15.震える心
●セリーヌ・ヴェン・エーベルハルト
大陸暦三〇二年時、十四歳(アルノルトのひとつ年下)
レーヴェン王国のエーベルハルト男爵家の長女。アルノルトの住む開拓村とは隣村。銀色の髪と青い瞳を持つ。美しい容貌であるが、普段から中性的に振る舞っている。エーベルハルト家は、ツェルバハ子爵の寄騎である。
大陸暦三〇二年、青の節。
昨年から続く国境の小競り合いは、年が改まっても収まる気配を見せなかった。
大きいときは百名規模、少ないときは三十にも満たず、敵の動きに一貫性はない。
だが、その不規則な衝突の継続は、国境に立つ者たちの神経をすり減らし、備蓄された兵糧をじわじわと削っていった。
倉の麦袋は目に見えて薄くなり、塩の配分まで帳簿に朱が入るようになっていた。
レーヴェン王国の北西を預かるザーヴェル辺境伯セルヴィオは、「今回の戦は守勢に徹する」と明言していた。
グラーツ王国軍の意図が読めぬ以上、深入りして罠に落ちるより、堅実に国境を守る――愚直ではあるが、確かな判断だった。
しかし、前線に立つ者たちは、どうしても“焦れ”を抱える。
夜番を終えて戻る兵の顔には疲労だけでなく、どこか鬱屈した影が宿りはじめていた。
特に、ツェルバハ子爵軍はこの数か月、寄子である男爵家・士爵家に対して、国境警備を強めるよう再三指示を飛ばしていた。
「今は耐えどきだ」と言われ続けるほど、槍を握る手は、むしろ前へ出たくなるものでもあった。
ラウエン士爵家も例外ではない。
◆
アルノルトは十五になり成人を迎えた。
初陣から一年あまり。
彼はもう、少年ではなく勇士として扱われていた。
「アルノルト、ここは任せる。お前の判断で動け」
「はい、父上」
夜警でも、日中の巡察でも、ヘルマンがアルノルトを副将格として扱う場面が増えた。
隊列の配置、焚き火の位置、見張りの交代――細かな決定のいくつかは、自然とアルノルトに一任されるようになっていた。
また、時折は少数の兵を率いて、エーベルハルト男爵麾下の夜間哨戒にも加わるようになっていた。
峠道に灯るたいまつの光の中で、レーヴェンとグラーツの境界線を見下ろす緊張感にも、少しずつ慣れはじめている。
月明かりの下、哨戒の任に就く兵たちの間で、アルノルトはすでに噂の的だった。
「おい、あれがヘルマン殿の息子だろう?」
「あの大きさで十五だとよ。信じられるか」
「前の戦で何人も斃したって話だ」
焚き火のそばで皮袋を回し飲みしながら、兵たちのそんな囁きが漏れる。
噂は、いつも本人の知らぬところで大きくなる。
また、彼のすぐ後ろを寡黙に歩く異国の青年――シロウは、さらに異彩を放っていた。
「なんなんだ、あの黒髪の……」
「あれが噂の」
「動きが尋常じゃねぇ。山猫みたいに歩いていやがる」
足音をほとんど立てず、視線だけで闇を探るような歩き方。
好奇も、畏怖も、その視線には混じっていた。
兵たちは、シロウがアルノルトの死角を自然に守るように歩いていることに気付けずにいた。
◆
その日の夕暮れ、アルノルト一行は交代のため村へ戻ってきた。
山道を下りきった頃には空の端が赤く染まり、森の向こうで鳥のねぐら入りを告げる声が聞こえはじめていた。
馬を厩へ入れ、汗に濡れた馬体を布で拭い、装備を武具置き場へ戻す。
革の留め具を外す音、鎖帷子が触れ合う微かな金属音が、徐々に日常の気配を取り戻していく。
ようやく肩の力が抜けた頃――
「アルノ!」
門の方から、少女の声が響いた。
セリーヌだ。
月毛の馬から軽やかに降りると、深い蒼の外套を翻しながら駆けてくる。
昼の日差しを受けていたのだろう、頬はうっすらと紅潮し、息は少しだけ上がっていた。
アルノルトに侍っていたシロウは、セリーヌの姿を認めると、短く一礼し、すっと館の方へ引いた。
邪魔をしない距離を、心得ている。
セリーヌはアルノルトに近づくほどに表情を曇らせ、足を止めた頃には、肩の震えを隠せなくなっていた。
「……セリーヌ様?どうされたのですか」
アルノルトが声をかけると、セリーヌはほんの一瞬だけ目を伏せた。
長い睫毛がかすかに震えたのを、彼は見逃さなかった。
「アルノ……わたし……怖いの」
彼女は声を潜め、絞り出すように言った。
「もうすぐ、わたしも初陣。父や弟たちに、何でもないように話すけれど……何度も決心をしたはずなのに、本当は、手がずっと震えているの」
父エーベルハルトは、近く、男爵家として前線の後詰に人を出すと決めており、その中にセリーヌも含まれている。
両手を胸の前で組んだまま、指先が小刻みに揺れている。
それを必死に抑えようとしているのが、かえって痛々しかった。
