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暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
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24.暴風たる青毛

大陸暦三〇三年、青の節。

ブリューナ丘陵の大勝利から、すでに半年が過ぎていた。


黄金風(アウリス)の月に入ると、雪解け水が大地を潤し、針葉樹林を抜ける風は、冷たさよりも若葉の匂いを運ぶ。

グラーツ王国はあれ以来沈黙したように攻勢を見せず、北西国境地帯は二年ぶりに安堵の息をつきつつあった。


子爵領への丘道を越えると、牧柵が連なり、乾いた藁と獣脂の匂いが風に混じった。

見張り台の旗がゆるく垂れ、ここが御料牧場であるとだけ告げていた。

今、王家直轄の軍馬育成牧は、春の活気に満ちていた。



半年ぶりに踏み入れた御料牧場の空気は、アルノルトにとってどこか懐かしかった。

乾いた藁と獣脂の匂いに、かつての日々が自然と胸に浮かぶ。

戦場では感じられぬ、生き物の息遣いが、ここにはあった。


牧柵の向こうでは、霜路重馬(しもじじゅうば)の仔馬たちが、牧草を食む母馬たちの背景で、春風の精霊のように跳ね回っている。

体躯は生後数ヶ月とは思えないほど逞しく、肩は張り、尻も丸みを帯びている。軽々と騎兵を背に乗せる未来が想像できた。


仔馬が跳ねて着地するたび、草が短く散り、当歳の仔馬らしからぬ太い蹄が土を軽く叩いた。

霜路重馬は、元を辿れば西方の重馬「グランデ種」と、霜路在来種との交配によって生まれた馬種である。

グランデは丈夫さと従順さを併せ持っており、西方諸国――特にヴェルガントやグラーツが最も信頼する軍馬種だった。


馬丁(ばてい)たちは仔馬の動きを目で追いながら、誇らしげに言葉を交わす。


「今年も出来が良いな」

「戦が静かだと、馬も落ち着くわ」


その輪の横で、アルノルトは柵に肘をかけて仔馬たちを眺めていた。


昨年成人し、すでに軍役を果たしている立場である。

もはや牧場手伝いの義務はないのだが――


「アルノルト、お前さんはもう馬丁見習いじゃねぇんだぞ」


馬丁頭が苦笑混じりに言うと、アルノルトも照れくさそうに笑った。


「すみません。でも、どうしても気になってしまって」


幼い頃から馬の匂いに囲まれて育ったようなものだ。

馬と触れ合う時間は、彼にとって習慣であり、安らぎでさえあった。

それに、自分が惚れ込んだ霜路重馬の仔馬たちである。気にならないほうがおかしい。



そんなアルノルトが、どうしても視線を奪われる存在がいる。


――巨躯の青毛。

近くの若駒が一歩引き、耳だけをこちらに向けた。

青毛が首を振ると、たてがみの黒い筋が光を裂き、柵の木が小さく鳴った。


アルノルトが「暴風」と内心密かに呼んでいる若駒であった。


三歳。

人間でいえば、少年と青年の境目。

だが、身体はすでに他の若駒の一回り上を行く。


そして、何より――


「こいつは全然馴致にならねぇ……」


馬丁の嘆き声が、今日も牧場に響いた。


暴風はとにかく言うことを聞かない。

気に障ることがあると、後肢で地面をえぐり、頭を振り、場合によっては柵を飛び越える。

群れの中でリーダーを気取るわけでもないのに、走り出せば絶対に先頭は譲らない。

他の若駒たちも自然と道を譲る。馬丁曰く――


「なんか……あいつだけ雰囲気が違うんだよな」


牡馬(ぼば)が近づくと追い払うくせに、そのくせ牝馬(ひんば)には妙に優しい。

隣に寄られても嫌がらず、むしろ落ち着いた表情を見せる。


「……単なる女好きかもな」

「若い(おす)はこれだからよ……」

馬丁の一人は刷毛を握ったまま、もう一人は塩の入った桶を抱えたまま、柵際で言い合っていた。

指先には藁屑と油がこびりつき、笑うと白い息が一瞬だけ形を作る。

馬丁たちの評に、アルノルトは声を立てて笑った。


(暴風は、本能に忠実なんだな)


だが、その性質が――ふと、ひらめきに結びついた。



(かしら)。牝馬と一緒に馴致してみるのはどうでしょうか」


アルノルトの提案に、周囲の馬丁たちが「おお?」と目を丸くする。


「あいつは牝馬の近くにいれば落ち着く。なら、その状態であれば鞍や手綱に慣らせるかもしれません」

アルノルトは近くにいた大人しい牝馬の綱を取り、柵沿いにゆっくり歩かせた。

青毛は一度だけ鼻を鳴らし、さっきまで地面を掻いていた後肢が、嘘のように止まる。


馬丁頭は、呆れ半分、感心半分の顔で腕を組んだ。


「確かになあ。前例がないわけじゃねえがな……実際にどうなるかは知らんぞ」


「わかっています。でも、あいつにはこれが一番向いていると思うんです」


アルノルトは深く頭を下げた。


「七曜に一度は必ず来て手伝いをしますから。どうか、挑戦させてください」


「牝馬に甘えるだけじゃ、鞍を許すとは限らん」

馬丁頭はそう言って頭を掻いたが、興味を持った青毛の耳が、ピンと前を向いた瞬間を見逃さなかった。


「お前さんはもう平騎士だってのに……」

たしなめつつも、馬丁頭はしぶしぶ頷いた。


「まあ、やってみる価値はあるかもしれん」


アルノルトはほっと息をつき、青毛の横顔へ視線を向ける。

青い毛並みが、春の日差しを受けて艶やかに光っていた。



そのときだ。


「アルノルト様ー!」


放牧地の外から、弾むような声が飛んできた。

振り返ると、チトセが駆けてくるところである。


「ヘルマン様がお呼びです!代官領へお戻りを、とのことー!」


アルノルトはその声に頷き、牧柵に立てかけた長剣を持ち上げた。

馬丁らに別れを告げて、チトセへと歩み去っていく。


「ありがとう。行こうか、チトセ」


チトセは瞬きし、嬉しそうに微笑んだ。



二人が並んで歩き去る背中を見つつ、馬丁たちはまた囁き始める。


「……で、エーベルハルトんとこの嬢ちゃんはどうしてるんだ?」

馬丁の一人がアルノルトの背を見送りながら、ふと思い出したように口を開いた。


「ああ……今は屋敷と領地のことで、ほとんど身動きが取れんらしい」

「親父さんが元気ならなぁ。お労しいことだよ」

「十五であれを全部引き受けてりゃ、そりゃそうだな……」


馬丁の一人が何か言いかけて、口の端を指で拭い、そのまま黙った。

代わりに、仔馬が柵際で短く嘶き、母馬が鼻面でそれを押し戻す。

それ以上、誰も言葉を続けられなかった。


あの冬にアルノルトとセリーヌが交わした約束は、まだ果たされていない。

だがそれは、忘れられたからではない。


ただ――

彼女が背負うべき役目が、あまりにも重く、今はまだ、今はまだ、巡り合わせがないだけだ。


風が草原を撫でていく。

仔馬たちの蹄音が響き、それがまた、静けさをいっそう際立たせた。


そして――


アルノルトが振り向きもしないまま、チトセと並んで歩いていく姿が、青い風の中に、小さくなっていった。

いーややこややー セリーヌちゃんにゆーたーろー♪

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