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指切りの船  作者: 影津
20/23

5-3

 顔に冷たい水が吹きつけたので、イレブンは溺れると思って飛び上がる。


「起きたか! びっくりさせんなよ」


 ソラと澪がいた。イレブンは上体を起こそうとしてふらついた。海に浮いているような浮遊感がある。デッキで仰向けに寝かされていたようだ。


「親父が。そうだ比米……」


 ソラが悲し気な顔をする。


 イレブンは思索に落ちる。あの日の犠牲はあまりにも大きすぎた。ソラを待つ間に、一番冷静だったはずの卯月がパニックを起こして沈んだ。自分に向かって、救命胴衣を寄越せと叫び続けていた。手を繋ごうと言ったが聞く耳を持たなかった。


 イレブンは一人になったその後、流されていた。事故現場から遠ざかって行った。


 ソラは戻って来なかった。


 あおいとりから救命ボートが捜索に来て、イレブンは引き上げられた。事故からニ十分かそこらだったかもしれない。だが、体感では何時間も海に浮いていたようだった。病院に着いてからの記憶は、慌ただしかったことだけ覚えている。検査に点滴、温かいベッド。至れり尽くせりだった。


 ソラのことは翌日知った。本当に岸まで泳ぎ切ったらしい。上陸した場所から地元民に救助されていた。だが、それが賞賛されるはずもない。事故現場には救助はもう来ていた。海上保安庁による捜索も事故発生から一時間後には開始された。事故現場付近が関西国際空港の近くだったこともあり、近くを航行していた漁船やタンカーなども捜索に加わっていたそうだ。


 心肺停止した仲間たちが病院に運び込まれてきた。治療できた者は比米だけだった。ほかは、心停止の確認作業だったらしい。


 それぞれが遺体となって家に帰った。イレブンの父親の遺体は幸い綺麗な状態だったが、母親と離婚していたので事故現場から一番近い場所で火葬された。イレブンはすぐに退院し、葬儀に出席もしたのだが事故後のショックが大きく、坊さんを殴って葬儀場から追い出された。


 貴子、マリン、テルの家族から葬儀に出ることを拒まれたので、結局リボンの葬儀にしか参加できなかった。


 事故から三日後。流れているところを漁船に発見されて入院していた比米が、海水を飲み込んで溺れたことによる重度の肺炎で亡くなった。


 最後に発見されたのは卯月で、事故から三週間後に遺体が引き上げられた。髪がなく、肌は膨張していた。


 ソラの父親は事故から一か月経っても、遺体すら発見されなかった――。


「おい、イレブン。本当に大丈夫かよ」


「ソラ、さっきのは幻覚だと思うか?」


 イレブンはここが、あの日の事故現場ではないことを確認する。ソラは答えない。


「ねぇ、何があったの?」


 (みお)はみんなの亡霊が見えなかったらしい。


 イレブンは自分一人の幻覚だったことに不安を感じた。この船に乗ってからおかしなことばかりだった。


「ソラ。ここは今安全なのか?」


「安全な場所なんてねぇかもな。だけど、あいつがいる内は大丈夫なんじゃねぇか?」


 ソラが指差す先に、髪の長い少年が立っている。展望デッキの一番端の手すりの前で遠巻きにしてこちらを見ている。


(れい)


 澪が近づく。イレブンもゆっくり立ち上がる。足がしっかりしてきた。


「待てよ。ここには、あおいとりに関わりのある事故の関係者しかいないのかソラ」


「今頃かよ。でも、六車(ろくしゃ)(かち)木田(きだ)は? どんな事故に遭ったのかお前聞いたか?」

「いや詳しくは聞いてない。たぶん水上バイクだとは思うんだけど」


「水上バイクとあおいとりじゃ接点がなさそうだな。まぁ、レイに聞いてみようぜ。って、感動の再会を邪魔するのは野暮か」


 澪は零を見下ろす。


「お兄ちゃん。本当にお兄ちゃんなんだね。あの日、お兄ちゃんが退屈してたの、知ってたんだ」


 零は答えない。白い顔で澪を睨みつけている。


「ごめんね。あたしが無理やり船内パーティーに連れて来ちゃったんだもんね。行くならお兄ちゃんといっしょがいいって、お母さんに無理言ってさ。お兄ちゃん風邪気味だったのに。それであんなことまで起こるし」


 零は恨めしそうに澪を見上げる。身長は本来なら逆転しているだろう。


「悪魔って(なか)(つか)仲継(なかつぐ)のことよね。お兄ちゃん、あいつがどうしてこの船にいるのか教えて。あいつ、船に火をつけただけじゃ満足しないの? お兄ちゃんを道連れにして、なんでこの船にまだいるの。零、辛かったよね。もっと早く会いたかった。お母さんが……」


