表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁の騎士  作者: 満波ケン
第三章 戦塵烈風
23/45

23.折れた旗の下で

第三部です。

大陸暦三〇二年、白の節。

初雪(ネヴラ)の月。


刈り取りを終えた畑では、放牧もすでに引き上げられていた。

村々では、冬小麦の種袋が納屋から引き出され、畝を起こす準備が静かに進められている。

戦が終わり、季節が移り、世界は次の冬へ向かおうとしていた。


だが――

すべてが、元に戻ったわけではない。


ヘルマン・ツァ・ラウエンは、代官領の帳面を閉じると、深く息を吐いた。

ブリューナ丘陵の戦いから一月あまり。

戦後処理と領内統治の立て直しは想像以上に煩雑で、彼はほとんど屋敷を空けていなかった。


「……そろそろだな」


そう呟いて立ち上がると、傍らで控えていたアルノルトが顔を上げる。


「エーベルハルト男爵の見舞いだ。共に来い」


「はい、父上」


息子は、すぐに外套(マント)を整えた。

補佐として書類を運び、使用人や村民に命令を伝え、代官業務の端々を支えてきたが、今日は別の役目がある。



エーベルハルト男爵の屋敷は、国境に近い領らしく質実剛健だった。

過剰な装飾はなく、石壁は厚く、警備兵の動きにも無駄がない。


門番に来訪を告げ、櫓を兼ねた石門をくぐると、家宰と数名の使用人らが玄関(ポーチ)の前で二人を出迎え、深く頭を下げた。


「ラウエン様、ようこそお越しくださいました」

「ご無沙汰している。男爵様の具合は」

「お命に別状はありません。ただ……」

言葉を濁す家宰の表情が、すべてを物語っていた。


鞍から降りた二人は、騎馬の手綱を使用人に預けると邸内へ案内され、二階の一室へ向かった。



扉を開けた瞬間、アルノルトは、室内に漂う静けさに息を呑んだ。


薬草と酒と、血の匂いが混じっていた。

壁の向こうで誰かが咳払いをし、また沈黙が戻る。


窓から差し込む淡い晩秋の光。

簡素な寝台。

壁に掛けられた、かつての戦役で用いられた旗――それは半ば折りたたまれるように、釘からだらりと垂れたまま埃をかぶっていた。


寝台に腰掛け、こちらを迎えたのは、エーベルハルト男爵。

三十九歳。充分に壮年という年齢ではあるが、顔にはそれ以上の歳月が刻まれているように見えた。

掛布(かけぬの)の上で、左腕は肘の上から失われていた。


「……来たか」

低い声でそう言い、男爵は視線を上げた。


「久しいな、ヘルマン。無事で何よりだ」

ヘルマンは頷きでそれに応答し、アルノルトも一礼する。


「アルノルトです。お見舞いに参りました」


男爵は一瞬、彼を見つめ、それから小さく笑った。

「……大きくなったな。戦場でも、よく見えた」


その言葉に、アルノルトは胸の奥が熱くなるのを感じた。



男爵は、ふと枕元の小卓へ手を伸ばした。

葡萄酒(ワイン)を取ろうとしたのだろう。

だが――そこにあるはずの感触がなく、左腕が空を切る。

男爵はしばし、そのまま動かなかった。


「……たまに、こうなる」

静かな声だった。

「まだ、腕があるような気がする。ここに……確かに、あるはずだと」


それが「幻肢」と呼ばれるものだと、アルノルトは知識としては知っていた。

しかし、目の前でそれを語られると、何も言えなくなる。


男爵は視線を落としたまま、続ける。

「剣を取る気にもならん。酒を飲めば、忘れられるかと思ったが……それも、どうでもよくなった」


ヘルマンは、しばらく沈黙してから言った。

「……また、戦場に戻るつもりはないのか」


男爵は、ゆっくりと首を横に振った。

「もう無理だ。片腕で手綱を取って兵を導くことはできても、剣は振るえんよ」


窓の外を見つめるその目は、遠い過去を見ているようだった。


「お前と轡を並べていた頃が……懐かしい」

その声に、戦意はなかった。



部屋に残るヘルマンに促され、アルノルトは部屋を辞した。

そして廊下の途中で足を止める。

並ぶ扉の一つを前にして、わずかに呼吸が浅くなる。


「……セリーヌ様は?」


背後に控えていた家宰が、言葉少なに首を振った。

「自室に籠もったきりです。食事も、ほとんど喉を通されていません」


