14.新たな家族
●シロウ
大陸暦三〇一年時、十六歳。
極東の島国「瑞穂国」の白都出身。黒髪と黒い瞳を持つ。念流という剣術を修めている。
翌朝、国境での小戦闘が嘘のように、村には落ち着いた空気が戻っていた。
とはいえ、完全な日常に戻ったわけではない。
家々の戸はやや早く開き、遠く尾根を気にしながら畑へ向かう者の姿があった。
村の井戸端には、昨日洗い落としきれなかった泥の跡がまだ黒く残っていた。
昨晩遅く戻ってきたラウエン家一行は隊を解散すると泥のように眠り、つい一刻ほど前に寝床から起き出していた。
アルノルトも寝床から這い出すと、多少の疲れが残っていることを自覚した。
人の話によれば、初陣の翌日はひどい全身の痛みに苛まれるとのことだったが、言うほどのことはなく、腕や背中に少しこわばりが出ているだけのようであった。
食堂では、客人となった異国の兄妹――シロウとチトセが、簡素な朝食を摂っているところだった。
チトセは湯気の立つ麦粥を両手で包むように持ちながら、時折まぶたが落ちそうになっては、はっと肩を震わせる。
旅の疲れが抜けていないのだろう。
その横で、食べ終えたシロウが器を片付ける手つきは几帳面そのものだが、妹を気遣うまなざしはどこか痛ましさを含んでいた。
アルノルトはその様子を横目に、朝食前のひと仕事で馬房へ向かう途中、二人と目が合った。
「おはようございます、シロウ殿、チトセ殿」
礼を崩さぬように頭を下げると、チトセが小さく会釈を返す。
シロウも短く顎を引いた。必要以上の言葉を使わない、節度ある挨拶だった。
「昨日は助けていただきました。……あの、チトセ殿は大丈夫でしょうか」
問われた少女は胸の前で手を握りしめながら答えた。
「……はい。兄さまが、そばにいてくださるので」
震えは残っていたが、声には確かな強さが戻りつつあった。
その返答に合わせるように、シロウがふと妹を横目で見るが、ほんの一拍、表情の奥に影が差したことにアルノルトは気づかない。
◆
その日の午前中、ヘルマンは前庭の隅で二人を呼び止めた。
甲冑は脱いでいるが、鎧下着の上から羽織った外套が朝の冷気に揺れている。
「シロウ殿、チトセ殿。話がある」
兄妹は即座に姿勢を正した。
客人でありながら、礼儀に欠けるところがない。
「昨日の戦、確かに見させてもらった」
ヘルマンは言葉を区切り、国境の尾根へ目を向けた。
「国境の情勢もしばらく落ち着かんだろう。……そこでだ。当面、この館に滞在して構わん。どうだ?俺やアルノルトの助けになってくれんか」
背後で母が息を呑み、部屋の隅で様子を窺っていた古参の従士が一瞬だけ眉を動かした。外様を入れる――その重さを、館の空気が知っている。
強要する響きはないが、その声は真剣だった。
シロウは眉を寄せ、静かに問い返す。
「……側仕えせよ、ということでしょうか」
「形はどうあれ、そのようなものだ。道理として、我らはそなたの働きに報いるべきだが……それとは別に、今のそなたの腕はこの村にはありがたいものだ」
ヘルマンの声音は柔らかかったが、真意は重い。
国境に生きる者の現実をよく知る騎士の言葉だった。
シロウは逡巡した。
短く息を吸い、一度だけ目を閉じる。
(──ここに預けるのも、一つの道だ)
言葉には出さずとも、胸中に去来する思いがあった。
長い旅で疲れ切った、まだ年若い妹。野宿続きの日々。
安らげる寝床さえ満足に与えられなかった自分への、わずかな悔い。
そして何より、追うべき「仇」が隣国のグラーツ王国にいると知れた今――
(休ませてからでも、遅くはない)
眼差しを戻したシロウは、静かな吐息とともに口を開いた。
「……わかりました。長く旅を続けてまいりましたが、妹のことを思えば、しばらくの間ヘルマン様へ剣をお預けし、草鞋を脱がせていただきます」
瑞穂の言い回しなのか、独特の表現だった。
チトセが兄の袖を握りしめ、ほっと息を漏らす。
ヘルマンは深くうなずき、言葉を返す。
「感謝する。礼は必ず返す。部屋は昨晩の客間をそのまま使ってくれて良い」
◆
シロウとチトセについて、主であるヘルマンの命が下ると、誰も否やを唱える者はいなかった。
館の裏手では、人見知りという言葉とは無縁の双子がチトセの周りに集まっていた。
「チトセは弓が引けるの?本当に?本当に?」
