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暁の騎士  作者: 満波ケン
第二章 馬上の青年
20/45

20.残る光

●ゲルハルド・ヴェン・ブロク

大陸暦三〇二年時、三十九歳。

グラーツ王国の宮中伯にして元帥。グラーツに三人しかいない元帥号を持つ。突撃戦、追撃戦を得意とする巨漢の猛将として知られる。焦げ茶色の縮毛に、縮れたあごひげと口ひげを持つ。大変な愛妻家。

 

20.残る光


丘陵の斜面に、鉄と叫びが渦巻いた。


右からはヘルマン隊の槍が突き上がり、

左からはエーベルハルト男爵隊が圧力をかけ、

中央ではツェルバハ子爵の軍が踏ん張っている。


そのさらに外側――


「今だ、投げろ!」


アルノルトの号令とともに、短槍が弧を描いた。

方陣槍(パイク)兵たちの槍の「根元」、露出した脇腹や太腿を狙って、正確に突き刺さっていく。


前方からの弓矢に対応することに頭がいっぱいとなり、かつ横へ動くことの苦手な方陣槍(パイク)兵は、これにほとんど反応できない。


「シロウ、任せる!」

アルノルトは、部隊を預かる身として、号令のため馬上に居続けなければならない。

ぬかるみに突っ込むわけにもいかず、シロウへと指示を飛ばした。

「承知!」

短く応えると、二十ほどの散兵を伴い敵へと疾走った。


「ぐあっ!」

「横だ、横から来ているぞ!」


混乱が、隊列の端から端へ伝播していく。


泥が跳ね、折れた槍が足元で鳴った。

斜面の湿り気が鎧の重さを増やし、敵の息は荒く白く漏れる。

その一瞬の詰まりを、アルノルトは見逃さなかった。


シロウは、散兵たちが投擲した後の隙を逃さず、瞬く間に敵との間合いを詰めていた。


踏み込みは音もなく、斜面を駆ける脚は、まるで地を滑るようだった。

敵兵が「来た」と気づいたときには、もう間合いの内側にいるのだ。


刀が抜かれ、白い閃光となる。

手首、足首――わずかな露出部を正確に断ち切り、敵を無力化していく。


近くの散兵が、思わず足を止めた。

斬り合いの音ではない。骨に触れず、皮一枚を断つような、乾いた鈍さだけが残る。


斬撃は短く、浅い。

だが確実に痛撃を与えていた。

重装歩兵がその痛みに膝を折るよりも早く、シロウは次の敵へと移っていた。

手首を斬られたことさえ気づかぬまま、武器を手から落とす兵もいる。


殺気をまといながらも、動きにはどこまでも冷静な(ことわり)があった。

その姿は、荒れた斜面にただ一本の鋭い筆を引いたようで――

散兵たちが思わず後ろから息を呑むほどだった。


「前へ出すぎるな」

シロウは短く声を飛ばし、自重とともに、味方の散兵にも深入りを禁じる。


彼らの役割は、あくまで横から敵の陣形を崩すこと。

槍兵たちの突撃と合わせてこそ意味を成す。



「押せ!足を止めるな!」


ヘルマンの怒号が、右側から響いてくる。

彼の槍兵隊は、丘の斜面をものともせず、方陣槍(パイク)兵隊の横腹を槍でえぐっていた。


重い長槍は、横から突かれることを想定していない。

盾も、前方に構えられたものが多い。


その隙を、鍛え抜かれたラウエンの槍兵たちが容赦なく(えぐ)る。


一方、左側。


エーベルハルト男爵隊は、正面ではなく、やや斜めから敵中央へ圧力をかけていた。

彼らの突き上げる槍は、乱れた方陣槍(パイク)兵の林をさらに押し広げ、隊形の穴を広げていく。


その後列には、セリーヌが馬を控えていた。


「セリーヌ様、こちらの伝令をツェルバハ子爵へ!」

「承知しました!」


前線から戻ってくる伝令を受け取り、さらに後方へ走らせる。

その合間にも、彼女の目は戦場全体を必死に追っていた。


(……みんな、無事で……)


