6-2
イレブンは頭が痛んで目が覚めた。咳き込んで息ができることを知った。悪い夢も見る暇がなかった。首や頭、顔も痛んだし、手足が若干痺れていた。
何故か六階のアトリウムで、椅子に座らされており、両手が椅子の後ろ側で縛られている。手首が濡れていて気持ち悪い。懐中電灯がないので、感触でしか確かめられないが、ワカメのような海藻で縛りつけられているらしい。
「ふざけやがって!」
自分の声しか聞こえない。もうこの船には自分と悪魔しかいない。いや、違う。
イレブンは光源を見つける。大階段を前にして、その脇にぼうっと白く輝く少年がいた。
「零」
呼びかけると、俯いていた零が顔を上げる。指を立ててしーっと言われる。それから、目だけで上を見た。零の目線の先には、八階の消炭先生の部屋へと続く通路がある。光る零を反射して何かが煌めいた。斧だ。まだあそこにあるのか。イレブンが礼を言おうとしたら、もう零はいなくなっていた。代わりに鼻歌が聞こえてくる。
エリーゼのために。大階段に火がつく。焼け焦げた絨毯がまくれ上がる。見れば六階のアトリウムから出火している。後方のレストランもだ。炎がイレブンの視界を覆いつくした。
「うわああああああああ」
熱くない。慌てて損した。
炎に舐められた空間が、廃墟に変わっていく。イレブンの背筋に悪寒が走った。
幽霊船。あおいとりの塗装が剥がれ、赤さびを剥き出しにした。火災があった場所はアトリウムだったのか。
床も壁も金属部分は赤くさびており、燃焼の激しかった場所は黒くなっていた。
焦げ臭さにイレブンはむせた。
大階段はまだ手すり部分が燃えており、花道のようになっている。そこを、三本腕の男が降りてくる。ぼろのタキシードに海藻まみれのブラウスを着た悪魔。左半分を失っている青い顔が薄く笑う。手にしたバールを指揮棒のように振り回している。自分の鼻歌をオーケストラか何かと思っているのかもしれない。
「このクソ野郎が! 解けよこれ! 何が幽霊船だ! お前は一人ずつしか襲えない臆病者だろ?」
こちらの挑発を意に介さず、三本腕の男は階段の最後の数段をジャンプで降りきる。穴の空いた革靴から、着地の衝撃で茶色い体液のようなものが飛び出た。
「うえぇ。お前ゾンビか何かかよ。それともそれ、糞なのか?」
悪魔ははじめてぶはははと笑った。口も半分しかないので、笑うと空気が左側から抜けて行くのだろう。
「減らず口を叩くな。今からお前には死んでもらうんだ」
さっき何故殺さなかったのだろうかと、イレブンは思ったが、それを聞く勇気はなかった。足だけは拘束されていないことを確認する。椅子を背中に背負って、六階から八階まで登れば斧が手に入る。だが、悪魔の行動は未知数だった。ゆったりと動くくせに、神出鬼没だ。テレポート能力のような何かがあるのか? それとも人間のように走るのかも不明だ。
悪魔はイレブンを前にして、距離二メートルほどのところで立ち止まった。直接手を下すつもりがないのか? それともただおちょくっているのか。
悪魔はバールを持つ手を大仰に掲げ、オーケストラの指揮者の演技が終演する。
拍手の代わりに、ざわざわと毛の長い絨毯の上を何かが這う音がする。鳥肌が立つような音だ。
指ムカデだ。殺す前にも何かあるらしいが、芸がなさすぎる。
「こんなもん、今さらビビるとでも思ってんのかよ」
イレブンの足元に白い指ムカデが集まりだした。靴からジーパンを伝って上ってくる。こいつらに毒はあるのだろうか。見た目が気持ち悪いのでイレブンは足で蹴り飛ばすが、さすがに数が多すぎる。太ももまで上ってきた。椅子ごと跳ねて振り落とそうとしたが、小刻みに関節を動かす指ムカデの進行は止まらない。
「クソ! なんだよ!」
とうとう上半身にも上がってきた。耳元でさわさわとTシャツを食むような音がする。生暖かい指の感触が肩を覆いつくす。この指は自分が失った指なのかもしれない。指が髪にかかった。ロンゲのまま放置していたのが祟って、髪に指ムカデが絡む。何本か毛が抜けた。
「いてーよ!」
そう怒鳴った瞬間、指ムカデの一匹が口に飛び込んできた。それを合図に指ムカデの群れが一度閉じた口をこじ開けようと、口や鼻に指を突っ込んでくる。
