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暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
28/45

28.距離と火花

大陸暦三〇四年、赤の節。


北西部の夏は、いつも急に来る。

短い春が終わると、太陽が容赦なく大地を照らし始めた。


冬播きの小麦畑は、つい先日まで緑の波だった。だが今は、穂先から少しずつ黄金へ変わっていく。陽に焼かれ、風に揺らされ、成熟を急がされるように。


明け方の街道を、漆黒の馬体が駆け抜けていた。

朝の光のせいで、青毛はほとんど黒に見える。筋肉が光を弾き、艶の下で力が脈打つのが遠目にも分かった。鞍のあたりから白い汗が一筋流れ、黒い毛を横切ってすぐ消える。


――暴風(オルヴァン)


速い。強い。並の戦馬ではない。突撃すれば味方の隊列を置き去りにして、自分だけ前へ飛び出しそうな錯覚すらある。


制御できなければ、この力は災いになる。

その危うさを、この馬はいつも抱えている。

それでも、目が離せない。


朝駆けから戻るころ、ラウエン家の館はもう朝の支度を終えていた。

アルノルトはオルヴァンを馬房に戻し、さっと身を整えて朝食を摂る。食後は従士とともに馬の世話だ。


オルヴァンは、他の馬より明らかに多く食べる。飼い葉桶はすぐ空に近づいた。身体の力の大きさが、そのまま食欲になっている。


いま、ラウエン家の馬房にいる牡馬は三頭。


一頭はオルヴァン。

もう一頭は黒鹿毛。ザーヴェル辺境伯から父ヘルマンが預かっている駿馬で、十歳になるまでは父の乗馬として使ってよいとされている。骨太で、踏ん張りが利く。戦場慣れした馬だ。十歳を過ぎれば本来の主へ返す約束になっている。

