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翌日、八月一七日。土曜日。
イレブンは母に起こされた。母親が許可なく部屋に入って来る理由は、自分がうなされていたからだろうと推測する。まだ朝の三時だった。母は部屋の灯りを点け、幽霊でも見たような表情で見下ろした。
「もう、あの子の名前は呼ばないでって、お願いしたわよね。あの子のせいで十三は……」
寝言でソラの名前を口にしてしまったのだろう。ソラが元々不良だったとはいえ、事故後はソラを憎む人が増えた。
イレブンの父、平安十三もクルーザー衝突事故で亡くなった。父とは離婚していたとはいえ、母がソラを憎むのも当然だ。
クルーザーにはソラの父親も乗っていた。父親同士が親友だったこともあり、たいてい父子ともに海に出かけるのが常だったのだ。
二人の父親が亡くなり。馬鹿息子だけが生き残ったことになる。
母は青い顔で自室に引き上げた。といっても1LDK。リビングの床に布団を敷いて寝ている。三階で寝ればいいのにそうしないのは、三階は亡くなった父がワンフロアを丸々使っていたからだ。イレブンは幽霊を信じないが、夜な夜な三階で父親が歩いている足音が聞こえればいいと思うことがある。
明るく陽気で、後先考えない親父は若々しかった。若者のまま大人になったらああなるというお手本のような人、つまりチャラ男だった。
父親はソラの父親とクルーザーの購入費を折半した。維持費も二人で出し合い、所有権も二人にあった。
そのクルーザーをソラとイレブンで木っ端みじんにした罪も、二等分するべきだった。
失った小指がじりじりと痛む。もう一度眠れそうにない。かといって、出かける用事もない。何より、外は駄目だ。
学校にもいられるわけがなかった。クラスメイトを四人失っている。
ソラを中心に形成されたソラグループ、名前はダサいが学校内で暴力事件が発生したらまず疑われる存在。といっても、喧嘩を制するのもまたソラグループで、ソラグループがあるから、争いごとは減ったといっても過言ではない。陰でこそこそやるいじめがなくなったのもソラがいじめっこを一喝したからだ。
ソラの両翼の内の一人にイレブンはいた。
リーダー格のソラは少年刑務所、仲間ももういない。イレブンはクラスで孤立した。今まで仕切っていたソラがいなくなったことで、クラスは今まで抑圧されていた男子たちに舵を奪われた。役立たずだった学級委員がでしゃばりはじめ、イレブンは言葉による攻撃も暴力も受けた。
事故当時高校二年だったが、三年になってクラス替えが行われても学校に行っていない。
こんなこともあった。家の近所を黒づくめの女がうろついていて、すれ違いざま「少年だから罰せられないのはおかしい」と罵られたこともある。
少年法により重い処罰を受けるのは十八歳、十九歳だ。事故当時十七歳。たった一歳違うだけで、イレブンは裁かれなかったとも言える。
キッチンへ足を運んだ。麦茶を飲む。深夜三時でも暑苦しい。
あの船に乗ることができるだろうかと疑問に思う。
――誰かと一緒ならいけるかもしれない。特にソラとなら。
事故のことを忘れることができない。ならいっそ、あの事故のことを分かち合えるソラと話しがしたかった。消炭先生ではなくて。
急に、外に出てみたくなった。今はまだ深夜だ。誰も自分を非難しないだろう。非難するような誠実な人間は、夜中に東大阪市の治安の悪い町をほっつき歩かないだろう。
パジャマを脱ぎ捨て、同じく脱ぎ捨ててあるTシャツとジャージのパンツに着替える。事故前は派手な色が好きだったイレブンだが、今は白一色の服しか着ない。
一階へ降りた。客の入っていないエミリーマートを尻目に、夜の町に忍び出る。
近鉄布施駅の周辺は、パチンコもゲームセンターもあって夜の十二時までは賑やかだが、幸い今は三時。賑やかな場所ほど誰もいないときの閑散とした不気味さが際立つ。
駅周辺のロータリーにいつもいるタクシーもいない。
近所の駐車場の縁石に腰掛ける。ソラとよくたむろした駐車場だ。ときどき通報されたが。
ソラが防犯カメラを潰してからは、通報されることもなくなりソラグループはここで本性を現わす。ソラの母親の営む居酒屋から拝借したビールを缶コーヒーの缶に移し替えて飲むのだ。
――俺一人で何してるんだろ。
半年以上ぶりに病院以外の目的で外に出たのに、何の感慨も湧かなかった。嬉しいとか、外が綺麗だとか汚いとか。何もかもどうでもよかった。このまま夜の闇に溶けて自分の身体がなくなっても気づけないだろう。
自分の小指だけでなく、ほかの指もなくなったらと空想する。指から腕、肩もなくなっていく。それでも、息だけはしようと足掻く強い意思は今は湧いてこない。
駐車場横の自販機が、飲み物を吐き出す大きな音を立てた。
イレブンは飛び上がりそうになる。どんなに落ち込んでいても、大きな音に対する反射はできることにちょっと笑ってしまった。
――硬貨を入れる音がしなかったけど、ジュースだけ出てきたのか?
