13.瑞穂の兄妹
●ヘルマン・ツァ・ラウエン
大陸暦三〇一年時、三十六歳。士爵。
レーヴェンの王国騎士(正騎士)。非世襲の士爵位であるものの、四代連続で士爵を輩出している武門の家である。国からの指示を受け、代官として国境の開拓村を預かっている。ツェルバハ子爵の寄騎。髪は暗い金、筋肉モリモリ、マッチョマン。
敵兵の槍が、馬上のアルノルトへ一直線に伸びてきた。
傾きつつある陽の光を受けて銀に光る穂先が、裂ける風音とともに迫る。
視界が揺れ、馬のたてがみが大きく翻る。
(避けきれない――!)
咄嗟に槍を上げたが、敵の腕のほうがわずかに早い。
刃先が首筋へ届こうとした、その瞬間。
ヒュンッ。
まるで空気そのものが切り裂かれたような、鋭い風切り音。
敵兵の腕が横から弾かれ、伸びていた穂先が土へ跳ねるように落ちた。
何が起きたのか理解するよりも早く、銀の軌跡が一閃した。
本当に、瞬きほどの時間だった。
しかしその短いあいだで、敵兵の首は胴から離れ、泥の上に沈んだ。
倒れた身体から血が土へ流れ込み、陽の光が赤黒く反射した。
自分の呼吸だけが、妙に遅れて耳に戻ってきた。
いま何が起きたのか、目が追いついていない。
その背後に立っていたのは、黒髪の青年だった。
傾きかけた光を浴びてもなお墨のように黒い髪が、風に小さく揺れた。
握った剣には鮮血が滴り続けているが、青年自身の表情には一切の揺らぎがない。
戦場のど真ん中にいながら、足元の血溜まりにも目を落とさず、ただ静かに前だけを見据えていた。
「大丈夫か」
低く、驚くほど無駄のない声音。
刃のように鋭く、それでいて静かなその声が、アルノルトの胸の奥深くへ突き刺さる。
「問題ない」と返事をしようとしたが――喉が固まって声にならない。
全身が戦いの緊張で強張り、言葉がどこかへ押し返されていく。
だからアルノルトは、小さく頷くことしかできなかった。
青年はそのわずかな動きを確認しただけで再び前を向き、次の敵へ踏み込んだ。
足の運びに迷いがなく、まるで刃そのものが歩いているかのような静謐さがあった。
その動きは、レーヴェンの騎士の剣技とも、兵士たちの粗野な戦い方とも違う。
“斬る”という一点にすべてを収束させた、異国の剣――。
アルノルトは、息を呑んだ。
(……瑞穂の剣術か?速すぎる……!)
青年の剣が振るわれるたび、刃が空気を裂く音が他の喧騒と混じりあう。
そのたびに一人、また一人と敵兵が土に沈んでいった。
血飛沫が陽光を受けて赤い粉のように宙に散り、地面に赤黒い花が次々と咲く。
周囲の兵士たちでさえ、その異様な静けさと鋭さをまとった剣筋に目を奪われていた。
◆
「兄さま、左っ!」
澄んだ声が、どよめく戦場を切り裂いた。
風に乗って届いたその声に、黒髪の青年――シロウの反応は間髪を容れなかった。
足を一歩ひねり、身体を回転させながら刃を返す。
キンッ。
澄んだ音とともに、グラーツ軍の長槍の穂先が弾かれる。
同時に――
ピシュッ。
短い弦音とともに、矢が放たれた。
それはまっすぐに敵兵の手甲の隙間を射抜き、槍を握る力を奪った。
矢を放ったのは、小柄な少女だった。
短弓を構える腕は小刻みに震えている。
指先は冷えきって白く、それでも弦から離れない。
土埃と汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも彼女は兄の背を追いかける。
戦場には不釣り合いなほど幼く華奢な身体。
しかしその瞳には、恐怖を押しつぶしてなお残る、強い意志の灯が揺れていた。
兄が斬り開く道を守るように、少女の指は震えながらも矢をつがえ続けていた。
◆
瑞穂の剣士の刀が振り抜かれるたび、敵が一人、また一人と崩れ落ちる。
踏み込むたびに土が跳ね、返す刃が血飛沫を散らし、それでも彼の息は乱れない。
まるで一人で戦場を縫い直していくかのような、滑るような動きだった。
アルノルトは馬上で息を整えながら、そのすべてを見ていた。
恐怖と同じくらい、強い憧れに胸が満たされていく。
「……あなたは、一体……」
その呟きをかき消すように、剣士が視線を向けた。
冷たく、だがどこか深い影を宿す眼差し。
まるで何かを背負いながら、眼前の敵だけではなく“その先”を見ているかのような目だった。
「シロウ。瑞穂国の者だ」
短い名乗り。
そして、さらに一息吸い込むと――
「探している男がいる。そいつは、この戦場の向こう側にいるらしい」
それ以上は語らない……語れない、という硬さが声に混じった。
その剣先には言葉より鋭い感情――憎しみが宿っていた。
アルノルトは無意識に背筋を震わせた。
◆
敵小隊が退けられ、戦いの熱気が徐々に薄らぐ頃。
余韻がまだ空気に残る中で、シロウは剣についた血を軽く振り払った。
土と血と汗の匂いが混じりあった空気の中へ、かすかな草いきれが戻ってくる。
砕けた槍や落ちた盾が夕陽を浴びて影を引き、空には早い月がかかっていた。
「兄さま……っ!」
黒髪の少女――チトセが、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。
顔は涙で濡れ、声は震え、息は荒い。
シロウはその姿を確認すると、刀を腰へ戻し、静かに膝を折った。
「チトセ、無理はするな。もう大丈夫だ」
その声は、驚くほど柔らかかった。
さきほどまでの戦鬼めいた鋭さが嘘のように、兄としての温かさが滲んでいた。
チトセは兄の胸に飛び込み、しばらく顔を埋めて震えていた。
シロウはぎこちない手つきながら、頭をそっと撫で続ける。
手甲の硬さが少女の髪を乱さないよう、注意深く、優しく。
◆
レーヴェン側の兵士たちは負傷者を運び、倒れた敵の武具を回収し、馬の治療に散っていた。
そのさなか、戦後処理中で忙しいはずのヘルマンが馬を駆って近づいてきた。
甲冑の継ぎ目に土が入り、呼吸は荒い。
しかしその目には鋭い光が宿っている。
あの剣筋を見逃すほど、ヘルマンは鈍くない。
「お前さん……若いが、只者ではないな」
そう言ってヘルマンが視線を向けたのは、シロウのほうだった。
そこには驚きと同時に、戦士としての敬意も浮かんでいた。
シロウは短く頷き、深くも浅くもない礼をした。
礼節を守りながらも、決してへりくだらない、静かな佇まい。
ヘルマンは続いてアルノルトを見た。
その目は「連れてこい」と伝えていた。
アルノルトは手綱を握り直し、シロウへ一歩近づく。
夕暮れの風が戦場を横切り、血の匂いをさらっていく。
折れた槍の影が揺れ、月の光が淡く広がる。
「……事情があるようだな。話を聞かせてくれ」
ヘルマンの低い声が、戦後の静けさに吸い込まれる。
戦いの熱気が徐々に冷えていく中で、アルノルトは深く息を吸い、異国の兄妹を見つめた。
こうして――
アルノルトの初陣は、異国の兄妹との運命的な邂逅によって幕を閉じることになったのだった。
この世界の武器は、なかなか刃毀れしない、脂も巻かないファンタジー要素モリモリの武器です。




