借金のかたで結んだ婚約だったのに破棄したいと言われてしまった
「これで全額返済ですね。おめでとうございます」
テーブルを挟んで私の前に座るのはマークス様。彼はルーディン伯爵家のご令息で、黒目黒髪の見目麗しい青年だ。シワのないシャツ、整髪料できちんとセットした髪。真面目そうな外見を反映したかのように、中身も真面目な性格をしている。
そして私はエミリア・ヒース。ヒース男爵家の娘で、栗色の長い髪を持っている。真っ直ぐクセのないこの髪は、母譲りのもので私の自慢だ。
「返済まで長くかかってしまい申し訳ありません」
「いえいえ、とんでもありません。きちんと返してくださってありがとうございます。……なんだか騒がしいですね」
マークス様と応接室でお金の返済について話していたら、廊下の方がなにやら騒がしい。何事かと立ち上がるとほぼ同時、応接室の扉が勢いよく開いた。
「ニール様、お待ち下さい!」
「なぜ俺が待たないといけない」
そこにいたのは止めようとするわが家の使用人を引き連れた金髪の青年だ。
シャツのボタンが三つも空けた胸元は大きく開いていて、同じ部屋にマークス様がいることも相まって余計にだらしなく見える。
彼はニールといって、ダナク公爵家のご令息。そして、私の婚約者でもある。借金の帳消しと引き換えに私たちは婚約をしていたのだ。
しかし婚約者としてはあまりよろしくないタイプで、甘い顔立ちと家柄を武器によく女の子たちにちょっかいをかけていた。
それでも、今までは一線を守っていたのか、それとも上手く隠していたのかはわからないけど、決定的な不貞行為はしなかったのだ。
でも、それも今日までらしい。
前触れもなくやって来たニール様は腕はストロベリーブロンドの可愛らしい顔立ちの女性の肩を抱いていた。どう見ても、ただならぬ関係の距離感だ。
確か、女性の名前はアイラといったか。
子爵家のご令嬢で貴族学校では同級生だったが、男をとっかえひっかえしているという噂が後を絶たなかった。学校を卒業した今もそれは変わらないようで、同性からの評判はいまだにすこぶる悪い。
「エミリア!今日も貧乏くさい格好をしているな。このアイラを見習ったらどうだ」
「まあ、やだわ。アレス様ったら。エミリア様にそんな事を言ったらお可哀想よ」
「そうか、アイラの愛らしさを真似しろだなんて酷だったか!」
「お、面白い冗談ですこと……」
こんなに人を殴りたくなったのって初めてかもしれない。
そもそも私が貧乏くさいんじゃなくて、このアイラとかいう女が派手すぎるだけだ。
髪飾りに指輪にネックレスに腕輪、どれもこれも大粒の宝石がついたアクセサリーを身に着け、これからパーティーでも行くのかという豪華なドレスを着ている。
今日は平日で特にイベントもない。これで本当にパーティーがある日はどんな格好をするのか、お節介ながら心配になってしまう。
人を馬鹿にして笑う馬鹿野郎どもに青筋を立てながら、拳を握りしめる。我慢だ、我慢。先に手を出した方が悪くなってしまう。出されたら、その時にどさくさに紛れて五発くらい殴ろう。
そんな風に必死に耐えている私が痩せ我慢しているように見えたのだろう。ニール様が馬鹿にしたように笑った。よし、十発は殴ろう。
「それで、ニール様。少々無作法が過ぎるようですが、なんの御用ですか」
「お前との婚約を破棄しようと思ってな」
「は……」
私は驚いて声も出ない。思わずまとも仲間であろうマークス様の顔を見ると、彼は立ち上がって私の前に出てくれた。
「ちょっとよろしいですか」
「……なんだお前は」
「ルーディン伯爵家のマークスと申します」
邪魔するなと言わんばかりの顔でニール様は言うけど、マークス様とお話してるところに乗り込んできたお前の方が『なんだお前は』案件なんだが。これはもう二十発殴るしかない。
「こんな一方的に婚約破棄とは、いささか酷いのではありませんか。エミリア嬢の気持ちも考えてあげてください」
