16.実りの兆し
大陸暦三〇二年、赤の節。
その年の夏は、例年に増して陽が長く、風も柔らかかった。
一面緑に覆われた麦畑には、夜明け前の薄闇が消えるより早く、雲の切れ間から金色の曙光が差し込み、葉先についた露が七色に揺れる。
村の子どもたちは川べりで水を跳ね上げ、素足で石を蹴りながら笑い声を響かせる。
川面には白い雲が揺れ、岸辺の草は夏の匂いを含んだ風にそよいでいた。
農婦たちは麦の穂を撫でて収穫前の手触りを確かめ、小さく頷き合っていた。
「今年は、豊作だな……」
畑の端に立っていたヘルマンが、眩しそうに目を細めた。
太陽の光に照らされたその横顔には、開拓村の主としての責任感と、ひと夏を乗り越えた安堵の色があった。
ラウエンの開拓村は、今年ほど明るい空気に包まれた夏を久しく迎えていなかった。
干ばつもなければ、長雨もない。
土は適度に湿り、穂はよく実っている。
畑に立って風を吸い込めば、穀物の甘い香りが胸の奥まで広がった。
だが――。
その朗らかな季節の裏側で、国境の尾根には時折、黒い煙が立ちのぼっていた。
遠目でも分かる火の色は、のどかな村の景色からわずかに外れた不穏として胸に残る。
「またグラーツの斥候部隊が出たらしいぞ」
兵がそう囁くたび、畑にいた男たちは鍬を置き、北の峯を振り返った。
風向きが変わると、山の向こうからかすかな鉄の匂いが漂う日もあった。
昨年から続く国境の小競り合いは衰える様子がない。
その上、密偵から届く報告はさらに不穏だった。
「……白の節には、大規模戦になる」
グラーツ王国は兵糧をかき集め、鉄の精製を増やし、重装歩兵・重装騎兵の隊列を整えているという。
近隣の村でも鉄の価格がじわりと上がり始め、鍛冶場の煙はいつもより濃かった。
その報せは、村の噂話にとどまらず、砦から砦へ、そして王都へと送られていた。
国境の小さな火種は、すでに王国全体の警戒網に引っかかっていたのである。
レーヴェン王国の北西域を統括するザーヴェル辺境伯セルヴィオは、国内でも智将として知られる。
亜麻色の髪を肩で切りそろえ、深い藍の瞳は常に静かな知性を湛えている。当年二十六歳。
長身の美丈夫で、よく整えられた口ひげを捻る仕草は、宮廷でも領地でも多くの女性の心をさらっていた。
東西の軍学に通じ、その造詣の深さと実戦での的確な判断力は、王国内でも群を抜いていた。
そのセルヴィオでさえ、主戦地の決定には迷っていた。
緩衝地帯に深く入り込み迎え討つべきか、谷の出口を押さえるべきか――。
いずれにせよ、両軍が動けば、国境はたちまち戦場に変わる。
「斥候をもう三組増やせ。谷沿いに抜ける獣道の確認も急げ」
「弩部隊の矢倉は整備したか?」
「長槍をあと百本は増産したい」
ツェルバハ子爵軍にも緊張が走り、夜警や巡察の割り当てが増えていた。
砦に灯るかがり火は夜更けまで消えることがなく、兵の鎧が擦れる音が山道に響いていた。
◆
だが、すべてが戦の色に染まっているわけではない。
緊張の続く国境線とは対照的に、御料牧場では別の騒がしさがあった。
霜路重馬と御料牧場の繁殖牝馬を掛け合わせた仔馬たちが、今年も次々と生まれたのだ。
放牧地の端では、朝露を蹴散らしながら仔馬たちが跳ね、母馬の影に隠れてはまた飛び出す。
毛色は実に多彩で、鹿毛、栗毛、青鹿毛……母馬の特徴を色濃く継いだものが多い。
仔馬同士が鼻先を寄せ合い、戯れる光景は、戦の気配を一瞬忘れさせた。
多少気難しい仔もいるが、総じて穏やかな性格の子が多く、馬丁たちは
「霜路の血は荒いって聞いたが、案外そうでもねぇな」
