27.暴風を願う
大陸暦三〇三年、黒の節。
山際の空は低く、雲が重く垂れ込めていた。冬の兆しを孕んだ冷たい風が、城壁や屋敷の石をなぞるように吹き抜ける。
戦争の影がようやく遠のき、国境に張りつめていた緊張も、少しずつほどけ始めていた。
そのころ宮中では、遅れていた論功行賞の準備が進められていた。
戦役に従事した貴族、騎士、兵らに、それぞれの働きに応じて金貨や銀貨が支給される。生き残った者への労いであり、国が「戻ってきた秩序」を示すためでもある。
アルノルトのもとへ、その知らせが届いたのは、ツェルバハ子爵を通じてだった。
封蝋には銀鷲。薄い羊皮紙には短い文面と、余白の多い冷たい筆跡。
「願いがあれば、申し出よ」――文末のセルヴィオ・ヴェン・ザーヴェルの署名だけが、やけに重かった。
若い平騎士にとって、異例と言っていい扱いだった。
「名を覚えておきます。また戦場で会いましょう」
セルヴィオの帷幕で掛けられた言葉が、ふいに頭をよぎる。
その夜、アルノルトは父ヘルマンの前に立ち、まず問いを投げた。
「……代官領の運営資金は、大丈夫なのでしょうか」
褒美の話より先に、口をついて出たのはそれだった。
ヘルマンは一瞬、息子の顔を見つめ、それから静かに息を吐く。
「問題ない。それに、お前が国に奉公した結果だ。家のためではない。お前自身の功績だ」
そして、ゆっくりと言葉を続けた。
「だから、自分が欲しいものを願い出ろ」
アルノルトは、その言葉を胸の奥で繰り返した。
家のため、領地のため、誰かのために動くのが当たり前だった。――「自分が欲しいもの」を問われたのは、ほとんど初めてだ。
しばらく沈黙が落ちたあと、彼は答えた。
「……御料牧場の、青毛を」
内心で「暴風」と呼んでいる、あの馬を。
その願いは思いつきではなかった。以前から、セリーヌとコンラートには「もし許されるなら」と話していた。
「アルノがそれでいいなら、私はそれでいいと思うわ」
セリーヌの声には迷いがなかった。
「えー!あんな手がかかりそうな馬を、褒美で?」
コンラートは大げさに眉を上げて笑った。だが、からかうだけで、それ以上は踏み込んでこなかった。
ヘルマンは願いを聞くと、御料牧場の方角へ一度だけ視線をやった。
「馬丁でも扱いきれていないと聞いている。お前なら、ある程度は乗れるらしいが……本当にそれで良いのか」
アルノルトは即座に答えなかった。だが、その沈黙は迷いではない。
あの青毛に初めて跨った日のことを思い出す。
重装をものともせず、風を裂くように駆けた背中。物音にも剣戟にも怯まず、それでいて人に媚びない気性。抑えきれない力を内に抱えた、荒々しい生命。
「はい」
はっきりと答えた。
「物怖じせず、重い装備にも耐え、速い。……あの馬となら、戦場を共に行けると思います」
ヘルマンはそれを聞き、しばらく黙っていた。
やがて小さく頷き、書机へ向かう。
「分かった」
ツェルバハ子爵へ宛てた書状に、静かに筆を走らせ始めた。
◆
数日後、アルノルトは御料牧場にいた。
黒の節の風は鋭く、草原を撫でるというより、削ぎ落とすように吹いている。空は鉛色で、遠くの山々は輪郭を曖昧にしていた。
厩舎の一角で、青毛は首を高く保ったまま佇んでいた。
乾いた藁と馬いきれの濃い匂い。息を吐くたび、鼻先が白く曇る。その熱だけが、黒の節の冷えに抗っている。
人の気配を感じると、青毛はちらりとこちらを見た。
鋭い眼。警戒心と好奇心が、同じ場所にある。
アルノルトは柵の外から、ゆっくりと近づいた。
褒美として選ばれたと知っても、胸に湧いたのは高揚ではなかった。むしろ重みだ。
金や地位なら、失っても取り返せるかもしれない。だが、命ある相棒は違う。
青毛はまだ、アルノルトのものではない。
下賜が決まろうと書状が交わされようと、この馬が受け入れるかどうかは別の話だ。
人の都合で結ばれる主従ではない。
力と意思と時間を重ねて、ようやく並び立つ関係。アルノルトは、それをよく知っていた。
戦場では、剣も、これまでの愛馬も応えてくれた。
だがそれは、命を賭ける状況が無理やり互いを結びつけていただけかもしれない。平時のいま、この暴風が自分の声を聞くのか。――それとも、ただ振り落とされるのか。
それでも。
もしこの馬を選ばず、無難な褒美を選んだなら、自分はきっと後悔する。
「あの時、手を伸ばさなかった」と、何度も思い返すだろう。
だからこそ、選んだ。
御せるかどうかではない。
共に進む覚悟があるかどうかだ。
(……暴風)
心の中で名を呼ぶ。
青毛は鼻を鳴らし、前肢で土を蹴った。
長いたてがみが風に揺れて、その一瞬だけ、草原そのものが動いたように見えた。
アルノルトは一歩踏み出す。
戦争は終わりつつある。
それでも、後悔はなかった。
与えられたからではない。
自分で選んだからだ。
黒い雲の切れ間から、かすかな光が差し込む。
青毛の背が、その光を受けて鈍く輝いた。
指先を伸ばすと、青毛の皮膚が小さく波打った。
受け入れたのか、拒んだのか――どちらとも言えない沈黙がそこにある。
アルノルトは手綱に触れ、静かに息を整えた。
――暴風を願ったのは、自分だ。
これから先、どんな道が待とうとも、この選択だけは揺るがない。
そう心に刻み、彼は青毛と向き合った。
冷たい風が、二つの影の間を吹き抜けていった。




