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暁の騎士  作者: 満波ケン
第二章 馬上の青年
18/45

18.日々に宿るもの

石鹸はこの世界の歴史でも存在しておりますが、まだまだ灰汁(あく)がメインの洗剤です。

現在、王都の上級貴族や富裕層で流行している硬質石鹸は、セルヴィオ・ヴェン・ザーヴェル辺境伯が発明しました。

大陸暦三〇二年、赤の節。

夜の涼しさがまだわずかに残る頃、ラウエン家の屋敷はしんと静まり返っていた。


その静寂を破るのは、戸口をそっと開ける微かな音――

チトセの一日は、家の誰よりも早く始まる。



いまだ日が昇らぬうちに外に出ると、赤の節特有の淡い朝靄が庭を薄く覆っていた。

湿った空気は肌に冷たく、眠気をほんの少しだけ残していたが、それでもチトセは稽古場に歩んでいく。


裏庭の隅、木の柵に囲われた裸地。普段はヘルマンやアルノルト、シロウら従士たちが稽古に励んでいる場所だ。

そこに静かに膝をつき、正座。礼。


鞘に収まった刀に手を添える。

瑞穂で学んだ「社流(やしろりゅう)」――立ち合いよりも、ただ一度の抜刀で決することを極意とする流派。


息を整え、心を静め、

そして――

湿り気を帯びた地面のうえ、音もなく刀身が閃いた。


想像の中で斬るのは、喉、目、手首。

小柄で膂力のない自分でも、浅くとも敵を無力化できる急所。


(兄さま……)


