第三話
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そうやって丸一日が経った夕方、珍しく離れへ侍女がやって来て、父が呼んでいると用件だけを告げた。
“今まで呼ばれる事なんて無かったのに、しかもこんなタイミングで・・・”
それでも、必死に体を起こして侍女の後について母屋へ向かった。
執務室に入ると、小太りで脂ぎった顔の男が待っていた。これが父なのか、と不思議そうに眺めていると、彼は嬉しそうな笑顔を満面に湛えてレティシアを迎えてくれた。これが記憶にある限り初めての父との対面だから、それを喜んでくれているのかと思ったら、そうでないことがすぐに分かった。
「おまえがレティシアか。本当に、美しい癖に冷たい表情をしておる。まぁ、良い。これを見ろ。この書類だ」
そう言って一枚の羊皮紙を差し出した。その内容を読み出したら、血の気が失せて指先がしびれた。
「これは・・・いったい・・・」
それはファミリス伯爵家の当主交代についての内示書だった。レティシアの素行不良を父が訴え、それが認められて彼女は廃せられる。そして代わりに父が跡を継ぐという内容だった。
「ハハッ、ようやくだ。この数年、あちこち根回しして、有力者にも金を沢山つぎ込んだ。そのおかげでようやく当主の座を手に入れることが出来たのだ!」
文書には宰相の署名があるから、あとは王が裁可するだけの大詰めまで話が進んでいる。
「それでタウンハウスの支出があんな額になっていたのですか?」
「母親のマネをして領地から出てこないお前には分からんだろうが、社交には金がかかるのだ」
父はレティシアの手にある羊皮紙をひったくる様に取り返すと、憎々しげに睨んだ。
「だがそれでも足りなかった。もっと金を注ぎ込んでいたら、この文書はもっと早くに手に入れられただろう。だがお前は、儂の金の要求をいつも跳ねつけておったな。一体お前は、領でどれだけ財を貯め込んでいたのだ?でもまぁ、とにかくご苦労であった。その金は儂が使ってやる」
「財産など有りません。あの疫病で領の産業は壊滅的な被害を受けて、この六年でそれを何とか持ち直したところです。蓄財するような余裕はありませんでした」
「なにを白々しい。表向きの収支決算書はこちらでも見ておる。税収は以前の倍近くまで上がっておるだろう?それで金がないとは、奇麗な顔をしてとんだ悪女だな!」
“表向きって、裏帳簿があるとでも思ってるの?”
当然、決算書は公的な物以外に無く、それに書いた通り税金の多くを領内へ投資して来た。最近ではそれで産業が活性化し、領民の収入が増えて税収も増えた。
でも好景気を維持するには、潤滑油である資金を注ぎ込まなければならない。税収が増えた分だけ資金が必要になるのだ。その事をこの人は理解していないのだろう。
それよりも、父の話を聞いて合点がいった。彼がレティシアの噂を流したのは、この当主交代の為の工作だったのだ。
「私が当主代理で無くなれば、マクシミリアン様とのお約束はどうなさるのですか?」
「それも心配いらん。この話はランズドルフが後ろ盾になってくれた」
ランズドルフ侯爵家は、マクシミリアン家と敵対する派閥の領袖で、要は裏切って寝返ったという事だ。
“明日は終業式だったわね。父のこの暴挙をアレクシス様に謝罪しなければ・・・”
婚約も当然破棄されるだろう。頭を抱えたいところを何とか俯いて我慢していると
「学園を卒業するまでは離れに住まわせてやるがその後は知らん。まぁ、支度金なしでも入れる修道院でも探すのだな」
そう言って追い返されてしまった。
翌朝、鉛のように重たい心を抱えながら学園に着くと、終業式の後に話がしたいというアレクシスからのメッセージカードを同級生に手渡された。きっと父の行いがマクシミリアン家にも伝わったのだろう。
終業式の後、指定された中庭のガゼボに向かうと、そこにはアレクシスの他に、第二王子たちとミレーヌ嬢が待っていた。
「呼び出して済まない。だが、どうしても伝えなければならない。私は、君との婚約を破棄することを決めた」
真剣な顔のアレクシスを見て、昨日から覚悟していたことが現実になったのを悟った。
「この度は、父が大変失礼な事をしてしまいました。マクシミリアン様には心から謝罪いたします」
