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暁の騎士  作者: 満波ケン
第二章 馬上の青年
19/45

19.ブリューナ丘陵の罠

大陸暦三〇二年、白の節――(オルディア)の月。

レーヴェン王国・グラーツ王国、国境緩衝地帯ブリューナ丘陵。


夜明け前のブリューナ丘陵は、白い靄に包まれていた。

枯れ草まじりの斜面がゆるやかに波打ち、その向こうに、まだ見えぬ敵がいる。


靄は布のように音を吸い、離れた号令も輪郭を失っていた。

兵の吐く息だけが白く浮き、鎧の継ぎ目が冷えて軋む。

足元の土は夜露を含み、踏みしめるたびにぬめりが靴底へまとわりついた。


ツェルバハ子爵軍の陣地で、アルノルトは黙々と籠手の革紐を締めていた。

指先はかすかに汗ばんでいる。


「……いよいよ、か」


呟きは吐息とともに白くほどけ、空の淡い光の中へ消えていった。


傍らではシロウが無言で、アルノルトの槍先を点検していた。

シロウの感情は読み取りにくいが、刀の柄頭に触れ、その位置を確かめる仕草もいつもの通りで、落ち着いているように見えた。


丘陵の下方――前軍では、山地兵と弩兵が薄く展開しつつあった。


山地兵とは、セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯が生み出した兵科である。

グラーツの重装歩兵はもちろん、レーヴェンの槍歩兵よりも機動性に富む。

その理由は、鎖帷子は腹のあたりまでしかなく、また鉄の胸当ては用いず、黒く塗った軽量の革鎧を装備し、薄い鉄板を貼り付けた革の帽子兜(ケトルハット)をかぶるという、徹底した軽量化にあった。

武器は、手斧に小型盾(バックラー)、背中に短弓、右の腰に矢筒という、これまた軽い装備で揃えられている。

その性格上、直接敵と激突し合うのではなく、撹乱、伏兵、散兵戦(スカーミッシュ)に秀でている兵科であった。


だからこそ、なぜ山地兵を前軍として配置したのか、レーヴェンの兵士の誰しもが首をひねっていた。


「丘で受けるなら槍だろう」

「弩は分かるが、山地兵を前に出す理由が見えん」

低い声があちこちで交わされる。

けれど辺境伯は一言も説明しない。その沈黙が、かえって兵の喉を乾かした。




セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯は、丘の肩にあたる稜線上から、南の平地を見下ろしていた。

「彼を知り、己を知れば、百戦して(あやう)からず……」

目を細め、右手の羽扇(はねおうぎ)を口元に掲げる。


南の平地には、グラーツ王国軍の旗が幾筋も翻っている。

黒と赤を基調とした重苦しい紋章旗。

長槍を林立させ、密集して進む方陣槍(パイク)兵たちが、じわじわとにじり寄ってくるのが見えた。

激突までは約一刻(1ベル)といったところ。


「……やはり、平野では侮れぬ密度ですな」

副官が思わず唾を飲み込む。


槍と大盾が隙間なく並ぶ陣容は、まるで鉄の壁が迫ってくるようだ。


だがセルヴィオは、わずかに口元を引き結び、静かに言った。

「壁というものは、立っている場所を選ぶものです」


真意を捉えかねて「はぁ……」と、気のない返事をしながら副官が目を瞬く。


「敵は自らの強みを信じきっている。平坦な地であればこそ輝く長槍密集陣を、どこであろうとそのまま押し立てればよい……と」

セルヴィオは丘の斜面を一瞥した。


「ですがブリューナは丘。湿った窪地、斜面、未整地の荒土……長槍を横一線に揃えるには、あまりにも不向きな地形ですよ」

「なるほど?」

と、わかったようなわかっていないような相槌を副官は打った。


セルヴィオは心中でひとりごちた。

(相手の指揮官は、追撃戦を得意とする猛将・ゲルハルド元帥。さて、彼は大勝の誘惑に打ち勝てるのでしょうか)