「ふん。慰謝料ならいくらでも払ってやる。それでいいんだろう?」
「そういうことではありません……!」
マークス様は今にも殴りかかりそうだ。一発くらい譲ってあげたい気もするけど、今はまだその時じゃない。彼を制して今度は私が前に出る。
「いいの、マークス様」
「けれど!」
「いいんです。……わかりました。ニール様、婚約破棄についての書類を作りましょう」
私は机の引き出しから紙を取り出すと、手早く婚約破棄についての書類を作る。後は彼のサインをするだけにしてニール様に渡せば、引ったくるようにして手に取ってすぐさま名前を書き入れた。
「潔いことだな。俺は心が広い、褒美に借金もチャラにしようか。他にも借金があるようだしな」
ニール様は私とマークスが交わしていた借用書を見ていたらしい。私に蔑む視線を向けてきた。でも、少しも腹は立たなかった。
「婚約破棄をして借金をチャラだなんて、とんでもないですわ」
「貧乏貴族なりにプライドはあるということか」
机に放り投げるようにして返された婚約破棄の書類を受け取って鍵付きの引き出しにしまうと、その様子を眺めていた三人に向かってワンピースの裾を広げてみせる。それを見た三人は怪訝な顔をしていた。
「さっきあなた方が貧乏くさいと言ったこの服。実はね、マダムフレイヤに作っていただいたの」
「ま、マダムフレイヤ!?」
アイラ様が声を裏返して叫ぶ。
マダムフレイヤは洋服のデザイナーだ。流行の最先端を行く彼女は王都の女性たちの憧れで、スケージュルは一年先までびっしり埋まっているという。
そんな人の作った服を普段着として使用しているのだ。アイラ様が驚かれるのは無理もないだろう。
「どうしてあんたがマダムフレイヤの服を着てるのよ!」
「どうしてって……。マダムフレイヤが王都にお店を出す際にヒース男爵家で出資していますから、お礼にって作ってくださるんです」
律儀な方ですよね。笑って言えば、ニール様とアイラ様は唖然としている。
「お、お前の家が出資だって?借金まみれのくせにおかしいだろう!」
「あら、我が家に借金はございませんわよ?マークス様とのそれは、我が家がルーディン伯爵家に融資した際のもの。ほら、数年前の大雨で伯爵領が大打撃を受けましたでしょう?その時のものです」
ヒース男爵家は家格はそこまで高くないし領地も広くはないけれど、手広く商売をしていて資産は年々増える一方。婿入りしてきた父が起こした商会で活動をしていたから、ニール様はピンときていなかったんだろう。
「借金をしているのはダナク公爵家の方です。写しですけれど、借用書をご覧になる?」
「よこせっ!」
「はい、どうぞ」
借用書を読むニール様の顔色がみるみる内に悪くなっていく。
ダナク公爵家はニール様の祖父の時代には領地で見つかった金鉱のおかげで相当羽振りがよかったみたいだけれど、金を掘り尽くしてしまった今の財政状況は火の車状態。
それでも浪費をやめればなんとかやっていけたんだろうけど、慣れきった贅沢をやめることができなくてうちに頭を下げてお金を借りに来たのだ。
それで、引き換えにニール様と私の婚約が結ばれたわけ。お金はないけど、公爵家の名前と人脈には価値があると父が判断してのことだった。
ニール様は借金があるとだけ聞いて、綺羅びやかな生活をしている自分の家が慎ましやかに暮らす私の家に金を貸していると思い込んでいたらしい。公爵も見栄っ張りなところがあるから、男爵家からお金を借りているとちゃんと説明しなかったのかもしれない。
「私とニール様が結婚すれば借金は帳消しの予定だったのですけれど、こうなっては仕方ありませんわね。慰謝料と貸したお金、きっちり払ってくださいましね」
「ま、待ってくれ」
「なんでしょうか」
「婚約破棄はなかったことにしよう!アイラではなくお前と結婚する!どうだ、これでいいだろう!」
