いまのわたしにあるもの
目が覚めて視界に入ってきたのはうす暗い天井だった。机の上の時計は朝の六時前を指している。まだ完全に日が上っておらず、布団から腕を出すとひんやりとした感触が走る。
ふと、違和感を覚えた。
自分の隣に誰もいない。そもそもベッドが二人並んで横になれる大きさじゃない。左腕を上げると、手入れのされていない無愛想な手があった。
なにか、おかしい気がする。
あれ? なんで指輪がないの? なんでスガッチが隣にいないの? なんで、わたしはひとりなの?
胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感があった。その空いた隙間に日常という現実が入り込んで、今度は胸が痛くなった。
わたしは寝間着のままコートだけ羽織って一階に下りた。まだお母さんとお父さんは起きていない。なるべく音を立てないよう慎重に歩き、靴を履いて家を出た。昨日降っていた雨はすっかり止んでいた。寒さに身を縮こませながらも速度を緩めることはしなかった。自分の吐いた白い息を切り裂くように足を前に運ぶ。憑りつかれるみたいにして、一心不乱にあの雑居ビルを目指した。
商店街はいつも以上に人気がなく静かだった。うす暗い中どの店もシャッターが閉まっていて、眠っているみたい。そんな風景の中でもあの雑居ビルだけは変わっていないように見えた。黒いカーテンの隙間から明かりが漏れている。ここだけが日常から切り取られた別世界のように見えてほっとした。
二階に上がって扉を開ける。部屋に入ると、夢野さんは昨日と同じ様にソファで本を読んでいた。
「天野さん? どうしたんですか? こんな朝早くに」
夢野さんはさっと立ち上がり、訝しげな視線を送ってきた。こんな平日の早朝にほとんど寝間着姿の人がやってきたら怪しむのも無理はないのかもしれない。
「夢の紙をくれませんか? 夢を見たいんです……」
夢野さんはじっとわたしを見つめた。
「……何枚でしょうか?」
「あるだけください。お店にあるだけ、全部……」
夢野さんはまた黙ってわたしを見つめた。
「もう嫌なんです、現実を生きるのは……。夢の中にいさせてください……」
絞り出したような声で言うわたしを夢野さんはただじっと見つめていた。その顔はどこか悲しそうにも見えた。
「申し訳ありませんが、それはできません」
「……どうしてですか? お金ですか?」
夢野さんは首を横に振る。
「私が提供する夢は現実を生きる活力にしてもらいたいんです。現実から逃げるための道具ではなく」
逃げるという言葉が胸に突き刺さった。厳しい口調ではなかったものの、責められているような感じがして悲しくなる。気づけばぽろぽろと涙がこぼれ、嗚咽交じりにわたしは言った。
「でも、わたしの居場所はもう現実にはないんです。学校にも、家にも……。だから、スガッチと二人で穏やかに暮らせる場所にいさせてください」
わたしはひとつのマンガのことを思い出していた。そのマンガでは終盤に敵側の人が世界から苦しみが無くなるようにと世界中の人に夢を見せた。その夢というのは、夢野さんのお店と同じく人々がそれぞれに願う理想の世界を叶えるもので、それが敵側の人の大きな野望だった。実際、その野望の裏には別の恐ろしい計画があり、それに気づいた主人公たちによって敵側の人は倒されて、平和が訪れたというところでそのマンガは最終回を迎えた。
主人公たちの仲間を想う気持ちや不屈の精神にはもちろん感動したけど、わたしは敵側の人の夢を見せるという計画も悪くないように思えた。苦しい思いをせずに終わりを迎えられるならそれも幸せなんじゃないのか、と。
それまでじっとしたまま聞いていた夢野さんは、ゆっくりといつも紙を取り出す棚の方に移動した。棚を上からなぞるように触れると途中でぴたりと手を止めて静かに言った。
「もし仮に、このままずっと夢の中にいられるとして、天野さんは本当に現実に対して未練はないのですか? 家族や友人に対して一切の心残りはないのですか? スガッチと二人で過ごすことだけが、本当にあなたにとっての幸せなのですか?」
「それは……」
一瞬、頭にお母さんとお父さんと森田君が浮かんだ。
言葉が続かないわたしを夢野さんは正面に見据えて言った。
「なにか思い当たるのであれば、まずはいまの天野さんにあるものに目を向けてみてはどうでしょうか」
「わたしにあるもの?」
夢野さんはうなずく。
「大きな理想を目の前にすると自分や周りを厳しく見てしまうのか、近くにある小さな幸せをつい見落としてしまいます。そうすると、自分は恵まれていない、うまくいかないというネガティブな感情が生まれてきます。だからそうやって気分が落ち込んだときは、目の前にある小さな幸せを探すんです。多くの場合、そういう小さな幸せは自分を大事に想ってくれている人によって生まれているものです」
わたしはうつむきながら考えた。
わたしにとっての小さな幸せってなんだろう。そして、それを与えてくれている人。いまのわたしにあるもの。
「だいぶ日が上ってきましたね」
夢野さんがそう言って窓に目をやった。つられて顔を窓に向けると、ぼんやりと明るくなった商店街の一部が見えた。
「今日も学校があるでしょう。ひとまず今日のところはお帰りください」
夢野さんは扉を開けた。そう言われてしまうと、無理してとどまることはできない。わたしは軽く礼をして部屋から出た。