と胸を撫で下ろしていた。
ただ、一頭だけ――。
昨年、アルノルトが出産に立ち会ったあの青毛の若馬だけは、別格だった。
生まれた時から身体が異様に大きかったが、一歳となった今、その成長はさらに加速していた。
放牧地を遠目から見ても群れの中で明らかに輪郭が違う。
肩高はすでにソルディア・ロス種の成馬に匹敵し、
肩幅は膨れ、頸は太く、脚に刻まれた腱が鋼のように浮いていた。
夏の日差しを受けた青毛は、黒とも青ともつかぬ艶を帯びて輝いた。
風が吹くたび鬣がざわりと揺れ、その影が地面に長く伸びる。
その時、放牧地の奥から怒号が響いた。
「おいっ!あいつがまた柵を砕きやがった!」
「縄が切れるぞ、もっと太いの持ってこい!」
青毛の仔――アルノルトが内心「暴風」と呼んでいる馬は、牧場中を振り回していた。
太陽を反射して光るその四肢は速く、足音は土を叩きつけるように響いた。
「お前、またか……」
アルノルトが近づくと、青毛は鼻を鳴らし、耳をわずかに立てた。
敵意はないが、素直でもない。
こちらを警戒しつつも、近づくのを拒むほどではない――そんな曖昧な距離感だった。
手綱を取ろうとすると、青毛は素早く首を振り、その巨体でするりと後退する。
揺れる尾が夏草を払うたび、乾いた香りがふわりと立った。
「ほら、逃げるな。水を替えるだけだ」
諭すように声を掛けながら、アルノルトは水桶を替え、飼い葉も足し、蹄の泥を軽く落とす。
青毛は時折地を叩いたり、尾を勢いよく振り上げたりして反発の色を見せるが、作業を妨げるほどではなかった。
「アルノルト、よくやるわ……俺たちじゃ近づくだけで蹴られそうなのに」
馬丁が呆れたように言う。
「馴致は秋からの予定だろう?どうする気だ、これ……」
「……さぁ、どうなりますかね」
アルノルトは苦笑した。
「ただ……この体つきは、戦馬としては規格外です。乗りこなせれば、相当な力になります」
そのとき、青毛の背筋が一瞬だけ強張った。
空気が、ほんのわずかに張り詰める。
青毛が突然、地面を叩きつけるように跳ねた。
乾いた音とともに砂埃が舞い、馬丁が悲鳴を上げる。
「そら来た!やっぱり暴れやがった!」
アルノルトは慌てず、青毛の首元へ回り込み、手綱を短く持ち替えて力をかけた。
青毛は荒く鼻息を漏らし、地面を三度踏み鳴らしたあと――
ようやく、しぶしぶといった様子で首を下げた。
(馴致のとき、死人が出ないといいが)
そんな現実的な不安が胸をかすめる。
馬丁たちも同じらしかった。
繰り返すように不安を口にした。
「……秋になったら、どうなることかねぇ……」
「俺らは祈るしかねぇな」
青毛は彼らの声を振り払うように、空へ向かって大きく嘶いた。
その声はよく通り、牧場の奥、さらに遠くの林まで響くほどだった。
夏空の下、その嘶きはどこか清々しくもあり、同時に、この穏やかな赤の節の向こうに忍び寄る影を暗示するようでもあった。
作品を書くにあたって設定した内容を記載しておきます。
今回は年齢です。
人も家畜も年齢の重ね方は
●生まれ年「当歳」
●年が明けると「一歳」
●次の年が明けると「二歳」
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となります。
現実世界では、生物によっては当歳=一歳というものもありますが、この世界では上記法則です。
現実世界では六世紀頃に確立した「ゼロの概念」。
この世界でも発見されていますが、設定上、ゼロ歳(〇歳)と言われることは稀……ということにさせてくださいませ。




