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暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
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26.剣と恋(後編)

前後編のため、二編まとめての公開としました。

夕刻の冷えが、屋敷の石壁にゆっくりと染みていく時間だった。

遠くから、乾いた木剣の打ち合う音が断続的に届いてくる。


シロウは自室の小卓に灯した油皿の火を、指先でそっと囲うようにして眺めていた。

窓辺の冷えが強くなってきたせいか、火は小さく揺れている。


膝の上には開いたままの書。

――文字を追ってはいる。けれど、頭のどこかは別の場所に留まっていた。


この屋敷に身を寄せてから、何度も同じことを思う。

平穏とは、守られた者の顔をする。

そして、守れないものがある時ほど、その顔は穏やかだ。


木剣の音が、またひとつ。

短く、澄んで、どこか楽しげにすら聞こえる音。


(稽古か)


剣戟の響きからして、アルノルトと、セリーヌで間違いない。

阿吽の呼吸とも言うべきだろうか。

ともに長い年月を積み重ねてきたことが、音の端々から伝わってくる。


――と。扉が、勢いよく開いた。


「……っ」


声にならない息が漏れた。

飛び込んできたのはチトセだった。冷気が一緒に部屋へ流れ込み、灯の火がふっと揺れた。チトセの息は浅く、白くはならないまでも、喉の奥が震えているのが分かった。

外套も羽織っていない。髪に落ち葉の欠片が絡み、頬は赤く、瞳だけがひどく濡れている。


シロウが立ち上がるより早く、妹は寝台へ転がり込むように潜り込み、掛布(かけぬの)を抱えて丸くなった。


「チトセ。どうした」


落ち着いた声を作ったつもりだったが、言葉の端が少し硬くなった。


返事はない。

すすり泣きだけが、掛布の内側で震えている。


「何かあったのか」

「……転んだのか」

「……怪我は」


問いかけるほどに、妹の肩が小さく上下する。答えは出ない。

ただ、喉を押し殺した嗚咽が、幾度も短く切れた。


シロウは、そこまで言って言葉を止めた。


――外から、木剣の音。


乾いた打音が、一定の間合いで繰り返されている。

踏みしめる土の音。息が触れる気配。

いま二人が向かい合っていることが、音だけで分かった。


(……そういうことか)


シロウは、息を吐く。深くではない。

妹に聞こえない程度の、小さな息だ。


「……聞こえるか、チトセ」

「……」


掛布の中で、妹が微かに身じろぎした。

それが答えだった。


シロウは寝台の縁に腰を下ろし、掛布の上からそっと手を置いた。

そこに居ると伝える程度に、優しく、軽く。


「泣きたいなら、泣くといい」


少し間を置いて、低く続ける。


「泣くということは、悪いことではない」


……少なくとも、泣くことで誰かを傷つけるわけではない。


言葉にした瞬間、自分の舌に苦みが残った。

“悪いことではない”――本当にそうだろうか。


チトセの嗚咽が、少し強くなった。

シロウはそれ以上、踏み込まない。踏み込めない。


妹が何に傷ついたのか。

それを、シロウはとうに知っている。


あの日から変わったことを、妹は自覚していなかった。

けれど、兄である自分は見逃さなかった。


そして今――外の音が、それを確かなものにしてしまった。


(恋……か)


その言葉を、チトセには言えない。

言った瞬間、妹は救われるかもしれない。しかし同時に、追い詰められる。


叶う道がある恋なら、話は違う。

だが、シロウはもう知ってしまっている。この国の現実も、自分たち兄妹の立場も。


家格。血筋。継承。婚姻。

いま木剣を用いて心を通わせ合っている、アルノルトとセリーヌでさえ、叶わぬ恋路なのだ、と。


(……日向の姓を失っていなければ、妹の恋を成就させてやれたかもしれないのに!)