縁石から腰を上げて、誰もいないジュースの自販機を見る。誰かがいるとは思っていなかったが、予想通り誰もいないとそれはそれで怖い。
ジュースが出て来たのか確認だけでもしておかないと。
自販機の前で屈み、ジュースがないことに戦慄する。叫ぶか叫ばないかの瀬戸際――。
「わっ」
自販機の後ろからソラが飛び出てきた。
「えええ! ソラ?」
ソラの仮釈放は今日だ。だが早すぎる。まだ電車も走っていない時間だ。
「お前、ビビりすぎ」
ソラは腹を抱えて笑っている。手には自販機で買ったと思われるコーヒー缶を握っている。
「なんだよ。脅かすなよ。てか、どうしてここに」
「抜けてきたんだよ」
「逃げてきたのか?」
「しー! 声がでけぇよアホ。俺たちのたまり場にたまって何が悪いんだっての」
「いや、悪いって。心臓止まるかと思った。今何時だと思ってんだよ」
「お前だって外ふらついてたじゃねぇか」
「一緒にすんなよ」
ソラが不機嫌そうに押し黙る。
少年刑務所がどんなところなのか、イレブンには想像がつかないが。少しもやつれていないソラを見ると、こちらも元気になる。
ソラは身長一八〇で自分は一六〇なので、いつも見上げる形になってしまうが、今は何もかもが驚きで、内心飛び上がりそうだった。
ソラの顔のパーツは一つずつが大きい。イレブンはどれもこれも申し分程度に顔に配置されているので、同じ男でもソラの方がモテるので憧れる。
前はよくソラが金髪でイレブンが茶髪だったのだが、今は二人とも黒髪だ。
ロンゲだったソラは短髪になっているし、ソラの真似をしてロンゲにしていたイレブンは、引きこもって放置したせいでさらに伸びて女のボブヘアーみたいになってしまっていた。
それに、ソラは作業服のようなツナギを着ている。赤のパーカーに金のネックレスをするような奴が、仕事してるのかよとイレブンは愕然とする。これが、刑務服かという現実も襲ってくる。
イレブンは何か言わなければと思って、ずっと考えてきた言葉の一つも出てこないことに絶望した。代わりにソラが「なんかお互い、だせぇな」と容姿を貶す始末。それでも、「会えて良かった」とソラは抱きついてきた。病院で嗅ぐようなアルコールの臭いがほんのり香った。ソラが手洗いうがいをしっかりしているとは思えなかったのだが、ソラも変わってしまった。変わらざるを得なかったのか。
「ああ。本当にソラだ。夢にまで見たソラだ。俺、どうしたらいいのかずっと悩んでて」
イレブンはソラから離れた。ソラは怒気を含んだ声で言う。
「お前に言っておきたかったんだ。お前は誰からも訴えられてないんだから、めそめそすんじゃねぇ」
「してないよ」
「してるんだろ。ほら、泣くなって」
「泣いてねぇよ」
「どうだかな。暗くてよく見えねぇわ」
「俺も言いたかったことがあるんだソラ」
「しみったれてるなー」
「まじめに聞けよ。俺、お前を止める機会は何度もあった。だから、俺も悪いんだ」
「謝るなら、犠牲者にだ。俺の意志でやったことを、お前が止める義務はなかった」
イレブンは歯噛みする。確かに、ソラに甘えていた。謝るべきはクルーザーに乗った全員と、フェリーあおいとりの負傷者にだ。
「じゃ、帰るわ」
「ああ、待ってくれソラ。俺、今日やっと外に出られたんだ」
「なんだ引きこもってたのかよ」
「もうそれはどうでもいいんだ。船のチケットをもらったんだ。お前ライブ好きだろ。今家にあるから、取ってくる」
「ああ、いっしょに行くなら全然オーケー。楽しみにしとくよ。いつだ?」
「それが来週の日曜日で。急すぎるか?」
「おっし。楽しみにしてるぜ」
ソラはふらっと去って行った。
「あ、スイートルームだって」
後ろ向きで手を振るソラ。
最後までソラは缶コーヒーを開けようとしなかった。あれはきっと、きっかけのために買っただけなのだろう。