序章
北の果て、森と湖に抱かれた小さな山里――エルダ。
その夜、村は静かな雪に包まれていた。空から降る無数の結晶が、家々の屋根を淡く白く染め、世界全体が深い眠りに落ちているかのようだ。薪のはぜる音さえ、遠くかすかにしか聞こえない。
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オラフとミリアの家では、ひときわ温かな灯がともっていた。
囲炉裏の火が、丸太造りの壁をやわらかく照らし、産声の余韻がまだ部屋の空気に震えている。木の香りと湯気がまじり合う寝室の中央、若い母ミリアは生まれたばかりの赤子を胸に抱き、疲れと幸福が入り混じった瞳でその小さな顔を見つめていた。
傍らでは父オラフが、雪を払った外套のまま跪き、頬をほころばせている。老いた産婆が「元気な男の子だよ」と言ってにこやかに見守った。
赤子は小さな手を伸ばし、まだ頼りない声で啼いた。
オラフはそっとその手を握りしめ、ミリアに顔を寄せた。
「よく頑張ったね、ミリア。……クリス、と名づけよう」
ミリアはほほえみ、赤子の髪をなでた。
「神さまが、この子を守ってくださいますように……」
そのときだった。
窓の外の雪がふと光を帯び、部屋の片隅が淡く白んだ。火の明かりではない。やわらかく、それでいて心を射抜くような白光。
オラフとミリアは同時に顔を上げ、驚きに息を呑む。産婆も目を見開いたまま言葉を失った。
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光は次第に形を結び、二つの人影となった。
ひとりは背を向けた白髪の老人、もうひとりはにこやかにこちらを見つめる白髪の女性。ふたりとも雪よりも白い衣をまとい、時を超えた静けさをまとっている。
背を向けた老人が、低く澄んだ声を放った。
「私はあなたたちの神、ヤハの使いである。この子が大きくなったとき、夢を通して私の言葉を聞くだろう。やがてその夢を語るとき、旅立ちを許しなさい。それまで、神の言葉と共にこの子を育てよ」
老人はさらに続けた。
「そして、その時まで西の村ニキに行くことを固く禁じなさい」
ミリアは赤子を抱き寄せ、震える唇で問う。
「この子は……どのような道を歩むのでしょうか?」
老人は振り返らないまま、ただ一言を残した。
「行く道は、我が導きにある」
光は雪のように静かに淡くなり、やがて二人の姿は夜気に溶けた。
部屋には再び囲炉裏の火が揺れ、遠く吹雪のざわめきだけが戻ってくる。
しばし呆然としていたオラフは、やがて足元に気づいた。
赤子の寝台のそば、木の床の上に一冊の書物が置かれている。革装の表紙には、ただ「聖なる書」とだけ刻まれていた。
ミリアは戸惑いを隠せないまま、夫と顔を見合わせる。
オラフはその本をそっと手に取り、確かな重みを感じながら深くうなずいた。
「……ヤハの使いが、私たちに託されたものだ」
その夜、エルダの家は静かな雪明りに包まれていた。
赤子クリスは母の腕の中で安らかに眠り、二人の心は静かに決意を刻んでいた――いつか必ず訪れる、その旅立ちの日のために。