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ハムえっぐ短編集

現代の英雄

作者: ハムえっぐ

 汗と埃にまみれた作業着が、じっとりと熱を吸い込んで肌に纏わりつく。

 昼休憩のサイレンが途絶えた後の工事現場は、つかの間、虚ろな静寂に包まれていた。

 だが、遠くでくぐもる重機の唸りや、時折鼓膜を裂く甲高い金属音が、ここが仮初めの安息でしかないと俺に突きつける。

 俺は飲みかけの缶コーヒーを地面に置き、煤けた壁にもたれて煙草に火を点けた。

 肺腑に染み渡る紫煙だけが、この茹だるような暑熱の中では唯一の救いだった。


 その時だった。影が一つ、俺の足元に落ちた。

 

「おっさん、ちょっといいっすか」

 

 見上げると、けばけばしい金髪に染め上げた若い男が立っていた。

 年は二十歳そこそこか。汚れてはいるが、まだ生地の新しい作業着だ。この現場に入って日が浅いのだろう。


「なんだ」

 

 俺は無愛想に返した。どうせ仕事のことで何か聞きたいか、もっと厄介な話だろう。


「おっさん、ムショ上がりだって?」


 きたか、と。俺は胸中で舌打ちした。

 こいつは、どこでそんな噂を嗅ぎつけてきたのか。だが、その声色には、よくある侮蔑や探るようなねちっこさは感じられなかった。


 この手の噂はどこからともなく湧いて出て、瞬く間に蔓延する。

 それをネタに強請ってくる小悪党もいれば、ただ好奇の視線を向けてくるだけの奴もいる。

 過去を蒸し返されたくなければ金を出せ、仕事を手伝え。そんな脅し文句は聞き飽きた。


 俺は奴の顔を見据えた。若さゆえの自負か、それとも単なる無鉄砲か。視線は、ただ真っ直ぐだった。

 脅しなら対処は容易い。ここで俺が過去の殺人を大声でわめけばいい。


「ああ、俺は人を殺した! 殺人者だ! それがどうした!」


 とでも叫べば、周囲の連中は一瞬ぎょっとするだろうが、すぐに気味悪そうに顔を背け、蜘蛛の子を散らすように去っていく。

 面倒ごとはごめんだ、というわけだ。


 だが、こいつは違った。

 金髪の男の眼に宿るのは、脅しや侮蔑の色ではない。

 まるで伝説の獣でも見るような強烈な好奇と……いや、これは憧憬か? ギラギラとした光が揺らめいている。


「スッゲ! マジっすか! どうだったんすか、その……殺した感触とか!」


 こいつは、本物だ。救いようのない馬鹿か、あるいは……俺はふっと口元に自嘲の笑みを浮かべた。

 

「ああ、最高だったさ。アドレナリンが脳髄を焼き切るかと思ったぜ。今でもそいつの断末魔を思い出しては、時折笑いがこみ上げてくる」

 

 嘘じゃない。少なくとも、あの瞬間はそう感じた。そして、その記憶は今もなお鮮明だ。


 金髪の男は目を一層輝かせた。唾を飲み込む音すら聞こえそうなほど前のめりになっている。

 

「やっぱ、罪悪感とか後悔って、あるんすか?」

 

 純粋な問いだ。まるで英雄譚でも聞くような口ぶりだ。


「あるわけないだろう。人を殺して後悔するなんざ、お偉いさんが考え出したお伽噺さ。搾取される側が最後の手段である暴力に訴えないようにするための、都合のいい詭弁だ。

 刑務所の存在と同じよ。反省? 更生? 馬鹿馬鹿しい。あれはただの隔離施設だ。社会にとって不都合な人間を、一時的に見えない場所へ押し込めておくだけのな」

 

 俺は淡々と語った。誇るでもなく、卑下するでもなく、ただ事実として。それが逆にこいつには響いたらしい。


「ムショって、どんな感じっすか?」


 金髪は食い気味にそう尋ねてきた。

 俺は煙草の煙をゆっくりと吐き出し、値踏みするように奴の顔を見た。子供が悪戯を思いついた時のような、それでいて妙に真剣な眼差しだった。


「そうだな……刑務官がウザいのと、飯は多くなくて美味くもない、麦飯ってやつだ。朝昼晩とな」


 俺はぶっきらぼうに答えた。


「飯、三食出るんすか⁉」


 金髪は、まるで信じられないものを見るかのように目を丸くした。その反応は、俺の予想とは少し違っていた。


「風呂は週二回だけだ」


「マジっすか、風呂入れるんすか。俺、週一回簡易シャワーぐらいっすよ」


 こいつの生活の方がよっぽど懲役に近いんじゃないのか。そんな言葉が喉まで出かかったが、飲み込んだ。

 日雇いの若い連中の中には、そんな生活を送っている奴も珍しくないのかもしれない。


「当然、女とは会えん」


「あ、それはいいっす。俺、今の今までも女とは縁が一切ないんで」


 あっけらかんと言い放ち、金髪はにかっと白い歯を見せた。その屈託のなさが、俺の警戒心をわずかに解いた。


「おっさん……カッケーわ。淡々と語って、全然自慢げじゃねえのが、マジでいいっすね」

 

