28.距離と火花
大陸暦三〇四年、赤の節。
北西部の夏は、いつも急に来る。
短い春が終わると、太陽が容赦なく大地を照らし始めた。
冬播きの小麦畑は、つい先日まで緑の波だった。だが今は、穂先から少しずつ黄金へ変わっていく。陽に焼かれ、風に揺らされ、成熟を急がされるように。
明け方の街道を、漆黒の馬体が駆け抜けていた。
朝の光のせいで、青毛はほとんど黒に見える。筋肉が光を弾き、艶の下で力が脈打つのが遠目にも分かった。鞍のあたりから白い汗が一筋流れ、黒い毛を横切ってすぐ消える。
――暴風。
速い。強い。並の戦馬ではない。突撃すれば味方の隊列を置き去りにして、自分だけ前へ飛び出しそうな錯覚すらある。
制御できなければ、この力は災いになる。
その危うさを、この馬はいつも抱えている。
それでも、目が離せない。
朝駆けから戻るころ、ラウエン家の館はもう朝の支度を終えていた。
アルノルトはオルヴァンを馬房に戻し、さっと身を整えて朝食を摂る。食後は従士とともに馬の世話だ。
オルヴァンは、他の馬より明らかに多く食べる。飼い葉桶はすぐ空に近づいた。身体の力の大きさが、そのまま食欲になっている。
いま、ラウエン家の馬房にいる牡馬は三頭。
一頭はオルヴァン。
もう一頭は黒鹿毛。ザーヴェル辺境伯から父ヘルマンが預かっている駿馬で、十歳になるまでは父の乗馬として使ってよいとされている。骨太で、踏ん張りが利く。戦場慣れした馬だ。十歳を過ぎれば本来の主へ返す約束になっている。
そして最後が鹿毛。すでに十歳を大きく超え、戦馬としては「上がり」の年齢に近い。それでも気性が驚くほど穏やかで、馬房の空気を落ち着かせていた。
先日までアルノルトの乗馬だった栗毛の牝馬は、オルヴァンを迎えるのと入れ替わりで、繁殖に上げるために御料牧場へ預けられた。
オルヴァンは黒鹿毛とは、毎日のように張り合う。鼻を鳴らし、蹄で床を打ち、柵越しに火花を散らす。
だが鹿毛に対しては違った。馬房を横切るとき、必ず一度足を止めて鼻先を寄せる。挨拶――そう言っていい仕草だ。黒鹿毛には、それをしない。
アルノルトはその様子を見て思う。
力を誇る相手とは競う。長く生きた相手には、自然と敬意が出る。――本当にそうなら、少し安心できるのだが。
庭先では、ヘルマンとシロウが剣を交えていた。
力で押す父と、技と速度で応じるシロウ。拮抗したやりとりに、従士たちは息をのんで見守っている。
だがアルノルトは馬房を離れない。
――習慣の中に、雑を入れるな。
幼い頃から父に言われてきた言葉だ。剣の音が聞こえていても、馬の世話が終わるまでは視線を向けない。
やがて一通り終えるころ、庭の剣戟も収まった。陽は中天に輝き、昼の鐘が鳴ろうとしていた。
◆
昼の鐘が鳴ると、屋敷の空気が少し緩む。
食堂に並ぶのは飾り気のない昼餉。焼いた肉と黒パン、刻んだ野菜の煮込み。汗をかいた身体に塩気がよく染みた。
食卓の会話は少ない。
ここ一年で妹たちはすっかりお淑やかになり、庶弟も物の分別がつく年頃になった。アルノルトは、以前の騒がしさを思い出して、少しだけ寂しくなる。
昼食後、アルノルトには短い休憩がある。従士や使用人が交代で食事を摂る時間だ。
彼は自室の寝台に横になり、天井を見上げた。板張りの天井はところどころ傷んでいるが、まだ修繕するほどではない。雨漏りもない。
ぼんやりしていると、扉が叩かれた。
シロウが呼びに来た。昼の仕事が始まる。
◆
