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暁の騎士  作者: 満波ケン
第一章 幼き日々
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10.戦の影

若者は成長がはやいですね。

10.戦の影


大陸暦三〇〇年、白の節。


白い雲が低く垂れこめ、空気にひんやりとした気配が混じり始めた頃だった。

ラウエンが代官を務める開拓村と、その周囲の村々では、穂刈りも脱穀もほぼ終わり、畑には切り株だけが残っている。


本来なら、白の節は、収穫の名残と冬支度の静けさを味わう季節だ。

だが、その静けさの奥に――今年は、妙なざわつきがあった。


「境目の方で、馬の足跡が増えてるらしいぞ」

「街道で、武装した連中を見たって商人が言ってた」

「男爵様からも、『巡回を増やせ』とのお達しが来てるそうだ」


畑の片づけをしていた男たちの間で、そんな会話が交わされる。


霜気(そうき)を含んだ土は硬く、鍬の刃が当たるたび、鈍い音を返した。

刈り株を踏む足裏から、冷えがじわりと染み上がってくる。

男たちは手を動かしながら、空を見上げることなく言葉を交わしていたが、指先の動きだけは、どこか落ち着かなかった。


笑い話のように言ってはいるが、その笑いはどこかこわばっていた。


その年アルノルトは十三歳になっていた。

代官家の倉へ向かう穀袋を積んだ荷車を、使用人とともに押しながら、彼はそれを耳の端で聞いていた。


去年までなら、こうした話は遠い世界の噂に過ぎなかった。

だが今は、国境の尾根にかかる雲の重たさと結びついて、喉にじわりと沈んでくる。



白の節の半ば、村に、王都帰りの商人がやって来た。


荷車の車輪は、朝露を含んだ土をぬめらせながら軋んだ音を立てる。

馬の吐く息は白く、外套の隙間から入り込む風に、商人は肩をすくめた。

村人たちは半円を描くように集まり、布を解く音に、自然と足を止めていた。


荷車には布でくるまれた箱がいくつも積まれ、村人たちは珍しげに覗き込む。


「これが華夏から来た紙だ。ほら、この白さ、見たことがあるかい?」


商人が一枚を広げると、村で使われている粗い紙とは明らかに違っていた。

薄く、それでいてしなやか。光祖教の書物に使われる上等紙にも似ているが、それともまた違う。


「王都じゃ、この紙で帳簿をつけるところが増えてるそうだ。数字が見やすいんだとよ」

「書き損じたらどうするんだ、もったいねえ」

農夫たちが口々に言う。


別の箱には、小さな陶器の壺が並んでいた。

蓋を開けると、薬草の匂いと、粉薬のかすかな刺激臭が鼻をつく。


「この膏薬は、傷口の膿を抑える。こっちは熱を下げる粉だ。兵隊がこれを欲しがってな。傷病の兵が寝込む時間が短くなるって話だ」


「戦が増えるから、薬も増えるってわけか」

誰かがぼそりと呟き、周囲が一瞬黙り込む。


アルノルトは、壺の中の粉をじっと見つめていた。

その白さは、さっきの紙とは別の意味で冷たく見える。


(これがあれば……戦場で助かる人も多くなるのか)


そう思う一方で、商人の「戦が増える」という言葉が耳に残った。

便利になることと、争いが多くなることが、同じ口で語られている。


「父上、あれ……本当にそんなに効くんでしょうか」


その夜、ヘルマンが外套を脱いでいるところに声をかける。


「……効くだろうさ。東の薬は侮れん」

「だったら、兵は助かりますね」


アルノルトの言葉に、ヘルマンはふっと目を細める。

「助かる兵も増える。だが、そのぶん戦を続けられる時間も伸びる。便利なものが出てくれば、そいつを当てにする奴も出てくるさ」


語調は淡々としていたが、その奥にうっすらとした警戒があった。



変わったのは薬だけではない。


「グラーツ北部の砦で、新型の投槍器が配備されたらしいぞ」

「向こうでは徴兵が増えてるって話だ。冬を越す前から集めてるとか」

「国王が、新しい騎士団長を任じたって噂も聞いたぞ」


旅の商人や、ツェルバハ領から来た役人が、焚き火のそばでそんな話をする。


古参の従士や騎士たちは、そのたび眉をひそめた。

「また国境が騒がしくなるぞ……」


その言葉が、アルノルトの耳に妙な響きをもって届く。

胸のどこかが、ぞくりと震えた。


(……戦が、本当に来るのか)


