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淀み

作者: 壊れた靴

「その子どもはふりかえると言いました」

 そう言うと、彼は大きく息を吸い込んだ。

「お前だ!」

 小学生に話術を求めるのは酷かもしれないが、息を吸う仕草が目立っていたせいで驚きは薄かった。それでも何人かの児童は小さく悲鳴を上げた。

 私の拍手に、私を囲むように車座になっている児童たちが続いた。

 林間学校で予定していた天体観測は雨により中止となり、その代わりとして、一人ずつ何か話をしてもらうことにした。怪談がほとんどだったが、この明るい部屋ではあまり雰囲気は出ていない。内容もどこかで聞いたことのある話ばかりで、いつの時代も変わらないな、と微笑ましく思える。

「ありがとう。それじゃ、次の人、お願いします」

 次に話をしてもらう児童を見る。彼には吃音があったが、参加の意思を尋ねた私に、話をしたい、と力強く答えてくれた。

 彼がゆっくりと立ち上がる。児童たちが小さく笑ったり、囁きあっているのが聞こえる。注意しようと口を開きかけると、彼が話し始めた。

「ある小学生の話です。彼は釣りを趣味としており、毎日のように家の近くを流れる川に釣りに行っていました」

 学校での彼とは別人のような流暢な話し方に、児童たちは黙り込み、驚いたように彼を見つめた。私もこんな彼を見るのは初めてだ。

「丁度、僕たちの学校の近くを流れているのと同じような、大きな川です。彼は学校から帰るとすぐにその川に向かい、日が暮れるまで糸を垂らします。

 ある夏の日のことです。その日も今日のように雨が降っていました。けれど彼は、それを気にすることなく、いつも通り釣りを始めました。

 皆さんは、川の淀みを知っているでしょうか。流れのない、深い場所です。そこには様々なものが集まり、釣りで狙うにはとても良い場所となっています。

 もちろん彼も淀みに集まる魚を目的に、その近くの岸辺に立っていました。けれど、釣りに集中するあまりか、雨のためか、彼は足を滑らせ、川に落ちてしまいました。

 冷たい川に引きずり込まれるように、すぐに彼は光も届かない淀みに沈みました。

 ほんの少し先も見えない暗闇の恐怖に、彼は必死にもがきますが、どんどん沈んでいきます」

 照明が消えた。目の前の児童の姿も見えない。雨音が遠ざかり、わずかに息苦しさを覚えた。児童たちの悲鳴が聞こえてくるはずが、誰の声も聞こえない。彼の声だけが続いている。

「彼は少しでも水面に近付こうともがき続けますが、何かに飲み込まれるように、どんどん、どんどん、沈んでいきます。

 彼は苦しみのあまり、冷たく、粘ついた水を飲みこんでしまいました。濁った水は肺にも流れ込んでいきます。

 もがく力もなくなり、ただただ沈み、意識が薄れていきます。

 彼は不思議に思いました」

 息が苦しい。音の消えた暗闇の中、表情なく私を見る彼の顔だけが映る。

 普段から気にかけていた彼が、雨の教室で、林間学校を楽しみにしていると笑いながら教えてくれたことを思い出した。そうだ。私は、その帰り道、この川に落ちてしまったのだ。

 冷たく、粘ついた水が喉に流れ込んできた。

 水面が揺らぐように、彼の顔が、私が小学生だった頃の同級生のものに変わった。

 彼も吃音を持っていた。私は彼が何か言うたびにからかい、他の同級生もそれに追随するように彼を笑った。その度に、彼は怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ無表情に私を見ていた。その超然とした態度に、私は苛立っていた。

 放課後、この川で一人黙々と釣りをしている彼に、嫉妬に似た感情を覚えていたのかもしれない。

 彼はこの川で亡くなった。事故だったと聞かされた。私は悔しかった。勝ち逃げされたようで。相手にされなかったようで。

 私は沈んでゆく。

 もうどこにも力は入らない。

 ただただ淀みに沈んでゆく。

 彼が無表情に私を見つめている。

 この川は、こんなに深かっただろうか。

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