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午後八時。
六階レストランでイレブンと女社長は、ソラ、澪、六車に合流する。
「この船の遭難が確定したわ。航行速力は現在一ノットほどしかない。一ノットじゃ波から受ける影響の方が強いから、流されているとしか言いようがないわ。横波が来たら転覆の可能性もある。膨張式救命筏も見当たらないから、脱出はまず無理ね。救助を待つわ。最上階の展望デッキに、ここのレストランの椅子を並べてSOSの文字を作るから手伝って」
イレブンはソラと目を合わせたが、相変わらずケロっとしており何も隠しごとはないという顔をしている。どうやって出所して、旅行に行く気になったのか尋ねるのは野暮だ。
最上階のデッキにSOSの文字を作ったあと、女社長は食糧の心配をした。案の定、貯蔵されている食糧はどれもこれも腐っていたので、自分らの手持ちの食糧の残りを調べる意味も含めて、各自室へ解散となった。
「イレブン、先に部屋戻っててくれよな。俺、女社長に呼ばれてんだ」
「あの人、生活指導の先生にでもなったつもりなんだろうな」
「違いねぇ。それか、裁判官か」
「なあ、ソラ。女社長に余計なことを聞かれたら、無理に答えなくていいと思うよ」
「俺からも女社長に言っときたいことがあってな」
「なんて?」
「あんたも隠しごとすんなってな」
「どういうことだ?」
「操舵室が開かなくて俺ら色々試したよな。大きな船には浸水して扉が開かないときのために、ぶち破ることができる消防斧ってのが設置されてるんだ。そういう便利なものがあるのに、それを使わなかったってことは?」
「斧がないのか」
「たぶんな。最初からこの船に設置されてない可能性もなくはねぇけど。大手海運会社のあの女社長の船に限って、それはありえねぇと思う。誰かが持ち去ったんだろう」
「誰が?」
「それを女社長が俺らに聞かなかったってことは、女社長が自分で隠し持ってるのか、俺らを疑ってるのかだろうな。まぁ、女社長はザ・正義の人間だから斧は持ってないだろう。持ってたらとっくに使ってる。まぁ気にせずゆっくり休んどけよ。今できることはねぇから」
言われるままに、自分の部屋に一人ぽつねんと引き返したイレブンは、この巨大な船が遭難していることに不安を覚えた。今は波が高くないが、夜眠るときになって大きな波に船が飲まれたらと思うと気が気ではない。
自室のベッドに腰掛けると寒気がした。シーツがひんやりとして冷たい。何かウインナーみたいなものが転がっているのが、視界の隅に入る。
――あれはなんだ? あれって。見るな。見たら後悔する。
桜色の爪が生えたそれは、びくびくと痙攣しはじめる。天井の温白色の蛍光灯に照らされたそれが、生暖かそうな血を噴き上げる。シーツに血痕を塗りたくりながら、それは第一関節と第二関節を芋虫のように伸縮させ、迫って来た。
イレブンは総毛立ち、ベッドから立ち上がろうとするが、上手くいかない。足が床に吸いついたかのように強張っている。硬く目を瞑った。
ぐにちょ。
失くした小指が腐敗する音。海の底に沈み、一度は青白く親指大にまで膨れ上がり、小魚につつかれ、骨を剥き出しにしたそれが、桜色の爪だけを残してイレブンの元へ戻って来る。
「……来るな」
ぐにちょぐにちょ。
のたうつそれが、血を撒き散らした。イレブンの頬にかかる。それでも目は開けない。
イレブンは足の感覚を取り戻すため、自分の太ももをつねる。足指を一本一本動かし、ようやく立ち上がることができた。目を閉じたまま入口のドアまで突進し、廊下に飛び出る。慌て過ぎて、そのまま通路の壁にぶつかった。
「ちょっと、静かにしてよ!」
