20.残る光
●ゲルハルド・ヴェン・ブロク
大陸暦三〇二年時、三十九歳。
グラーツ王国の宮中伯にして元帥。グラーツに三人しかいない元帥号を持つ。突撃戦、追撃戦を得意とする巨漢の猛将として知られる。焦げ茶色の縮毛に、縮れたあごひげと口ひげを持つ。大変な愛妻家。
20.残る光
丘陵の斜面に、鉄と叫びが渦巻いた。
右からはヘルマン隊の槍が突き上がり、
左からはエーベルハルト男爵隊が圧力をかけ、
中央ではツェルバハ子爵の軍が踏ん張っている。
そのさらに外側――
「今だ、投げろ!」
アルノルトの号令とともに、短槍が弧を描いた。
方陣槍兵たちの槍の「根元」、露出した脇腹や太腿を狙って、正確に突き刺さっていく。
前方からの弓矢に対応することに頭がいっぱいとなり、かつ横へ動くことの苦手な方陣槍兵は、これにほとんど反応できない。
「シロウ、任せる!」
アルノルトは、部隊を預かる身として、号令のため馬上に居続けなければならない。
ぬかるみに突っ込むわけにもいかず、シロウへと指示を飛ばした。
「承知!」
短く応えると、二十ほどの散兵を伴い敵へと疾走った。
「ぐあっ!」
「横だ、横から来ているぞ!」
混乱が、隊列の端から端へ伝播していく。
泥が跳ね、折れた槍が足元で鳴った。
斜面の湿り気が鎧の重さを増やし、敵の息は荒く白く漏れる。
その一瞬の詰まりを、アルノルトは見逃さなかった。
シロウは、散兵たちが投擲した後の隙を逃さず、瞬く間に敵との間合いを詰めていた。
踏み込みは音もなく、斜面を駆ける脚は、まるで地を滑るようだった。
敵兵が「来た」と気づいたときには、もう間合いの内側にいるのだ。
刀が抜かれ、白い閃光となる。
手首、足首――わずかな露出部を正確に断ち切り、敵を無力化していく。
近くの散兵が、思わず足を止めた。
斬り合いの音ではない。骨に触れず、皮一枚を断つような、乾いた鈍さだけが残る。
斬撃は短く、浅い。
だが確実に痛撃を与えていた。
重装歩兵がその痛みに膝を折るよりも早く、シロウは次の敵へと移っていた。
手首を斬られたことさえ気づかぬまま、武器を手から落とす兵もいる。
殺気をまといながらも、動きにはどこまでも冷静な理があった。
その姿は、荒れた斜面にただ一本の鋭い筆を引いたようで――
散兵たちが思わず後ろから息を呑むほどだった。
「前へ出すぎるな」
シロウは短く声を飛ばし、自重とともに、味方の散兵にも深入りを禁じる。
彼らの役割は、あくまで横から敵の陣形を崩すこと。
槍兵たちの突撃と合わせてこそ意味を成す。
◆
「押せ!足を止めるな!」
ヘルマンの怒号が、右側から響いてくる。
彼の槍兵隊は、丘の斜面をものともせず、方陣槍兵隊の横腹を槍でえぐっていた。
重い長槍は、横から突かれることを想定していない。
盾も、前方に構えられたものが多い。
その隙を、鍛え抜かれたラウエンの槍兵たちが容赦なく抉る。
一方、左側。
エーベルハルト男爵隊は、正面ではなく、やや斜めから敵中央へ圧力をかけていた。
彼らの突き上げる槍は、乱れた方陣槍兵の林をさらに押し広げ、隊形の穴を広げていく。
その後列には、セリーヌが馬を控えていた。
「セリーヌ様、こちらの伝令をツェルバハ子爵へ!」
「承知しました!」
前線から戻ってくる伝令を受け取り、さらに後方へ走らせる。
その合間にも、彼女の目は戦場全体を必死に追っていた。
(……みんな、無事で……)
槍の森の隙間に、アルノルトの姿がちらりと見える。
斜面を駆けながら、散兵たちに短い指示を飛ばしている。
胸の奥がぎゅっと掴まれるような不安と、なにか得体のしれない感情が同時に湧き上がった。
◆
そのころ、丘の中腹からやや下――
方陣槍兵の森の向こうで、ゲルハルド元帥は苛立ちを露にしていた。
「なぜ前へ出ぬ!丘を登り切れば、奴らの弓は届かぬはずだ!」
側にいた将が、必死に説明を試みる。
「元帥、斜面と湿地で長槍が……隊列の整理に時間が――」
「それを整えるのが貴様らの役目であろう!」
鉄籠手の拳が、馬の鞍を打った。
その瞬間――
乾いた音が、丘の上から届いた。
風を裂く音が、矢とは違う。