心の奥で、言葉が噛みつくように跳ねた。

悔恨は、声にしたくなるほど鋭いのに、それを声にしてしまえば妹をさらに傷つける。


自分はラウエン家の従士であり、戦場に立つ者であり、そして仇を追う男でもある。

そのどちらもが、「今のチトセ」を抱えたままでは成り立たない。


(……俺はいずれ、ここを去らねばならない)


仇敵を追い、刃を交えるために。


しかし、「今のチトセ」を連れていくことはできるだろうか。

危険すぎる。

何より、また妹に、あの苦しい旅をさせなければならないのか。


(なら……託すか)


ラウエン家に。

ヘルマン殿の元に。

アルノルトのいる屋敷に。


その考えが浮かんだ途端、胸の奥に別の痛みが走った。

妹は今、その男を見て泣いているのに。


――守るための策が、妹の心を裂く。


シロウは、目を閉じた。

大人の残酷さは、いつも正しさの顔をしてやってくる。


掛布の中で、チトセの泣き声が少しずつ小さくなっていく。

泣き疲れたのか、息が浅くなる。

それでも肩は震えていた。


「……チトセ」


呼ぶと、妹は掛布の端から少しだけ顔を出した。

目は赤い。鼻先も赤い。唇を噛みしめ、言葉を飲み込んだ顔。


「兄上……」


それだけ言って、また掛布を引き寄せた。

「言えない」というより、「言わない」ことを決意したのだろう。

シロウは、頷くだけで返した。

妹が何も言わないなら、自分も何も言わない。


助言は、できない。

慰めは軽薄で、叱咤は残酷だ。


だからせめて、同じ部屋にいる。


外から、木剣の音がまた一つ。

澄んだ音。軽い音。


シロウは、その音が途切れるまで、書を閉じなかった。

読んでいるふりをしながら、妹の震えが治まるのを待った。


――そして、思う。


この屋敷で守るべきものが増えるほど、自分の刃は、どこへ向ければいいのか分からなくなる。


それでも刃は研がねばならない。

それが、仇を追う男の習いだからだ。


掛布の中で、チトセの呼吸が少し落ち着いた。

シロウは灯の芯を整え、火を小さくした。


「……少し眠れ」


妹は返事をしなかった。

だが、掛布の端がほんの少し、頷くように動いた。


シロウはそれを見届けてから、窓の外へ視線を移す。

空気が、静かに冷えていく。


そして遠くで、稽古の音が、ようやく止んだ。



それから数日。

ツェルバハ領の空気は、さらに一段涼しさを増していた。


(オルディア)の月も中ほどを過ぎ、ツェルバハ領には晩秋の気配がゆっくりと根を下ろし始めていた。


御料牧場を吹き抜ける風は乾ききって冷たく、肌に触れるたび、季節が一段進んだことを否応なく知らしめる。草は短く刈り込まれ、朝晩、馬たちの吐く息がかすかに白む日も出てきた。


