23.折れた旗の下で
第三部です。
大陸暦三〇二年、白の節。
初雪の月。
刈り取りを終えた畑では、放牧もすでに引き上げられていた。
村々では、冬小麦の種袋が納屋から引き出され、畝を起こす準備が静かに進められている。
戦が終わり、季節が移り、世界は次の冬へ向かおうとしていた。
だが――
すべてが、元に戻ったわけではない。
ヘルマン・ツァ・ラウエンは、代官領の帳面を閉じると、深く息を吐いた。
ブリューナ丘陵の戦いから一月あまり。
戦後処理と領内統治の立て直しは想像以上に煩雑で、彼はほとんど屋敷を空けていなかった。
「……そろそろだな」
そう呟いて立ち上がると、傍らで控えていたアルノルトが顔を上げる。
「エーベルハルト男爵の見舞いだ。共に来い」
「はい、父上」
息子は、すぐに外套を整えた。
補佐として書類を運び、使用人や村民に命令を伝え、代官業務の端々を支えてきたが、今日は別の役目がある。
◆
エーベルハルト男爵の屋敷は、国境に近い領らしく質実剛健だった。
過剰な装飾はなく、石壁は厚く、警備兵の動きにも無駄がない。
門番に来訪を告げ、櫓を兼ねた石門をくぐると、家宰と数名の使用人らが玄関の前で二人を出迎え、深く頭を下げた。
「ラウエン様、ようこそお越しくださいました」
「ご無沙汰している。男爵様の具合は」
「お命に別状はありません。ただ……」
言葉を濁す家宰の表情が、すべてを物語っていた。
鞍から降りた二人は、騎馬の手綱を使用人に預けると邸内へ案内され、二階の一室へ向かった。
◆
扉を開けた瞬間、アルノルトは、室内に漂う静けさに息を呑んだ。
薬草と酒と、血の匂いが混じっていた。
壁の向こうで誰かが咳払いをし、また沈黙が戻る。
窓から差し込む淡い晩秋の光。
簡素な寝台。
壁に掛けられた、かつての戦役で用いられた旗――それは半ば折りたたまれるように、釘からだらりと垂れたまま埃をかぶっていた。
寝台に腰掛け、こちらを迎えたのは、エーベルハルト男爵。
三十九歳。充分に壮年という年齢ではあるが、顔にはそれ以上の歳月が刻まれているように見えた。
掛布の上で、左腕は肘の上から失われていた。
「……来たか」
低い声でそう言い、男爵は視線を上げた。
「久しいな、ヘルマン。無事で何よりだ」
ヘルマンは頷きでそれに応答し、アルノルトも一礼する。
「アルノルトです。お見舞いに参りました」
男爵は一瞬、彼を見つめ、それから小さく笑った。
「……大きくなったな。戦場でも、よく見えた」
その言葉に、アルノルトは胸の奥が熱くなるのを感じた。
◆
男爵は、ふと枕元の小卓へ手を伸ばした。
葡萄酒を取ろうとしたのだろう。
だが――そこにあるはずの感触がなく、左腕が空を切る。
男爵はしばし、そのまま動かなかった。
「……たまに、こうなる」
静かな声だった。
「まだ、腕があるような気がする。ここに……確かに、あるはずだと」
それが「幻肢」と呼ばれるものだと、アルノルトは知識としては知っていた。
しかし、目の前でそれを語られると、何も言えなくなる。
男爵は視線を落としたまま、続ける。
「剣を取る気にもならん。酒を飲めば、忘れられるかと思ったが……それも、どうでもよくなった」
ヘルマンは、しばらく沈黙してから言った。
「……また、戦場に戻るつもりはないのか」
男爵は、ゆっくりと首を横に振った。
「もう無理だ。片腕で手綱を取って兵を導くことはできても、剣は振るえんよ」
窓の外を見つめるその目は、遠い過去を見ているようだった。
「お前と轡を並べていた頃が……懐かしい」
その声に、戦意はなかった。
◆
部屋に残るヘルマンに促され、アルノルトは部屋を辞した。
そして廊下の途中で足を止める。
並ぶ扉の一つを前にして、わずかに呼吸が浅くなる。
「……セリーヌ様は?」
背後に控えていた家宰が、言葉少なに首を振った。
「自室に籠もったきりです。食事も、ほとんど喉を通されていません」
沈痛な面持ちのまま続ける。