抜くたび、瑞穂で見た悔しさと怒りに震える兄・シロウの背中が浮かぶ。

あの日と同じように、彼女はいまも仇を探す旅の途中にいる。

だが、かつてのような焦りは少し薄れた。

ラウエン家の温かさが、彼女の心を穏やかにしてくれるのだ。


構え、抜刀、斬撃、血振(ちぶる)い、納刀、残心……。

それらの動作を幾度となく繰り返す。


空が白み始めたころ、稽古を納め、深く息を吸う。

屋敷の中から女性たちの話し声が聞こえてきた。

戻る頃合いである。


朝靄の向こうで、鶏の声がひとつ鳴いた。

夜と朝の境目が、ゆっくりと溶けていった。


光祖教(こうそきょう)の小祈祷――

レーヴェン王国の者は、信心の深浅に関わらず大半が光祖教の信徒である。

その信徒の朝は小祈祷ではじまる。

男連中よりも早起きの女性陣は、広間の硝子窓の近くに集い、太陽に向かって両手を組み跪拝(きはい)する。

チトセは、瑞穂神道(みずほしんとう)に信仰を持つため、祈りには加わらないが、静かに黙祷を捧げる。太陽信仰は瑞穂神道にも通底するものだからだ。


やがて、陽の光が満ち、朝の匂いが立ちのぼり始める。

そろそろ炊事の手伝いの時間だった。



使用人らと「おはよう」の挨拶を交わし、炊事場に入ると、

「おはよう、チトセ。今日も早いわね」

正妻が笑いかける。


「おはようございます。お手伝いします」

種火を起こし、薪をくべる。やがて、粥を煮込む暖かい湯気がチトセを包み込んだ。


ここへ来たばかりの頃は、言葉も所作もぎこちなかった。

だがいまは、瑞穂訛りもだいぶ薄れ、パンを切る手つきも、鍋の火加減も板についてきた。


朝食の献立はいつもと変わらない。

麦粥、大麦や燕麦のパン、薄い葡萄酒や麦酒。

冬であれば燻製豚が出るが、いまの季節にはその香りはない。


「チトセ、このパン、もう少し薄く切ってくれる?」

「はい、これくらいでよろしいでしょうか」

「うん。上手くなったわ」


小さな言葉のやり取りに、自然と笑顔が生まれる。


やがて朝の祈祷を済ませた男性陣が食事へ現れる。

疾風のように食事を摂ると、ヘルマンは代官業務へ、アルノルトは御料牧場へ、ほかの男たちも馬房や畑へ散っていく。


その背を見送り、炊事場が静かになると――

女性たちの賑やかな朝食が始まった。


「ねえ聞いた?北の畑で麦の穂がよく実ってるって」

「今年は豊作らしいです、間違いありません」

パンを切り分けながら正妻が言うと、第二夫人がふっと笑う。


「豊作といえば……」

使用人頭が言葉を継いだ。

「聞きました?ミルダの家の長男、どうやら隣村の娘に夢中らしいわよ」

「まあ、あの子が!あの無骨な顔でねぇ。恋なんてするのねぇ」

「しかも、毎朝わざわざ水くみに行く時間を合わせてるらしいのよ」


台所にどっと笑いが起きる。


さらに、若い使用人が頬を赤らめながら木皿を並べていた。

「……わたしにも、誰か良い方いないかしらねぇ。騎士様の誰かとか……」

「ばか言うんじゃないよ。騎士様なんて、高望みが過ぎるわよ」

「でも、背が高くて格好いいもの……」

「それは認める」


女性たちはくすくす笑い合い、麦粥の椀をかき回しながら、他愛のない話に花を咲かせた。


チトセはと言えば――

聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がして、耳まで赤くしながら俯いた。

(な、なんて話題……)


けれど、不思議と嫌ではなかった。

瑞穂からの旅の途上では決して聞くことのなかった、普通の暮らしを送る人たちの温かい声だった。



食器を片付け終えると、短い打ち合わせのあと、正妻が皆に声をかけた。


「では、持ち場に分かれましょう」


寝具係、庭係、掃除係、洗濯係、買い物係――

それぞれが自然に散っていく。


チトセは今日、洗濯係だった。

屋敷近くを流れる小川へ向かい、洗濯板に布を広げる。


灰汁(あく)を、もう少し足しておくれ」


「はい」


チトセが灰汁を注ぎ込むと、第二夫人が「瑞穂ではどうしていたの?」と尋ねる。

「米という麦に似た植物の研ぎ汁も使いました。汚れが落ち、布も柔らかくなります」

「へえ、そんな方法があるのね」


新しい知識に興味を示す女性たちの表情を見ると、自分がこの家の一員として受け入れられていることを実感した。



屋敷に戻ると、昼食の準備が始まる。

肉と野菜の煮込み、小麦のパン、豆料理。

質素だが、働く者に力を与える温かい食事。


昼食とその片付けが終わると、しばしの休憩――

そこでチトセの“もうひとつの役割”が始まる。


「チトセ姉さま、続きを読んで!」

双子の妹のひとりが本を抱えて走り寄ってくる。

庶弟もすぐに続き、チトセにしがみつく。


「一度に押さないの。順番です」


そう言いながらも、チトセの声は柔らかい。

読み聞かせの時間は、彼女にとっても安らぎだった。遠い瑞穂での穏やかな日々を思い出させる。自分もこうやって母に絵巻物の読み聞かせをせがんだものである。

庶弟は読み終える頃には目がとろんとし、気づけば彼女の膝で眠ってしまっている。


「ごめんなさいね、チトセ。代わるわ」

第二夫人がそっと庶弟を抱き上げると、ようやくチトセに自由時間が訪れた。


洗身し、少しだけ部屋で休む。

忙しい日々のなかの、短い静寂。



夕暮れが近づくと、家は再び慌ただしくなる。

夕食は軽食というのがレーヴェン王国での習わしである。

おおよそ毎日、豆や野菜の入ったスープとパン、少しの肉、葡萄酒や麦酒が出される。


調理を手伝いながら、チトセは台所に満ちる香りに心が落ち着くのを感じた。

これも苦しい放浪の旅では感じられなかったものだ。


そして主家族の食卓。

沈む太陽に向かって光祖教の夕の祈祷があり、チトセとシロウは静かに頭を下げて見守る。


食後は第二夫人と使用人らの食卓が続き、片付けが終わる頃には空気が夜の冷たさを帯びはじめる。


寝具を整え、子どもたちを寝かしつけ、各部屋の燭台の火を落とす。


かすかな炎が消えてゆくその瞬間、チトセはふと、自分が今どこにいるのかを思う。


異国の家。

見知らぬ文化。

本来ならば不安に満ちているはずなのに――

胸の奥は不思議なほど温かかった。



シロウと同じ部屋に入り、寝台に腰を下ろす。

瑞穂では床敷きの布団が常だったため、この硬い寝台にはまだ馴染めない。

それでも、野宿の日々に比べれば、どれほど心が落ち着くだろう。


「兄さま……今日も無事でよかった」

小さくつぶやく。その小さなつぶやきは、兄の耳に届いただろうか。

シロウは何も反応を返さない。耳朶に達するまでに消えたのか、それとももう眠ってしまったのか。

だが届いていなくてもよかったのだ。それは、彼女にとって祈りにも似た言葉だったから。


灯を落とした部屋で、静かな呼吸が重なっていく。

外では虫の声が遠く、穏やかに響いていた。


それは、戦でも剣でもない。

生きているという実感そのものだった。


明日も、きっと同じように日が昇り、

同じように働き、笑い、祈り、眠るだろう。


――戦が近づいていることを、ほんの一刻だけ忘れさせてくれる日々。


チトセは安らぎの中で目を閉じた。


 