昨晩のうちに準備は整っている。


稜線上には弓兵八百が帯のように伏せ並び、そのやや下――斜面の中腹には、槍兵千三百が、草地に隠れるようにして逆突撃の陣形を敷いて待機している。


左右の疎林には山地兵が身を潜め、その後方には、弩兵三百が静かに弦を張っていた。


騎兵二百は、敵軍から姿を消している。

丘陵背後の窪地で、馬の息だけを荒くさせながら温存されていた。


「前軍、進発」

セルヴィオの声とともに、丘の斜面を下っていく影がある。

山地兵と弩兵の混成――薄く、軽く、だが、獲物を誘うには十分な餌だ。



「前面、山地兵と弩兵、展開開始!」


ツェルバハ子爵の伝令が駆け抜けていく。

アルノルトは槍を手に取りながら、斜面の下方で動き始めた味方の列を見やった。


「本当に……退くつもりなのですね」

隣でシロウが呟く。


アルノルトは頷いた。

「辺境伯様のお考えだ。俺たちの役目は、時期が来るまで待つことだろう」


「待つ」ということは、彼にとって突撃より難しい命令だったが、今回はそういう戦いであることを理解している。


丘の下、弩の弦が鳴り、攻め上がるグラーツの前衛に降り注いだ。

山地兵と方陣槍(パイク)兵が小さくぶつかり合う。

金属と金属がかすかに火花を散らし、数名の兵が倒れる。


だがしばらくすると――


「前衛、後退開始!」


合図の角笛が鳴るや、レーヴェンの前衛は、あっさりと踵を返した。

特に山地兵は軽装を活かし、派手に崩れた風を装って偽敗走を演じている。


「逃げるぞ!追え!」

「このまま本陣まで食い破れ!」


遠くから、グラーツ軍の鯨波の声が聞こえる。

全軍前進を命じる鐘音も高らかだ。


鐘の音は合図というより、背中を押す酒のように兵の血を熱くした。


斜面では、散った足音が一つに重なり、追撃の叫びが波のように押し寄せる。

先を争うほど隊列はほどけ、密集の秩序が“欲”に溶けていくのが、遠目にも分かった。


方陣槍(パイク)兵の列が波打ち、黒赤の旗印が前へ前へと押し出されるのが見える。

すでに密集方陣は崩れ、めいめいが手柄のために動きだしていた。


アルノルトは、喉の奥で息を押し殺した。

(……来い)


