01.国境の村の朝
第一章は11話構成です。
大陸暦二九六年、青の節 成長の月。
一巡り目の《星の曜》の朝──。
レーヴェン王国北西部、ツェルバハ子爵領のはずれに、小さな開拓村があった。
険しい尾根と針葉樹の森が国境線を形づくり、その向こうは緩衝地帯をはさんで、幾度も槍を交えたグラーツ王国である。
夜の名残をとどめた白い霧が、畑と草地をうっすらと覆っていた。
黒風の月の頃に芽吹いた麦は、いまや膝ほどの高さに伸び、露を含んで鈍く光っている。
村の背後を流れる細いリュナスト川の支流からは、水の音とともに冷たい空気が上がってきて、家々の軒先に並ぶ木桶の水面を、わずかに震わせていた。
村の中央に通る土の道は、まだ人の足跡も車輪の跡もなく、昨夜の雨を吸った黒土が静かに湿っている。
そこに、鶏の鳴き声と牛の呻き、遠くで鳴る羊の鈴の音が、ひとつ、またひとつ重なっていった。
村外れの小高い丘の上。
そこに、木組みと石積みで造られた館が一軒、どっしりと腰を据えている。
ラウエン家の館──
この村と周辺の開拓地を預かる、士爵ヘルマン・ツァ・ラウエンの住まいだ。
◆
「ほら、そこはもう少し深く掘れ。根が張れんぞ!」
低く通る声が、ひんやりとした空気を震わせた。
畑の端では、鎧ではなく粗い麻の上着に袖を通したヘルマンが、鍬を担いで立っていた。
暗い金髪は短く刈り揃えられ、頬には古い傷跡が一本走っている。
年は三十一。王国騎士として数度の戦をくぐり抜けた男の身体は、鎧を脱いだ姿でもなお、筋肉という鎧に覆われていた。
「へ、ヘルマンさま、こっちはこんなもんで……」
「そこは良い。あとは土を返すときに石を拾っておけ。秋に鋤くとき楽になる」
村人たちと同じ畑に列を並べ、ヘルマンは当たり前のように汗を流していた。
代官といえば館に座って命じるだけの領主も多い中で、この男は違う。
戦がない時期は、こうして土を触り、種をまき、収穫の具合を自分の目で確かめるのだ。
いまは新しい農地を広げることに余念がない。
「父上!」
畑の端の道から、少年の声が飛んできた。
ヘルマンが顔を上げると、丘の上の館から駆け下りてくる影がひとつ。
まだあどけなさを残した九つの少年だったが、その足取りは軽く、無駄がない。
アルノルト・ツァ・ラウエン。
この家の嫡男である。
暗い金髪は父よりすこしだけ明るく、朝日に照らされて青みを帯びている。
伸び盛りの身体はまだ細いが、手首やふくらはぎには、鍛えられた子供特有の硬さが宿っていた。
「もう起きたか、アルノルト。今日は星の曜だぞ。子供は少しぐらい寝坊しても――」
「馬小屋の掃除は星の曜でも待ってくれませんから」
息を弾ませながらも、アルノルトは笑ってみせる。
足元には、やはり朝一番で動き出したらしい犬が一匹、尻尾を振って付き従っていた。
「母さんたちは?」
「庶弟の世話で忙しそうでした。双子も、いまは食卓でパンを取り合っています」
彼はそう言って肩を竦める。
館の中の光景が目に浮かぶようだった。
◆
少し時間を巻き戻すなら──
日の出から間もないラウエン家の館は、戦場とは別種の喧噪に満ちていた。
台所では、湯気を立てる大鍋から麦粥の香りが漂い、焼きかけの黒パンが窯の口でこんがりと色づき始めている。
「兄さま、起きた?起きた?」
「まだよ、ほら、パン冷めちゃうから座ってなさいってば!」
館の広間では、皿を並べる母の手を、三つ編みの小さな手が引っ張っていた。
アルノルトの妹──双子の姉妹は、まだ三つ。
くりくりとした瞳を輝かせて、兄の起床を待つ。
揃いの麻のつなぎを着て、片方は右側、もう片方は左側で髪を結っている。
名前を呼ばずとも、結び目を見るだけでどちらか判別できるようにするためだ。
揺り籠の中では、まだ言葉も覚えぬ庶弟が、むずかるでもなく、ただ時折、あくびをして眠りなおしている。
側室である第二夫人は、そっとその額に布を当て、
正妻──アルノルトの生母は、広間と台所を行ったり来たりしながら使用人らと朝食の準備に追われていた。
「あなた、朝から畑に出るなら、せめて一杯くらいは口にしていってくださいましよ」
「おう、戻ったら食う。領民を動かす前に、まず自分が動かんとな」
そんなやり取りが交わされるたび、ぐつぐつと煮える鍋の音と、子供たちの甲高い声が重なり、館はひとつの大きな生き物のように息づいていた。
◆
「で、馬小屋はどうだった」
畑の土を軽く払いつつ、ヘルマンが尋ねる。
「みんな元気です。ザーヴェル辺境伯から預かっているやつは、相変わらず気難しいですけど」
「はは、あの黒鹿毛か。あれは貴族より気分屋だからな」