「すごい……!わたしたち、弓なんて持ったこともないのに!」
チトセは困ったようにはにかみ、指を絡めながら答える。
「……そんな、大したものじゃ……。兄さまが危なかったから」
控えめな声が、かえって双子の尊敬を強めた。
庶弟は幼く、チトセの足元へまとわりついたり、袖を引いたりして遊んでいる。
チトセは慣れないながらも、必死に相手をしようとして、小さく転びそうになったり、きょろきょろと助けを求めるように兄を見る。
「チトセ殿、大丈夫ですか?」
アルノルトが声をかけると、チトセは赤面しながら首を振った。
「だ、大丈夫です……っ」
その必死さに、シロウが思わず眉をひそめるが、妹の「頑張る」という意志を尊重して口を挟まない。
ただ、袖口の汚れを指先でそっと払い、ほつれた糸を直してやるという、些細な気遣いをしていた。
やがてチトセは、母や第二夫人と村の女性たちに連れられ、炊事仕事を手伝うことになった。
「細い指だねぇ。縫い物は慣れてるのかい?」
「はい。旅の間、兄さまの衣を……」
「そりゃ良い。じゃあ、炊事のあとで、こっちの袖のほつれも手伝ってくれるかい」
慣れない厨房で、チトセはあたふたと走り回った。
鍋を持ち上げようとして重さに驚いたり、火加減が分からず炉の前で右往左往したり、針仕事で指をちくりと刺して小さく声を上げたり――
そのたびに女性たちは「あらあら」「大丈夫かい」と笑いながら世話を焼いた。
旅の垢が少しずつ落ちていくように、チトセの表情にも徐々に柔らかさが戻っていった。
◆
アルノルトが馬房の藁を替えていると、軽い馬の蹄が近づく音がした。
「アルノ!」
声を上げたのはセリーヌだった。
月毛の馬を降りると、整った顔立ちに安堵の色を滲ませて駆け寄ってくる。
「……無事と聞いて、来ずにはいられなかったわ」
「ありがとうございます。心配をおかけしました」
アルノルトが笑うと、セリーヌは一度だけ息を吐き、肩の力を抜いた。
アルノルトの手を抱くように両手で包みこんだ。
「あなた、初陣なのに無茶をするのだから……。でも、帰ってきてくれてよかった」
控えめな言葉の奥には、胸を締めつけるほどの心配があった。
セリーヌは視線を横へ移し、庭で草鞋を補修していたシロウを一瞥する。
「――あの者が、助けてくれたのね?」
シロウはセリーヌを貴人と見て取るや、無駄なく一礼し、穏やかに名乗った。
「瑞穂国のヒ……」
その一音だけ、何かを飲み込むように曖昧にした。
「瑞穂国のシロウと申します。昨日は偶然が重なりました」
「偶然でも、命を救ってくれたことに変わりはないわ。ありがとう、シロウ殿」
セリーヌは簡潔に礼を述べ、それからアルノルトを軽く小突く。
「ねぇ。あなた、わたしに報せも寄越さず……本当に心臓に悪いんだから」
少しだけ拗ねたような声音、けれどその目は優しかった。
◆
夜。
村に星の光が降り、館の裏手は静かになった。
薪の匂いと夜風が混じり、遠くで犬の吠える声が響く。
アルノルトとシロウは馬房脇の木陰に並んで座り、それぞれの剣を前に置いていた。
馬房の中から藁を踏む音と、眠りかけた馬の長い吐息が、会話の隙間を埋めていく。
「これが……瑞穂の剣なんですね」
アルノルトは慎重に刀を手に取り、月光に照らして眇めてみる。
重心の位置がレーヴェンの剣とはまるで違う。
刃は細くしなやかで、鋼の層が淡く波紋のように浮いている。
「刀といいます。斬るための剣です。槍と合わせて使うこともありますが……」
シロウは誇張も虚勢もなく淡々と語る。
アルノルトは自分の剣と槍について説明する。
柄の長い槍で相手を制し、剣で詰める。
その反対に、シロウの剣は懐に飛び込み、一撃で断つ。
「まるで……違う生き物同士の戦いみたいですね」
「左様ですね」
シロウは眦を決して、遠くを見つめた。
その鋭い眼光に、アルノルトは息を呑む。
だが、その理由を問いつめることはしなかった。
語らぬものがあるというだけで、互いの距離が変わるわけではない。
短い沈黙ののち、シロウがふっと息を吐いた。
「……しばらくお世話になります。若」
「こちらこそ、シロウ殿」
満天の星の下で、二人は軽く頭を下げ合った。
それは大仰な誓いでも、未来を断言するような言葉でもない。
ただ、その晩の空気にふさわしい、静かで確かな敬礼だった。




