ入ります。お背中は我々皆でお守りします。コンラート様は隊の中心で、堂々としていてください」
慰めではなく、役割分担そのものの言葉だった。
自分は支える側に徹する──その静かな決意が、自然と伝わってくる。
コンラートの強張った表情が、少しだけほぐれた。
◆
やがてツェルバハ子爵家本隊の進軍準備が整う。
「各隊、前進準備に入れ!」
今回のツェルバハ軍を実質的に率いる父ヘルマンから号令が飛び、アルノルトも槍を握り直した。兵たちの視線が一斉に前方へ向く。
湿った草の匂いに、鉄の錆の匂いが混ざる。
アルノルトは静かに槍を握り直す。
第三次国境戦争から四年。戦は終息したかに見えたが、国境では小競り合いが絶えない。今日もその一つだ。
馬上で並んだまま、アルノルトとコンラートはしばし無言で進んでいた。
蹄が草を踏みしめる音、遠くの金属音が会話の隙間を埋める。
風が吹き抜け、兜の内側にこもった熱を一瞬だけさらっていった。
そのわずかな涼しさが、かえって現実を強く意識させる。
いよいよというところで、アルノルトが軽騎兵の配置場所へ移る直前、コンラートがぽつりと言った。
「……アルノルト、やっぱり怖いよ」
アルノルトは頷く。
「正直、私も怖いです」
「え……お前も?」
「ええ。戦いの前はいつも。でも、逃げたいという気持ちは、いささかもありません」
アルノルトは笑ってみせた。
「私も初陣の時は震えました。あのときは……」
ふとシロウへ視線を向ける。シロウは無言で頷いた。
言葉はなくとも、「覚えている」という意志を感じる。
四年前の光景が蘇る。初めて敵を斬った日。自分の死も、人の死も、間近に感じた瞬間。
そして──シロウに命を救われたこと。
(……あの日が、すべての始まりだった)
ほんの少し、過去に思いを馳せる。
遠くで、敵軍の進軍を告げる鐘が鳴り響く。
その音が、回想の扉を静かに閉じていった。
「参りましょう、若。コンラート様も」
シロウが声をかける。
コンラートは深く息を吸い込み、馬腹を軽く蹴った。
自分の声が隊の支えになる──そう思って、喉を一度鳴らす。
「──うん、行こう!」
そして三人は戦場へ向けて馬を進める。背へ戦の風が吹きつけた。
こうして、コンラートの初陣が始まった。
◆
朝靄の晴れた草地の向こう、黒灰色の甲冑をまとったグラーツ兵五十ほどが盾を重ねた密集陣形を組み、ゆっくりと前進してくるのが見えた。
威力偵察──その動きには、過度な殺気も、慎重さもない。
距離、およそ三ストラ。
盾が擦れる低い音が波のように近づいてくる。槍先の林が揺れ、面頬が朝日に鈍く光った。
土の震えが、馬の脚からじわりと伝わる。
「……あと六半刻ほどで接敵です」
アルノルトはオルヴァンの首を軽く撫でながら、中央のコンラートへ声をかけた。
初陣の緊張を隠すように、コンラートはわざと鷹揚に頷く。
だが、馬のたてがみを撫でる手はわずかに震えていた。
「心配はいりません。普段通りになさってください」
「……わ、分かってる」
グラーツ軍はいつもの密集方陣。盾を重ね、槍を森のように突き出して前進する。
左右には少数の騎兵を配し、正面突破と側面迎撃、どちらにも対応できる陣。
対してレーヴェン軍は騎馬が合計十二騎 ── これにはコンラートの他、コンラートのお目付け役の平騎士や、軍監として実戦指揮を執るヘルマンも含まれているから、実働できる数はもう少し少なかった。
それに弓兵が十三人。歩兵が三十人と、人数だけみればおおよそ両軍互角といったところである。
レーヴェン軍はコンラートを中央に置き、左右にヘルマンとアルノルトが侍る。その周囲を熟練の兵が囲んでいた。