そして最後が鹿毛。すでに十歳を大きく超え、戦馬としては「上がり」の年齢に近い。それでも気性が驚くほど穏やかで、馬房の空気を落ち着かせていた。


先日までアルノルトの乗馬だった栗毛の牝馬は、オルヴァンを迎えるのと入れ替わりで、繁殖に上げるために御料牧場へ預けられた。


オルヴァンは黒鹿毛とは、毎日のように張り合う。鼻を鳴らし、蹄で床を打ち、柵越しに火花を散らす。

だが鹿毛に対しては違った。馬房を横切るとき、必ず一度足を止めて鼻先を寄せる。挨拶――そう言っていい仕草だ。黒鹿毛には、それをしない。


アルノルトはその様子を見て思う。

力を誇る相手とは競う。長く生きた相手には、自然と敬意が出る。――本当にそうなら、少し安心できるのだが。


庭先では、ヘルマンとシロウが剣を交えていた。

力で押す父と、技と速度で応じるシロウ。拮抗したやりとりに、従士たちは息をのんで見守っている。


だがアルノルトは馬房を離れない。


――習慣の中に、雑を入れるな。


幼い頃から父に言われてきた言葉だ。剣の音が聞こえていても、馬の世話が終わるまでは視線を向けない。

やがて一通り終えるころ、庭の剣戟も収まった。陽は中天に輝き、昼の鐘が鳴ろうとしていた。



昼の鐘が鳴ると、屋敷の空気が少し緩む。

食堂に並ぶのは飾り気のない昼餉。焼いた肉と黒パン、刻んだ野菜の煮込み。汗をかいた身体に塩気がよく染みた。


食卓の会話は少ない。

ここ一年で妹たちはすっかりお淑やかになり、庶弟(おとうと)も物の分別がつく年頃になった。アルノルトは、以前の騒がしさを思い出して、少しだけ寂しくなる。


昼食後、アルノルトには短い休憩がある。従士や使用人が交代で食事を摂る時間だ。

彼は自室の寝台に横になり、天井を見上げた。板張りの天井はところどころ傷んでいるが、まだ修繕するほどではない。雨漏りもない。


ぼんやりしていると、扉が叩かれた。

シロウが呼びに来た。昼の仕事が始まる。



ヘルマンは代官として、領内から集まる報告と訴えを捌いていく。

窓の外では夏の虫が鳴き、机の蝋燭は熱で少し柔らかくなっていた。羊皮紙の匂いと汗の塩気が、部屋に薄くこもる。


収穫の見込み。用水路の補修。境界の柵。

戦の最中でも、戦が遠のいた今でも、日々の暮らしは止まらない。


アルノルトはその傍らで書付を整え、使用人を呼び、必要なら自分の足で走る。剣とは違う忙しさがある。

戦場の緊張とは別の、日常の重さだ。


一方、シロウは屋敷を離れ、村を走り回っていた。

伝達、補佐、雑務。頼まれれば断らず、呼ばれればすぐ動く。汗に濡れた黒髪が陽を吸い、艶を帯びる。


この国では珍しい黒髪黒瞳。異国を思わせる面差しと、若さ。

水場や市場を通るたび、村の若い女たちの視線が集まる。

本人は気づかないふりをして、いつも通り仕事をこなしていく。


戦場では刃を向けられ、村では好奇の目を向けられる。

同じ身体に向かう視線の意味が、これほど違うのだと、シロウは感じていた。



陽が西へ傾いても、空気はまだ熱い。

だが影だけが長く伸びる。


夕食前のひととき、庭に剣の音が戻ってくる。

アルノルトとセリーヌが向かい合う。互いの癖を知り尽くしているから、動きに無駄がない。踏み込み、間合い、次の一手。剣が触れ合うたび、乾いた音が夕空に跳ねた。


この日は、チトセも加わっていた。


彼女は最近、自主的に稽古に参加することが増えている。

以前、グラーツ兵が館を襲ったとき、チトセが剣を取って戦ったことは家中が知っている。だから誰も、彼女が汗を流すのを咎めない。


剣を持つチトセの動きは鋭い。無駄がない。

踏み込みは浅いのに、間合いは深い。力で押さず、相手の重心と呼吸を正確に見ている。セリーヌも思わず舌を巻いた。


アルノルトとチトセが打ち合う中、アルノルトの足がふと動いた。

セリーヌ相手には踏み込まない距離へ、ほんの一瞬だけ入る。チトセの剣が来た瞬間、身体が先に反応していた。


剣だけを見れば、差がある。

セリーヌにもそれが分かる。自分は半歩――いや、もう少し届いていない。


表向き、セリーヌは和やかにチトセに教えを乞う。

だが空気の底には、細い緊張が残った。


セリーヌは一度だけ、アルノルトの袖口を指先で払った。

「土がついてる」

自然すぎる仕草に、チトセは一瞬、息をのむ。


「アルノ、次やるわよ」

セリーヌがそう呼ぶ。

その呼び方が柔らかく、当たり前のようで――だからこそ刺さる。アルノと呼べるのは、彼の母親とセリーヌだけだ。


チトセの視線が、ほんの一瞬だけ泳ぐ。

気づかれないほどの、小さな間。


そしてセリーヌとチトセの視線が交錯した。

木剣の柄が、誰かの掌の中できゅっと鳴る。

その音だけが、夕空に妙に鋭く残った。


二人は互いに分かっていた。

今、何かが弾けたのだと。


それでも、稽古の間は礼を守る。

技を認め、間合いを測り、声を掛け合う。


距離を測りながら、火花を散らしている。

――そんな光景だった。



陽が沈みかけ、庭を渡る風が昼の熱を少しずつ奪っていく。

剣の音が止み、馬房からは馬の低い息遣いが聞こえた。草を噛む音。蹄が地を踏む音。


セリーヌもチトセも、言葉にしない。

言葉にした瞬間、形になってしまうからだ。


剣では、チトセが一歩先にいる。

だが距離では、セリーヌが一歩近い。


夏の熱は、まだ残っている。空気にも、土にも、人の心にも。


夕暮れの影が三人の足元で重なり、やがてゆっくり離れていく。

剣は収められた。

火花だけが、胸の奥に残った。

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