25.剣と恋(前編)
大陸暦三〇三年、白の節。
今年の収穫はすでに終わり、畑には刈り株だけが残されていた。昼間の陽射しはまだ力強いが、朝夕の空気には確かな涼しさが混じり、吐く息が白く見える日もある。
国境では、この一年、大きな争いは起きていなかった。
小競り合いすら減り、狼煙も上がらない。人々はようやく、来る冬のことを考えながら日々を送れるようになっていた。
ラウエン家の屋敷もまた、そんな穏やかな季節の中にあった。
◆
屋敷の裏手に設けられた稽古場は、踏み固められた土の上に杭で囲いを作っただけの、簡素な場所だ。
幾度も剣が振るわれてきた地面には、無数の足跡と傷が残っている。
朝の湿り気が土に残り、踏み込むたび靴底がかすかに沈んだ。
木剣の握りには乾いた木肌のざらつきがあり、息を吐くと冷えた空気が肺に落ちる。
それでも陽は高く、稽古場の影は短かった。
セリーヌ・ヴェン・エーベルハルトは、その稽古場の中央に立っていた。
この年、十五歳。形式の上では成人である。
意気を失ってしまった父エーベルハルト男爵に代わり、領地の仕事を代行する日々は続いていた。
だが今年の収穫と収穫祭も無事に終わり、政務の流れにも慣れてきたことで、ようやく自分の時間を持てるようになってきていた。
――その時間の一部を、剣の稽古に戻すことができるほどに。
「お待たせしました」
声とともに、アルノルトが稽古場へ入ってくる。
彼もまたラウエン家の平騎士として、また父ヘルマンの補佐として忙しい日々を送っているが、この時間だけは、肩の力が抜けているように見えた。
「いいえ。私も、今準備ができたところよ」
セリーヌはそう答え、木剣を握り直す。
その表情には、以前よりも柔らかい余裕があった。
二人は向かい合い、間合いに入る。
合図は要らない。長年の稽古で、二人の始まりの呼吸は自然と揃っていた。
木剣が打ち合わされ、乾いた音が響く。
セリーヌの剣は、以前とは違っていた。
無駄な動きが減り、踏み込みは浅くても確実だ。力任せではなく、相手の動きを見てから刃を出す。
領地の裁定や交渉で培われた慎重さが、そのまま剣筋に表れているようだった。
一太刀ごとに、彼女の視線が先を読むように静かに動く。
以前は「勝ちたい」という欲が剣に出ていた。いまは「崩れない」強さが芯にある。
もしかしたら忙しい政務の間を縫って、家臣の平騎士らと鍛錬をしていたのかもしれない。
(……変わられた、な)
アルノルトは剣を受けながら、そう感じる。
ただ強くなったのではない。重心が落ち着き、迷いが少ない。
一合、二合と剣を交え、やがて互いに距離を取る。
「随分と上達されました」
思わず漏れたアルノルトの言葉に、セリーヌは小さく息を吐いた。
「強くならないと、困るでしょう。今の立場では」
冗談めかした口調だったが、そこには責任を背負う者の自覚がにじんでいた。
アルノルトは何も言えず、ただ剣を構え直す。
再び木剣が触れ合う。
セリーヌの刃がアルノルトの木剣を押さえ、その先をわずかに外へ払った。
次の瞬間、彼女の踏み込みが鋭く入り、アルノルトの腕が痺れる。
その一連の動きの中で、二人の呼吸は自然と重なっていった。
ふと、剣が止まる。
距離は近い。息遣いがはっきりと分かるほどだ。
二人は、同時に一歩引いた。
互いの呼吸が、静かに重なる。木剣の先端が、地面すれすれで揺れた。
セリーヌが先に息を吐く。
しばしの沈黙。剣を下ろしたセリーヌが、ぽつりと言った。
「……こうして稽古ができるようになるなんて、思っていなかったわ」
「俺もです」
短い返事だった。
それ以上の言葉は、喉の奥に引っかかる。
あの冬、折れた旗の下で交わした約束。
――また、一緒に稽古をしよう。
果たされるまでに、時間はかかった。
忘れていたわけではない。ただ、彼女には背負うべき役目が多すぎた。
アルノルトは、剣を握る彼女の手を見る。
視線の先に、彼女の手袋の縫い目が見える。細い指。剣を握って硬くなった掌。領地の書状に判を押し続けて疲れた指先。
その手は、剣を握るためだけの手ではない。
この領地を動かし、人を裁き、守るための手でもある。
(男爵家の娘の手だ)
その事実が、ふいに胸をよぎる。
自分は士爵の家の子。努力や武勲で段を上がる道はある。けれど、彼女の生まれは、最初から高い場所にある。手を伸ばせば届きそうに見えて、実際には、梯子の段そのものが違う。
剣の腕であれば、並べる、越せる。馬もそうだ。だが、身分はどうだろうか。