コンラートの初陣の役目は、お目付け役らとともに中央で軍旗を保たせ、号令を発し、陣形を崩さないこと。
彼もまた、隊の中心として戦に臨んでいるのだ。
「まずは矢戦を」
ヘルマンが小声で進言する。
はっとしたように瞬きをしたコンラートは、すぐ顔を引き締めた。
「弓兵、構え──放て!」
十数本の矢が放たれる。だがグラーツ歩兵の分厚い盾壁はそれを受け止め、崩れもしない。
倒れたのは二名ほど。敵は歩調すら緩めなかった。
(……やはり堅い)
ヘルマンは距離を測り、アルノルトへ視線で合図を送る。
アルノルトも無言で頷いた。
「コンラート様」
ヘルマンが再び馬を寄せる。
「アルノルトに突撃をお命じください」
「……わ、分かった」
◆
「四名、私に続け!」
アルノルトの号令に、平騎士たちが応じる。
「シロウ」
「承知!」
シロウはアルノルトの予備槍を二本背負い、前方へ視線を定めた。
アルノルトを加えた五騎と、徒のシロウは疾風のように戦列を飛び出す。
グラーツ側にざわめきが走る。
密集方陣の内部で怒号が飛び交い、槍を前へ突き出す迎撃態勢が整えられていく。
アルノルトは方陣の真正面へ向かっていくように見えた。
だが、敵が長槍を構えて迎撃を固めた瞬間──
(……今だ)
距離を測って指笛を鋭く鳴らすと、オルヴァンの巨体が弾かれたように横へ切り込んだ。
一騎だけではない。後続の四騎も、まるで事前に示し合わせていたかのように一斉に方向転換する。
蛇行するように、密集方陣の脇で構えていたグラーツ騎馬へ切り込んだ。
敵騎兵は左右に割れていた。アルノルトらは左翼の五騎へ殺到する。
対応が半拍遅れた敵左翼へ、速度を乗せたレーヴェン騎兵が迫る。
アルノルトは加速の頂点で槍を放った。
「──エイッ!」
槍は風を裂いて一直線に飛び、敵騎兵の胸板を貫く。
衝撃に耐えきれず、男は馬上から弾き飛ばされた。
アルノルトの投槍からの突撃、敵中突破──それは彼の得意とする戦術だった。
だが敵も黙ってはいない。
次の瞬間、アルノルトは背の剣を抜き放ち、槍を構えようとした敵騎兵の懐へ飛び込む。
敵騎が踏み込み、進路へ槍をしごいた。アルノルトは受けるのではなく、咄嗟に柄を断つ。
折れた槍先が地面へ落ちる。
その一瞬の隙を、後続のレーヴェン騎兵は逃さない。
敵味方入り乱れての乱戦となった。
ここで、グラーツの歩兵方陣が揺らぎ始めた。
側面を守る騎兵を失い、レーヴェン歩兵の圧力を受けて盾壁が軋む。
シロウは徒のまま戦場を駆けていた。
一騎の突進を見切り、手槍で武器を弾き落としざま、二騎目が迫る前に距離を取る。
無理に倒さず、敵を背後へ抜けさせない。
その動きが、アルノルトの命を守っていた。
やがてグラーツ軍に撤退の鐘が鳴る。
密集陣形は崩れ、兵たちは散り散りに後退を始めた。
「追うな!」
ヘルマンに促され、コンラートが号令を飛ばした。
深追いはしない。これは小戦だ。
レーヴェン軍は一定距離で追撃を止めた。
退く敵兵の背が、草原の向こうへ溶けていく。
味方陣では、抑えた声で勝利を確かめ合うざわめきが広がり始めていた。
血の匂いと、踏み荒らされた草の青臭さが混じり、鼻腔を刺す。
戦場は静まりつつあるのに、胸の内だけが、まだ追いついていなかった。
前線から、それを見つめていたコンラートは、静かに息を吐く。
霧の名残の向こうで、小さくなっていく黒灰色の背を見届けながら──
「……勝った、のか」
誰にともなく漏れた言葉。
胸の内の緊張が、勝敗の決した安堵とともに、少しだけ解けていくのを感じていた。
こうして、若き騎士たちの戦争が幕を開けた。




