17.揺らぐ槍、揺らぐ胸
大陸暦三〇二年、赤の節。
「敵の斥候部隊が認められました。重歩兵を中心とした構成で数は約三十!」
乾いた熱が陣の幕を膨らませ、砂混じりの風が喉をざらつかせた。
遠くで鳴く鳥の声さえ、今日は落ち着きなく聞こえる。
見張りの報告に、エーベルハルト男爵は即座に立ち上がった。
国境線に陣を敷いて久しい。
ツェルバハ子爵の寄騎の男爵・士爵が輪番で陣地の警備に当たっていたが、この日はエーベルハルト男爵の担当であった。
昨年から続く小競り合いは絶えず、今日もその続きに過ぎぬはずだった。
レーヴェン王国北西部を束ねるザーヴェル辺境伯の情報では「白の節には決戦が来る」とある。
それまでの小戦は、どれも“大きな波の前触れ”にすぎない。
「……セリーヌ」
男爵は視線を向けず、脇に控えていた娘へ声を掛けた。
「はっ」
直立して侍衛の役目を果たしていたセリーヌは、さらに背筋を伸ばした。
「おぬしも出よ」
「はっ」
ついにその時が来たのだと、胸の奥が短く跳ねた。
側にいた家臣が、驚きに眉を上げる。
「しかし、まだ初陣には――」
「敵は小規模。見学させるだけだ。武勲を求めるわけではない。戦場を知るには良い機会よ。……私も出る」
娘を信じる想いと、無理をさせたくない想い。
その両方が滲んだ言い方だった。
「槍兵二十、弓兵二十、騎兵十を集めよ。――我らエーベルハルトの強兵を見せる」
「応!」
家臣らは一斉に立ち上がり、陣内はすぐさま準備の喧騒に包まれた。
セリーヌも兜を抱えて陣帳を飛び出す。
緊張で胸が締めつけられるようだったが、それでも歩みは迷わない。
「馬を……頼みます!」
呼びかける声が少し震えた。
その様子を、隣の陣帳から出てきたアルノルトが見ていた。
視線が交わると、セリーヌは短く頷いた。
(……震える)
指先だけが言うことをきかない。
けれど、訓練で染みついた手順だけは、勝手に身体がなぞっていく
己の手が確かに震えている。
にもかかわらず、なぜか兜はうまく被れた。
愛馬が曳かれてくると、従士の手を借りて馬上へ上がる。
「アルノルト、あとは頼む」
同じく騎乗した男爵が声を掛け、アルノルトが承諾するのを聞くや、「出るぞ!」と陣外へ飛び出した。
セリーヌを含む兵がそれに続く。
◆
エーベルハルト軍が出陣して間もなく。
「重歩兵だけ……と言うのか?」
アルノルトは急報を届けた見張りに確認した。
「ああ。奴らは重歩兵のみ、三十ほどだった」
「妙だと思わんか」
アルノルトは低い声で疑問を呈した。
「これまでの小戦、グラーツの斥候は重歩兵と、それに随伴する重騎兵とが一組になっていた」
「確かに……」
見張り兵も、脇に控えるシロウも同意する。
「では今回、重騎兵はどこにいる」
アルノルトは腕を組み、顎へ指を当て沈思した。
「まさか……伏兵」
シロウが息を呑んで言う。
「それよ。此度たまたま騎兵がいないなら良い。だが伏兵なら――」
赤の節の熱風の中に、微かな寒気が混じった。
アルノルトは即断した。
「万一を考えて後詰を出す。十騎で上等、五騎でもいい。騎馬兵を優先させろ。シロウ、ラウエンの者を中心に招集を」
「はっ」
号令が飛ぶとシロウは周囲へ声を掛けはじめた。
にわかに陣が騒がしくなる。
「私の馬を引け!」
従士へ声を掛けると、アルノルトは陣帳の中から自らの兜を持ち出した。
慌てて引き出された馬の首筋をさすって落ち着かせると、鞍上にひらりとまたがる。
従士から馬上槍を受け取ると、脇にたばさんだ。
次々と集まってきた騎兵が周囲へ並ぶ。
アルノルトを含めたラウエン四騎、エーベルハルト二騎、ツェルバハから三騎。
計九騎。そこへ徒で随伴するシロウが加わり十名。
「アルノルト殿、我らも助力を」と、ツェルバハの平騎士らが加勢を申し出てくれる。
