18.日々に宿るもの
石鹸はこの世界の歴史でも存在しておりますが、まだまだ灰汁がメインの洗剤です。
現在、王都の上級貴族や富裕層で流行している硬質石鹸は、セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯が発明しました。
大陸暦三〇二年、赤の節。
夜の涼しさがまだわずかに残る頃、ラウエン家の屋敷はしんと静まり返っていた。
その静寂を破るのは、戸口をそっと開ける微かな音――
チトセの一日は、家の誰よりも早く始まる。
◆
いまだ日が昇らぬうちに外に出ると、赤の節特有の淡い朝靄が庭を薄く覆っていた。
湿った空気は肌に冷たく、眠気をほんの少しだけ残していたが、それでもチトセは稽古場に歩んでいく。
裏庭の隅、木の柵に囲われた裸地。普段はヘルマンやアルノルト、シロウら従士たちが稽古に励んでいる場所だ。
そこに静かに膝をつき、正座。礼。
鞘に収まった刀に手を添える。
瑞穂で学んだ「社流」――立ち合いよりも、ただ一度の抜刀で決することを極意とする流派。
息を整え、心を静め、
そして――
湿り気を帯びた地面のうえ、音もなく刀身が閃いた。
想像の中で斬るのは、喉、目、手首。
小柄で膂力のない自分でも、浅くとも敵を無力化できる急所。
(兄さま……)
抜くたび、瑞穂で見た悔しさと怒りに震える兄・シロウの背中が浮かぶ。
あの日と同じように、彼女はいまも仇を探す旅の途中にいる。
だが、かつてのような焦りは少し薄れた。
ラウエン家の温かさが、彼女の心を穏やかにしてくれるのだ。
構え、抜刀、斬撃、血振い、納刀、残心……。
それらの動作を幾度となく繰り返す。
空が白み始めたころ、稽古を納め、深く息を吸う。
屋敷の中から女性たちの話し声が聞こえてきた。
戻る頃合いである。
朝靄の向こうで、鶏の声がひとつ鳴いた。
夜と朝の境目が、ゆっくりと溶けていった。
光祖教の小祈祷――
レーヴェン王国の者は、信心の深浅に関わらず大半が光祖教の信徒である。
その信徒の朝は小祈祷ではじまる。
男連中よりも早起きの女性陣は、広間の硝子窓の近くに集い、太陽に向かって両手を組み跪拝する。
チトセは、瑞穂神道に信仰を持つため、祈りには加わらないが、静かに黙祷を捧げる。太陽信仰は瑞穂神道にも通底するものだからだ。
やがて、陽の光が満ち、朝の匂いが立ちのぼり始める。
そろそろ炊事の手伝いの時間だった。
◆
使用人らと「おはよう」の挨拶を交わし、炊事場に入ると、
「おはよう、チトセ。今日も早いわね」
正妻が笑いかける。
「おはようございます。お手伝いします」
種火を起こし、薪をくべる。やがて、粥を煮込む暖かい湯気がチトセを包み込んだ。
ここへ来たばかりの頃は、言葉も所作もぎこちなかった。
だがいまは、瑞穂訛りもだいぶ薄れ、パンを切る手つきも、鍋の火加減も板についてきた。
朝食の献立はいつもと変わらない。
麦粥、大麦や燕麦のパン、薄い葡萄酒や麦酒。
冬であれば燻製豚が出るが、いまの季節にはその香りはない。
「チトセ、このパン、もう少し薄く切ってくれる?」
「はい、これくらいでよろしいでしょうか」
「うん。上手くなったわ」
小さな言葉のやり取りに、自然と笑顔が生まれる。
やがて朝の祈祷を済ませた男性陣が食事へ現れる。
疾風のように食事を摂ると、ヘルマンは代官業務へ、アルノルトは御料牧場へ、ほかの男たちも馬房や畑へ散っていく。
その背を見送り、炊事場が静かになると――
女性たちの賑やかな朝食が始まった。
「ねえ聞いた?北の畑で麦の穂がよく実ってるって」
「今年は豊作らしいです、間違いありません」
パンを切り分けながら正妻が言うと、第二夫人がふっと笑う。
「豊作といえば……」
使用人頭が言葉を継いだ。
「聞きました?ミルダの家の長男、どうやら隣村の娘に夢中らしいわよ」
「まあ、あの子が!あの無骨な顔でねぇ。恋なんてするのねぇ」
「しかも、毎朝わざわざ水くみに行く時間を合わせてるらしいのよ」
台所にどっと笑いが起きる。
さらに、若い使用人が頬を赤らめながら木皿を並べていた。