槍の森の隙間に、アルノルトの姿がちらりと見える。

斜面を駆けながら、散兵たちに短い指示を飛ばしている。


胸の奥がぎゅっと掴まれるような不安と、なにか得体のしれない感情が同時に湧き上がった。



そのころ、丘の中腹からやや下――

方陣槍(パイク)兵の森の向こうで、ゲルハルド元帥は苛立ちを(あらわ)にしていた。


「なぜ前へ出ぬ!丘を登り切れば、奴らの弓は届かぬはずだ!」


側にいた将が、必死に説明を試みる。

「元帥、斜面と湿地で長槍が……隊列の整理に時間が――」

「それを整えるのが貴様らの役目であろう!」

鉄籠手の拳が、馬の鞍を打った。


その瞬間――

乾いた音が、丘の上から届いた。


風を裂く音が、矢とは違う。

放たれた瞬間の低い弦鳴りが遅れて届き、次いで何かが空を叩く気配がする。

兵たちが息を呑んだ。


方陣槍(パイク)兵が一当たりして散らしたはずのレーヴェン弩兵隊が、いつの間にか再集結しており、一斉に引き金を引いたのだ。

前線につられて押し上げてきたグラーツの中軍が、その射程に入っていた。

矢よりも重く、まっすぐ飛ぶ弩矢(ボルト)が、狙いすました一点へ集まる。


「――!」

ゲルハルドは、左前から飛び込んできた衝撃に、息を詰まらせた。

弩を放ったレーヴェン兵らは、結果を見届ける(いとま)もなく後退し、丘陵の草陰に消える。


左肩。

金属と革を貫き、肉を裂いて、一本の弩矢(ボルト)が深く突き刺さっていた。

遅れて、灼けるような痛みが走る。


「元帥!」

護衛の騎士が慌てて手綱を引いた。


元帥の体がぐらりと傾き、落馬しかけたところを数名が支える。

だが、ゲルハルドの重量を支えきれず、ゆっくりと地面に落ちていく。

赤い血が、鎧の隙間から溢れ、黒い外套(マント)を濡らした。


「……造作もない傷よ。まだ戦える」


ゲルハルドは歯を食いしばり、そう言い張り、気丈にも立ち上がった。

痛みを(こら)え、唇を噛みながら「前進せよ!あと一息ぞ!」と、奮起を促す。


だが、元帥が負傷したという事実は、瞬く間に周囲の兵たちに伝わっていく。


「元帥がやられたらしい!」

「元帥さまが……!」


それは、空を飛ぶ矢よりも速く、中軍の戦意を削る毒となった。



稜線の上から、セルヴィオが静かに様子を見下ろしていた。口元に羽扇を掲げる。

彼の目は、感情を大きく動かすことなく、戦場全体を冷静に捉えている。


「弩兵隊、次の目標は――中央の指揮官格を優先。ただし間もなく退くでしょう。撃ちすぎないよう指示をしてください」

副官たちは一斉に頷き、命令を伝えに走った。


丘の斜面では、ツェルバハ子爵軍の槍が、さらに押し上げている。

散兵たちの側面攻撃と、弓・弩の遠距離支援。


方陣槍(パイク)兵の密集陣は、もはや“陣”と呼べる形を保っていなかった。



エーベルハルト男爵は、前列近くで槍を振るっていた。

彼はあくまで諸隊の先頭ではなく、やや後ろに位置していたが、そこにも殺気は満ちている。

男爵はひとり、ふたりと敵を突き倒し、勇将として知られる自身の面目を示していた。


「下がるな!まだ押せる!」

麾下の兵士を鼓舞しながら、男爵は前方へと目を凝らした。


グラーツの一隊が死兵となって、男爵の周囲へと殺到する。

号令を出し続ける男爵の姿が、グラーツ兵には指揮官と感じ取れたのだろう。

破れかぶれの攻撃である。


近侍の騎士らが防ぎにかかるが、そのすべてを阻止しきれていなかった。

男爵は、殺気を感じ取るや、槍を、ぶんと振り回し、自らを囲もうとする槍列を弾き返す。

膂力と迫力に気圧されて、グラーツ兵らがたじろいだ。


その時。

不運にも、窪地に足を取られたのか、男爵の乗馬が一瞬姿勢を崩してしまう。


馬の蹄が泥を噛み、鞍が一瞬だけ沈んだ。

世界が傾き、槍の林が隙間として開く。


刹那、穂先を弾かれた方陣槍(パイク)兵の隙間から、一本の槍が突き出された。


「――ッ」


それは、狙いすました一撃だった。

押し合う隊列の隙を縫い、まっすぐにエーベルハルトの胸を目指して伸びてくる。


僅かな瞬間の判断で、男爵は身体を捻った。


槍先は胸を外れた。

だが、完全には避けきれなかった。


鋭い金属音とともに、左腕の肘から先が、視界から消えた。


「う、おおおおおおお……ッ!!」

遅れて、焼けつくような痛みが脳天まで駆け上がる。何も考えられなくなり、男爵は槍を取り落とす。


男爵の左腕を奪った槍兵は、次の瞬間近侍に突き殺され、周囲にいた方陣槍(パイク)兵も、(いか)れるエーベルハルト軍に蹴散らされた。

男爵は青ざめながらも、咄嗟に右手一本で手綱を持ち、馬上を維持していたが、いよいよ力尽きて大地へ転がり落ちた。

「男爵さま!」

数名の近侍が下馬して走り寄る。