 



 

 

18.5 あかつきのひかりの物語

 

 

夕食の後、ラウエン家の子ども部屋には、燭台のやわらかな灯りが揺れていた。


「チトセ姉さま……今日も読んで?」

双子の妹が、胸に抱えていた一冊の本をそっと差し出す。


金文字の表紙には 『あかつきのひかりの物語』 と書かれていた。

レーヴェン王国では、小さな子でも知っている、勇気の物語。

吟遊詩人の(うた)の定番で、レーヴェンでは大人もこの物語を愛している。


チトセは微笑み、子どもたちを呼び寄せた。

庶弟(おとうと)は、当然のように膝の上を確保している。


「では……読みますね」


ページがぱらりとめくれ、チトセの優しい声で物語が紡がれはじめた。



〜あかつきのひかりの物語〜


むかしむかし。

いまよりもずっと昔のお話です。


レーヴェンの大地には、たくさんの部族や国が、ごちゃまぜに並んでいました。


そんなとき――

黒い旗をかかげた 黒旗(くろはた)どうめい が、大地いっぱいに広がりました。

黒旗どうめいは強く、夜のように重たく、村々はこわがり、光はすこしずつ消えかけていました。


そこに、一人の若い騎士があらわれました。


アルベルト・グラーフ。

のちに、あかつきの騎士と呼ばれる人です。



レーヴェンの王さまは、胸に手を当てて言いました。

「おおアルベルト。お前の力で私たちを導いてくれ!」


黒旗どうめいにかこまれ、だれもが肩を落としていたころ。

アルベルトだけは、静かに空を見上げました。


夜はまだ深く、まっくら。

でも、彼は静かに笑って王さまに言いました。


「夜がいちばんこいときこそ、いちばんはやく、ひかりは生まれるのです」


その言葉は、ひとつの小さな灯りのように、王さまや仲間の胸をそっと照らしました。


空がすこしだけ青く変わり、鳥が一声だけ鳴いたその瞬間――


「――さあ、行こう!」


アルベルトは馬にまたがり、まっすぐ前を見つめました。



朝日のひかりは、まだ細くて頼りないものでした。

けれど、アルベルトの黒い外套(マント)が風を切ると、まるでひかりの矢が走るように見えました。


「うわっ、あれは何だ!?」

「ひかりだ……いや、騎士だ!」


黒旗どうめいの兵たちがさけびます。


アルベルトは、ただひとすじ。

まっすぐ、まっすぐ、敵のまんなかへ。


仲間の騎士たちも、その背を追い、草原をかけるひかりの流れになりました。


そして――


黒旗どうめいは真ん中で、ぱんっ、と二つに割れたのです。


まるではじめての朝日が、大地を押しひらいたように。

そのひと突きで、(いくさ)の流れは大きく変わりました。



この勝利は、のちに 「あかつきの勝利」 と呼ばれました。

アルベルトは、みんなからほめたたえられ、王さまから


『あかつきの騎士』


という名をもらいました。


それは、お城の人が決めた名前ではありません。

戦場で彼の背を見た仲間が、村で話を聞いた人々が「朝のひかりのような騎士だ」と呼んだからなのです。


アルベルトは王妹さまを妻に迎え、生涯をかけてレーヴェン王国を助けました。


でも、どんな大きなことをしても、人々がいちばん好きだったのは――


夜明けに走り、希望をもたらした、ひとりの騎士の姿


でした。



チトセはそっと本を閉じた。


「……おしまい」


膝の上では、庶弟がすうすうと寝息を立てている。

双子の妹たちも、寄り添ったまま小さく胸を上下させていた。


チトセは子どもたちの髪を軽く撫で、静かに寝台へ運ぶ。


毛布をかけてやりながら、ふと思う。


(あかつき)の騎士……。レーヴェンの人たちは、こういう希望の物語で育つのですね)


瑞穂にも英雄譚はある。

けれど、それはもっと鋭く、重く、戦の匂いが濃い。

子どもの眠りを守るための物語では、なかった。


灯火がかすかに揺れて、影が丸く伸びる。

異国の家、異国の暮らし。

そのどれもが、いまは胸の奥をやさしく温めてくれる。


チトセは息をつき、そっと灯りを落とした。


――この温かな日々が、どうか続きますように。


静かな祈りの中で、物語の夜は閉じられた。

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