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暁の騎士  作者: 満波ケン
第一章 幼き日々
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11.初陣前夜

第一章完。

大陸暦三〇一年、青の節。


春の冷気がまだ土の底に残り、朝霧が畑のうえを薄く流れていく頃だった。

リュナスト川の支流は雪解け水を抱え、細い青い帯となって村の背後を静かに走っている。


その朝、御料牧場の馬房の前には、いつもより多くの灯がともっていた。


「……来たか、アルノルト」


戸口で待っていた馬丁が、ほっとしたように頷く。

馬房の中では、一頭の牝馬が大きく息を吐き、汗に濡れた脇腹を波立たせていた。


「いま生まれたところだ。……ほら」


藁の湿った匂いに、汗と血の生温かい匂いが混じっていた。

馬房の隅で、桶の水が小さく揺れている。


藁の上で黒ずんだ影がもぞりと動く。

羊膜に包まれた仔馬が、ゆっくりと四肢を伸ばしていた。


アルノルトは息を呑む。

まだ体の輪郭もはっきりしない、濡れた仔馬の毛は、灯りの下で青黒く光っていた。


「……青毛、ですか」


「ああ。随分と難産だったが……父親そっくりだ。こりゃ大きくなるぞ」

馬丁がしゃがみ込み、慎重に膜を裂いてやる。冷たい空気に触れて、仔馬が苦しげに、低い嘶きとともに鼻を鳴らした。


アルノルトはいつものように、必要以上の言葉は挟まない。

その呼吸、耳の角度、蹄の動きをひとつひとつ目で追っていた。


(前脚はまっすぐだ。後ろも、折れはない。……首もよく振れている)