「アルノルト様。もっとも親しい友人であるあなた様から、お励ましをいただけないでしょうか」
かつて彼女の笑顔は、この屋敷を太陽のように照らしていた。
その光が失われたままでは、この家もまた、長い影の中に沈み続けるのだろう。
家宰からの懇願を受けて、アルノルトは一度、拳を握り、そして扉に向き直った。
ノックの音は、部屋の静けさに吸い込まれるように消えた。
返事はない。
家宰が頷き、目線を送ってくるのを見て、アルノルトはゆっくりと、音を立てぬよう扉を開いた。
窓帷は半ば閉じられ、外の光は薄布を通して鈍く滲んでいる。
隅には磨きかけの兜と、使われぬままの木剣が寄せられていた。
どれも、触れられないまま時間だけが積もっている。
空気は澱み、時間そのものが足踏みしているかのようだった。
寝台の端に、セリーヌは座っていた。
背を丸め、両手を膝の上で重ねたまま、こちらを振り向こうともしない。
「……セリーヌ様」
名を呼ぶと、微かに肩が揺れた。
それだけで、返事はない。
アルノルトは、静かに待った。
「……来ないで」
やがてぽつりと漏れたのは、掠れた声だった。
拒絶というより、縋るような弱さを含んだ響き。
アルノルトは、その場に立ち尽くした。
踏み込めば、壊れてしまいそうだった。
だが、何も言わずに去ることも、できなかった。
しばらくの沈黙のあと、彼は慎重に言葉を探した。
「……また、一緒に稽古をしよう」
あまりにも不器用な誘いだった。
慰めにも、励ましにもなりきらない。
その一言で、セリーヌはゆっくりと振り向いた。
赤く腫れた瞳。
泣き腫らした痕を隠そうともしない顔。
美しい銀髪が頬にかかって貼り付き、秀麗な眉目に愁いと悲しみが滲む。
「もう……剣なんて……」
言葉は途中で途切れた。
吐き出せば、心ごと崩れてしまいそうだったのだろう。
「それでも」
アルノルトは、思わず一歩近づいていた。
「……私は、あなたと剣を打ち合わせる時間が……好きでした」
静かに、セリーヌへ告げる。
それは、彼女が振るう剣の「強さ」への賛美ではない。
幼き日々から共に立ち、同じ時間をすごしてきた少女への率直な想いだった。
沈黙が落ちる。
セリーヌは唇を噛みしめ、視線を伏せたまま、しばらく動かなかった。
やがて、押し殺すように言葉を紡ぐ。
その言葉を吐くまでに、彼女は一度だけ喉を鳴らした。
「……父は、もう前線に立てません」
断言だった。
希望を否定する言葉ではなく、現実を受け入れた声。
「弟は、まだ幼いわ」
声は震えていたが、その瞳の奥には、逃げ場を断ち切った者だけが持つ、張り詰めた勁さが、確かに戻りつつあった。
アルノルトは次の言葉を待った。
「男爵家を……支えなければならない。弟が、継げるようになるまで……」
それは、これまでのように伝令などの後方支援の立場ではない。
誰かの背を守る立場から、自ら旗の下に立ち剣を振るう覚悟だった。
エーベルハルト男爵家の嫡男は、まだ十歳である。
成人まで、なお五年を要する。
アルノルトの胸の奥で、何かが軋んだ。
この決断に至るまで、どれほどの葛藤があったのだろうか。
初陣を済ませているとはいえ、成人を迎えていない少女の心を思えば、胸が締めつけられる。
アルノルトの中に、彼女への誇らしさと、失ってしまうのではという恐れと、そして未だ名を持たない感情が絡まり合う。
「……できる限り、私もお助けします」
気づけば、そう口にしていた。
それが友情なのか、
あるいは、それだけでは済まない何かなのか。
自分でも、まだ分からない。
だが――
セリーヌが独りで背負うことだけは、どうしても受け入れられなかった。
◆
屋敷を後にする頃、初雪の月の空は低く垂れ込めていた。
雲は重く、まもなく初雪を運んでくるのだろう。
折れた旗の下で、それでも立ち上がろうとする者たちがいる。
その事実だけが、アルノルトの胸に、かすかな熱を残していた。




