21.セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル
●セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル
大陸暦三〇二年時、二十六歳。
レーヴェンの伯爵。西にグラーツ、北に北方諸国と国境を接する北西地域の辺境伯である。父エルヴァンが三十三歳で早逝したため、祖母リュシアナの後見を受けながら伯爵となった。王国最高の用兵家。亜麻色の髪と深い藍色の瞳を持つ端正な美丈夫。武器の扱いは苦手。
大陸暦三〇二年、白の節。
ブリューナ丘陵の戦いから一夜が明けた。
丘陵全体は、白い朝靄にすっぽりと包まれている。
つい昨日まで鉄と炎がぶつかり合った場所とは思えないほどの静けさだった。
湿った土と血の匂いが混じり、風に乗って丘を漂っていた。
倒れた槍、砕けた盾、折れた弓。
泥に半ば埋もれた矢羽。
負傷兵の呻き声が、靄の奥からかすかに届く。
レーヴェン軍は勝利したとはいえ、まだ休む暇はない。
戦死者を埋葬し、負傷兵を運び、装備を回収し、再び軍が動けるよう、丘陵を回復せねばならなかった。
ツェルバハ子爵軍も同じだ。
この後もしばらくここに残り、丘陵防衛のための布陣を固めることになっている。
アルノルトは、戦後処理の作業に加わりながら、百本を超える槍の穂先や鎧の留め金を、黙々と磨いていた。
(昨日の……あの戦いが、本当に終わったのか?)
穂先の乾いた血を拭い落とすたび、敵兵の顔や叫び、味方の背中が脳裏に蘇る。
丘の向こうに陣幕を張っていたセルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯は、今日のうちに自領へ戻るという。
北方の国境線の再強化。
グラーツ方面軍の再編の指示。
そして王都へ戦果の報告。
戦の勝敗が決した瞬間から、すでに次の戦場へ思考を巡らせている。
——それが、レーヴェンきっての戦上手だった。
(……さすが、北西地域を束ねるお方は忙しいのだな)
名将と軍を共にする名残惜しさよりも、若いアルノルトにはむしろ素朴な驚きのほうが勝っていた。
◆
昼前、ラウエン家の陣に使者が駆け込んできた。
「ラウエン家へ伝令!ツェルバハ子爵様より、騎士ヘルマン殿とアルノルト殿は至急、セルヴィオ辺境伯閣下の帷幕へ参じられよ!」
「……お、俺も!?」
思わず声が裏返る。
ヘルマンは鎧の隙間から息子を一瞥し、肩を軽く叩いた。
「胸を張れ」
その一言で、アルノルトの背筋はさらに伸びた。
具足の紐を締め、深呼吸をし、父とともに陣幕へ向かう。
◆
ザーヴェル家の黒地に銀鷲の旗が、冷たい風に揺れていた。
帷幕の入口には緊張が漂い、護衛兵は戦が終わったというにも関わらず、一切の隙を見せない。
幕内へ入った瞬間、空気が変わった。
広げられた大地図。
駒の並ぶ作戦盤。
書類の束。
そして——
セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル。
白い羽扇を手にした、細身の長身が、口ひげをなでつけながら待っていた。
切れ長の目元は鋭さと温かさをあわせ持ち、静かだが、近づく者を圧倒する気配がある。
その場に立っているだけで、視線も思考も、自然と彼に集まっていくようだった。
「よく来てくれました」
柔らかな声が響く。
まずはツェルバハ子爵へ視線が向けられる。
「子爵、貴方の前軍は見事でした。突出した敵を無理に叩かず、引くべき時に引いた判断は、教科書に載せるべきものです」
ツェルバハは深く頭を下げた。
ヘルマンへ。
「そして――騎士ヘルマン。右翼突撃の角度、間合い、速度……完璧でした。あれは“理論上の理想形”です。記録に残しましょう」
ヘルマンは普段寡黙な男だが、さすがに誇らしげに顎を引いた。
さらにセルヴィオは視線をわずかに横へ流し、静かに続けた。
「……そして、エーベルハルト男爵の貢献も忘れてはなりません。重傷を負いながらも戦線を後退させなかったその働きは、軍全体の士気維持において特筆すべきものです」
羽扇の先が、わずかに揺れた。
その言葉には、セルヴィオらしい合理的な評価と、戦士への敬意が宿っていた。
そして、セルヴィオの言葉に火がついた。
「今回の勝因は、まず地理的優勢と局所的戦力集中です。それから敵指揮系統の死角化の徹底。特に、敵パイク密集陣は横移動のモーメントが死んでいるため、散兵による面制圧も非常に効果的に働きました」
(…………え?も……モーメント?め、めん……制圧……?)
アルノルトが混乱する。
ツェルバハとヘルマンは、
(また始まった……)
という顔をしつつ、慎重に頷いていた。
セルヴィオは羽扇を口元に寄せながら、ようやくアルノルトへと視線を移した。
「アルノルト・ツァ・ラウエン」
アルノルトの心臓が跳ねる。
「きみの散兵運用は見事でした。敵の弱点へ積極的にリソースを割り振る、という判断は、経験の浅い兵には難しい。将来性は……非常に、高い」
羽扇が軽く揺れた。
「名を覚えておきます。また戦場で会いましょう」
「は、はいっ……!」
声が裏返りそうになるのを必死で抑えた。
◆
帷幕を出た瞬間、アルノルトは思わず頭を押さえた。
(……すごい方だ……いや……すごい、けど……何を言っておられたのか、一割も分からなかった)
混乱と感動がごちゃ混ぜになる。
そこへツェルバハ子爵が歩み寄る。
「アルノルト。閣下のお言葉は本当だ。お主を高く評価しておられる」
続いてヘルマンが腕を組み、言った。
「昨日のお前は、もう立派に“一人前”だった」
アルノルトの胸が一気に熱くなる。
「……ありがとうございます、子爵さま、父上」
父にそう言われるのが、いちばん嬉しかった。
◆
午後に入っても、丘陵では戦後処理が続いていた。
戦死者の埋葬。
破損した武具の分解と廃棄。
負傷した馬の治療。
矢の回収。
どこまで行っても戦の痕跡が残っている。
アルノルトは装備の手入れをしながら、ふと遠くの空を見上げた。
(……家は、大丈夫だろうか。母上、妹たち、庶弟……それに、チトセも)
屋敷には女性たちと幼子たち、そして男性もいるものの年老いた使用人だけである。
胸の奥に、じわりと沈むような不安が広がった。
戦場に勝った翌日だというのに、空はどこまでも白く、どこか重かった。