アルノルトは言葉を失った。
自分の初陣の時も、怖さを押し隠し、言葉にはできなかった恐れがあった。
セリーヌは続けた。
「あなたみたいに出来たら、どんなにいいかと思うわ。気丈なところも、強さも……全部」
アルノルトは否定しようとしたが、喉が詰まった。
自分が強いと思ったことなど一度もない。
ただ恐れを押し殺して前へ出ただけで、足は震え、胸はずっと痛かった。
だからこそ、セリーヌの言葉に、軽い返事などできなかった。
沈黙――。
夕焼けの名残が消えかけた空の下、門の前に立つ二人のまわりだけ、時間がわずかに重くなったようだった。
厩の中で馬が鼻を鳴らし、誰かが桶を置く音が一つだけ響いた。――それすら遠い。
息苦しいほどの静寂の中で、アルノルトはようやく口を開いた。
「……セリーヌ様。口が上手くない俺には、立派なことは言えません」
彼女が顔を上げる。
藍色の瞳が、わずかな期待と不安を混ぜながら彼を見た。
「ですから、稽古をしましょう。剣でも槍でも、乗馬でもいい。俺と一緒に」
その言葉は不器用で、励ましの言葉としては決して巧みではなかった。
だが、セリーヌの胸には、すっと落ちた。
「……ありがとう。ほんとうに」
彼女は静かに息を整え、少しだけ口元を緩めた。
「……少し、剣の持ち方を見てもらえる?」
「もちろんです」
◆
夕闇がゆっくりと村を包み、空に一番星が瞬き始めた頃。
館の裏手にある簡素な稽古場には、二人の影が向き合っていた。
「足幅は……もう少し狭いほうが安定します」
「こう?……あっ、違うのね」
「膝を落としすぎると逃げ場がなくなります。重心は――そう、その辺りです」
月明かりの下、固く締められた土の上で、木剣が何度も打ち合わされる。
カン、カン、と小気味よい音が続き、ときどきバランスを崩したセリーヌの足音が混じった。
セリーヌは何度も構えを崩し、時折震え、息を弾ませながらも、決して弱音を吐かなかった。
額に汗がにじみ、首筋を伝って外套の襟元へ消えていく。
それでも彼女は、木剣を握る手を緩めなかった。
アルノルトは何度も修正を入れ、必要以上に触れないよう距離をとりつつも、
足の向き、肩の開き、視線の位置――一つひとつを確かめるように教えた。
夜風が吹き抜け、セリーヌの髪がふわりと揺れる。
稽古場の外では、遠くで犬の吠える声と、厩舎で馬が藁を踏む音が聞こえていた。
やがて、セリーヌはふいに顔を上げた。
「……ねえ、アルノ」
「はい?」
「戦が怖いのは、わたしだけじゃないのよね」
アルノルトは少しだけ笑った。
それは、彼の年齢より少し大人びた、穏やかな笑みだった。
「当然です。俺なんて、今でも怖いままです」
「そう……よかった」
セリーヌは胸を押さえ、安堵の笑みを浮かべた。
その笑みは、恐れが消えたからではなく、「自分だけではない」と知った者の表情だった。
◆
稽古が終わる頃、夜空には満天の星が広がっていた。
山の端はすっかり闇に沈み、村の灯りがぽつぽつと点りはじめている。
「ありがとう、アルノ。少し……楽になった気がするわ」
「なら、良かったです」
二人は木剣を片付け、土についた埃を払い合った。
いつも通りの仕草に見えたが、その一つひとつが、ほんのわずかに軽くなっているようでもあった。
屋敷へ戻る道すがら、セリーヌは何度も振り返り、最後は小さな声で言った。
「……ねぇ、次も稽古、お願いしていい?」
「もちろんです」
その瞬間、セリーヌの表情がふっと晴れた。
彼女は外套を揺らしながら館の方へ歩いていき、その背中は、来たときよりもいくらかまっすぐに見えた。
彼女が背を向けて帰っていくのを、アルノルトは静かに見送った。
その背に、戦場の影が落ちませんように――
そんな祈りにも似た思いが、胸の奥にわずかに灯っていた。
「……俺も、まだ震えるのにな」
彼は手のひらを広げた。
指の関節がかすかに引きつり、冷えた風が触れるたび震えが輪郭を持つ。
あれから幾人もの敵兵を突き、斬ってきた。
それを思い出すたび、感触が蘇り、微かに指先が震えるのだ。
次は自分の番かもしれない――そんな考えが、ふと頭をかすめる。
だが、戦場を越えた少年は青年となり、その震えを恥じることはもうなかった。
守るものがあるのならば、震えていても立つ――
そう気づいたのは自分だけでなく、きっとセリーヌも同じなのだろう。
そして、彼らの国境の日々は、翌日も変わらずに始まっていく。
大筋に絡まない人物は、必要なとき以外はできる限り名前を出さないように、登場する場合も軽くなるようしております。