放たれた瞬間の低い弦鳴りが遅れて届き、次いで何かが空を叩く気配がする。
兵たちが息を呑んだ。
方陣槍兵が一当たりして散らしたはずのレーヴェン弩兵隊が、いつの間にか再集結しており、一斉に引き金を引いたのだ。
前線につられて押し上げてきたグラーツの中軍が、その射程に入っていた。
矢よりも重く、まっすぐ飛ぶ弩矢が、狙いすました一点へ集まる。
「――!」
ゲルハルドは、左前から飛び込んできた衝撃に、息を詰まらせた。
弩を放ったレーヴェン兵らは、結果を見届ける暇もなく後退し、丘陵の草陰に消える。
左肩。
金属と革を貫き、肉を裂いて、一本の弩矢が深く突き刺さっていた。
遅れて、灼けるような痛みが走る。
「元帥!」
護衛の騎士が慌てて手綱を引いた。
元帥の体がぐらりと傾き、落馬しかけたところを数名が支える。
だが、ゲルハルドの重量を支えきれず、ゆっくりと地面に落ちていく。
赤い血が、鎧の隙間から溢れ、黒い外套を濡らした。
「……造作もない傷よ。まだ戦える」
ゲルハルドは歯を食いしばり、そう言い張り、気丈にも立ち上がった。
痛みを堪え、唇を噛みながら「前進せよ!あと一息ぞ!」と、奮起を促す。
だが、元帥が負傷したという事実は、瞬く間に周囲の兵たちに伝わっていく。
「元帥がやられたらしい!」
「元帥さまが……!」
それは、空を飛ぶ矢よりも速く、中軍の戦意を削る毒となった。
◆
稜線の上から、セルヴィオが静かに様子を見下ろしていた。口元に羽扇を掲げる。
彼の目は、感情を大きく動かすことなく、戦場全体を冷静に捉えている。
「弩兵隊、次の目標は――中央の指揮官格を優先。ただし間もなく退くでしょう。撃ちすぎないよう指示をしてください」
副官たちは一斉に頷き、命令を伝えに走った。
丘の斜面では、ツェルバハ子爵軍の槍が、さらに押し上げている。
散兵たちの側面攻撃と、弓・弩の遠距離支援。
方陣槍兵の密集陣は、もはや“陣”と呼べる形を保っていなかった。
◆
エーベルハルト男爵は、前列近くで槍を振るっていた。
彼はあくまで諸隊の先頭ではなく、やや後ろに位置していたが、そこにも殺気は満ちている。
男爵はひとり、ふたりと敵を突き倒し、勇将として知られる自身の面目を示していた。
「下がるな!まだ押せる!」
麾下の兵士を鼓舞しながら、男爵は前方へと目を凝らした。
グラーツの一隊が死兵となって、男爵の周囲へと殺到する。
号令を出し続ける男爵の姿が、グラーツ兵には指揮官と感じ取れたのだろう。
破れかぶれの攻撃である。
近侍の騎士らが防ぎにかかるが、そのすべてを阻止しきれていなかった。
男爵は、殺気を感じ取るや、槍を、ぶんと振り回し、自らを囲もうとする槍列を弾き返す。
膂力と迫力に気圧されて、グラーツ兵らがたじろいだ。
その時。
不運にも、窪地に足を取られたのか、男爵の乗馬が一瞬姿勢を崩してしまう。
馬の蹄が泥を噛み、鞍が一瞬だけ沈んだ。
世界が傾き、槍の林が隙間として開く。
刹那、穂先を弾かれた方陣槍兵の隙間から、一本の槍が突き出された。
「――ッ」
それは、狙いすました一撃だった。
押し合う隊列の隙を縫い、まっすぐにエーベルハルトの胸を目指して伸びてくる。
僅かな瞬間の判断で、男爵は身体を捻った。
槍先は胸を外れた。
だが、完全には避けきれなかった。
鋭い金属音とともに、左腕の肘から先が、視界から消えた。
「う、おおおおおおお……ッ!!」
遅れて、焼けつくような痛みが脳天まで駆け上がる。何も考えられなくなり、男爵は槍を取り落とす。
男爵の左腕を奪った槍兵は、次の瞬間近侍に突き殺され、周囲にいた方陣槍兵も、怒れるエーベルハルト軍に蹴散らされた。
男爵は青ざめながらも、咄嗟に右手一本で手綱を持ち、馬上を維持していたが、いよいよ力尽きて大地へ転がり落ちた。
「男爵さま!」
数名の近侍が下馬して走り寄る。
男爵に息があることを確認すると「下がれ!道をあけろ!」と、叫び声を上げた。
近侍の騎士が、血まみれになった男爵を支えながら後退させる。
エーベルハルトは唇を噛みしめながら、それでも前方から目を離さなかった。
「……前を……崩すな……押すのだ!」