「……わたしにも、誰か良い方いないかしらねぇ。騎士様の誰かとか……」
「ばか言うんじゃないよ。騎士様なんて、高望みが過ぎるわよ」
「でも、背が高くて格好いいもの……」
「それは認める」
女性たちはくすくす笑い合い、麦粥の椀をかき回しながら、他愛のない話に花を咲かせた。
チトセはと言えば――
聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がして、耳まで赤くしながら俯いた。
(な、なんて話題……)
けれど、不思議と嫌ではなかった。
瑞穂からの旅の途上では決して聞くことのなかった、普通の暮らしを送る人たちの温かい声だった。
◆
食器を片付け終えると、短い打ち合わせのあと、正妻が皆に声をかけた。
「では、持ち場に分かれましょう」
寝具係、庭係、掃除係、洗濯係、買い物係――
それぞれが自然に散っていく。
チトセは今日、洗濯係だった。
屋敷近くを流れる小川へ向かい、洗濯板に布を広げる。
「灰汁を、もう少し足しておくれ」
「はい」
チトセが灰汁を注ぎ込むと、第二夫人が「瑞穂ではどうしていたの?」と尋ねる。
「米という麦に似た植物の研ぎ汁も使いました。汚れが落ち、布も柔らかくなります」
「へえ、そんな方法があるのね」
新しい知識に興味を示す女性たちの表情を見ると、自分がこの家の一員として受け入れられていることを実感した。
◆
屋敷に戻ると、昼食の準備が始まる。
肉と野菜の煮込み、小麦のパン、豆料理。
質素だが、働く者に力を与える温かい食事。
昼食とその片付けが終わると、しばしの休憩――
そこでチトセの“もうひとつの役割”が始まる。
「チトセ姉さま、続きを読んで!」
双子の妹のひとりが本を抱えて走り寄ってくる。
庶弟もすぐに続き、チトセにしがみつく。
「一度に押さないの。順番です」
そう言いながらも、チトセの声は柔らかい。
読み聞かせの時間は、彼女にとっても安らぎだった。遠い瑞穂での穏やかな日々を思い出させる。自分もこうやって母に絵巻物の読み聞かせをせがんだものである。
庶弟は読み終える頃には目がとろんとし、気づけば彼女の膝で眠ってしまっている。
「ごめんなさいね、チトセ。代わるわ」
第二夫人がそっと庶弟を抱き上げると、ようやくチトセに自由時間が訪れた。
洗身し、少しだけ部屋で休む。
忙しい日々のなかの、短い静寂。
◆
夕暮れが近づくと、家は再び慌ただしくなる。
夕食は軽食というのがレーヴェン王国での習わしである。
おおよそ毎日、豆や野菜の入ったスープとパン、少しの肉、葡萄酒や麦酒が出される。
調理を手伝いながら、チトセは台所に満ちる香りに心が落ち着くのを感じた。
これも苦しい放浪の旅では感じられなかったものだ。
そして主家族の食卓。
沈む太陽に向かって光祖教の夕の祈祷があり、チトセとシロウは静かに頭を下げて見守る。
食後は第二夫人と使用人らの食卓が続き、片付けが終わる頃には空気が夜の冷たさを帯びはじめる。
寝具を整え、子どもたちを寝かしつけ、各部屋の燭台の火を落とす。
かすかな炎が消えてゆくその瞬間、チトセはふと、自分が今どこにいるのかを思う。
異国の家。
見知らぬ文化。
本来ならば不安に満ちているはずなのに――
胸の奥は不思議なほど温かかった。
◆
シロウと同じ部屋に入り、寝台に腰を下ろす。
瑞穂では床敷きの布団が常だったため、この硬い寝台にはまだ馴染めない。
それでも、野宿の日々に比べれば、どれほど心が落ち着くだろう。
「兄さま……今日も無事でよかった」
小さくつぶやく。その小さなつぶやきは、兄の耳に届いただろうか。
シロウは何も反応を返さない。耳朶に達するまでに消えたのか、それとももう眠ってしまったのか。
だが届いていなくてもよかったのだ。それは、彼女にとって祈りにも似た言葉だったから。
灯を落とした部屋で、静かな呼吸が重なっていく。
外では虫の声が遠く、穏やかに響いていた。
それは、戦でも剣でもない。
生きているという実感そのものだった。
明日も、きっと同じように日が昇り、
同じように働き、笑い、祈り、眠るだろう。