ヘルマンは代官として、領内から集まる報告と訴えを捌いていく。
窓の外では夏の虫が鳴き、机の蝋燭は熱で少し柔らかくなっていた。羊皮紙の匂いと汗の塩気が、部屋に薄くこもる。
収穫の見込み。用水路の補修。境界の柵。
戦の最中でも、戦が遠のいた今でも、日々の暮らしは止まらない。
アルノルトはその傍らで書付を整え、使用人を呼び、必要なら自分の足で走る。剣とは違う忙しさがある。
戦場の緊張とは別の、日常の重さだ。
一方、シロウは屋敷を離れ、村を走り回っていた。
伝達、補佐、雑務。頼まれれば断らず、呼ばれればすぐ動く。汗に濡れた黒髪が陽を吸い、艶を帯びる。
この国では珍しい黒髪黒瞳。異国を思わせる面差しと、若さ。
水場や市場を通るたび、村の若い女たちの視線が集まる。
本人は気づかないふりをして、いつも通り仕事をこなしていく。
戦場では刃を向けられ、村では好奇の目を向けられる。
同じ身体に向かう視線の意味が、これほど違うのだと、シロウは感じていた。
◆
陽が西へ傾いても、空気はまだ熱い。
だが影だけが長く伸びる。
夕食前のひととき、庭に剣の音が戻ってくる。
アルノルトとセリーヌが向かい合う。互いの癖を知り尽くしているから、動きに無駄がない。踏み込み、間合い、次の一手。剣が触れ合うたび、乾いた音が夕空に跳ねた。
この日は、チトセも加わっていた。
彼女は最近、自主的に稽古に参加することが増えている。
以前、グラーツ兵が館を襲ったとき、チトセが剣を取って戦ったことは家中が知っている。だから誰も、彼女が汗を流すのを咎めない。
剣を持つチトセの動きは鋭い。無駄がない。
踏み込みは浅いのに、間合いは深い。力で押さず、相手の重心と呼吸を正確に見ている。セリーヌも思わず舌を巻いた。
アルノルトとチトセが打ち合う中、アルノルトの足がふと動いた。
セリーヌ相手には踏み込まない距離へ、ほんの一瞬だけ入る。チトセの剣が来た瞬間、身体が先に反応していた。
剣だけを見れば、差がある。
セリーヌにもそれが分かる。自分は半歩――いや、もう少し届いていない。
表向き、セリーヌは和やかにチトセに教えを乞う。
だが空気の底には、細い緊張が残った。
セリーヌは一度だけ、アルノルトの袖口を指先で払った。
「土がついてる」
自然すぎる仕草に、チトセは一瞬、息をのむ。
「アルノ、次やるわよ」
セリーヌがそう呼ぶ。
その呼び方が柔らかく、当たり前のようで――だからこそ刺さる。アルノと呼べるのは、彼の母親とセリーヌだけだ。
チトセの視線が、ほんの一瞬だけ泳ぐ。
気づかれないほどの、小さな間。
そしてセリーヌとチトセの視線が交錯した。
木剣の柄が、誰かの掌の中できゅっと鳴る。
その音だけが、夕空に妙に鋭く残った。
二人は互いに分かっていた。
今、何かが弾けたのだと。
それでも、稽古の間は礼を守る。
技を認め、間合いを測り、声を掛け合う。
距離を測りながら、火花を散らしている。
――そんな光景だった。
◆
陽が沈みかけ、庭を渡る風が昼の熱を少しずつ奪っていく。
剣の音が止み、馬房からは馬の低い息遣いが聞こえた。草を噛む音。蹄が地を踏む音。
セリーヌもチトセも、言葉にしない。
言葉にした瞬間、形になってしまうからだ。
剣では、チトセが一歩先にいる。
だが距離では、セリーヌが一歩近い。
夏の熱は、まだ残っている。空気にも、土にも、人の心にも。
夕暮れの影が三人の足元で重なり、やがてゆっくり離れていく。
剣は収められた。
火花だけが、胸の奥に残った。




