29.策謀
大陸暦三〇五年、青の節。
海からの湿った風が、グラーツ王国の王都グラニアを包んでいた。
グラニアは巨大な城塞都市だ。
王城を中心に城壁が重なり、坂道の先には軍港がある。空気は冷たく湿り、海が近いのに潮の匂いは薄い。
この都は、平時ですら戦争を前提として戦支度をやめない。
三元帥のために設えられた円卓の間は、城塞の心臓部にあった。
その円卓の間には名前がなかったが、元帥が三名となったころから「三元帥の間」と呼ばれるようになっていた。
白い石壁。飾り気のない円卓。椅子は三脚だけ。
円卓を囲むのは、三人。
王太子カリオス・ヴェン・グラーツァは鎧姿のまま、机へ肘をつく。
ゲルハルド・ヴェン・ブロク元帥は半甲冑に外套。まるで戦場のような出で立ちである。
オルフェン・ヴェン・エイダス元帥は軽装で、書付と地図だけを整然と並べた。
◆
「……レーヴェンは、確実に肥えているな」
最初に口を開いたのはカリオスだった。二十五歳。王太子であり、三元帥の一角でもある。
燃えるような金髪に、灰緑色の瞳。
大型の肉食獣を思わせる精悍さと獰猛さを併せ持った容貌は、出会った者みなに強烈な印象を残すだろう。
グラーツ王国の版図を南へと広げた英雄の一人でもある。
獣のような目で、地図の国境線を睨む。
「華夏国との交易が、三年で倍だ。鉄も穀物も銀も。全部だ。このまま手をこまねいていれば、国力で追いつけなくなる」
「言葉を選べ、殿下」
ゲルハルドが低く返す。声に圧がある。
「我々は軍人だ。商人じゃない」
「だからこそ、だろ」
カリオスは笑った。若さと獰猛さが混ざった笑みだ。
「国力で負ける、つまり——正面戦で勝てなくなるってことだ」
空気が、わずかに締まる。
「我々は先の戦争で教訓を得た。レーヴェンは着実に力を増している。
ならば叩くなら『今』だ。真正面から潰す。それ以外に何がある?」
ゲルハルドは答えず、腕を組み直すだけだった。
「……真正面から潰す、ですか」
静かな声が割って入った。オルフェンである。彼は、計略と情報戦、そして兵站整備で知られる元帥だった。
華美な装いも、過剰な身振りもない。
ただ、書付と地図を整然と並べ、その奥から二人を見据えている。
卓上の石の重しを、指先で一度だけ転がす。かつり、と乾いた音がした。
「真っ向勝負で潰すのは結構です。ですがどのようにですか?」
「戦力に決まってる」
ゲルハルドが吐き捨てる。
「相手よりも多くの兵を集め、強固な陣を敷いて、押し潰す。それだけだ」
それを聞いてカリオスも「その通りだ」と力強く頷く。
「先の戦でも、同じ主張を仰いましたね」
オルフェンは笑顔のまま切り返した。
「……続けろ」
ゲルハルドの指が外套の左肩を強く握った。
オルフェンは頷く。
「我々が敗れた理由は明確です。レーヴェンの指揮が上だった」
一拍置き、その名を告げる。
「……セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル」
カリオスが舌打ちした。椅子が短く鳴る。
「またその名か。一人の辺境伯に過ぎん」
「ええ。一人の辺境伯です」
オルフェンは否定しない。
「ですが、あの男が前線にいる限り、我々はまた苦杯を舐める」
「だからこそ、策を弄せぬよう真正面から叩くのだ!」
カリオスが立ち上がる。鎧が派手に鳴った。
「強敵なら尚更、正面から食い破れ! 逃げ腰の策は好かん!」
オルフェンは淡々と返す。
「殿下。我らの目的はレーヴェンに打ち勝ち、東へと国土を広げることです。セルヴィオに勝つことではありません。目的のために——」
言葉を切って、冷たく言った。
「戦場から排除するのです」
沈黙が落ちる。
「……殺すということか」
ゲルハルドが目を見開く。
オルフェンはゆっくり首を振り、その誤解を否定すると、地図のレーヴェン王都付近に指を置いた。
「レーヴェン王国には、二つの力があります。戦う者と──そして、『守る』者たち」
「守る?」
カリオスが眉をひそめる。
