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指切りの船  作者: 影津
2/23

1-1

 八月十六日、金曜日。


 蓮寺(はすでら)十一(いれぶん)はカウンセラーの来訪に落ち着かないでいた。


 勉強机用の椅子に自分が座り、母親がキッチンから持ってきた椅子を向かい合わせにカウンセラーの先生が座る。


「イレブン君のおうちは、エミリーマートの上っていうのは本当だったのね」


 コンビニの上の二階と三階がイレブンの住居だ。


「まぁ」


 イレブンはそっけなく答える。女性カウンセラーの消炭(けしずみ)ケイ先生とは半年ぐらいのつき合いだが、訪問されたのははじめてだった。ピンクのブラウスに白のタイトパンツはオンラインカウンセリングでよく目にしていたが、普段は黒のローファーを履いていることは玄関で初めて見るまで知らなかった。


 イレブンは訳あって週一回の治療と、週一回のカウンセリングを受けている。カウンセリングは、オンラインカウンセリングで済ませ、薬もオンライン処方で受け取っている。


 だから、こうして母親以外の人とパソコンの画面ではなく対面で顔を合わせることが、少し苦痛だった。


 母親が部屋を片付けようとするので、止めて喧嘩になり、カウンセラーが無理に片づけなくてもいいと言ったのでベッドの上にはパジャマが脱ぎ捨てた状態だ。それに、昨日脱いだ白シャツも。


 掃除もしていないし換気もしていない。しかも、キッチンでは食事せずこの六畳の自室で飲み食いするので昨夜の夜食のラーメンの臭いがこもっている。昨日はまったく食べられなかったので、部屋の隅にお盆ごと置いているが。


 消炭ケイは頬がやせこけた女性だ。三十代に見えるが、本人曰く、二十五歳らしい。十八歳のイレブンからすれば社会人はみんなオバサンと罵っていい対象なのだが、ガリガリの消炭ケイを貶すのは何だか哀れで仕方がない。面長で色白、腰まで届く黒髪と、日本人的な美しさがあるはずなのだが、ほうれい線と薄い唇が台無しにしている。


「幻覚の頻度は減ってきた?」


 器量こそよくないが、単刀直入に質問して、こちらに媚びるような真似をしない先生なので、イレブンはそこそこ気に入っている。


「まぁ」


「前回、セルトラリンを倉田医師が100ミリまで増やしてるみたいだけど、ご飯は食べられる?」


「吐きそうになって、今も胸の辺りが気持ち悪い」


「朝食は摂れた?」


 イレブンは苛立たし気に首を振る。


「イライラする?」


「いつも」


「ほかに何かない?」


 イレブンは黒目を動かして自分のベッドを見る。消炭先生を無視しているのではなく、何かが動いたように見えたからだ。


 シーツが波紋を描いて夜の海になる。目の前を横切る大型フェリーと、誰かが必死で泳ぐ波の音がする。


「イレブン君? また髪伸びてる?」


 言われてはじめて気づく。消炭先生は何分か黙って自分を観察していたに違いなかった。


「別に切る必要もないだろ」


「そうね。ロンゲもいいけど、前みたいに染めてみない?」


「今バイトしてないから、金ないし」


「そっか」


 バイトで稼いで親友と髪を茶髪に染め合ったりしていたのは、一年も前の話だ。学生服を着崩して、親友と三人で恐れられていた。


 今自分が学校に行きたいのかどうか分からない。まずは、この病気を治すのが先決だと母親は言うのだが。


 ――代わりにあんたが死ねば良かったのに。


 同級生の女子が自分を批難する声が聞こえた。


「吐き気は? 眠気はどう? 食欲がないのは副作用のせいだと思うけど」


「吐き気も眠気ある。起きてるのがしんどいけど、寝るのもあれかなって」


 イレブンはベッドが元の平凡なベッドに戻っていることを確認して、ほっとする。


「SSRI系の薬からSNRI系の薬に変えた方がいいわね。倉田医師にそう伝えて? 私は決定権がないから」


 消炭先生は独り言を言う。


 薬物療法が堂々巡りするだけだ。普通の人はトラウマなんて簡単に治せるのだろうとイレブンは絶望的な気分になる。


 PTSD(心的外傷後ストレス障害)。俗に言うトラウマがイレブンの不登校の原因になっている。


 消炭先生は学校のカウンセラーではなく、PTSD専門の臨床心理士だ。


 イレブンがPTSDとなった事故が起きたのは、一年前の六月。親友の運転するクルーザーと大型フェリーが衝突事故を起こして巻き込まれた。そのとき、イレブンは左手小指を切断して失い、同乗していた父親を含む八名が死亡する大惨事となった。十名中生き残ったのは二人。イレブンと親友の(かく)(おう)ソラだけだ。


 ソラは船舶免許もないのにクルーザーを運転し、フェリーと衝突事故を起こしたので、今は少年刑務所に入っている。


 事故当時、イレブンとソラは十七歳だった。ソラは少年院ではなく少年刑務所に入っているから、刑務作業に従事しているはずだ。


 少年院は更生が目的だが、少年刑務所は刑罰を受けるために入る。イレブンは事故後、ソラと一度も会っていない。


 確かソラの懲役は三年で、執行猶予はつかなかった。海難事故としては極めて悪質な無免許による運転だと判断されたからだ。


 それでもイレブンはソラが好きだった。ソラがいなければ、高校では早々に孤立していたはずだ。悪友がいたから、イレブンはクラスの中心的なおちゃらけキャラになることができた。