 澪の声が嗚咽でかすれる。


 そのとき零が澪の手に触れた。澪がはっと息を詰めて肩を震わせる。幽霊に触れられたら、どんな感触なのだろうか。


「澪は温かいね」


 零が澪の手をきつく握るのが見てとれた。


「僕とあの悪いおじさんはね、船に火が回ると、筏で脱出したんだ。乗組員さんがね、筏に乗り込む直前、おじさんのふいをついて、斧で攻撃したんだよ」


 澪は涙目になって零の頭を抱え込む。


「辛かったらいいよ。話さなくていいよ。忘れてもいいことって、あるのかもしれないね。でも、私は零がいたこと忘れないから。だから、辛かったことだけ忘れちゃおうよ。ねぇ」


 零は淡々と話す。まるで自分のことではないかのように。


「悪いおじさんは、斧で右腕が真っ二つに割れたんだよ。肘のところから骨が見えた。手のひらも割れて、指が三本と二本に別れちゃった。それでもおじさんは僕をつれて逃げた。追いかけてくる船はなかった。あおいとりが燃えちゃって、火を消すのに忙しかったのかな」


 澪が身震いする。火の話も、こたえるのかもしれない。


「澪、怖いの?」


 零が澪から逃れた。長い髪の間から黒目が覗いている。


「澪、安心して。僕、おじさんに殺されたんじゃないんだ」


 そう言って零は澪の脇を通り過ぎ、何故かイレブンとソラの並ぶ向かい側に立つ。焼けただれた腕でイレブンを指差す。


「え? 俺?」


「筏で漂流しているときにね。僕らは一度、発見されたのに見捨てられた」


 澪が青ざめてイレブンの前に走って来た。


「零は漂流中に、一度クルーザーに目撃されてるの」


「え? クルーザーって。まさか俺らの? いやいや。十年前なんだろ? 俺らまだクルーザー乗ってねぇよ」


「零、この人たちなわけがないよ。だって、十年前じゃ小学生ぐらいだよ」


「男の人が二人いた。悪いおじさんは逃げるのを諦めて、二人に助けを求めた。水と食料はあったけれど、おじさんは血が出てたし、僕も火傷してた。でも、その人たちは酒に酔ってて、僕らの姿を見たのに助けてくれなかった。チャラい人と、四角い顔の人だよ」


 ――まさか親父?


「親父とソラの親父さんが?」


 イレブンはソラと顔を見合わす。ソラも何も知らない様子だ。


 零はくすくす笑う。


「似たもの親子だよね。君たちは人の命が軽いと思ってるの?」


「親父らに代わって謝るよ。でも、親父だって償いきれない。二人とも俺たちのせいで死んじまった。……まさか、悪魔って、俺らが憎いのか」


「悪いおじさんは、あおいとりの仕事のライバルだったから、あおいとりの会社が憎かったんだけどね。でも、僕たち漂流して死んじゃったでしょ? それでもっと悪い人になって蘇った。みんなに嫌がらせがしたいんだって」


 澪が不安そうな目で零を見つめる。


「でも、それじゃあ、六車(ろくしゃ)さんと(かち)木田(きだ)さんは?」


「あの二人は悪いおじさんの奥さんを殺しちゃったみたい。水上バイクでおじさん夫婦の乗ってたヨットにぶつかったんだ。それも十年前。悪いおじさんがまだ悪くなかったころだから、おじさんはだいぶ落ち込んで、それからおかしくなっちゃったみたい」


 ソラが悪態をつく。


「逆恨みもいいとこだろ。事故だったんだから。俺らの親父は悪いけど。俺らも事故起こしたりしたけどよ」


「お兄ちゃんは事故で、人生変えられたんじゃないの? それとも刑務所で何かあった?」


 煽られたのに、ソラが反論しない。沈鬱な表情で零を睨みつけている。零ははじめて歯茎を見せて笑った。


「分かった。僕とお兄ちゃんの秘密ね?」


 イレブンは不安になる。ソラの秘密は数え上げればきりがないような気がする。


「この船を無事に降りたら、全部分かるだろうよ。イレブン気にすんな。今はこの幽霊船の悪魔をぶっ倒すことだけ考えようぜ」


「え? ソラ。あいつを倒すつもりなのか?」


「当たり前だろ? やられっぱなしじゃ、ソラグループの名折れだ。塩でもまいて、ぶん殴ってやる。あいつ、俺に化けてたのが許せねぇんだよ」


 頼もしい限りだ。


「ソラも見えてたんだもんな、俺の幻覚じゃなくて良かった」


「ねぇ、なんの話?」と澪。


「さっき俺が気絶した原因。昔の事故のときの仲間が現れて。澪は見えなかったのか。ってことは、本当に悪魔って野郎の武器は、人のトラウマにつけ込むことかよ。性格歪みすぎだろ」