昼頃、一騎が牧場に入ってきた。

しっかりと背筋を伸ばした男は、まだ若いが、手慣れた風に鞍にまたがっている。

王都の石畳と、書庫の静寂と、社交の場で身につけた雰囲気――それらをまとめて身に纏ったような姿だった。


「コンラート様!」

セリーヌとともに柵のそばで馬の様子を見ていたアルノルトが声を上げると、騎乗の男は片手を上げて笑った。


「久しぶり!帰ってきたよ」

三年。

その間に短い帰省はあった。しかし、それはあくまでも顔見せのためのもので、数日すれば王都へ戻って行ってしまうものだった。

今、目の前に立つコンラートは違う。

旅装を解き、ようやくツェルバハ領へと帰ってきたのだ。


「卒業してな。片付けやら何やらで、少し遅くなった」


そう言って馬を降りる仕草は、昔よりもぐんと上手になっていた。

細部も違っていた。言葉の選び方、視線の置き方、笑みの奥にある静けさ。

成長ではない。変化だ、とアルノルトは思った。

セリーヌも、コンラートの姿を間近に認めると、目を見開き、それから少し遅れて微笑む。


「お帰りなさい。……お久しぶりです」

「セリーヌは、うん……随分、大人びたね」

軽い挨拶だった。


だが、長い時間を過ごした三人には、それで充分だったのかもしれない。



青毛――アルノルトが密かに「暴風」と呼んでいる若駒は、その日も気まぐれだった。

人の指示を拒むことは減ったが、従順とは程遠い。

必要なときだけ合図を選ぶように受け取り、それ以外は無視する。


「話には聞いていたけど、あれは相変わらず難物みたいだね」

コンラートが柵越しに眺めながら言う。

まるで暴君のような青毛の若駒は、彼が王都へと旅立ったあとで生まれたのだ。

これまでの帰省の折に、遠目には見ていたのだろう。だからか、初めて対面したにしては落ち着いて見えた。


幼馴染の三人が久しぶりに集まっているのを見て、馬丁らもわらわらと近づいてくる。


「まったく懐いてくれないのですが。ただ……少しずつ、理解はしてくれています」


アルノルトの言葉に、馬丁たちが頷く。

七曜に一度、彼が関わることで、青毛は少しずつではあるが確かに変わってきていた。


「なるほど。無理に縛らず、時間をかけて徐々に心を通わせる、か」

感心したように言ってから、コンラートは少し間を置いた。


風が柵を鳴らし、馬が小さく鼻を鳴らした。

それらの音の中で、コンラートだけが一拍、言葉を選ぶように黙った。


「……あのさ。僕ね、長くはここにいられないんだ」

その言葉は、凩よりも冷たく響いた。


アルノルトとセリーヌが同時に顔を上げる。


「王都で婚約が決まったんだ。二年後、相手が成人したら、婿として向こうへ入る」


あまりにもあっさりとした口調だった。

驚愕する二人と馬丁たちから少し距離を取っていた馬丁頭は軽く頷くだけだった。ツェルバハ子爵の家臣の中でも重要な位置を占める男だ。既に知っていたのだろう。


「三男だからね。仕方ない」

コンラートの冗談めかした笑み。

その軽さが、逆に重かった。


貴族社会。

あらゆる選択肢があるようでいて、実は最初から道が決まっている社会。

個人の感情が入り込む余地など、ほとんどない。


「所領が王都の南なんだよ」

その説明に、セリーヌが現実を察し、自身の右手で左腕を抱いた。

「……もう、戻れないかもしれないんですね」

彼女の声は、思ったより静かだった。


「さあね。婿養子だからね。立場次第だよ」


そう答えながらも、コンラートの視線は一瞬だけ、二人から逸れた。

彼自身もまた、その先を完全には見通せていない。



しばしの沈黙のあと、セリーヌが口を開いた。


「……どんな方、なのですか」


彼女自身、自分でも驚くほど、言葉が早く出た。

恋を知る前なら、きっと聞かなかった。

けれど、今はどうしても気になった。


「まだまだ少女って感じだけどさ。でも、すごく優しい子なんだ」

もう既に顔合わせは済んでいるのだろう。まんざらでもない声色だった。

コンラートの表情は、どこか柔らかく、もう受け入れた者の顔をしていた。


その様子を見て、アルノルトは胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。

ただ、時間が確実に前へ進んでいることへの、戸惑いだった。


セリーヌも同じだった。

甘酸っぱい感覚が胸を満たし、同時に、取り戻せない何かが静かに遠ざかっていくのを感じる。


三人で過ごした日々。

同じ道を走り、同じ景色を見て、同じ時間を共有していた頃。

牧場をコンラートが馬で駆け、アルノルトとセリーヌが馬柵の外で木剣を交える、そんなに遠くない過去が、静かに遠ざかっていくのだ。

それは、もう戻らない。


(オルディア)が吹き抜け、牧場の旗をバサバサと鳴らす。

その音は、別れの合図のようでもあり、新しい始まりの前触れのようでもあった。


アルノルトは青毛へ視線を戻す。

セリーヌは、冷たい風の中で背筋を伸ばす。

コンラートは、遠く王都の方角を一瞬だけ見やり、そして笑った。


幼かった日々は、確かに過去になった。

だが、それぞれが選ばれた道を歩き出すのは、これからだ。


歳月は静かに、容赦なく、時間を進めていく。

掛布(かけぬの)「(サァ!)ここまでとっばっせー! 放りこめ放りこめ カ・ケ・フ!」

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