二人は顔を見合わせて笑った。
土と草の匂いが混じる朝の風の中で、二人の声だけが畝の間に残っていた。
アルノルトは、ここ数年、館付きの馬丁や村の農夫たちのあいだで、ちょっとした評判になりつつあった。
子供のころから馬に親しみ、厩で世話を手伝ううちに、自然と「騎士様んとこの坊っちゃんは、馬の機嫌がよく分かる」と冗談まじりに言われるようになっている。
「昨日も、厩のハインリヒが言ってました」
アルノルトは思い出したように続けた。
「『馬がどこを嫌がってるか、よう見とる』って」
「……そうか」
ヘルマンは短く相槌を打ちながらも、目の端に誇らしさを宿した。
自分の腕前が誉められるよりも、息子の才能を褒められる方が、胸に響く年頃になっている。
「その眼が本物ならな……いつかツェルバハ様の御料牧場でも、きっと役に立つぞ」
「本当に、連れていってくれますか」
「お前がもう少し大きくなってからだ。あそこは遊び場じゃない」
アルノルトは、その言葉を胸の中でそっと繰り返した。
まだ見ぬ御料牧場の姿を、想像だけで思い描きながら。
◆
「父上。第二次国境戦争のときも、この村から出陣したんですか?」
アルノルトは何気なく尋ねた。
「ああ。あの時は入植間もなくだったからもっと荒れていたがな」
ヘルマンは遠く、国境の尾根を眺める。
朝霧の向こうの尾根が、揺れたように見えた。
「向こう側の連中も、向こうの畑や家族を守るために槍を持っていた。……それでも斬り合わにゃならんのが、戦だ」
その声には、誇りと、どこか拭いきれぬ苦さが混じっている。
アルノルトは、父の横顔をじっと見つめた。
九歳の少年には、戦の是非も政治の理屈も分からない。
ただ、帰ってきた父の鎧にこびりついた血と傷だけは、当時の幼い心にも強く焼き付いていた。
「父上は……怖くなかったんですか」
ぽつりと漏れた問いに、ヘルマンは少しだけ目を細める。
「怖くないわけがない。だが、怖いと思えるうちはまだいい。恐れを忘れた者こそ、戦場では早死にする」
「……」
「お前もいずれ、戦場に立つだろう。そのときは、怖さをごまかすな。怖さを抱えたまま、一歩を踏み出せる者だけが生き残る」
言葉は厳しいが、声色は穏やかだった。
アルノルトは、小さく拳を握る。
まだ小さなその手は、父の太い指には到底及ばない。
だが、いつか並びたいと、心のどこかで強く願っていた。
◆
畑仕事を一段落させたヘルマンは、鍬を土に突き立て、腰を伸ばした。
「そろそろ戻るか。星の曜のうちに、武具の点検もしておきたい」
「はい」
二人が丘の上の館へ戻る道すがら、
村の女たちは洗濯物を干し、子供たちは棒切れで騎士ごっこに興じていた。
「兄さまー!」
「兄さま、見て!わたし、馬のまね!」
畦道の向こうから、双子の妹が駆けてくる。
二人とも短い足で懸命に走り、片方は右のリボンを揺らし、もう片方は左のリボンを跳ねさせていた。
「こら、転ぶぞ」
アルノルトが苦笑しつつ手を広げると、双子は順番も守らず胸に飛び込んでくる。
父ヘルマンのたくましい腕とは違う、まだ頼りないが、確かな温もりのある腕の中へ。
その様子を、少し離れたところで母が見守っていた。
胸に手を当て、安堵と不安を入り交じらせた眼差しで。
遠い国境の尾根の向こうでは、新たな戦の気配が、かすかな風となって流れ始めている。
国境の見張り台では、いつもより早く旗が張り替えられていた。
だが、この朝。
ラウエンの小さな村に広がるのは、まだ、土と汗と笑い声に満ちた、穏やかな日常の光景だった。
ここでは作品を書くにあたって設定した内容を記載しておきます。
架空世界なのですが、なかなか現実世界の感覚から離れられず、デタラメな部分も多数存在します。
今回は暦関係です。
●暁の騎士世界での1ヶ月の日数 28日
●暁の騎士世界での1年の日数 336日
●暁の騎士世界での季節
春(3月〜5月)→青の節 あおのせつ
夏(6月〜8月)→赤の節 あかのせつ
秋(9月〜11月)→白の節 しろのせつ
冬(12月〜2月)→黒の節 くろのせつ
●暁の騎士世界での曜日 ※4回巡ると1ヶ月になります。
日→星の曜 ほしのよう
月→月の曜 つきのよう
火→炎の曜 ほのおのよう
水→水の曜 みずのよう
木→森の曜 もりのよう
金→鐘の曜 かねのよう
土→地の曜 ちのよう
●暁の騎士世界の月名
1月→リュメア
2月→フェルナ
3月→アウリス
4月→セリオン
5月→ヴァルダン
6月→ルガルス
7月→シエルナ
8月→ハルメス
9月→オルディア
10月→ネヴラ
11月→クローヴァ
12月→グレイダ