そんな考えを振り払うように、アルノルトは一歩踏み込んだ。
木剣が触れ合い、高く澄んだ音が響く。
その音は、二人が同じ時間を生きていることを確かめ合うように、稽古場に残った。
秋の空は高く、雲はゆっくりと流れている。
平穏な日々の中で、剣を交える二人の間に、まだ名前のつかない感情が、静かに芽を出し始めていた。
◆
稽古場の土を踏みしめる音が、一定の間合いで繰り返されていた。
ラウエン家の稽古場の隣、馬房の影に身を寄せながら、チトセはその様子を見ていた。
馬の温い息が藁の匂いを押し上げ、時おり鎖が小さく鳴る。
それらの生活音の向こうで、木剣の乾いた音だけが、妙に澄んで聞こえた。
視線の先では、アルノルトとセリーヌが向かい合い、木剣を交えている。
剣が触れ合うたび、乾いた音が短く空気を震わせた。
激しさはない。だが、互いの動きを読み合い、呼吸を合わせるような、静かな緊張がそこにはあった。
セリーヌの剣筋は、以前よりも柔らかい。
力で押すことはなく、間合いを大切にし、相手の動きを受け止める――そんな剣だ。
(……上手くなった)
遠目にも、それははっきりと分かった。
迷いが削ぎ落とされ、動きが素直になっている。
それを受け止めるアルノルトの構えも、自然だった。
剣筋を追う視線は真剣だが、どこか穏やかで、相手を信頼している者の目だった。
――二人だけの、時間。
その認識が、胸の奥に引っかかった。
チトセは、なぜ自分がここに立っているのか、分からなくなっていた。
だが、今この場に無遠慮に踏み込むのは、違う気がした。
理由は分からない。
ただ、胸の内に、ざらりとした感触が残る。
(……変だ)
アルノルトが剣を振るう姿は、これまでも何度も見てきた。
セリーヌが剣を取るのも、珍しいことではない。
それなのに――今は。
二人の間に流れる空気に、入り込めない。
剣が交わる音が、少し遠く感じられる。
その感覚が、チトセを不安にさせた。
(どうして……こんな気持ちになるんだろう)
理由も分からず、胸が落ち着かない感覚が、ゆっくりと広がっていく。
視線を戻すと、セリーヌが一歩踏み込み、アルノルトがそれを受け止めていた。
動きはきれいだ。だが――
チトセは、無意識のうちに指先を握りしめていた。
指先に力が入りすぎて、掌の古傷が微かに疼いた。
自分でも理由が分からない苛立ちが、喉の奥に引っかかる。
純粋な打ち合いなら――
踏み込みの速さも――
切り返しの鋭さも――
自分のほうが……。
それは驕りではない。事実として、分かっている。
それなのに、アルノルトの正面に立っているのは、セリーヌだ。自分ではない。
剣を交え、呼吸を合わせ、自然に言葉を交わし、微笑み合っている。
(……どうして)
理由を探そうとして、チトセは戸惑った。
剣の腕で言えば、自分のほうが――
「私のほうが、強いのに」
誰の耳にも届かないつぶやきを漏らした瞬間、チトセは自分で自分に驚いた。
強いから、何なのだろう。
戦場で?
稽古場で?
それとも――
アルノルトの、隣で?
そこまで考えて、思考が止まった。
自分が「どこに立ちたい」のか。
分からない。
ただ一つだけ、はっきりしている感情があった。
(……アルノルト様の一番でいたい)
理由はない。
理屈もない。
けれど、その思いだけは、否定できなかった。
冬のあの日。
命の危機にあった自分を、助けてくれた。
必死だったはずなのに、どこか頼もしかった横顔。
自分の言葉に頷き、凛々しく見つめ返してくれたあの眼差し。
思い返せば、そこからだったのかもしれない。
けれど、今目の前にあるのは、自分の知らない関係だ。
幼馴染同士の、積み重ねた時間。自分が入り込めない場所。
チトセは煩悶の末にそれを腑に落とし、そっと息を吐いた。
(ああ……これが恋なんだ)
木剣を下ろし、息を整える二人の姿を見届けてから、チトセは静かにその場を離れる。
足音を立てないよう、馬房の奥へと引き返した。
振り返ることは、しなかった。
チトセは九歳のときに、兄とともに瑞穂を出て、精神的な成長はそこでほとんど止まってしまっています。
悲しいことに、仇敵を追うの旅の途上、成長したのは生きるための殺人剣だけです。
ラウエン家に来て周囲の人々との関わりの中で、ようやく遅れを取り戻し精神の成長を始めたところで自分の感情に気付いてしまいました。
ただ、チトセのそれについて「吊り橋効果」の影響を否定できません。
とはいえ、そこからはじまる……なんてこと、人間だったら往々にしてありますよね。




