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一週間は遅々として進まなかった。まだ火曜日だ。
イレブンの変化と言えば、処方された薬が変わっただけ。こういうとき、学校はいい暇つぶしになるのかもしれない。
一年も使われていないソラのLINEに〈お前今うちにいるのか〉と尋ねてみたが、既読がつかない。深夜三時に会った日のことが夢だったのではないかと思った。返事はなくとも、フェリー乗り場には来られるように、出発地と到着予定地を書き込む。
〈南港に13時には来てくれよな。てか、鹿児島観光になりそうでやべーんだけど。俺、別にどっか行きたいわけじゃねぇのに。でも、お前が来てくれんなら絶対楽しめると思うんだ〉
消炭先生からもらったチケットには
〈あおいとり 06/8/24 13:00出航 大阪→志布志〉と書かれていた。片道切符だ。
ソラが来られなかったら行くのをやめようかと思っていたとき、スマホの呼び出しが鳴った。消炭先生だ。緊急の用事でもあるのだろうか。
〈誰と行くか決まった? 先生と行こうか? 何かあればすぐに対応できるし〉
「そんなことで電話かけてきたのか?」
〈大事なことじゃない。言い忘れてなの。帰りの交通費、先生が出してあげるから。あのね、これは治療と思って行かなくていいからね。思いっきり楽しんでもらいたいのよ。お母さんから聞いたわ。昼間も出歩けるようになったんだってね〉
「まぁ」
ソラと会ってから、どこへでも行けそうな気がしているし、実際、近所は出歩けるようになった。
〈先生といっしょに行くでしょ? お母さんといっしょじゃ、恥ずかしいんじゃない?〉
「先生、行く相手が見つかりそうで」
消炭先生が押し黙った。
「先生?」
「ならいいの。なんとか行けそう? 相手に振り回されないようにね。もしかして彼女?」
「いないの知ってるじゃないっすか」
「とにかく、無理そうならすぐに言って。先生いつでも空いてるから」
先生の声音はいつになく嬉しそうだった。本当は自分も行きたかったのかもしれない。
通話を終えたちょうどそのとき、母が部屋をノックした。
「どうイレブン。鹿児島に着いてからのことだけど、無理そうならすぐに折り返してきてもいいのよ。帰りの船のチケットぐらいなら、お母さんも出してあげられるから。スイートじゃないけどね」
それこそ馬鹿げているとイレブンは思ったが、柔和な皺を寄せて顔をほころばせているのに気づいた。
「音楽イベントなんでしょ?」
「船内パーティーみたいなもんだろ」
「だったら、余計に楽しんで来ないと。待って、ドレスコードとか決まってない? みんなタキシードで出席なんじゃない?」
「大げさだな。調べてみたんだけど、登場するアーティストはださそうなロックバンド、無名のヒップホップユニット、どこの誰だか分からないDJだった」
「まぁ、何にしても鹿児島周遊プランを自分で考えるか、帰ってくるか。決めたら連絡して。向こう着いてからでいいから。船じゃ電話できないかもしれないし」
「え、ちょっと待って、船ってWiFiねぇの?」
「あっても、陸からどんどん離れたら使えないわよ。それに、五百人ぐらい乗るんでしょ? 回線が混雑して使えないわよ」
――てことは、船の上ではスマホをいじれないのか。
「本当に、大丈夫なのかしらね。消炭先生がくれたチケットじゃなかったら、止めてたのに。せめて誰と一緒に行くのかだけでも教えて?」
ソラと行くとは言えなかった。ソラが仮釈放されたことも母親は知らないだろう。きっと、知れば二度と会うなと言われるだけだ。
「はぁ、言いたくないならそれでもいいけど、イレブンがトラウマを抱えてるんだから、無理したら駄目よ。一緒に行く人はちゃんと分かってくれてる人なの? 薬はちゃんと飲むのよ」
「大丈夫。飲み忘れないから」
「帰りのチケット代。渡しとくわね。もし、船が無理なときは新幹線で帰って来るのよ。多めに持たせておくから」
「まじか。やりぃ、五万じゃん」
「当日までに使い切るんじゃないわよ。余ったら返すこと」
「えー」
「外に出れるようになったご褒美もあるから」
母親が一旦リビングに消え、見覚えのあるギターケースを持ってきた。ギターは捨てたはずだ。
「なんで?」
母はえくぼを作って笑いながらギターケースを開ける。新品だとすぐに分かった。しかも、ピックガードが反対側についている。
「これって、レフティ?」
左利き用のギター。イレブンは左手小指を失ったことで、弦を抑えることができなくなっていたが、左利き用ギターを習得すれば右手で弦を抑え、左手でストロークすることができる。
「いや、無理無理無理」
せっかく暗記したギターコードの指の形。右手で押さえるには鏡で映して逆の位置に指を置かなければならない。はっきり言って、一から勉強し直すようなものだ。
「持ってるだけでもいいじゃない。これ高かったんだから」
イレブンは困惑したが、なかなか手に入らない左利き用ギターを持ってみると、無性に弾きたくなってきた。やはり自分はギターが好きだなと実感する。だが、以前のように楽しく弾くことはできるか分からない。生き残った自分が何かに熱中して楽しむなんて、そんな生き方をしていいのだろうか。
「ありがとう。今はまだちょっと弾けないけど」
「先に船旅だもんね。帰ってきてからのお楽しみにしとこうか?」
母がケースにしまおうとするので、イレブンは首を振って、壁にそのままギターを立てかけた。見えるところに置いておけば、いつかはちゃんと弾く気になれるかもしれない。