10.戦の影
若者は成長がはやいですね。
10.戦の影
大陸暦三〇〇年、白の節。
白い雲が低く垂れこめ、空気にひんやりとした気配が混じり始めた頃だった。
ラウエンが代官を務める開拓村と、その周囲の村々では、穂刈りも脱穀もほぼ終わり、畑には切り株だけが残っている。
本来なら、白の節は、収穫の名残と冬支度の静けさを味わう季節だ。
だが、その静けさの奥に――今年は、妙なざわつきがあった。
「境目の方で、馬の足跡が増えてるらしいぞ」
「街道で、武装した連中を見たって商人が言ってた」
「男爵様からも、『巡回を増やせ』とのお達しが来てるそうだ」
畑の片づけをしていた男たちの間で、そんな会話が交わされる。
霜気を含んだ土は硬く、鍬の刃が当たるたび、鈍い音を返した。
刈り株を踏む足裏から、冷えがじわりと染み上がってくる。
男たちは手を動かしながら、空を見上げることなく言葉を交わしていたが、指先の動きだけは、どこか落ち着かなかった。
笑い話のように言ってはいるが、その笑いはどこかこわばっていた。
その年アルノルトは十三歳になっていた。
代官家の倉へ向かう穀袋を積んだ荷車を、使用人とともに押しながら、彼はそれを耳の端で聞いていた。
去年までなら、こうした話は遠い世界の噂に過ぎなかった。
だが今は、国境の尾根にかかる雲の重たさと結びついて、喉にじわりと沈んでくる。
◆
白の節の半ば、村に、王都帰りの商人がやって来た。
荷車の車輪は、朝露を含んだ土をぬめらせながら軋んだ音を立てる。
馬の吐く息は白く、外套の隙間から入り込む風に、商人は肩をすくめた。
村人たちは半円を描くように集まり、布を解く音に、自然と足を止めていた。
荷車には布でくるまれた箱がいくつも積まれ、村人たちは珍しげに覗き込む。
「これが華夏から来た紙だ。ほら、この白さ、見たことがあるかい?」
商人が一枚を広げると、村で使われている粗い紙とは明らかに違っていた。
薄く、それでいてしなやか。光祖教の書物に使われる上等紙にも似ているが、それともまた違う。
「王都じゃ、この紙で帳簿をつけるところが増えてるそうだ。数字が見やすいんだとよ」
「書き損じたらどうするんだ、もったいねえ」
農夫たちが口々に言う。
別の箱には、小さな陶器の壺が並んでいた。
蓋を開けると、薬草の匂いと、粉薬のかすかな刺激臭が鼻をつく。
「この膏薬は、傷口の膿を抑える。こっちは熱を下げる粉だ。兵隊がこれを欲しがってな。傷病の兵が寝込む時間が短くなるって話だ」
「戦が増えるから、薬も増えるってわけか」
誰かがぼそりと呟き、周囲が一瞬黙り込む。
アルノルトは、壺の中の粉をじっと見つめていた。
その白さは、さっきの紙とは別の意味で冷たく見える。
(これがあれば……戦場で助かる人も多くなるのか)
そう思う一方で、商人の「戦が増える」という言葉が耳に残った。
便利になることと、争いが多くなることが、同じ口で語られている。
「父上、あれ……本当にそんなに効くんでしょうか」
その夜、ヘルマンが外套を脱いでいるところに声をかける。
「……効くだろうさ。東の薬は侮れん」
「だったら、兵は助かりますね」
アルノルトの言葉に、ヘルマンはふっと目を細める。
「助かる兵も増える。だが、そのぶん戦を続けられる時間も伸びる。便利なものが出てくれば、そいつを当てにする奴も出てくるさ」
語調は淡々としていたが、その奥にうっすらとした警戒があった。
◆
変わったのは薬だけではない。
「グラーツ北部の砦で、新型の投槍器が配備されたらしいぞ」
「向こうでは徴兵が増えてるって話だ。冬を越す前から集めてるとか」
「国王が、新しい騎士団長を任じたって噂も聞いたぞ」
旅の商人や、ツェルバハ領から来た役人が、焚き火のそばでそんな話をする。
古参の従士や騎士たちは、そのたび眉をひそめた。
「また国境が騒がしくなるぞ……」
その言葉が、アルノルトの耳に妙な響きをもって届く。
胸のどこかが、ぞくりと震えた。
(……戦が、本当に来るのか)
怖さもある。
だが同時に、父たちがくぐり抜けてきた世界に、自分も足を踏み入れる日が近づいているのかもしれない、という期待にも似た感情が、確かにあった。
セリーヌは、違う顔をしていた。
同じ噂話を聞いても、青い瞳には不安の色が濃く宿る。