口の中に入った一匹が、何本もある指の足で舌の上を這い回るので、吐きそうになる。それが、喉の方に行ったときは息が詰まった。窒息死させる気か。
ならいっそ、食ってやった方がいい。
口をこじ開けようとする一派が、焦れて目を潰そうと瞼に指をかけてきた。イレブンは首を振るが、目じりに引っかき傷ができただけだった。窒息するか失明させられるなら、目を失う方がましなのかもしれない。頭の隅で、盲目の自分を想像する。またギター演奏の難易度が上がったなと思う。
こんなところで死ぬわけにはいかない。ソラの分まで。それから、バンドを組まないかと誘ってくれた六車のためにも。みんなもういない。いないが、自分が生きて帰らなければ、彼らのことを覚えている人がいなくなる。
イレブンは口の中にいる指ムカデに噛みついた。自分の指の集合体なのだろうが、かまわない。それに、失ったのはたった一本だ。こんな群れになるのがおかしい。
骨ばっていてとても咀嚼できない。無理やり飲み込む。が、胃に届くまでに指が食道から出ようともがいている。
もう吐くことはないと思っていたイレブンだが、苦酸っぱい胃酸が逆流してきて吐いた。
ほかの指ムカデたちが、胃液にかまわず口に飛び込んできた。涙が出る。これ以上口に入らない。胃酸がまずくて余計に吐く。口腔内に行き場のなくなった酸が鼻へと繋がる穴に入って染みる。
――こんなゲロにまみれて死ぬなんて。
悪魔がバールで床を叩いて爆笑している。
――半分ない顔で笑ってんじゃねぇぞ。
まだイレブンの意識はあった。吐しゃ物を喉に詰めて死亡することはあるが、今日は散々吐いてきた。もう喉に詰まるような固形物は胃に残っていない。
指ムカデを口から垂れこぼしながら、椅子ごと立ち上がる。まだ足元からは遅れてやってきた指ムカデたちが、足によじ登ろうと見上げている。イレブンはそれらをスニーカーで蹴散らし、大階段にいる悪魔に向かって咀嚼した指ムカデを含むゲロをぶっかけた。
爆笑中の悪魔の半分ない顔にゲロが全部命中。さすがに悪魔であっても、人間だったときの不快感は持っているらしく、あからさまに嫌そうな顔をした。
――悪魔の身長が俺と同じぐらい低くて助かった。
イレブンはそのまま間髪を入れず、後ろ手に縛られている椅子を中腰で振り回して、悪魔の胴に当てた。ぐへっと悪魔がうめく。痛みよりもかかったゲロに辟易して、三本の手でゲロを拭っている。イレブンはその脇をすり抜けて大階段を上がる。七階、八階と跳ねるように駆け上がる。背後で悪魔が小言を呟いている。
「おいおい、タキシード高かったんだぞ。放火するためだけに買った一張羅だ。ぶはは」
イレブンが八階に着いたときには、縛られた腕が椅子の重さでちぎれそうだった。変な姿勢で走ったので、腰もこの年でぎっくり腰になりかけた。
零が先ほど示した場所の床に斧が転がっている。イレブンは椅子ごと倒れ込み、海藻で縛られている腕に、斧の刃をあてがった。のこぎりの要領で戒めを解く。椅子からも解放された。
近くに懐中電灯も落ちているはずだ。灯りが点いていないので、電池切れかあるいは電池が抜け落ちたか。消炭先生の部屋の前では、先生の遺体がまだ血を流し続けている。途中、脳みその破片のようなものを踏んだが、気づかなかった振りをする。
「クソ! 灯りがないと」
唯一の灯りは大階段で燃える手すりの炎だけだ。悪魔が用意した舞台で戦えるのかは、分からない。戻るか迷っていると、大階段の下から声がした。
「今顔を洗ってくるから待ってろよー。なんて言うと思うか? 俺の顔はどの道半分しか洗えねぇんだ。数秒もかからねぇよ。お前も首を洗っとけよ」
斧で狙うなら、相手より上にいる今がチャンスだ。
イレブンの背後で何かが動く気配があった。振り向くべきではないと分かっていても振り向いてしまう。
頭の割れた先生が、ゾンビみたいに動いている。生きているはずがない。あのとき確かに手ごたえはあった。これは、女社長が亡くなったときと同じように遺体が動いていると考えるべきだ。イレブンは恐怖を押し殺し、斧でゾンビ化した先生を叩き伏す。先生は悲鳴も上げない。やはり、死んでいる。