そう言って深々と頭を下げると
「お父上がどうしたって?」
不思議そうな声を掛けられた。どうやら父の話はまだ伝わっていない様だ。それなら何故?とアレクシスを見ると、彼は我に返ったように表情をまた冷たく凍らせる。
「今回の事に君のお父上は関係ない。婚約破棄の原因は君自身だ。君は今まで、ここに居るミレーヌ嬢に嫌がらせをして来たそうだな」
アレクシスは、さっきから彼にしなだれかかっていたミレーヌ嬢の肩を抱いた。
「君に悪口を広められたり、教科書を隠されて嫌がらせを受けていた事は聞いていた。でも一昨日は、彼女を噴水に突き落して危害を加えようとした。気立てが良くて皆から愛される彼女に嫉妬したのか?」
なんだか話が想像していなかった方に向いて戸惑った。一昨日は振り向いたらミレーヌ嬢が噴水の中にいて、何が起こったのか彼女にも良く分からない。教科書のことだって知らないし、話したことも無いミレーヌ嬢の悪口など言っていない。それでもアレクシスの断罪は続く。
「そんな人との婚約を継続したいとは思わない。マクシミリアン家として婚約破棄の話を進めさせてもらうが、それよりも君には、ミレーヌ嬢に行った数々の仕打ちをこの場で認めて謝罪してほしい。謝罪する気はあるか?」
静かな、でも一方的な断罪を聞いて、レティシアは思い至った。
“アレクシス様は凄く真面目な人なんだ”
彼はミレーヌ嬢が虐められていると聞いて純粋に憤っているんだろう。父の事も同じだ。きっとこの人は、真っすぐで真面目過ぎる人なんだろう。
でも、そうは言ってもアレクシスが言うことに思い当たることはない。
“そもそも悪口を広めると言ったって、クラスの子達とだってまともにお話ししたことも無いのに・・・”
そう思ったら、これまでの孤立ぶりを改めて思い返してしまった。同級生たちからは疎まれて、アレクシスには見向きもされない。挙句には実の父に嵌められた。
それで分かった。あぁ、きっと私は誰にも愛されないんだと。それもそうだ。笑いもせず、いつも冷たい顔をしている女を、いったい誰が愛してくれるのか。
“でも愛してくれる人は居たわ。お母様に、そしてルーファス。でも二人とも死んでしまった”
そのルーファスは、彼女が学園に通うことを喜び、そこで楽しく過ごすことを心から願ってくれた。
“ごめんね。私、貴方が望んでくれたようには上手く出来なかった”
それが悲しくて、情けなくて、すると領地を発つときの、目に涙を溜めたルーファスの笑顔を思い出した。
「ルーファスに会いたい・・・」
「なんだって?」
思わず零れた言葉をアレクシスが聞き咎めた。
「真面目に答えてほしい。もう一度聞く。君がミレーヌ嬢に行った数々の仕打ちを、この場で認めて謝罪を・・・え?」
アレクシスの声が間抜けに裏返るのに驚いて目を上げると、視界が滲んでぼやけて見えた。
「レティシア・・・泣いてるのか?」
狼狽えるアレクシスの言葉を聞いて、初めて自分の目から涙が零れているのに気が付いた。瞬きをする度、大粒の涙がポロポロと零れて頬を伝う。我に返って止めようとするのだけれど上手くいかず、やがて喉から嗚咽が漏れて肩が震え出した。
たまらず、レティシアは庭を駆け出した。
「レティシア、待て!どこへ行く!」
後ろでアレクシスの声が聞こえるけれど、それを無視してその場を逃げ出した。
***
そのまま学園は夏季休暇となったけれど、彼女は領には帰らず、タウンハウスの離れから書簡を通して様々な指示を出した。父が領地経営に真面目に取り組むとは期待出来ないから、まずは領内である程度の意思決定が出来る体制を整えるように指示を出した。
突然の領主交代で、あちらは混乱の極みだろうけれど、帰ったらみんなが彼女を頼ることは目に見えている。でも彼女なしで今の混乱を収めてもらわなければならない。
「ルーファスのお墓に行きたかったけれど、それも無理ね」
このまま、学園をやめて修道院に入るつもりだ。でもそうなったら二度と領へは帰れない。寂しさを懐きながらも、羽ペンを走らせて領へ送る指示書を書いていた。
すると外で慌ただしい足音が聞こえて、顔を上げると侍女が数人入ってきた。
「どうしたの?そんなに慌てて」
すると侍女の一人が顔を引きつらせながら答えた。