――戦が近づいていることを、ほんの一刻だけ忘れさせてくれる日々。
チトセは安らぎの中で目を閉じた。
18.5 あかつきのひかりの物語
夕食の後、ラウエン家の子ども部屋には、燭台のやわらかな灯りが揺れていた。
「チトセ姉さま……今日も読んで?」
双子の妹が、胸に抱えていた一冊の本をそっと差し出す。
金文字の表紙には 『あかつきのひかりの物語』 と書かれていた。
レーヴェン王国では、小さな子でも知っている、勇気の物語。
吟遊詩人の詩の定番で、レーヴェンでは大人もこの物語を愛している。
チトセは微笑み、子どもたちを呼び寄せた。
庶弟は、当然のように膝の上を確保している。
「では……読みますね」
ページがぱらりとめくれ、チトセの優しい声で物語が紡がれはじめた。
◆
〜あかつきのひかりの物語〜
むかしむかし。
いまよりもずっと昔のお話です。
レーヴェンの大地には、たくさんの部族や国が、ごちゃまぜに並んでいました。
そんなとき――
黒い旗をかかげた 黒旗どうめい が、大地いっぱいに広がりました。
黒旗どうめいは強く、夜のように重たく、村々はこわがり、光はすこしずつ消えかけていました。
そこに、一人の若い騎士があらわれました。
アルベルト・グラーフ。
のちに、あかつきの騎士と呼ばれる人です。
◆
レーヴェンの王さまは、胸に手を当てて言いました。
「おおアルベルト。お前の力で私たちを導いてくれ!」
黒旗どうめいにかこまれ、だれもが肩を落としていたころ。
アルベルトだけは、静かに空を見上げました。
夜はまだ深く、まっくら。
でも、彼は静かに笑って王さまに言いました。
「夜がいちばんこいときこそ、いちばんはやく、ひかりは生まれるのです」
その言葉は、ひとつの小さな灯りのように、王さまや仲間の胸をそっと照らしました。
空がすこしだけ青く変わり、鳥が一声だけ鳴いたその瞬間――
「――さあ、行こう!」
アルベルトは馬にまたがり、まっすぐ前を見つめました。
◆
朝日のひかりは、まだ細くて頼りないものでした。
けれど、アルベルトの黒い外套が風を切ると、まるでひかりの矢が走るように見えました。
「うわっ、あれは何だ!?」
「ひかりだ……いや、騎士だ!」
黒旗どうめいの兵たちがさけびます。
アルベルトは、ただひとすじ。
まっすぐ、まっすぐ、敵のまんなかへ。
仲間の騎士たちも、その背を追い、草原をかけるひかりの流れになりました。
そして――
黒旗どうめいは真ん中で、ぱんっ、と二つに割れたのです。
まるではじめての朝日が、大地を押しひらいたように。
そのひと突きで、戦の流れは大きく変わりました。
◆
この勝利は、のちに 「あかつきの勝利」 と呼ばれました。
アルベルトは、みんなからほめたたえられ、王さまから
『あかつきの騎士』
という名をもらいました。
それは、お城の人が決めた名前ではありません。
戦場で彼の背を見た仲間が、村で話を聞いた人々が「朝のひかりのような騎士だ」と呼んだからなのです。
アルベルトは王妹さまを妻に迎え、生涯をかけてレーヴェン王国を助けました。
でも、どんな大きなことをしても、人々がいちばん好きだったのは――
夜明けに走り、希望をもたらした、ひとりの騎士の姿
でした。
◆
チトセはそっと本を閉じた。
「……おしまい」
膝の上では、庶弟がすうすうと寝息を立てている。
双子の妹たちも、寄り添ったまま小さく胸を上下させていた。
チトセは子どもたちの髪を軽く撫で、静かに寝台へ運ぶ。
毛布をかけてやりながら、ふと思う。
(暁の騎士……。レーヴェンの人たちは、こういう希望の物語で育つのですね)
瑞穂にも英雄譚はある。
けれど、それはもっと鋭く、重く、戦の匂いが濃い。
子どもの眠りを守るための物語では、なかった。
灯火がかすかに揺れて、影が丸く伸びる。
異国の家、異国の暮らし。
そのどれもが、いまは胸の奥をやさしく温めてくれる。
チトセは息をつき、そっと灯りを落とした。
――この温かな日々が、どうか続きますように。
静かな祈りの中で、物語の夜は閉じられた。