「倉田医師に、こっちのベンラファキシンを使うように相談しましょうか。次にオンライン診療するのはいつ?」


「三日後」


「もう少し早くしてもらった方がいいわね。セルトラリンを100ミリは多すぎるから」


「はぁ」


 イレブンは気のない返事をする。生あくびを噛み殺したようなくぐもった音だった。


「ギターは?」


「え?」


 消炭先生は、モノクロ色で統一された調度品の並んだ部屋を眺めている。


「以前、ベッドの横に置いてるのが見えたから」


「もうとっくに処分したし。弾けねぇし」


 衝突事故で、左手小指を失ったイレブンは未だに小指がないことでイライラしている。幻肢痛という痛みの幻覚みたいなものがある。


 痛みだけが問題ではない。趣味にしていたアコースティックギターが弾けなくなったのだ。ギターコードのDとかGとか、たった一音押せなくなるだけで、様にならない。


 小指の欠損は、後遺症等級で十二級となる。生活に支障はないと判断されて障害者手帳はもらえない。力を込めてものを引っぱったり、握ることができないだけだ。


 イレブンの中ではまだ小指は存在する。だが、身体的には存在しない。そのギャップが埋められなかった。


 消炭先生を静かに睨みつけた。消炭先生は特に驚きもせず同じく白い顔で見つめ返してくる。我慢比べのようになるのが嫌で、イレブンは口火を切った。


「何で来たんだよ」


 カウンセラーが訪問することは珍しいことではない。相談者(クライアント)が自宅に引きこもっているならなおさらだ。イレブンは消炭先生が答えるより速く、唸るように怒りを露わにした。


「俺の髪がどうとか、ギターがどうとか言いに来たのかよ」


「いいえ。ちょっと面白いなぁと思ったのよ」


「カウンセラーがクライアントをからかっていいのかよ」


「そろそろ一年経つし、薬物療法のほかに別の治療を提案してもいいころかなと思って」


「俺は実験台じゃねぇんだけど」


「これまで受けた治療で嫌なことあった?」


 イレブンは反芻する。薬物療法以外は難しいことは何もしていない。


 冷水に顔をつけて息を止めることをしても、何の改善もしなかったし、ストレス解消のためにカラオケを勧められたが、外には出られなかった。紙風船を何個も膨らまして全部手で潰すという幼稚なこともやらされて、結局どれも効果が実感できず、無意味に思えた。


 消炭先生は穏やかに微笑む。


「嫌ではなかったでしょ? そろそろ曝露(ばくろ)療法を試せるんじゃないかと思うの」


「何それ」


「行動療法の一つなんだけどね。トラウマをあえて思い出してもらうの」


「は? 馬鹿じゃね?」


「いきなりするってわけじゃないわ。まずイレブン君は外に出られるようにならないと。曝露療法を試すどころじゃないしね。でも、まず遊び感覚でこういうのは楽しめるんじゃないかな」


 消炭先生は黒のポーチから二枚のチケットを取り出した。


「どうしてもこれを渡したくて、今日は対面でお願いしたのよ」


 青い鳥が描かれているチケットだ。これは、大型フェリー『あおいとり』の乗船券。しかもスイートルーム。金額を見て仰天した。一枚十万円もする!


「これ、くれるのか?」


「二枚ともね。それから、まだあるの。この日は船内ライブがあって、こっちのチケットも渡しておくわ。私は全然知らないアーティストばかりだけど。面白そうでしょ?」


 イベントチケットの方も六千円と結構値が張る。


「よければお母さんと行ってみる? お母さんとが嫌なら、私と一緒でもいいけど」


「先生は留守番で」


「私があげたのに。まぁ、前向きに考えてくれて先生も嬉しいわ」


「でも、全然知らないアーティストばっかりなんだよな」


「こういうのは雰囲気を楽しんだらいいんじゃない? レストランはビュッフェ形式で食べ放題みたいだから。治療なんて考えず、まずは気軽にね。船に乗れるだけでも相当な進歩になるわよ」


 イレブンは誰と行こうかと思案した。まず最初に思い浮かんだのは少年刑務所にいるソラだ。


 ソラの仮釈放は明日だ。この日をずっと待っていた。不安が頭をもたげる。


 自分は生き残った。大勢の人が亡くなったのに、何かを楽しむような真似をしてもいいのだろうか、未だに分からない。亡くなったのはみな親友や家族だ。


 受け取ったチケットを持つ自分の指が、十本全部そろっているように見えた。


 消炭先生がイレブンの肩幅の狭い肩に手を置く。


「目的は船に身を置くこと。トラウマとなってるのはクルーザーよね? こっちのフェリーなら大丈夫よ」


 衝突事故を起こしたとき、フェリー側に死者は出なかったが、それでも負傷者は出た。イレブンも海難審判(海や川での事故専門の裁判)に呼ばれた。


 ソラは有罪だったが、イレブンは罪に問われることなく被害者の一人として扱われた。それが本当に良かったかどうかは分からない。ソラ一人が罪を背負うことになってしまった。


 ――あのとき、俺がソラを止めていれば。


 イレブンは先生にチケットの礼を言った。明日、ソラが出所してきたら真っ先にソラに見せてやろうと思った。


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