12.初陣
●アルノルト・ツァ・ラウエン
大陸暦三〇一年当時、十四歳。
レーヴェンの王国騎士であるヘルマン・ツァ・ラウエンの嫡男として生まれる。暗い金髪。青黒い瞳。精悍な容貌をしている。全体的に筋肉質。十四歳時は平騎士(従騎士)扱い。
大陸暦三〇一年、青の節。
薄い朝霧がリュナスト川の支流から立ちのぼり、村の背後を淡く染めていた。
いつもなら、牛の鳴き声や子どもたちの走る音が少しずつ辺境の朝を満たしていく頃である。
だが、この日の朝の空気には、いつもとは違う硬さがあった。
家々の戸が開く音は小さく、足音は慎重で、村人たちの視線は無意識に“北”――国境の尾根へと吸い寄せられる。
針葉樹の上を渡る風さえ、なにかを告げるように冷たかった。
アルノルト・ツァ・ラウエンはゆっくりと目を開けた。
眠りの底で揺れていた緊張が、胸に疼きとなって残っている。
(……今日だ)
十四歳の初陣の朝。
眠っている間にも、その現実は波のように胸に押し寄せてきては引き、また押し寄せた。
不安も、高揚も、恐れも、同じ重さで胸の中にあった。
寝台の脇には、昨晩用意を整えておいた鎧一式が整えられている。
槍の柄に触れてみると、木の冷たさが掌の熱を奪い、意識を一気に醒まさせた。
ゆっくりと立ち上がり、鎧下着の上に鎖帷子を着込むと、鉄の胸当て、肩鎧を装着する。続けざまに籠手をはめ、最後に外套を羽織った。
金具が擦れるたび、乾いた音が胸の内側まで響いた。
窓を開けると、冷風が頬を撫でた。
国境の尾根の向こう――朝陽のまだ届かない薄闇の中に、微かな焚き火の赤が点々と揺れている。
(……昨夜の見張り火だ。あれはもう、戦の合図みたいなものだ)
昨日、見張り台から最終の報告が届いていた。
「グラーツ軍、小隊規模で国境沿いに陣を張っている」
静かにだが、確実に戦が近づいていた。
そして今日、彼は初めて槍を手に、その最前へ立つ。
◆
階下へ向かうと、家族がいつも通り朝食の支度をしていた。
いや、“いつも通り”に見せようとしていたのだ。
母は笑っていたが、その手元はわずかに硬い。
まだ眠いのだろう双子の妹たちは生あくびを噛み殺していたが、兄の鎧の光に気づいて、口をつぐんだ。
幼い庶弟は、事情も知らず笑って腕を伸ばす。
アルノルトは膝をつき、その小さな手を握り返した。
鎖帷子が静かにシャランと鳴った。
「帰ったら、また一緒に走ろうな」
言うと、弟は当然だろうとばかりに微笑んだ。
そんな息子の背へ、母は静かに手を添えた。
「……光のご加護を」
アルノルトは母のその祈りの重さをしっかりと受け取った。
◆
館の外で待っていた父ヘルマンは、すでに鎧を装備していた。
鍛えられた体に銀の胸甲が重く光り、肩鎧が冷たい朝日を反射させている。
「起きたな」
「はい、父上」
「怖いか?」
父は淡々と問う。
アルノルトは一瞬だけ視線を落としたが、すぐに顔を上げた。
「……はい。でも、それでも行きたいです」
ヘルマンはゆっくりとうなずいた。
「……よし、アルノルト。この戦いは小規模だ。お前の初陣にはちょうどいい」
胸が熱くなる。
恐れは確かにある。だが、それ以上のものが胸を満たしていく。
ようやく戦士として認めてもらえた。
そんな実感があった。
「はい!」
アルノルトは玄関先に立てかけられた槍を取り、柄の節、重心、握りの位置を確認する。
手汗で滑らないよう、軽く掌で拭った。
背中から父の声がかかる。
「いいか、アルノルト。今日からお前は、守られる側ではなく、“守る側”に立つ」
その一言は、魔法のようにアルノルトの背筋をひき締めた。
◆
従士が馬房から、栗毛の若馬が引いてくる。
これまで自分で調教してきた相棒だ。
緊張で硬くなっていた空気が、馬のぬくい吐息でふっと緩む。
「頼む」
鼻面を軽く叩くと、栗毛は低く嘶き返した。
「坊っちゃん。焦りなさんなよ」
