第二話
学園へ入学するために、レティシアは王都のタウンハウスへ引っ越した。到着すると、対応に出た侍女に離れの屋敷に案内された。
これまで質実な生活をしてきたレティシアだったけれど、その屋敷に入って驚いた。その古びた平屋の屋敷には最低限の家具しか無く、ガランとした部屋を見回して途方に暮れた。それでも気を取り直し、父に到着の挨拶をしたいと言うと
「母屋にお越し頂く際には、こちらにも準備が御座いますので、事前に先触れを寄越してください。基本、お嬢様はこちらの離れにてお過ごしくださいますように」
侍女にそう拒絶されてしまった。でも先触れをさせるべき側仕えも用意されておらず、この屋敷に一人きりだ。その侍女は、父から預かったという手紙を渡すとそのまま母屋に帰ってしまった。
手紙を開くと
”必要なものは領地で貯め込んだ金を使い自分で揃えるように”
父の筆跡で書かれてあった。
「領地に蓄財なんて無いわ。お父様が全部使ってしまうからでしょ」
それでも再三来る金の無心を断っていたから、これはその意趣返しなのだろうか?間違っても歓迎されるとは思っていなかったけれど、ここまで冷遇されるとも思っていなかった。
それから最低限の身の回りを一人で整えて、レティシアは古びた執務机に座り、領地のルーファスに手紙を書いた。領を出たのはつい数日前の事だから、手紙を出すのは早すぎかとも思ったけれど、領地を出る時のルーファスの姿を思い出したら書かずにはいられなかった。
「こちらは気にせず、どうか学園生活を楽しんでくださいね」
出立のとき馬車の前でルーファスは、目にいっぱいの涙を溜めながら何度も何度も言うから
「心配しないで。向こうでは楽しくやるから。だからあなたも体に気を付けてね」
その手を握ってあげたらなかなか放してもらえなかった。その大きな手は骨ばって硬かったけれど、とても暖かだった。
走り出した馬車の車窓から思わず顔を出すと、ルーファスは屋敷の前でいつまでも手を振り続けていた。でもその姿は老人そのもので、もう大分年老いていることを今更ながらに思い知った。
手紙をしたためながらその姿を思い出したら、胸を掴まれるような切ない気持ちがまた蘇って、だから手紙には、父に穏やかに迎え入れられたと事実とは異なることを書いた。
数日後、レティシアは貴族学園の入学式に臨んでいた。姿勢を正して椅子に座り、面白みもない来賓たちの挨拶を一生懸命聞く彼女に、周りの学生が冷ややかな目を向けていることに気づいたけれど、何故そんな風に見られるのかは分からなかった。
式典後、会場となった大講堂の前では、新入生たちがあちこちで集まり楽しそうな笑顔を浮かべて談笑していた。でも知り合いもいないレティシアは、そんな同級生の姿をただ遠巻きに眺めているだけだった。
”どこかのグループに交わったほうが良いのは分かっているんだけど・・・”
でも領主館に籠もりきりで、同年代の子たちとの交流を持った事もない彼女は何を話したら良いか分からず、だからただ、盗み聞くように彼らの会話に耳を傾けていた。
するとひときわ大きな学生たちの集団から、一人の青年が彼女の方へ近づいてきた。輝くような鮮やかな金髪に、コバルトのような青い瞳のその青年は、人との関わりが薄いレティシアにも美しい人に見えた。
「貴女がレティシア・ファミリス伯爵令嬢か?」
咄嗟に言葉が出ずにただ小さく頷くと、青年は黙礼をしてから名乗ってくれた。
「私はアレクシス・マクシミリアンだ。一応君の婚約者ということになっている」
それを聞いて胸がドキリとした。
”この美しい人が婚約者?”
分かりにくくて誰も気づかなかっただろうけれど、彼女の表情がわずかに華やいだ。でもそんな気持ちは、青年の次の言葉ですぐにかき消されてしまった。
「君の事は噂に聞いている。本当に、その噂通りの冷たい人のようだな」
そう言った彼の視線は、思いがけず蔑むようなものに変わった。
「社交界では有名な話だ。ファミリス領を支配する冷酷な令嬢が、領民から税を絞れるだけ絞って蓄財に勤しんでいると。母親を亡くしているんだろ?それなら、お父上をもっと大切にすべきだ。お父上が君に領地を押さえられて質素な生活を強いられている事を、王都に住む貴族ならみんな知っているぞ」
冷たい表情で話すアレクシスの言葉を、レティシアは心底驚きながら聞いていた。
”私が領民から税を搾り取っている?お父様が質素な生活を強いられている?”