「ご厚意、ありがたく!もし深読みのしすぎであれば笑ってください」
「なあに、その時は一緒にエーベルハルト卿に叱られようぞ」
軽口を交わすも、騎兵たちの眼差しは鋭く、気は引き締まっている。
「重騎兵は、エーベルハルト卿の軍ではなく、この陣を襲うやもしれん。警戒厳に――出る!」
九騎と一人は、陣を駆け出した。
陣地から交戦地点までは、騎馬ならすぐの距離だった。
それでも、間に合うかどうかは馬の脚次第――。
◆
男爵軍は国境線近くの平野に槍列を敷いていた。
セリーヌは男爵の右斜め後方に位置する。
手綱を握る指先が震えている。
「セリーヌ様、ご無理はなさらず」
男爵を護衛する騎士から声が掛かる。
「……ええ。無理はしないわ」
兜に収まりきらぬ白銀の髪が、肩へ散った。
やがて間合いに敵兵が入った。
「弓、放て!」
男爵の号令で、矢戦がはじまる。
相手には弓兵が少ないのか、撃ち返される矢の数はわずかだった。
手傷を負った相手が少数、列を離脱していくのが見えた。
「槍構え!」
その声に、鎧の金属がこすれる音が方々で鳴る。
「来るぞ!」
最前線の槍兵が叫ぶ。
指呼の間に迫ったところで、敵重歩兵が突っ込んでくる。
長槍がぶつかりあう衝撃が響く。
どうやら戦いは優勢である。
相手は矢戦に怯んだか、動きが鈍い。
「槍兵、前へ!」
勢いに乗り、こちらの槍兵は前進を重ねていた。
このまま推移できれば追い散らせるだろう……エーベルハルト軍の誰しもが勝利を確信した。
その最中――
「敵騎兵、右よりッ!!」
草原の奥から土煙が立った。
地面が遅れて震え、蹄の衝撃が腹の底を叩いた。
金属の擦れる音が、土煙の向こうから唸りのように迫る。
鉄の塊、重騎兵。
数は五騎。しかし喧騒の中、完全な奇襲となる。
前軍が進出した間隙に突っ込んできた。
「なっ……!?」
男爵が振り向くや否や、突撃が中軍の槍列を崩す。
護衛らの槍が弾かれ、盾が転がる。
敵影は鎧や外套の装飾から察したか、男爵、そしてセリーヌに迫ろうとしていた。
馬が怯えていななき、足が乱れた。
セリーヌは父を守らんと槍を構えたが、迫る騎兵を前に身体が固まった。
「――いや……!」
声にならぬ声が漏れる。
その瞬間。
「エーベルハルト軍に助力せよーーーーッ!!」
アルノルトの大音声が響き渡った。
小勢ながら、軽騎兵が襲歩で駆け込む。
アルノルトは先頭で槍を構え、その後ろには息を合わせた八騎と一人。
「光のご加護をッ!」
アルノルトの吶喊に、騎兵らも鯨波を重ね、斜め側面から進入する重騎兵の、さらに側面を突いた。
アルノルトは槍に力を込めると、敵先頭の重騎兵へ突き立てた。
相手は男爵へ向いていたため防御が遅れる。
脇腹を貫かれ、たまらず重騎兵は落馬した。
慣性で突き抜けたアルノルトはすぐ反転し、駆け戻る途中でシロウから予備の槍を受け取る。
エーベルハルトの中軍はこの間に体勢を立て直し、残る重騎兵四騎を半包囲した。
作戦の失敗を悟った敵は鐘を鳴らして退却を開始した。
前衛の重歩兵も散り散りに去る。
深入りした重騎兵五騎のうち、二騎が血路を開いて退却、二騎が降伏し、一騎がアルノルトに討たれた。
◆
戦は終わった。
自軍も相手も損害は想定より少なかった。
エーベルハルト男爵はアルノルトのもとへ近づくと、馬上から深く頭を下げた。
「恩に着るぞ、アルノルト。よくぞ支えてくれた」
アルノルトは馬を降り、兜の前を跳ね上げ、膝を折る。
「軍を乱すようなおこない、大変申し訳ございません、男爵さま」
淡々と、しかし誠意のこもった声。
夕陽がその横顔を赤く染めた。
セリーヌは黙ってその姿を見つめていた。
胸が高鳴る。
恐れは、誇りと憧れに溶けていった。
トゥンク…