曳いてきた古参兵が、栗毛の手綱を渡しながら言った。
祖父の代からラウエン家に付き従う門番の一人だ。戦となれば従士として戦場にも付き従う。
歳を重ねた兵士の、場数を踏んできた声だった。
「敵は人間でさぁ。怖がって、震えて、こっちを殺そうとする。油断すりゃ死ぬ。躊躇っても死ぬ。だけどな――」
古参兵は槍の石突きを地に押し当て、静かに続けた。
「目ぇ閉じなきゃ、生き残れる」
その言葉は、どの教本よりも真っ直ぐだった。
(目を閉じた瞬間に、終わる――)
アルノルトは深く息を吸い込み、静かにうなずく。
◆
出陣の触れにより、十を超える騎馬と、三十人の兵が館前に集まった。
蹄の震動が土を伝い、緊張した吐息が白く空に昇る。
指揮官であるヘルマンが号令をし、行軍が始まると、村人たちが家の影からそっと見送っていた。
昨日までと違う――
今日の空は、青いのに冷たかった。
(……これが、初陣の朝か)
幾筋もの小川を越え、緩やかな丘をいくつも抜ける。
鎧の重さが肩へ食い込み、馬の背の揺れが腰に溜まっていく。
――そうして六刻。冷たい風の先に国境の風景が広がった。
ツェルバハ子爵の寄騎である男爵家、士爵家で力を合わせて築いた陣地へと入った。
その陣から遠く、揺らめくように見えている黒鉄色の鎧をまとった影が数十。
グラーツの斥候部隊だ。
兵の密度は薄く、規模としては小戦闘。
しかし、初めての戦にふさわしい緊張感があった。
ヘルマンが馬上で振り返る。
「アルノルト」
「はい!」
「自分の目で見て、自分の手で生き残れ」
胸の奥がぐっと熱くなる。
「承知しました、父上!」
槍を構えた瞬間、手の震えが自分でも分かった。
恐れと同じだけ、誇りがあった。
◆
小規模とはいえ、紛れもない「戦」の匂い──
鉄の匂い、馬の汗の匂い、刃物がこすれ合う金属音。
それらが、陽に照らされながら重く漂っていた。
やがて、黒鉄色をまとったグラーツの斥候部隊がはっきりと視認できた。
彼らの足並みは乱れず、薄い土煙が陽光に揺れた。
「全軍、前へ!」
ヘルマンの号令に、出陣して編成を整えたレーヴェン側の槍列が前進する。
槍先が太陽の光を小さく跳ね返し、整然とした列が影を揺らしながら迫った。
アルノルトは後列から一歩前へ。
胸の内の鼓動が、槍を持つ指先まで震わせる。
(怖い……でも、逃げない)
互いの列の向こうには、同じ年頃の兵士の顔がちらりと見えた。
憎しみよりも恐怖と緊張が、その顔に浮かんでいる。
そして──
「突撃!」
ヘルマンの声が、原野に鋭く響き渡った。
◆
刹那、アルノルトの視界が狭まる。
前を行く兵の背中、揺れる槍先、土を蹴る馬の脚、飛び散る泥──
音も光も、戦いの奔流に溶け合った。
(来る……!)
敵兵の槍が迫る。
反射的に馬を左へ寄せ、槍先で打ち払う。
鉄と鉄がぶつかり、火花が散った。
その瞬間、真正面の敵が視界に入り──
敵は恐怖に歯を食いしばりながら突きを繰り出してきた。
アルノルトは身体をひねってそれを肩鎧で受け、馬の勢いを全身に乗せ、槍を突き出す。
鈍い手応え。
槍先が鎧の継ぎ目へ吸い込まれ、ぐらりと抵抗がほどけた。
敵兵の身体が崩れ落ちる。
草地へ倒れ込む音が、やけに遠く聞こえた。
(僕は……今、人を……)
視界の端がすっと狭まり、呼吸が詰まる。
槍に残る重さが掌へずしりと残り、指が強張る。
現実感が乏しい。
だが、戦場は立ち止まる余裕を与えなかった。
「坊っちゃん、右だぁ!!」
古参兵の叫び。
振り返ると、もう一人の敵が槍を構え、馬上のアルノルトへ刃先を向けていた。
逃げれば背中を貫かれる。
受ければ、腕が折れるかもしれない。
そしてその槍尖は、迷いもためらいもなく、まっすぐこちらへ──
太陽を受けて鈍く光りながら迫ってくるのだった。
装備品などは独自名称が生み出せず、現実世界のものを踏襲しました。