今にも死にそうな顔色をしたニール様が言う。アイラ様はドン引きの顔でニール様から後退って距離を取っていた。学生時代、身分の高い人かお金持ちばかりに粉をかけていたから、さもありなんって感じのリアクションではある。
「無理です。さすがにこうも馬鹿にされて黙っているのは商会としてもヒース家としても周りから舐められてしまいますわ」
「謝る、謝るから……!」
「お帰りはあちらです。歩けないようなら人を呼びましょうか?」
ドアを指させば、しばらく私を見た後に諦めたように肩を落として出口に向かっていく。その足取りはやって来た時とは反対に酷く重たいものになっていた。
ちなみに、アイラ様はもういない。逃げ足の速いことだが、うちは子爵家ともなにかしらの取引がある。逃げられないと思え。
「差し出がましいことをしてしまいましたね」
散々笑われたことの仕返し計画を練っていると、マークス様の申し訳なさそうな声が聞こえた。隣に立つ彼に目を向けると、苦笑いを浮かべている彼がいた。
「いいえ。私のために怒ってくださって、とても嬉しかった。ありがとうございます」
「僕は当然のことをしたまでですよ。あなたのように素晴らしい人をあんな風に扱うだなんて、到底許されないことだ」
「お上手ね」
「本当のことです。返す見通しもない伯爵領に無利子無期限で融資をするよう父上に進言くださったのはあなたではありませんか。うちに手を差し伸べてくださったのはあなた方だけだ」
それについてはうちがあまりにも儲けすぎていたから、やっかみや妬みの声を減らすためにやったこと。商才や家の評価を上げるための偽善だ。それをこうも真っ向から感謝されると、どうにも居心地が悪い。
ちなみに私は父によく似ていると言われるし、自分でもそう思う。
「そ、それでも伯爵家はお金をすべて返してくださいました。しばらく前からマークス様がお父様から爵位を引き継いで領地を運営していらっしゃるんですよね。素晴らしい手腕ですわ」
「エミリア嬢の励ましとアドバイスがあってこそのことです」
いや、お金を回収するためにしたことなのにここまで褒められると本当にいたたまれない。誰か私を殴ってくれ。
「きっと、あなたからしたら返済のためにやったに過ぎないのでしょう。でも、僕はあなたが心の支えだった」
脳内で自分をボコボコにしていると、マークス様が突然私の足もとに膝をついた。
「あなたをお慕いしています。どうか私の手をとっていただけませんか」
彼は真剣な顔で私を見上げている。
正直を言えば、あんなのと婚約していたからマークス様が婚約者だったらなあと夢見てしまったことがある。それを今思い出してしまって、私はつい「はい」と頷いてしまったのだった。
ちなみにだけど、ダナク公爵家は金策に走り回った結果、国に報告している以上の税の徴収を行い、それが国にバレて爵位と領地の没収になった。
アイラ様の方はうちが子爵家への報復準備をしていたところ、それを察知した子爵家に勘当されて家から放り出されたらしい。
今はもうニール様もアイラ様の行方もわからない。けど、もう私にとっては他人だし、関係のないこと。
「エミリア、マダムフレイヤがいらしたよ」
「あら、早いのね」
マークスが私を呼んでいる。
今日はマダムフレイヤが屋敷に来る日だ。彼女は定期的にやって来ては服を仕立ててくれるのだが、今日はやたらと早く、約束の時間までまだ一時間もある。間違えたのかしら。
不思議そうにしていたら、マークスが肩をすくめて言う。
「覚悟した方がいい。彼女、僕たちのことを聞きつけたみたいでこんなに分厚い紙の束を持ってる。あれ、全部ウェディングドレスらしいぜ」
「あら!それは楽しみね!」
マークスが差し出した手を取って、私はうきうきとした足取りでマダムの待つ応接室に向かう。
もう元婚約者のことなんてさっぱり頭になかった。