「じゃあ、もしかしたらあたしも襲われるの?」


「それはまだ分からないけど」


「分からないって? はっきりしてよ」


 零が不安そうに澪を見上げた。それから、イレブンを見つめる。


「澪のことでお願いがあるんだ。妹を守って。この船から脱出するには悪魔を倒すしかないんだ」


 イレブンは零の肩をつかんだ。幽霊の身体は冷たいと思っていたが、空気と同じぐらいの温度で手触りも何もなかった。空気みたいだ。


「ここから出られるんだな? 俺たち、帰れるんだ」


 澪が眉間にしわを寄せる。


「膨張式救命筏もないのに? 陸までは泳げないわよ」


 零が澪に笑いかける。


「ほかの乗客が消えちゃったでしょ? ここはそういう場所なんだよ澪。外と違う世界。船のエンジンが停止してるから遭難したんじゃないよ。あおいとりははじめからずっと幽霊船……」


 零が言い終わる前に船が大きく傾いた。


 大波だ。少しずつ荒れてきてはいたが、とても立っていられないレベルの波を船腹に受けたらしい。


 みんな転倒する。幽霊である零も人の姿である以上、物理法則が作用するのか転がる。展望デッキから船内に続く通路側へ四人は倒れたまま滑っていく。一番先に転んだ澪が、滑り台のように船内通路に入って行く。


「澪! おい! まずいぞ!」


 イレブンとソラ、零は折り重なってその入り口で止まった。中から澪の悲鳴が聞こえる。真っ暗で何も見えない。と思ったら、いきなり炎が見えた。澪の断末魔が、船内で大きく反響する。


 それを目撃した零が悲鳴を上げて姿を消した。


「今のはなんだ!」


 イレブンは零に聞いたが、返事は返って来ない。


「たぶん、澪がやられた」


 ソラが蒼白な顔で言う。


「今の炎で?」


「零の口封じだ。見ろ、もう零はいない。零が俺らに色々話したからだろ」


「だからって、なんで澪がやられるんだよ。おかしいだろ」


「零は幽霊だから、もう殺せないんだ。零を黙らせるには妹の澪を消すしかない」


 イレブンは愕然とする。船の傾斜が元に戻りはじめて、普通に立てるようになった。


「反則だろ。今の。不意打ちだし、澪を守れって頼まれたばっかりなのに」


「ああ、それが狙いなんだろうよ。誰も今ここでいきなり澪がやられるなんて、思わない。ショックを受けてんのは、俺たちだけでなく零もだろ」


「……悪魔が霊をビビらせたのかよ」


「零の協力はもう得られないと思った方がいい」


 ソラが慎重に船内通路に足を踏み入れる。また大波で船が傾かないとも限らない。


「大波を起こせるんなら、悪魔の野郎はこの船ごと俺らを沈められるんじゃないのか?」


「思うんだけどよ。船を沈めるっていう選択肢を、悪魔って奴は取れないんじゃねぇか? 零も言ってただろ。悪魔を倒すしかないって。なんて説明すればいいのか分かんねぇけど、ゲームでいうところのステージなんだよ、この船は。この幽霊船があるから悪魔がいるっつーか」


「なんとなく意味は分かるよ。化けて出るから幽霊船なんだろ。地縛霊は亡くなった場所に留まり続けるって言うし。悪魔の野郎が死んだのは、あおいとりの救命筏から海に飛び込んだところなんだろ? あおいとりを根城にしてるっていうか」


「陸で死ぬのと違って、留まる土地がないから、船に集まってくるのかもな」


「幽霊も海を漂うのは辛いんだな」


「あんまり同情しない方がいいぞ。相手はもう三人殺してんだからな」


「ソラ、どうやって戦えばいい? 敵は悪魔なんだろ。俺、お経読めないし」


「あほだなー。悪魔には聖書だ。でも、そんな難しいものはいらねぇ。ここが幽霊船という名の異空間と仮定してだな。敵はトリッキーな幻覚技を仕掛けてくるけどよ。さっき分かったことがあるぜ」


「何?」


「この幽霊船に現れる悪魔や幽霊の類は――殴れる」


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