安心したところで、そっと手を伸ばす。

ぬるりとした感触の向こうに、確かな体温があった。


「よし……よく生まれてきましたね」


仔馬はかすかに首を上げ、まだ定まらない視線をこちらへ向ける。

何も知らない、無垢な瞳だと感じた。


馬丁らとアルノルトで、母馬の乳へと誘導してやる。


立ち上がり、最初の一歩を踏み出すまでに、少し時間がかかった。

脚がふるふると震え、藁の上ですべりかけるたび、アルノルトも一緒にひやりとする。


「膝を押さえてやれ。そうだ……ゆっくりでいい」


馬丁の声に従い、前脚の関節を支えると、仔馬はぎこちないながらも立ち上がった。

まだ世界に馴染めていない、頼りない立ち姿だ。


「いい子だ……ほら、あっちだ」


乳房の方へ鼻先を向けてやると、ほんの一瞬ためらってから、仔馬は本能に導かれるように口を伸ばす。

ちゅぷ、ちゅぷ、と頼りない音が、静かな馬房に広がった。


「見ろ、ちゃんと飲めてる」

馬丁が安堵の息を漏らす。

母馬もようやく緊張を解いたのか、疲れた呼気を吐きながら、そっと仔の首筋を舐めた。


「この牝馬の腹に入ってたのが、あの瑞穂の種馬の仔だ。……黒いあいつ」

馬丁が小声で言う。


「……あいつの、子ども……」


灯りの中で揺れる青黒い毛並みが、あの巨馬の姿と重なる。

けれど、目の前にいるのはまだ、世界に産声を上げたばかりの小さな命だ。


仔馬がふいに顔を上げ、アルノルトの指先をくん、と吸った。

びくりとしながらも、彼は苦笑する。


舐めるように確かめる柔らかな舌の感触に、胸の奥のどこか緩む。


「気に入られたな、坊主」と、馬丁が笑う。


この小さな命が、いつか誰かを乗せて戦場を駆ける日が来るのだろうか――

その未来の姿を、まだ言葉にならないまま胸の内で思い描きながら。



その日の夕暮れ。


村の男たちが畑から戻り、家々の煙突から夕餉の白い煙が立ちのぼる頃、ラウエン家の館の一室では、武具が床にずらりと並べられていた。


槍、剣、盾。

鎖帷子。革鎧の留め具。金具を留める紐。予備の柄。


ヘルマンは無駄のない動きでひとつひとつを手に取り、節くれだった指先で状態を確かめていく。


「アルノルト、槍を持て」


呼ばれ、アルノルトは壁際に立てかけてあった自分の槍を取る。

重さは、もう身体に馴染んでいる。だが今日は、いつもより少しだけ、柄が固く感じられた。


「握りを見せろ」


「はい」


両手を柄に添え、正眼に構える。

足幅、重心、肩の高さ。これまで何度も矯正されてきた“形”だ。


ヘルマンは息子の手に自分の手を重ね、親指の位置を少しだけ押し下げた。


「ここだ。節を感じるところで握れ。木目が暴れたところを掴むと、突いたときに手首を痛める」


「……ここ、ですか」


指先で、槍の柄のわずかな膨らみをなぞる。

何度も使われ、汗と油を吸った木には、人の手の癖が刻まれている。


「そうだ。柄はな、武具屋が仕上げた時より、使い込んでからの方が本当の顔を見せる。……お前の槍は、もうお前の道具になってきた」


その言葉に、アルノルトは小さく息を呑んだ。


「……父上」


ヘルマンは一度だけ静かに槍を見て、それから息子の目を見る。


「近いぞ、アルノルト。お前の初陣がな」


槍の柄の感触が、急に生々しく掌に残った。

皮の下で、脈だけが早く打つ。


部屋の空気が、すっと冷たくなったように感じた。

何度も覚悟してきたはずの言葉なのに、今夜は、まるで刃のように真っ直ぐ心臓に刺さってくる。


胸の奥が熱くなる。

それは憧れか、恐怖か、自分でも判然としない。


「……はい」


答えは短く。

それでも、声が震えないようにするだけで精一杯だった。


ヘルマンは、そのわずかな強がりを見抜いていたのかいないのか、槍を軽く叩いて言う。


「柄を確かめておけ。柄が折れたら命取りだ」


「承知しました」



その後、食卓にはいつも通りの夕餉が並んだ。


母は少し張り切ったのか、いつもより肉の量が多い。

まだ幼い双子の妹たちは、それを見て歓声を上げ、幼い庶弟はパンをむにゃむにゃと噛みながら、眠たげな目で兄を見上げている。


「アルノルト、もっとお食べ。明日から、しばらくは体を酷使することになるのだから」


母はそう言いながら、皿に肉をひと切れ多くよそった。

その声は明るく保たれていたが、手の動きには僅かな硬さがあった。


「大丈夫ですよ、母上。これだけ食べておけば、戦場でも父上に負けません」


冗談めかして言うと、ヘルマンが鼻を鳴らす。


「ほう。食う口ぶりだけは一人前だな。……いまから力比べで、本当にそうか確かめてみるか」


「いやだわ、二人とも。戦の前に怪我を増やしてどうするのよ」


母のたしなめる声に、卓に一瞬だけ笑いが返った。

だが、すぐに静けさが戻る。


ふと、双子の片方がスプーンを握ったまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「……兄さま、戦なんてやだ」


もう片方もつられて目を潤ませる。

「兄さま、行かないで……」


「あら、あなたたち」

母が慌てて抱き寄せる。

アルノルトは、一瞬だけ言葉を失った。


「大丈夫だ」

気づけば、声が出ていた。

自分でも驚くほど落ち着いた声だった。


「僕はちゃんと帰ってくる。父上もいつもそうだったでしょう。少し行って、少し戦って……また、ここで一緒にご飯を食べよう」


「……ほんと?」


「本当。約束だ」


小さな手が、卓の下からぎゅっと彼の袖をつかむ。

その温もりを感じながら、アルノルトは笑顔を作った。



夜。


館の灯が落とされ、外は静まり返っている。

窓の外には、薄い雲の切れ間から、淡い月がのぞいていた。


自室に戻ったアルノルトは、寝台の縁に腰を下ろし、しばらく掌を見つめていた。

拳を握ると、関節がきしむような感覚がある。指を開けば、微かに震えていた。


(……怖いのか、僕は)


ようやく、その言葉を心の中で形にできた。


戦場の話は、昔から聞いてきた。

父や古参の従士たちの背中には、幾筋もの傷跡が刻まれている。


血の匂い、折れた槍の感触、倒れた仲間の重さ。

酒場で笑い話として語られるそれらの光景が、今夜はやけに生々しく頭の中に甦ってくる。


(それでも……行きたいと思っている)