 こいつは俺の言葉のどこに感銘を受けたのか理解に苦しむが、同時にどこか懐かしい感覚も覚えた。

 かつての俺も、何かに焦がれ、何かを妄信していた時期があったのかもしれない。


「おっと、待て。後悔なら一つだけある」

 

 俺がそう言うと、金髪の男はわずかに不安げな表情を浮かべた。やはり殺人には後悔がつきものなのかと、その純粋すぎる期待が揺らいだのだろう。


「なんすか……?」


 俺はにやりと歪んだ笑みを浮かべ、奴の目を見た。

 

「殺した奴を、もっと早く殺しておけば良かったって後悔な。そしたらあんなクズに、長々と苦しめられることもなかった」


 その瞬間、金髪の男は腹を抱えて爆笑した。周囲の作業員たちが何事かとこちらを一瞥したが、すぐに興味を失ったように視線を戻す。

 

「あっはっはっは! おっさん、最高だわ! マジ最高! サンキュー! おかげで踏ん切りがついた。俺も、殺ったるわ!」

 

 その笑顔は一点の曇りもなく晴れやかだった。まるで長年の悩みが氷解した求道者のように。


「おいおい、まさか俺を、っていうオチは無しだからな」

 

 俺は冗談めかして言ったが、こいつの目を見れば標的が俺ではないことは分かった。


「ちゃうんで、安心してくださいっす! マジで、ありがとうございました!」

 

 金髪は深々と頭を下げると踵を返し、足取りも軽く去っていく。

 その背中は、先刻までの鬱屈した雰囲気が嘘のように、希望に満ちているようにさえ見えた。


「おい、金髪!」

 

 俺は呼び止めた。

 

「殺るなら一人だけにしとけよ。二人殺ったら、どんな事情があっても死刑ってのがこの国だからな。コスパ悪いぞ」

 

 俺なりの最大限の忠告だった。それが正しいことなのかは、知らない。


 金髪は振り返り、右手を力強く握りしめると、親指をグッと立てて見せた。そしてそのまま雑踏の中に消えていった。

 俺は残りの煙草を深く吸い込み、空になった缶コーヒーを無造作に足元のゴミ袋へ投げ入れた。


 数日後。

 いつものように仕事を終え、汗臭い作業着のまま駅へと足を向けた。

 ホームへ下りる階段の手前にある小さな売店の窓口で、俺はぶっきらぼうに告げた。


「タバコ、6番一つ」


 小銭と引き換えに受け取ったタバコを無造作にズボンのポケットに押し込もうとした、その時だった。

 すぐ傍らで、若い男女のひそひそと交わされる会話が、嫌でも耳に入ってきた。


「なんでそんなことできるんだろ?」

「家族や友人いたら絶対できないよね」


 俺はちらりとも視線を向けず、足早にホームへと向かった。


 やがて滑り込んできた電車に乗り込み、ドア横の手すりにもたれかかる。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、何とはなしにニュースサイトを開いた。

 スクロールする指が、ふと止まる。目に飛び込んできた見出し。


『〇〇駅近くで通り魔殺人事件 若い男が逃走中』


 記事の本文には、被害者の情報と、目撃証言に基づく容疑者の特徴が簡潔に記されていた。

 金髪、二十代そこそこの男、作業着のような服装……あの金髪だ。


 脳裏に、先ほど駅で耳にした若い男女の声が蘇った。

 

『なんでそんなことできるんだろ?』

『家族や友人いたら絶対できないよね』

 

 そんなのいるかよ馬鹿どもが。

 俺は心の中で小さく毒づいた。


「へえ、あの金髪、本当にやりやがったか。しかも逃亡中かよ。馬鹿だねえ、すぐに自首しとかねえと、裁判官の心証が悪くなるだけなのに」


 まるで他人事のように、そんな言葉が頭をよぎった。


 だが、不意に心の奥底で何かが疼いた。

 あの金髪が狙った標的が記事に載っている被害者本人だったのか、それとも人違いだったのか、俺には知る由もない。だが間違いなく、あいつは人を一人殺したのだ。

 そしてあいつも今頃、あの時の俺と同じように、言い知れぬ高揚感に浸っているのだろうか。全てを破壊し、全てから解放されたかのような、万能感に。


 あの日、あの時、あの場所の俺と、全く同じように。


 俺はスマートフォンの電源を落とし、再びポケットに突っ込んだ。

 また一つ、このどうしようもない世界で、どうしようもない事件が起きた。ただそれだけのことだ。

 やがて目的の駅に着き、ドアが開く。

 俺はいつものように、薄汚れたアパートへと続く夜道を歩き始めた。

 背後に遠ざかる駅の喧騒も、これから帰る部屋の静寂も、今の俺にとっては大した違いなどありはしない。

 ただ、アスファルトを蹴る自身の靴音だけが、やけにはっきりと鼓膜に届いていた。

 

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