開け放した消炭先生の部屋から気配がする。イレブンは戦慄した。
女社長の遺体を跨いで、今にも切断しそうな首を肩の横で逆さまにぶら下げ、六車が歩いてきた。
「六車……」
さすがに六車までは、死んでいたとしても殺せない。イレブンは大階段に向かって走った。階段の下から誰かが走ってくる。悪魔ではない。
「嘘だろ、澪まで!」
全身を炎に包まれた彼女が駆けあがって来た。奇声を発してつかみかかろうとしてくる。顔は焼けただれ、黄色い脂肪分と炭化して黒くなった皮膚で、でこぼこになっている。
「今、楽にしてやるから!」
澪が直接息絶えた瞬間をイレブンは見ていないが、もう死人だと確信する。澪の脳天をかち割る。悲鳴がやんだ。倒れる澪。炎が下火になっていく。
無言で背後から足音が近づいてくる。振り向きざま、イレブンは六車のかろうじて繋がっていた首の皮一枚を縦に斬り落とした。六車の胴体は、その場で大きな音を立てて倒れた。
イレブンは大階段の手すりに駆け寄り、下を見下ろす。階下に悪魔の姿がない。
「この野郎、出てこいよ! 仲間内で殺し合いをさせる気か。許せねぇ!」
背後で風を切る音がした。イレブンは怒りかアドレナリンのおかげで鋭くなっていた勘で、それをかわした。
バールだ。悪魔が背後にいた。
やはり瞬間移動的な能力があるのだ。バールはかわせたが、男の腕はまだ二本ある。右へ左へ殴られて、ふらついたイレブンは大階段から転がり落ちた。肩や背中、腰、足と打たないところはないぐらいに打ちつけて七階でなんとか止まった。頭だけなんとかかばうことができたので、視界だけははっきりしている。六階から指ムカデが上がってくる。
「もうトラウマはねぇよ」
背後から三本腕の悪魔が不思議そうに尋ねてくる。
「それは残念だ。トラウマがなければ、新しいトラウマを作ればいいんじゃないか?」
血腥い臭気が漂ってくる。七階の通路が真っ赤になる。血だ。血が海となって流れてくる。湯気が立っている。イレブンは六階に這って降りようとする。階段を血が洪水のように流れ落ちてきた。今さら血をバケツでぶちまけられようが怖くはない。だが、何かが走って来た。悪魔でもない、青白い裸体で。
「まさか、勝木田」
両目のない勝木田が、右手指に突き刺した自分の目玉を突きつけて、無言で走ってくる。
――来るな来るな来るなっ!
追われたら逃げるしかない。六階に駆け降りる。指ムカデが心なしかこちらを見上げたような気がした。
「指なんかいらねぇよ! 九本指が俺の全部だ!」
イレブンは指ムカデを足で踏み、蹂躙し、蹴散らす。勝木田が終始無言なのでどれくらい追いついてきているのか分からない。振り返ると目と鼻の先にいた。
慌てて両手で握った斧を横に薙ぐ。勝木田の脇腹に深く刺さった。勝木田は呻くこともなく倒れる。指に刺した目玉がひくひくと痙攣しているように見えた。
「ブラーボー。盛大な拍手を」
悪魔が七階からバールで拍手しながら降りてくる。
「お前、もう死んでるやつを操ってんのか!」
「操るとは人聞きの悪い。少なからず、死んだら何かしら恨みや後悔ってのは残るもんなんじゃないか? 俺はそうだ。あるいは、こんな死に方まっぴらごめんだとか、なんて不条理なとか。そういう負の感情があると、死体だって少しは身体がうずうずするんだろうよ。人間、心安らかに看取ってもらえることなんて、幻想とまでは言わんが、確率でいうと低いと俺は思うが。俺の嫁さんは五十のときにその勝木田と六車に殺されてるんだ。なかなか不運な身の上だと思って、俺のために泣いてくれよ」
「それも、事故だったんだろ」
「ああ。事故はどれも理不尽だろ? お前も今理不尽な目に遭ってるわけだが、もがいてるじゃないか。死人にも足掻く権利があるんだよ」
バールが襲い掛かる。
「なら、その倍は足掻いてやるよ!」
怒声を上げてイレブンは斧で応戦する。一合、二合と刀で弾き合うようにバールと斧がぶつかり合う。階段から落ちたときに打った腰に響いた。顔をしかめる。一方、悪魔は楽しそうだ。
「さあ、船内パーティーも終わりに近づいて参りました。ここでみなさんお待ちかねビンゴゲームです。頭、腹、そしてアソコに穴を空けたらビンゴ!」