男爵に息があることを確認すると「下がれ!道をあけろ!」と、叫び声を上げた。


近侍の騎士が、血まみれになった男爵を支えながら後退させる。

エーベルハルトは唇を噛みしめながら、それでも前方から目を離さなかった。


「……前を……崩すな……押すのだ!」


掠れた声で吐き出した命令は、確かに周囲の耳に届き、エーベルハルト軍をさらに奮い立たせた。



前線の少し後方――伝令の仕事に追われていたセリーヌのもとに、血相を変えた兵が駆け込んできた。


「セリーヌ様!男爵さまが、お怪我を!」

「お父さまが!?」

胸が一瞬、凍りつく。

しかし次の瞬間、彼女は必死に感情を押し殺した。


「……ご容体は?意識はありますか」

「左腕を……ですが、おそらく命は無事かと――」


「わかりました。私は持ち場を離れられません。どうか、父に伝えてください。“セリーヌは任を果たします。心配はいりません”と」

言葉は震えたが、最後まで言い切った。


兵は深く頷き、再び駆け戻っていった。

セリーヌはただ、槍の林の向こうを見つめる。


口の中が乾く。

それでも手綱を握る指だけは、意地のように強く結ばれていた。


泣くのは戦いが終わってからだ。


(……必ず勝たねばならない)


父の負傷を、無駄にするわけにはいかない。

決意とともに、胸の奥で何かが静かに燃え始めていた。



戦況は決していた。


中心戦力であった方陣槍(パイク)兵隊は潰走し、剣盾歩兵は斜面の途中で孤立。

弓兵は射線を確保できず、重騎兵は足元のぬかるみのため動きが鈍い。

レーヴェンの弩弓を恐れ、中軍は後退をした。


グラーツ軍の動きを把握したセルヴィオによる

「追撃は控えよ!」

との号令が、稜線から飛んだ。


「丘を離れるな。隊列を乱すな。ここは守りきれば勝ちです」


深追いは禁止。

敵が自壊して逃げていくのを、丘の上から見下ろすだけでよい――それが彼の判断だった。


丘陵の斜面には、倒れた兵と折れた槍が散乱している。

勝者と敗者の明暗が、くっきりと戦場に現れていた。



薄曇りの空の下で、アルノルトは息を整えた。

手には、小さな擦り傷と、幾筋もの乾いた血の跡。


シロウが隣に来る。

「若、ご活躍でした」

「ああ。シロウこそ、よく戦った」


互いの無事を確かめ、労い合う。

それだけで、胸の重石が少し軽くなる。



一方、丘陵の帷幕では、セルヴィオが戦後の報告を受けていた。


「敵方陣槍(パイク)兵隊、剣盾歩兵隊の大半が潰走。弓兵と重装騎兵は、ほぼ手付かずのまま撤退。こちらの損害は、軽からず重からず……ですが、前軍の働きは見事なものです」


報告を終えたツェルバハ子爵に、セルヴィオは静かに頷いた。

「貴卿らの軍が、丘を守り切ってくれたおかげです。……奮戦したエーベルハルト男爵には、後日、改めて礼を伝えましょう」


「左腕を失いましたが、命はあります。あの男は、きっと笑ってまた酒を飲むでしょう」


ツェルバハは、わずかに口元を緩めた。

セルヴィオは視線を丘の下へ向ける。


逃げ去る黒と赤の旗。

それを追わず、ただ見下ろすレーヴェンの兵たち。


「これで、ブリューナの丘は我らのものです。王都でも、この勝報でしばらく静かな(とき)を迎えられよう」


その声には、安堵と、何年後かに訪れる次なる戦いへの冷静な覚悟とが混じっていた。



その夜。


エーベルハルトの幕舎で、セリーヌは父の寝台の側に座っていた。

男爵は顔色こそ悪いものの、意識ははっきりしている。


「泣くな、セリーヌ」

「泣いておりません」


セリーヌは慌てて顔を背ける。

目元は、赤くなっていたが。


「私の腕一本で、勝利が得られたと思えば、安いものだ」

それは強がりでもあり、本心でもある。


「……お前も、戦の中に立って何かを見たろう。恐れと、それでも前へ出ていく者たちの背を」


セリーヌは静かに頷いた。

「はい。わたしも、父上の背中に恥じぬよう、強くなりたいと思いました」


その言葉を、幕舎の入り口近くで聞いていたアルノルトは、深く(こうべ)を垂れ、そっと外へ出た。


見上げれば、ブリューナの丘の上には、淡い星が瞬いている。


折れた槍があり、失われた命があり、

それでも――

守りきった国境線と、守るべき者たちが、そこにいる。


「……俺たちは、まだ戦える」

誰に向けたとも知れぬ呟きを、夜風がさらっていった。


ブリューナ丘陵の戦い。のちに第三次国境戦争の主戦として記される戦いである。

それは、レーヴェン王国にとっての大きな勝利であった。

セルヴィオ「これ、何もかも人の心を流し動かす策士の技なり……」

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