「……みんな、簡単に“戦になる”って言うけれど、本当になったらどうするつもりなのかしら」
「守るのですよ。国境を、村を」
「そうね。分かってるけど……やっぱり、怖いわ」
風が冷たくなり、彼女の銀髪を揺らした。
乾いた藁の匂いと、どこか遠くの焚き火の煙が、風に混じって流れてくる。
村はいつも通りのはずなのに、見張り台の影だけが、やけに長く地面に伸びていた。
その影を、セリーヌは無意識のうちに踏まないよう、少しだけ歩幅を詰めていた。
◆
白の節の後半、ツェルバハ子爵領から急ぎの伝令が来た。
ヘルマンは館の応接間で、その文書を受け取り、黙って目を走らせる。
「どうしたんですか、父上」
アルノルトが尋ねると、父は短く答えた。
「国境付近で、斥候同士の小競り合いがあったそうだ。死者は出ていないが、相手は明らかに訓練された動きだった、とある」
「……グラーツですか」
「ああ、ほぼ間違いないだろう」
ヘルマンは文書をたたみ、机に置く。
その横顔には、怒りでも怯えでもない、長年の兵としての諦観が浮かんでいた。
「……いずれ、その時は来る」
ぽつりと落とされたその一言が、館の空気を変えた。
アルノルトは胸の奥がざわつくのを感じる。
恐れよりも、ようやく自分の番が来るかもしれない、という、まだ幼い憧れの方が勝っていた。
(でも今の僕じゃ、戦場どころか、父上の背中にも追いつけない)
その自覚が、憧れに薄い苦さを混ぜる。
一方、セリーヌは、父エーベルハルトの口から同じ報せを聞き、拳を握りしめていた。
「斥候同士の小競り合い、ですって……?」
「まだ本格的な衝突ではない。だが、境目の緊張は確かに高まっている」
エーベルハルト男爵の声は落ち着いていたが、その左手は無意識に椅子の肘掛けを握りしめていた。
(いつか、本当に戦になる。その時、私は――)
胸の奥に、冷たい石がひとつ落ちたような感覚が残る。
◆
それからのセリーヌは、以前にも増してラウエン家へ通うようになった。
「ねえ……アルノ。時間があればでいいのだけれど、今日も稽古、つけてくれない?」
庭の稽古場に現れる顔は、いつも通り元気そうで、いつも通り負けん気に満ちている。
けれど、青い瞳の奥には、揺れる影があった。
二人は木剣を交え、盾を構え、何度も打ち合いを繰り返す。
セリーヌは小柄な身体で素早く動き、アルノルトは力と間合いでそれを受け止める。
カンッ、カンッ――。
乾いた音が、村の広場にまで届く。
いつの間にか、井戸端で水を汲んでいた女たちや、荷を担いだ農夫たちが足を止めて見入るようになっていた。
「領主家のお嬢様、ほんとに騎士様みたいだな」
「ラウエンの坊主も、もう大人顔負けの動きじゃないか」
「二人とも、いずれ前線に出るようになるんだろうな……」
どこか誇らしげで、どこか不安げな視線が、二人の上にそっと降り注ぐ。
稽古を終え、セリーヌが草の上に腰を下ろすと、息は荒く、額には汗がにじんでいた。
「はぁ……今日も勝てなかったわ」
「でも、さっきの踏み込みは良かったです。僕の盾を押し返しました」
「……そう?」
そう言いながらも、彼女の表情には笑みと不安が入り混じる。
(間に合うかしら。もし、本当に戦になったら……)
胸の内で、誰にも言えない問いが何度も反芻されていた。
◆
そんな中でも、予定通り進むこともある。
ツェルバハ子爵家の三男、コンラートの王都行きの話も、そのひとつだった。
どれほど国境がきな臭くなっても、貴族の男子は一定の年齢になれば王都の貴族学校へ送られる。
旅立ちの日の朝、寄子であるラウエン家とエーベルハルト家の人々が村はずれに集まった。
コンラートは新調した外套に身を包み、少しだけきつそうに襟を引き締めている。
「じゃあ……行ってくる」
以前より背が伸び、顔つきもわずかに大人びていた。
馬上の姿は、まだどこか危なっかしいが、それでも昔のように落ちそうになることはない。
「絶対に帰って来てください。僕たち、まだ一緒に訓練しないといけませんから」
アルノルトが言うと、コンラートは笑って肩をすくめた。
「おいおい、置いて行かれるのはそっちかもしれないぞ?王都で騎士の稽古を重ねて、すぐ追い抜いてやるさ」
「でしたら、次にお会いするまでに、僕ももっと強くなっておかないといけないですね」
セリーヌも、少し唇を尖らせながら口を挟む。