「セルヴィオは戦う者です。戦果を挙げ、王太子や民の支持も厚い。その存在は、王権派にとっては宝でしょう」
「……それが何だ」
聞く気になったのか、カリオスが再び着席する。
「一方で守る者。国境を守る者、王都を守る者……」
言葉が、わずかに間を取る。
「──権力を守る者」
ゲルハルドの視線が鋭く動いた。カリオスも黙る。
「現状は、権力を守る者――貴族派にとって、極めて不都合なのです」
オルフェンは言い切る。
カリオスが目を細める。
「……不都合?なんだ、セルヴィオに王位簒奪の兆しでもあるのか?」
「いいえ」
オルフェンは、首を横に振った。
「彼らは、セルヴィオが王権を侵すなどとは考えていません。だが、こう考えています」
一拍置く。
「――いずれ権力のもと、『我々の利権を侵食しかねない』と」
説明を会話に落としこむように、オルフェンは簡単に言った。
「我々が手に入れた情報では、貴族派はその点を恐れています。具体的には税制の改革、法の整備——特権の整理。正しい改革ほど、既得権益者には痛い」
ゲルハルドが低く笑う。
「つまり、レーヴェンは内側が割れている、と」
「正確には——割れる準備が整っている」
オルフェンは頷く。
「だから我々がやるべきは、セルヴィオを殺すことではありません」
彼の指が地図を滑る。国境の緩衝地帯から、レーヴェンの王都へと。
「丁重に、王都へとお帰りいただきましょう」
オルフェンは口元だけで笑う。
「……貴族派に、呼び戻させるのか」
カリオスが眉を寄せる。
「その通りです。『自発的に』そうするよう仕向けます」
オルフェンはさらりと言う。
「流言を撒く。疑いの種を育てる。いくつかの書簡を——見つけさせる。戦争が本格化する直前に、王都でセルヴィオの時間を消費させます」
ゲルハルドが腕を組む。
「代わりに前線へ出るのは?」
「無能が出てくるほど、レーヴェンの人材は枯渇していないでしょう」
オルフェンは笑う。
「ただし、戦場を知らない者を前に出すように仕向ける」
カリオスはしばらく黙り、やがて口元だけ笑った。
「……実に気に食わない策だ」
「光栄です」
オルフェンは即答し、恭しく礼をした。
ゲルハルドが重く頷く。
「勝てるならいい。最後は正面から潰す」
「そのための布石です」
オルフェンは、少しだけ茶目っ気を出し、唇の前に人差し指を立て、静かに答えた。
「戦争は、剣だけでやるものではありませんから」
◆
同じ頃、レーヴェン王国、王都ルミナス。
王城の小広間で、王太子レグナートとセルヴィオ辺境伯が地図を挟んで向かい合っていた。
厚い石壁に囲まれ、外の音はほとんど入らない。窓は高く細く、重い緋色の垂れ幕が昼光を和らげている。
卓は無骨な楢造りで、椅子は二脚だけ。
卓上には精巧な国境地図と石の重し、未使用の蝋燭が並んでいた。火は灯されていないのに、室内にはかすかに蜜蝋の甘い匂いが残る。
レグナートは簡素な礼装に身を包み、剣帯すら外して椅子に腰掛けている。政務というより私的な対話に近い姿だ。
二十三歳。亜麻色の髪に藍色の瞳。柔和な雰囲気と、そのままの優しい心を持つ王太子だった。
対するセルヴィオは外套を脱ぎ、軍装の上衣だけで卓に向かっていた。手袋も外し、指先で地図の縁を押さえている。
そして、二人は驚くほど似ていた。髪色も髪型も体格も、立ち姿も。瞳の藍はセルヴィオの方が濃いが、後ろ姿なら見間違える者がいても不思議はない。実際、宮中で誤認が起きたこともある。
もっとも正面から見れば、口許ひとつで区別はつくのだが。
「もし、またグラーツと戦になったら」
レグナートが言う。柔らかな口調の奥に、王太子らしい芯があった。
「次も義兄上に前線をお願いしたい」
セルヴィオはすぐ答えない。少し考えて、静かに言った。
「……それが最善とは限りません」
「義兄上ほどの指揮官は、この国にいません」
「だからこそです」
セルヴィオは王太子の瞳をじっと見つめて、口ひげを撫でつけながら静かに言った。
「私でなければならない戦いが続けば、いずれ国が歪みます」
レグナートは言葉を探し、見つけられず、瞬きを一つした。