「お嬢様にお客様がお見えです」
「お客様?どなた?」
「マクシミリアン侯爵家のアレクシス様です」
その名前を聞いてレティシアの顔も引きつった。
「私が応対します。いまマクシミリアン様はどちら?母屋の応接室かしら?」
流石にもう父の裏切りは、あちらの家も把握しているだろう。きっと婚約解消の手続きに来たに違いない。
「いえ・・・それが・・・」
侍女がモジモジと返答に困っているところへ一人の青年が入ってきた。
「アレクシス様!」
それはアレクシスその人だった。慌てて立ち上がってカーテシーの姿勢を取る。
「半月ぶりかな?元気にされていたか?」
「はい、なんとか元気にやっております」
アレクシスの挨拶にとりあえず答えたけれど、心の中は大いに焦っていた。婚約破棄の承諾書にサインするにしても、ここにはソファーも無いから座ってもらうところが無い。
「貴女はこの部屋で暮らしているのか?」
彼もこの部屋の殺風景さに戸惑っているようだ。結局アレクシスには、レティシアが座っていた執務机に座ってもらい、彼女がその前に立つ格好になった。侍女たちが部屋の隅で居心地悪そうに立っているから
「アレクシス様にお茶のご用意を」
そう指示すると、顔を見合わせてアタフタした後、そそくさと離れを出ていった。彼女たちはここに来たこともないから茶道具の在処など把握していない。母屋でお茶を淹れて持って来るつもりなのだろう。
そして気がつくとレティシアとアレクシスの二人きりになってしまった。
でもアレクシスは、目をつむり腕を組んだまま考え込んでいる。どうしたものかと思いあぐねていると、彼は徐ろに席を立って、レティシアの方にツカツカと歩いてきた。驚きながらそれを見守っていると、いきなりレティシアの隣に跪いた。
「一体何を・・・」
「すまなかった」
レティシアの驚きの言葉を遮って、アレクシスが絞り出すように謝罪の言葉を口にした。
「貴女には酷いことをした。本当に済まなかった」
訳が分からず、とりあえず立ってもらおうとしたけれど聞き入れてくれない。アレクシスは跪いたまま、事情を説明してくれた。
「彼女の言葉は殆どが嘘だった」
ガゼボの前での断罪の後、アレクシスはミレーヌ嬢の言葉を改めて調べ直したそうだ。その結果、彼女が虐められていたという事実は無く、その殆どが虚言だと分かった。
「彼女が噴水に突き落とされたというのも・・・」
そう言って上目遣いに見るのでレティシアは頷いた。
「振り返ったらミレーヌ様が噴水の中に倒れて居られました。私が突き落としたわけではありません。でもあの時は体調が優れず、弁明することなく立ち去ってしまいました。申し訳ありません」
「いや、君が謝ることではない。私が、一方的にハミルトン嬢の主張を信じてしまったんだ」
そう言ってまた頭を垂れた。あぁ、もうあの方をお名前では呼ばないのね、と思いつつ、せめて顔を上げてほしいと懇願すると、却って一層頭を低くする。
「君についての噂も、根も葉も無いものだと確認できた」
なんとアレクシスは、夏季休暇に入ってすぐにファミリス領へ足を運び、領のことを自身で調べたそうだ。
「貴女が不当に税を搾取している事実も無いことが分かった。それどころか、話を聞いた領民の全員が、君が領主代理になってから暮らしが目に見えて良くなったと言っていた。みんなが君に感謝していたよ」
レティシアは恨まれているのだと思っていたから、それを聞いてとても驚いた。ずっと領主館に籠もりきりだったから知らなかった。
「あの・・・お母様のことは・・・前領主のことは何か言っていましたか?」
躊躇いがちに尋ねると、アレクシスは顔を上げてレティシアの目をじっと見た。
「君の母上は、隣領からの流民を救済しようとして命を落とされたんだったね。母上のこともみんな慕っていた。母上が亡くなられた村では立派なお墓が建てられていたよ」
これまで、領民の暮らしを守る事だけを考えてきた。そしてそれを償いに、母を恨む人が居なくなる事を願ってきた。
アレクシスの言葉を聞いて、その想いが叶ったのを知った。思わず嗚咽が漏れそうになって、慌てて手で口を塞いだら涙がポロリと溢れた。あの終業式の日以来、涙腺はだいぶ緩くなっている。アレクシスは慌てて立ち上がって、レティシアの肩をぎこちなく擦ってくれた。