「気をつけてください。王都は田舎より危ないって聞きますから。……変な遊びを覚えて帰ってきたら、わたしが叱ってさしあげます」
「はは、怖いこと言うなよ、セリーヌ嬢。二人とも、そのまま元気でいろよ。戻ったら、また三人で牧場を駆け回ろうぜ」
コンラートは二人の肩を軽く叩き、手綱を鳴らす。
その背中が、秋の空の下を小さくなっていく。
セリーヌがぽつりと言う。
「……行っちゃったわね」
「はい」
アルノルトはうなずきながら、胸の奥が少しだけ空洞になったような感覚を覚えていた。
強くなりたいという思いと、置いて行かれまいとする焦りと、友の不在の寂しさが、ひとつの塊になって胸の奥に残る。
◆
やがて、ラウエン士爵家、エーベルハルト男爵家から二つの村の家々に通達が出た。
「冬明けに備え、予備兵の名簿を作成する。対象となる年の男は、家ごとに申告せよ」
紙を読み上げる平騎士の声は淡々としているが、その場にいた若い男たちの背筋は自然と伸びた。
名簿の紙が風に煽られ、かさりと乾いた音を立てた。
墨の匂いがわずかに漂い、若い男のひとりが、無意識に喉を鳴らす。
その音は小さかったが、静まり返った輪の中では、やけに大きく響いた。
何人かは、無意識に腕撫している。
「三度目の戦が本当に来るのかねぇ」
「今度こそは、うちの番かもしれん」
「ヘルマン殿は、どう見てるんだろうな……」
そんな囁きが、名簿の紙の周りをくるくると回る。
一方で、武具屋の屋台はにわかに忙しくなった。
木剣、革鎧、矢羽、簡易な盾――
普段なら青の節の訓練前にしか売れない品々が、この白の節に次々と買われていく。
子供たちは目を輝かせて木剣を振り回し、大人たちは財布の重みと家族の顔を思い浮かべて、無言で革鎧を手に取る。
戦の影は、まだ遠いはずなのに、村のあちこちに形を変えて顔を出していた。
◆
ある夜、雲がよく晴れた。
国境の尾根が、いつもよりはっきりと見える。
「見て、アルノ。……あれ」
ラウエン家での稽古後、セリーヌを送る途上。
セリーヌが指さした先、暗い山並みの上に、朱い点がいくつか揺れていた。
焚き火だ。
距離が遠すぎて、火を囲む者たちの姿はまったく見えない。
「毎晩ついてるのよ、あの火。父も、『あれは境目の見張りだろう』って」
「僕たちの国も……きっと、ああやって見張られてるんでしょうね」
アルノルトは静かに答える。
自分たちの知らないところで、自分たちの国と誰かの国が、互いを睨み合っている。
その事実が、夜風と共に肌の下へ染み込んでくる。
二人の息は白く、小さな雲となって夜空に溶けた。
◆
数日後の夕暮れ。
木剣の稽古を終えたあと、アルノルトは父ヘルマンのもとへ歩み寄った。
父はいつものように、使い終えた木剣の刃を撫で、欠けがないか確かめている。
「父上」
「なんだ」
アルノルトは、言う前に一度息を飲み込んだ。
胸の中で何度も反芻してきた問いだった。
「もし……本当に戦が来たら、僕はどうすればいいんでしょうか」
ヘルマンはすぐには答えなかった。
磨いていた刃先から目を離し、夕焼けに染まり始めた空を一度だけ見上げる。
「……その時が来れば分かる」
それは突き放す言葉ではなく、軽い慰めでもなかった。
ただ、長い年月をくぐり抜けてきた者の、正直な答えだった。
「だが、ひとつだけ覚えておけ」
ヘルマンは木剣を横に置き、息子の目を見る。
「強くなるより先に、守るべきものを知れ」
アルノルトは無言で頷いた。
胸にはまだ、戦への憧れがくすぶり続けている。
それでも、その火の形は少しずつ変わり始めていた。
家族を守るとはどういうことか。
村を守るとはどういうことか。
セリーヌやコンラートとの約束を守るとは、どういうことなのか。
答えはまだ見えない。
だが、問いだけは確かに心に刻まれた。
白の節の空は厚い雲に覆われ、国境の山並みは静かに沈んでいく。
少女は不安を抱え、少年は憧れと揺らぎの狭間で立ち止まり、大人たちは黙って武器を整え始めていた。
戦の影は、まだ輪郭のあいまいなまま――
しかし確かに、この小さな村の上にも落ち始めていた。
コンラートくんは美形ですので、男子校である貴族学校でもモテモテだろうな。
ちなみに「貴族学校」という存在も、この作品のファンタジー要素です。