丘の斜面の途中には、前もって削られた土塁と、軽くならした足場が続いている。

商隊(キャラバン)路として使われていた古い道を、セルヴィオの指示で手直ししたものだ。


敵はその道筋へ、気づかぬまま押し出されて(・・・・・・)いく。


途中には、雨季のたびに水が流れた跡――湿った窪地と泥濘。

重い鎧と長槍を担いだ兵たちにとって、もっとも歩きづらい地形だった。



グラーツ軍総大将、ゲルハルド・ヴェン・ブロク元帥は、丘を仰ぎ見ながら、馬上で鼻を鳴らした。

焦げ茶色の縮毛(フリッズ)に、縮れたあごひげと口ひげを持ち、鋭い眼光を放っている、まさに猛将を絵に描いたような男だ。

「脆いものだな、レーヴェンの前衛は」


側に侍る将が言葉を添える。

「ブリューナの丘を押さえることさえできれば、こちらのものですな」


元帥は頷いた。その胸中に、敵の策を疑う気配は薄い。

いや多少の罠があったとしてもそれを食い破るのがグラーツ流である。


これまでの小戦を経て、敵歩兵に対する重装歩兵の有用性はよく理解できていた。

だが、後詰めとして出てくるであろうレーヴェンの軽騎兵には注意をせねばならない。

あの突撃力を侮るわけにはいかない。

だがその時こそ、温存をしている重装騎兵をぶつける時機だと考えていた。


方陣槍(パイク)兵と一定の距離を保ち、ゲルハルドら中軍もゆっくりと進出を重ねる。


「よし、ここで押し切る。丘を奪い、そのまま北へ突破し、本陣を抜くぞ!決戦を長引かせる必要はない」

黒い手袋をした右手が、前方を指し示す。


方陣槍(パイク)兵隊、前進続行!止まるな!」

号令が重なり、鐘音に乗って、鉄の槍の森が押し上げられていく。

だが丘陵の稜線に差し掛かり、方陣槍(パイク)兵は急激に進軍速度を鈍化させてしまった。


斜度によってつんのめる者。

湿地に足を取られ、転ぶ者。

味方とぶつかって倒れる者。

後続がそれらの落伍者を踏み越え、あるいは避ける途上、槍先が一瞬、乱れた。


だが、全体としての勢いは衰えていない。

依然、追撃の好機は続いている。


「長槍を立てろ!間隔を詰めすぎるな!」

前列の将が怒鳴り、隊列を締めなおす。

隊の中ほどで倒れた兵の呻き声など、誰も構ってはいられなかった。



丘の肩――稜線では、弓兵たちが矢を番え、静かに息を潜めている。


「まだだ……まだ、引きつけろ」


弓隊指揮官の声が、低く走る。


アルノルトは、ツェルバハ子爵軍の列のなかで、その気配を全身で感じていた。

待つ時間は、より長く感じられる。


「アルノ」

セリーヌが、馬を寄せてきた。

彼女は今回、エーベルハルト男爵隊の後列にあって伝令と補助の役目を仰せつかっている。

具足は軽めだが、兜の下から覗く青い瞳に、わずかに緊張が宿る。


「大丈夫?」


そう問われ、アルノルトは苦笑した。

「セリーヌ様に同じことを伺いたいところですが」


「ふふ、言ったでしょう。無理はしないって」

返しながらも、彼女の指先は、手綱を握るところで微かに汗ばんでいる。


シロウが後ろから一礼した。

「セリーヌ様。戦が始まれば、伝令路は混み合います。どうかお気をつけて」


「ありがとう、シロウ殿」

短いやり取りのあと、セリーヌは再びエーベルハルト隊の後列へ戻っていった。


アルノルトは、友の背を少しだけ目で追い、視線を前へ戻した。


やがて――


「今だ!放てッ!」

稜線の上で指揮官が叫んだ。



空が唸った。


レーヴェン軍八百の弓兵から放たれた矢が、一斉に放物線を描いて降り注ぐ。

黒い槍の森の上に、塊となって落ちた。


「ぐあっ!」

「盾を上げろ!」


悲鳴が野に満ちる。

方陣槍(パイク)は、四シェル(5メートル)になんなんとする長槍である。

重量も相当なもので、片手で扱える者はおらず、急に背中の盾を構えることもできない。

前列の方陣槍(パイク)兵たちが次々と倒れ、その隙間を埋めようとする後列の槍が絡み合う。


一度隊形が乱れれば、長槍は味方の頭を叩き、背中にも突き刺さる。

わずかな穴が、全体の連携を崩していく。


丘の斜面は平らではない。

槍先は上を向き、足はとられ、押し上げる力と重力が互いにぶつかり合う。


「壁というものは、立っている場所を選ぶものです」

稜線の上で、戦況を見守るセルヴィオ辺境伯が再びつぶやく。


「前進を止めるな!」

重たい装備を考えると、急に後退はできない。

上に登るのはまだしも、下るときは一層慎重にならねばならないからだ。

「前進!前進!」と、グラーツの将が怒鳴るが、兵たちの動きは明らかに鈍っていた。


盾を上げる余裕はない。長槍を握る両腕を離せば、隣の槍に絡め取られる。

だから兵は首をすくめ、背を丸め、ただ登り続けるしかなかった。

その背へ、矢が雨のように落ちる。貫かれずとも、痛みと恐怖が足を止める。


二の矢、三の矢が続く。

密集した隊列ほど、矢の雨には無防備である。

重装備のおかげで、矢で斃れている者は少ないが、足元が悪い中で方陣槍(パイク)兵たちは防戦一方となっていた。


「……効いている」

ツェルバハ子爵が、鋭い目で斜面を見つめながら呟いた。


そのすぐ後方には、ヘルマン隊、エーベルハルト隊らが整然と槍を並べている。

さらに左右の樹林には、アルノルトとシロウの散兵隊、そして対となるいくつかの士爵隊が、息を潜めていた。


「騎士ヘルマン、エーベルハルト男爵。敵が完全に斜面で足を止めたときが、我らの出番だ」

ツェルバハ子爵の声に、ヘルマンは静かに頷く。

「承知」

エーベルハルト男爵もまた、片手で槍を握り直し、笑みを浮かべた。

「若い者らに、良い戦いの形を見せてやらねばな」



レーヴェン軍の射撃は続く。


グラーツ軍の将が一人、矢を受けて馬から落ちた。

別の将もまた、仲間に支えられながら後方へ運ばれていく。


それでもゲルハルド元帥は、前進を命じることをやめなかった。

「丘を取らねば意味がない!長槍隊、陣形を保て!剣盾兵は後ろで構えを崩すな!」


命令は正しい。

だが、実行する兵たちにとって、足場はあまりにも悪かった。


長槍が絡み合い、後方の剣盾歩兵は前に出ることもできない。

背後からは弓兵が押し上げてくる。


前へ出たい者と、前に出られない者とが、斜面の上で互いに肩を押し合い、

隊列の足並みは、じりじりと乱れていった。


――そして、その瞬間を待ち続けていた者たちがいる。


ツェルバハ子爵は、息を吸い込んだ。

「今が攻め時ぞ!」



ヘルマンの隊列が、右斜め前へ走り出す。

エーベルハルト男爵隊が左から敵中央へ圧力をかけた。


ほぼ同時に――


「アルノルト隊、行くぞ!」

アルノルトの短い号令とともに、シロウと散兵たちを率いて左翼の疎林から飛び出した。

逆側では、右翼の士爵隊も同じように駆け出している。


彼らの武装は、剣だけではない。

短槍、短弓。

丘の凹凸に身を隠し、方陣槍(パイク)兵の横腹を狙うための装備だ。


「横に動けない相手には、横から攻めるのです」

アルノルトはかつて、セルヴィオの軍議で耳にした言葉を思い出していた。

思えばセリーヌの初陣の際は、エーベルハルト男爵やセリーヌらのために軽騎兵を突撃させた際、図らずともそのようになっていた。

その時は、戦場の嗅覚と騎馬の速度との兼ね合いとで横から突撃をすることになったのだが、今回は明確な作戦のもとである。


長槍での密集陣は、前には強い。

だが、一度横から崩されれば、立て直すのは難しい。


彼は走りながら、短槍を構え、叫んだ。

「散兵隊、敵側面へ!敵の槍の“根元”を狙え!」


戦場が、大きく動こうとしていた。

四シェル

=1.2メートル×4倍

=約5メートル


ということなのですが、どうしてもメートルを使いたくないが故に独自の度量衡を生み出しても、結局メートルに頼らなければならないというのは困りますね。

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