掠れた声で吐き出した命令は、確かに周囲の耳に届き、エーベルハルト軍をさらに奮い立たせた。
◆
前線の少し後方――伝令の仕事に追われていたセリーヌのもとに、血相を変えた兵が駆け込んできた。
「セリーヌ様!男爵さまが、お怪我を!」
「お父さまが!?」
胸が一瞬、凍りつく。
しかし次の瞬間、彼女は必死に感情を押し殺した。
「……ご容体は?意識はありますか」
「左腕を……ですが、おそらく命は無事かと――」
「わかりました。私は持ち場を離れられません。どうか、父に伝えてください。“セリーヌは任を果たします。心配はいりません”と」
言葉は震えたが、最後まで言い切った。
兵は深く頷き、再び駆け戻っていった。
セリーヌはただ、槍の林の向こうを見つめる。
口の中が乾く。
それでも手綱を握る指だけは、意地のように強く結ばれていた。
泣くのは戦いが終わってからだ。
(……必ず勝たねばならない)
父の負傷を、無駄にするわけにはいかない。
決意とともに、胸の奥で何かが静かに燃え始めていた。
◆
戦況は決していた。
中心戦力であった方陣槍兵隊は潰走し、剣盾歩兵は斜面の途中で孤立。
弓兵は射線を確保できず、重騎兵は足元のぬかるみのため動きが鈍い。
レーヴェンの弩弓を恐れ、中軍は後退をした。
グラーツ軍の動きを把握したセルヴィオによる
「追撃は控えよ!」
との号令が、稜線から飛んだ。
「丘を離れるな。隊列を乱すな。ここは守りきれば勝ちです」
深追いは禁止。
敵が自壊して逃げていくのを、丘の上から見下ろすだけでよい――それが彼の判断だった。
丘陵の斜面には、倒れた兵と折れた槍が散乱している。
勝者と敗者の明暗が、くっきりと戦場に現れていた。
◆
薄曇りの空の下で、アルノルトは息を整えた。
手には、小さな擦り傷と、幾筋もの乾いた血の跡。
シロウが隣に来る。
「若、ご活躍でした」
「ああ。シロウこそ、よく戦った」
互いの無事を確かめ、労い合う。
それだけで、胸の重石が少し軽くなる。
一方、丘陵の帷幕では、セルヴィオが戦後の報告を受けていた。
「敵方陣槍兵隊、剣盾歩兵隊の大半が潰走。弓兵と重装騎兵は、ほぼ手付かずのまま撤退。こちらの損害は、軽からず重からず……ですが、前軍の働きは見事なものです」
報告を終えたツェルバハ子爵に、セルヴィオは静かに頷いた。
「貴卿らの軍が、丘を守り切ってくれたおかげです。……奮戦したエーベルハルト男爵には、後日、改めて礼を伝えましょう」
「左腕を失いましたが、命はあります。あの男は、きっと笑ってまた酒を飲むでしょう」
ツェルバハは、わずかに口元を緩めた。
セルヴィオは視線を丘の下へ向ける。
逃げ去る黒と赤の旗。
それを追わず、ただ見下ろすレーヴェンの兵たち。
「これで、ブリューナの丘は我らのものです。王都でも、この勝報でしばらく静かな秋を迎えられよう」
その声には、安堵と、何年後かに訪れる次なる戦いへの冷静な覚悟とが混じっていた。
◆
その夜。
エーベルハルトの幕舎で、セリーヌは父の寝台の側に座っていた。
男爵は顔色こそ悪いものの、意識ははっきりしている。
「泣くな、セリーヌ」
「泣いておりません」
セリーヌは慌てて顔を背ける。
目元は、赤くなっていたが。
「私の腕一本で、勝利が得られたと思えば、安いものだ」
それは強がりでもあり、本心でもある。
「……お前も、戦の中に立って何かを見たろう。恐れと、それでも前へ出ていく者たちの背を」
セリーヌは静かに頷いた。
「はい。わたしも、父上の背中に恥じぬよう、強くなりたいと思いました」
その言葉を、幕舎の入り口近くで聞いていたアルノルトは、深く頭を垂れ、そっと外へ出た。
見上げれば、ブリューナの丘の上には、淡い星が瞬いている。
折れた槍があり、失われた命があり、
それでも――
守りきった国境線と、守るべき者たちが、そこにいる。
「……俺たちは、まだ戦える」
誰に向けたとも知れぬ呟きを、夜風がさらっていった。
ブリューナ丘陵の戦い。のちに第三次国境戦争の主戦として記される戦いである。
それは、レーヴェン王国にとっての大きな勝利であった。
セルヴィオ「これ、何もかも人の心を流し動かす策士の技なり……」