沈痛な面持ちのまま続ける。

「アルノルト様。もっとも親しい友人であるあなた様から、お励ましをいただけないでしょうか」


かつて彼女の笑顔は、この屋敷を太陽のように照らしていた。

その光が失われたままでは、この家もまた、長い影の中に沈み続けるのだろう。


家宰からの懇願を受けて、アルノルトは一度、拳を握り、そして扉に向き直った。


ノックの音は、部屋の静けさに吸い込まれるように消えた。


返事はない。


家宰が頷き、目線を送ってくるのを見て、アルノルトはゆっくりと、音を立てぬよう扉を開いた。


窓帷(カーテン)は半ば閉じられ、外の光は薄布を通して鈍く滲んでいる。

隅には磨きかけの兜と、使われぬままの木剣が寄せられていた。

どれも、触れられないまま時間だけが積もっている。

空気は澱み、時間そのものが足踏みしているかのようだった。


寝台の端に、セリーヌは座っていた。

背を丸め、両手を膝の上で重ねたまま、こちらを振り向こうともしない。


「……セリーヌ様」


名を呼ぶと、微かに肩が揺れた。

それだけで、返事はない。


アルノルトは、静かに待った。


「……来ないで」


やがてぽつりと漏れたのは、掠れた声だった。

拒絶というより、(すが)るような弱さを含んだ響き。


アルノルトは、その場に立ち尽くした。

踏み込めば、壊れてしまいそうだった。

だが、何も言わずに去ることも、できなかった。


しばらくの沈黙のあと、彼は慎重に言葉を探した。


「……また、一緒に稽古をしよう」


あまりにも不器用な誘いだった。

慰めにも、励ましにもなりきらない。


その一言で、セリーヌはゆっくりと振り向いた。


赤く腫れた瞳。

泣き腫らした痕を隠そうともしない顔。

美しい銀髪が頬にかかって貼り付き、秀麗な眉目に愁いと悲しみが滲む。


「もう……剣なんて……」


言葉は途中で途切れた。

吐き出せば、心ごと崩れてしまいそうだったのだろう。


「それでも」


アルノルトは、思わず一歩近づいていた。

「……私は、あなたと剣を打ち合わせる時間が……好きでした」

静かに、セリーヌへ告げる。


それは、彼女が振るう剣の「強さ」への賛美ではない。

幼き日々から共に立ち、同じ時間をすごしてきた少女への率直な想いだった。


沈黙が落ちる。


セリーヌは唇を噛みしめ、視線を伏せたまま、しばらく動かなかった。

やがて、押し殺すように言葉を紡ぐ。

その言葉を吐くまでに、彼女は一度だけ喉を鳴らした。


「……父は、もう前線に立てません」


断言だった。

希望を否定する言葉ではなく、現実を受け入れた声。


「弟は、まだ幼いわ」


声は震えていたが、その瞳の奥には、逃げ場を断ち切った者だけが持つ、張り詰めた勁さが、確かに戻りつつあった。


アルノルトは次の言葉を待った。


「男爵家を……支えなければならない。弟が、継げるようになるまで……」


それは、これまでのように伝令などの後方支援の立場ではない。

誰かの背を守る立場から、自ら旗の下に立ち剣を振るう覚悟だった。


エーベルハルト男爵家の嫡男は、まだ十歳である。

成人まで、なお五年を要する。


アルノルトの胸の奥で、何かが軋んだ。

この決断に至るまで、どれほどの葛藤があったのだろうか。

初陣を済ませているとはいえ、成人を迎えていない少女の心を思えば、胸が締めつけられる。


アルノルトの中に、彼女への誇らしさと、失ってしまうのではという恐れと、そして未だ名を持たない感情が絡まり合う。


「……できる限り、私もお助けします」


気づけば、そう口にしていた。


それが友情なのか、

あるいは、それだけでは済まない何かなのか。


自分でも、まだ分からない。


だが――

セリーヌが独りで背負うことだけは、どうしても受け入れられなかった。



屋敷を後にする頃、初雪(ネヴラ)の月の空は低く垂れ込めていた。


雲は重く、まもなく初雪を運んでくるのだろう。


折れた旗の下で、それでも立ち上がろうとする者たちがいる。

その事実だけが、アルノルトの胸に、かすかな熱を残していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