怖さもある。

だが同時に、父たちがくぐり抜けてきた世界に、自分も足を踏み入れる日が近づいているのかもしれない、という期待にも似た感情が、確かにあった。


セリーヌは、違う顔をしていた。

同じ噂話を聞いても、青い瞳には不安の色が濃く宿る。


「……みんな、簡単に“戦になる”って言うけれど、本当になったらどうするつもりなのかしら」

「守るのですよ。国境を、村を」

「そうね。分かってるけど……やっぱり、怖いわ」


風が冷たくなり、彼女の銀髪を揺らした。


乾いた藁の匂いと、どこか遠くの焚き火の煙が、風に混じって流れてくる。

村はいつも通りのはずなのに、見張り台の影だけが、やけに長く地面に伸びていた。

その影を、セリーヌは無意識のうちに踏まないよう、少しだけ歩幅を詰めていた。



白の節の後半、ツェルバハ子爵領から急ぎの伝令が来た。

ヘルマンは館の応接間で、その文書を受け取り、黙って目を走らせる。


「どうしたんですか、父上」

アルノルトが尋ねると、父は短く答えた。

「国境付近で、斥候同士の小競り合いがあったそうだ。死者は出ていないが、相手は明らかに訓練された動きだった、とある」


「……グラーツですか」

「ああ、ほぼ間違いないだろう」


ヘルマンは文書をたたみ、机に置く。

その横顔には、怒りでも怯えでもない、長年の兵としての諦観が浮かんでいた。


「……いずれ、その時は来る」

ぽつりと落とされたその一言が、館の空気を変えた。


アルノルトは胸の奥がざわつくのを感じる。

恐れよりも、ようやく自分の番が来るかもしれない、という、まだ幼い憧れの方が勝っていた。


(でも今の僕じゃ、戦場どころか、父上の背中にも追いつけない)

その自覚が、憧れに薄い苦さを混ぜる。


一方、セリーヌは、父エーベルハルトの口から同じ報せを聞き、拳を握りしめていた。

「斥候同士の小競り合い、ですって……?」

「まだ本格的な衝突ではない。だが、境目の緊張は確かに高まっている」

エーベルハルト男爵の声は落ち着いていたが、その左手は無意識に椅子の肘掛けを握りしめていた。


(いつか、本当に戦になる。その時、私は――)


胸の奥に、冷たい石がひとつ落ちたような感覚が残る。



それからのセリーヌは、以前にも増してラウエン家へ通うようになった。


「ねえ……アルノ。時間があればでいいのだけれど、今日も稽古、つけてくれない?」


庭の稽古場に現れる顔は、いつも通り元気そうで、いつも通り負けん気に満ちている。

けれど、青い瞳の奥には、揺れる影があった。


二人は木剣を交え、盾を構え、何度も打ち合いを繰り返す。

セリーヌは小柄な身体で素早く動き、アルノルトは力と間合いでそれを受け止める。


カンッ、カンッ――。


乾いた音が、村の広場にまで届く。

いつの間にか、井戸端で水を汲んでいた女たちや、荷を担いだ農夫たちが足を止めて見入るようになっていた。


「領主家のお嬢様、ほんとに騎士様みたいだな」

「ラウエンの坊主も、もう大人顔負けの動きじゃないか」

「二人とも、いずれ前線に出るようになるんだろうな……」


どこか誇らしげで、どこか不安げな視線が、二人の上にそっと降り注ぐ。


稽古を終え、セリーヌが草の上に腰を下ろすと、息は荒く、額には汗がにじんでいた。


「はぁ……今日も勝てなかったわ」

「でも、さっきの踏み込みは良かったです。僕の盾を押し返しました」

「……そう?」


そう言いながらも、彼女の表情には笑みと不安が入り混じる。


(間に合うかしら。もし、本当に戦になったら……)