右隣の部屋から澪が顔を出した。
さすがに目を開けたイレブンは、自分が廊下にいることに気づく。
「うるさいわよ! 何暴れてるのよ」
「い、いや」
澪の剣幕に反論する余裕はない。
「騒音で訴えてやるところなのに。こんな緊急事態じゃなければね」
澪が母親の女社長に似てきた。
「君は女社長と同じ部屋なのか?」
「そうよ」
「ソラ、そこに今いるだろ、呼んでもらえるかな」
「何? もしかしてゴキブリでも出たの? スイートルームにゴキブリなんていないけどね」
「わ、分からないだろ」
「やだ、本当にゴキブリ? だったら清掃員にクレーム入れとかないと。あ、今清掃員もいないんだった。っていうか、覚王もいないよ」
「え? いないって? 女社長に呼ばれてたはずだけど」
「お母さんは、大浴場から戻って来てない勝木田を探しに行ったよ?」
「そういえば勝木田、まだ戻ってないのか。じゃあ、ソラはどこに行ったんだ?」
「知らないわよ。君たち同室じゃないの?」
「左隣がソラの部屋」
「嘘、今日そこの部屋誰もいないってお母さんが確認してたよ」
「んな馬鹿なことあるかよ」
「あたし、お母さんに頼まれて誰がどの部屋に泊まってるのか調べたもん」
「乗客名簿があるのか?」
「まさか、それは会社が管理してるからやっぱり無線がないと調べようがないんだけど。あたしがみんなの泊ってる可能性のある部屋を一つずつチェックしたの。君たちがスイートルームにいるってことはラウンジで会ったときに分かってたから。まさか、同室じゃなかったなんて。じゃあ覚王はどこの部屋に泊まってるの?」
「俺が知りたいよ」
「ちなみに、勝木田さんと六車さんは同室で、W712号室よ。この二人だけ六階の一般客用の部屋に泊まってるわ。それから、スイートルームにはもう一人いて、W012号室に女性が一人いたの。名前は消炭さん。カウンセラーをしてるそうよ」
「消炭先生は無事だったのか」
「あ、やっぱり知り合いなんだ」
「どうして早く言わないんだよ」
「あたしもさっき調べたばかりだから。五百人もいた乗客が消えて、あたし一人で探し回るの怖かったんだから」
「なんにしろ、ありがと。俺はソラが本当に隣にいないか見てみる」
「だからいないんだってば。カウンセラーの人、君のこと心配してたよ」
「そうか。そっちにもすぐ顔を出すよ」
イレブンはひとまず自室にいたアレが消えているかを確かめようと、再び自室のドアを開けた。もういない。安心したとき、部屋の灯りがすべて消えた。
澪の悲鳴が、そのままイレブンの部屋に飛び込んで来た。
「うわ! 何!」
「何じゃないでしょ! 真っ暗なのよ! どうしたらいいの!」
澪が縋りついてくる。
「俺より君の方がこの船のこと詳しいだろ。懐中電灯とかないの?」
「ラウンジにあると思うわ」
「じゃあ、いっしょに取りに行こう。でも、ソラが本当にいないのかを確認させてくれ」
澪はいないから無駄だとうるさかったが、イレブンは暗闇の中手探りで左隣の部屋へ行く。スマホのライトを使って、ソラの部屋が施錠されていることが分かった。中にソラがいる気配はない。
「やっぱりどっか行ってるだけだって」
そう言ったものの、イレブンは愕然とした。
あおいとりのルームキーは乗船チケットと同じものだ。紙チケットにルームキーとして使えるQRコードが書かれている。
「俺、あいつの分ずっと持ってたんだ」
「そうなの?」
「俺に預けてきたんだ。だから、ソラは船に乗ってから、一度も自分の部屋に入ってない」
「え? 今そのチケット持ってる?」
ソラのチケットを取り出し、QRコードをかざした。開いたが、今はじめて開けられたことを裏付けるように、湿っぽさが部屋の空気を淀ませていた。