憧れと恐怖が、胸の中で絡み合う。

父のように強くありたい。セリーヌやコンラートとの約束を守りたい。

家族を守れる騎士(おとこ)でありたい。


だが、そのどれもが、血の匂いと引き換えにしか手に入らないのだとしたら。


アルノルトはゆっくりと立ち上がり、外套を肩に引っかけた。


(……じっとしていても、震えは止まらない)


だったら、と彼は思う。

いつも自分を落ち着かせてくれる場所へ行こう、と。


廊下に出ると、館はすでに眠りに沈んでいた。

父母の部屋の戸の前で足を止め、小さく頭を下げる。

双子と弟が眠る部屋からは、かすかな寝息が漏れていた。


きしむ床板の音をできるかぎり殺しながら階段を降り、裏口から外へ出る。

夜気が一気に肌を刺し、頬がひやりと冷えた。


村は静かだった。


遠くで梟が一声鳴き、犬の吠えがそれに返した。

闇の中の音だけが、いつもより近く感じられる。


家々の灯は落ち、遠く、国境の方角にかすかな焚き火の赤が点々と見える。

昼間セリーヌと見上げた“境目の火”だ。


アルノルトはその光から目をそらし、月明かりの下、馴染んだ道を辿って走り出した。

リュナスト川の支流を渡る小さな橋を渡り、踏みしめる土の感触で、何度も通った御料牧場への道筋を確かめる。


やがて暗がりの中に、いくつも並び立っている牧場の馬房が浮かび上がった。



馬房の中は、外よりも少し暖かかった。

藁と馬の汗と、乳の混じった匂いが、鼻腔を満たす。


「……起きてますか」


小声で呟き、朝の牝馬のところまで歩いていく。

灯は落ちているが、窓から差し込む月明かりが、かろうじて中の輪郭を照らしていた。


母馬がこちらを振り向き、低く鼻を鳴らす。

その脚元には、朝生まれたばかりの仔馬が、丸くなって眠っていた。


青黒い毛並みは、乾いて少しふわりと立ち上がり、昼間よりもずっと「馬らしい」形になっている。

寝息に合わせて、脇腹が小さく上下していた。


柵に手をかけ、そっと指先を伸ばす。

まるでその気配を感じ取ったかのように、仔馬は片目を開け、ゆっくりと顔を上げた。


「……起こしちゃいましたか」


小さく笑いながら鼻先に触れると、昼間と同じく、くん、と指を吸われる。

冷えていた指先に、小さな体温がじんわりと戻ってきた。


(戦にいくのが怖い、なんて言ったら……笑われるかな)


さっきまで胸の中で暴れていた言葉が、少しだけ遠のいていく。

この命は、まだ戦も血も知らない。

ただ、生きるために息をし、乳を飲み、眠る。


「僕も……ちゃんと、生きて帰ってこないとな」

ただ、生きるために、家族と食事をするために、眠るために。

自分に言い聞かせるように呟き、仔馬の額にそっと額を寄せた。

「お前も無事で待っていてくれよ」

青毛の間から、かすかに白い毛の筋がのぞく。いつか流星としてはっきり現れるのかもしれない。


「頼むぞ、相棒」

まだ何の名も持たない仔馬に、アルノルトはそう囁いた。

いつか馬上で共に風を切る日が来ることを、まだ誰も知らない。

けれど少年は、ほとんど無意識のうちに、その未来を信じていた。


仔馬は答えの代わりに、もう一度だけ鼻を鳴らし、また母馬の腹の方へ身を寄せて眠りに戻る。


アルノルトはしばらくその寝顔を見つめてから、静かに馬房を後にした。


夜空には、淡い月と、かすかな星の光。

国境の焚き火はまだ小さく揺れている。


明日、彼は初めて槍を手に、国境へ向かう。


少年と、一頭の仔馬。

それぞれの歩みは、ようやく同じ方向へと動き出したばかりだった。

彼らの前には、まだ知らぬ戦場と、まだ見ぬ季節と、数え切れぬ選択が待っている。


青の節の夜風が、静かに吹き抜けた。

第二章からは、一日一話ずつの掲載予定です。

これまでさんざん戦いの空気が……的なことを言っておりましたが、ようやく次回にて戦闘となります。

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