そうか、アソコがあった。イレブンは斧を下から突き上げる。悪魔だろうが幽霊だろうが物理攻撃が効くのなら、金的もありのはず。
「ぐわあああああああああああああああ」
どう裂けたのかは、確かめるまでもないが、悪魔は内股で蹲った。イレブンがとどめに頭から斧を振り下ろそうとしたとき、待てと制止された。
「往生際が悪くね?」
悪魔は転がっており、悶絶している。半分ない蒼白い顔が、不気味に笑おうとして、引きつっている。
「も、もう、お前の……大事なソラちゃんにも……会えなくなるぞ」
イレブンは薄々そんな気がしていた。どういうわけか知りたかったが、この悪魔から聞くことはできない。こいつは油断を誘っているのが見え見えだ。悪魔はひいひい言いながらも、少しづつ余裕を取り戻しつつあった。人間ならショック死してもおかしくないはずだが、やはりそこは悪魔なのか。
「おお、涙目か。可哀そうなガキだな。いもしない友達と、幽霊船で遊べて楽しかっただろ? 俺がいる限りいつでもあいつに会える」
「嘘だ。ソラはクルーザーの事故で死んでない」
「そうとも。事故では死んでない。俺だって、幽霊が幽霊船に乗り込んでくるなんて思わなかった。だが、俺がいなきゃ、覚王ソラが存在できる時間なんて、自販機でジュースを買うぐらいのわずかな時間しかなかっただろうよ」
イレブンは確信した。出所してきたときから、ソラはもうこの世には――。
「新しいトラウマを見つけたぞ。ソラはもう死ん――」
斧で悪魔の半分しかない顔をさらに半分にした。悪魔の右目は潰れ、瞼の下から顎の骨が砕ける。バールを取り落とした悪魔の三本腕が痙攣していたが、やがて動かなくなる。
イレブンはその場に息を切らして座り込む。終わった。悪魔が死んだことで大階段を灯していた炎が消えて闇に包まれる。真っ暗になっり、鋭くなった聴覚が大型フェリーの軋む金属音を捉えた。
「まずい。操舵室に行かないと!」
非常灯すらない船内を手探りで進む。八階の操舵室は船首に一番近い場所にある。
操舵室に着くまでに一時間かかったのではないかと思うぐらい、暗闇では前に進むのが難しかった。壁伝いに歩いてやっとたどり着く。
斧で操舵室の扉を打ちつけたり、窓を割ろうとしたが駄目だった。たかがガラスの窓すら割れなかった。
「チクショウ! なんでだよ!」
斧で開かないのなら、最初から詰んでいた。
操舵室の前で座り込む。
どれくらいじっとしていただろう。波の音が聞こえた。時刻も分からない。めまいがする。不意に消炭先生の言葉を思い出す。
――人は長時間暗闇にいると、健康な人でもおかしくなっちゃうから……。
「なんだかんだ、悪魔崇拝者のくせに臨床心理士のことちゃんと勉強してるのだけは、偉いよな」
イレブンは、自分がどこを向いているのかも分からない。波の音が催眠術のように、これまでの喧騒を忘れさせ、ゆっくりと瞼を閉じた。
ふいに、青白く辺りが光り出した。燐光のようなものを発しているのは、男の子が傍に立っていたからだ。
「ありがとう」
「え? 零?」
零の髪が短くて誰なのか分からなかった。にっこり微笑んでいて、これまでと別人だ。
零のほかに、みんないた。零の後ろに、首のちゃんと繋がっている六車が少し困惑しながら微笑む。澪はお嬢様だと見せつけるように前で手を組み、その隣には油人間になる前の女社長がいる。少し疲れた顔をしているが、怒ってはいない。勝木田は裸じゃなくて、ちゃんと風呂に入る前の白の半袖パーカー、グレーの七分丈のパンツという格好に戻っている。不満そうだが、同時に満足気でもある複雑な表情だ。
「ソラ」
それから、ソラ。心なしか一番遠く、こちらに背を向けて立っている。その後頭部にはもう斧は刺さっていない。
女社長と澪が、零の手を取る。イレブンを一瞥すると、無言で頷いて歩き去っていく。
「またねー」と零がこれまでになく明るい声で言った。怒った女社長が零を引き立てて行く。イレブンも、また会うということは、大変なことだと思った。
六車、勝木田も無言で去って行く。イレブンは何か言わないといけないと思ったが、結局何も言えなかった。
みんなを引き連れて先頭を行くソラは、一度もこちらを振り返ってはくれなかった。