胸の内で、誰にも言えない問いが何度も反芻されていた。



そんな中でも、予定通り進むこともある。


ツェルバハ子爵家の三男、コンラートの王都行きの話も、そのひとつだった。

どれほど国境がきな臭くなっても、貴族の男子は一定の年齢になれば王都の貴族学校へ送られる。


旅立ちの日の朝、寄子であるラウエン家とエーベルハルト家の人々が村はずれに集まった。

コンラートは新調した外套に身を包み、少しだけきつそうに襟を引き締めている。

「じゃあ……行ってくる」


以前より背が伸び、顔つきもわずかに大人びていた。

馬上の姿は、まだどこか危なっかしいが、それでも昔のように落ちそうになることはない。


「絶対に帰って来てください。僕たち、まだ一緒に訓練しないといけませんから」

アルノルトが言うと、コンラートは笑って肩をすくめた。


「おいおい、置いて行かれるのはそっちかもしれないぞ?王都で騎士の稽古を重ねて、すぐ追い抜いてやるさ」

「でしたら、次にお会いするまでに、僕ももっと強くなっておかないといけないですね」


セリーヌも、少し唇を尖らせながら口を挟む。

「気をつけてください。王都は田舎より危ないって聞きますから。……変な遊びを覚えて帰ってきたら、わたしが叱ってさしあげます」


「はは、怖いこと言うなよ、セリーヌ嬢。二人とも、そのまま元気でいろよ。戻ったら、また三人で牧場を駆け回ろうぜ」

コンラートは二人の肩を軽く叩き、手綱を鳴らす。

その背中が、秋の空の下を小さくなっていく。


セリーヌがぽつりと言う。

「……行っちゃったわね」

「はい」


アルノルトはうなずきながら、胸の奥が少しだけ空洞になったような感覚を覚えていた。

強くなりたいという思いと、置いて行かれまいとする焦りと、友の不在の寂しさが、ひとつの塊になって胸の奥に残る。



やがて、ラウエン士爵家、エーベルハルト男爵家から二つの村の家々に通達が出た。


「冬明けに備え、予備兵の名簿を作成する。対象となる年の男は、家ごとに申告せよ」


紙を読み上げる平騎士の声は淡々としているが、その場にいた若い男たちの背筋は自然と伸びた。


名簿の紙が風に煽られ、かさりと乾いた音を立てた。

墨の匂いがわずかに漂い、若い男のひとりが、無意識に喉を鳴らす。

その音は小さかったが、静まり返った輪の中では、やけに大きく響いた。


何人かは、無意識に腕()している。


「三度目の戦が本当に来るのかねぇ」

「今度こそは、うちの番かもしれん」

「ヘルマン殿は、どう見てるんだろうな……」


そんな囁きが、名簿の紙の周りをくるくると回る。


一方で、武具屋の屋台はにわかに忙しくなった。

木剣、革鎧、矢羽、簡易な盾――

普段なら青の節の訓練前にしか売れない品々が、この白の節に次々と買われていく。


子供たちは目を輝かせて木剣を振り回し、大人たちは財布の重みと家族の顔を思い浮かべて、無言で革鎧を手に取る。


戦の影は、まだ遠いはずなのに、村のあちこちに形を変えて顔を出していた。



ある夜、雲がよく晴れた。

国境の尾根が、いつもよりはっきりと見える。


「見て、アルノ。……あれ」


ラウエン家での稽古後、セリーヌを送る途上。

セリーヌが指さした先、暗い山並みの上に、朱い点がいくつか揺れていた。

焚き火だ。

距離が遠すぎて、火を囲む者たちの姿はまったく見えない。


「毎晩ついてるのよ、あの火。父も、『あれは境目の見張りだろう』って」

「僕たちの国も……きっと、ああやって見張られてるんでしょうね」

アルノルトは静かに答える。


自分たちの知らないところで、自分たちの国と誰かの国が、互いを睨み合っている。

その事実が、夜風と共に肌の下へ染み込んでくる。


二人の息は白く、小さな雲となって夜空に溶けた。



数日後の夕暮れ。

木剣の稽古を終えたあと、アルノルトは父ヘルマンのもとへ歩み寄った。

父はいつものように、使い終えた木剣の刃を撫で、欠けがないか確かめている。


「父上」

「なんだ」


アルノルトは、言う前に一度息を飲み込んだ。

胸の中で何度も反芻してきた問いだった。


「もし……本当に戦が来たら、僕はどうすればいいんでしょうか」


ヘルマンはすぐには答えなかった。

磨いていた刃先から目を離し、夕焼けに染まり始めた空を一度だけ見上げる。


「……その時が来れば分かる」


それは突き放す言葉ではなく、軽い慰めでもなかった。

ただ、長い年月をくぐり抜けてきた者の、正直な答えだった。


「だが、ひとつだけ覚えておけ」

ヘルマンは木剣を横に置き、息子の目を見る。


「強くなるより先に、守るべきものを知れ」


アルノルトは無言で頷いた。

胸にはまだ、戦への憧れがくすぶり続けている。

それでも、その火の形は少しずつ変わり始めていた。


家族を守るとはどういうことか。

村を守るとはどういうことか。

セリーヌやコンラートとの約束を守るとは、どういうことなのか。


答えはまだ見えない。

だが、問いだけは確かに心に刻まれた。


白の節の空は厚い雲に覆われ、国境の山並みは静かに沈んでいく。

少女は不安を抱え、少年は憧れと揺らぎの狭間で立ち止まり、大人たちは黙って武器を整え始めていた。


戦の影は、まだ輪郭のあいまいなまま――

しかし確かに、この小さな村の上にも落ち始めていた。

コンラートくんは美形ですので、男子校である貴族学校でもモテモテだろうな。

ちなみに「貴族学校」という存在も、この作品のファンタジー要素です。

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