それは事実と違う。税率は他より少し低いくらいに抑えているし、出来るならもっと下げてあげたいのに、それが叶わないのは父の浪費のせいだ。
でもそう反論するよりも、何故そんな話が広まっているのか、訳が分からず混乱した。それに初めて会ったというのに、何故アレクシスにこんな冷たい目を向けられるのか分からなかった。この人は婚約者で、レティシアを大切に扱ってくれるはずの人なのに。
彼は、ふんっ、と鼻を鳴らして元の集団に戻っていってしまった。その集団の中心には数人の見目麗しい若者たちがいて、彼らはレティシアにチラチラと視線を向けながら、戻ってきたアレクシスを迎え入れた。
「すごいな。婚約者にあんな酷い事を言われたのに顔色一つ変えないなんて」
「本当に噂通りのお方のようね」
その一部始終の間、彼女の表情は、少なくとも周りからは全く動いていないように見えたらしい。学生たちのヒソヒソ話が耳に入ったレティシアは、我に返って逃げるようにその場を後にした。
その夜、彼女はまたルーファスに手紙を書いた。アレクシスの思いがけない態度に心の混乱が収まらなかったけれど、手紙には無事に入学式を終えた事、そしてアレクシスと会って、意気投合して楽しい会話が出来たと書いた。
***
それから始まった学園生活は思っていたものとかけ離れていた。友達など一人もできず、学園に通い出してもう三月になるというのに、クラスメイトと話した回数ですら片手で足りる。学期末試験が行われていたこの講堂でも、レティシアは一人きりだった。
原因は分かっている。一つは彼女の表情。幼い時の事件以来、相変わらず感情を表す事が苦手で、だからいつもお面のように冷たい表情をしている。心の中の喜怒哀楽が、表情とどうしても連動してくれないのだ。
そしてもう一つが、アレクシスも言っていた彼女についての噂。実の父を虐げているという根も葉もないものだけれど、学園にもしっかり広まっていて、彼女は密かに”氷の悪女”と恐れられているようだ。
それにしてもその噂、発信源は彼女の父らしい。彼は貴族家で行われる夜会などに参加しては、盛んに娘の非道を訴えているそうだ。
”そんな風に貶めてなんの得があるんだろう。それが領政の悪評にでもつながれば、王家から領地を取り上げられる可能性だってあるのに”
真意を問い質したいけれど、まだ一度も父とは会えていない。実父にそこまで嫌われていることを思うと、いつものように鼻の奥がつんと痛くなった。
それに対してアレクシスは、その端正で怜悧な姿から”氷の貴公子”ともてはやされていて、同じ氷でもレティシアとは対極の存在だった。
同級生のクラビス第二王子の側近候補らしく、彫像のように美しい殿下と、まるで容姿を基準に選んだかのような見目麗しい他の側近候補たちと、いつも行動を共にしていた。
レティシアはそんなアレクシスを、いつも悲しい思いを抱きながら眺めていた。今も階段教室の机に集まる彼らを、講堂の一番後ろの席から見ていた。
”入学式のときに言われたことは事実と違う。せめてそれだけでも伝えたいのだけれど”
でも、どうしても彼に近づくことは憚られた。皆の前で”氷の悪女”が近づいたら、きっとアレクシスに迷惑をかけてしまう。小さなため息をついたその時、教室に甘い声が響いた。
「アレクシス様、皆様、今日の試験は如何でしたか?」
第二王子たちのところへ柔らかな笑顔を浮かべた少女が近づくと、当然のようにアレクシスの腕に纏わりついた。ハミルトン男爵家のミレーヌ嬢だ。
思いがけずアレクシスを観察することになってしまったレティシアは、近頃、彼女が第二王子のグループに交わる光景をよく目にしていた。
アレクシスは、ミレーヌ嬢に蕩けたような視線を返す。
”他の令嬢にあんな顔を向けるなんて。婚約者がいるのに!”
思わず憤ってしまったけれど、その婚約者こそ自分なのだと思い出したら悲しくなった。政略的なものとはいえ、アレクシスは彼女に一切見向きもしてくれない。なんだか居た堪れなくなってレティシアは席を立った。試験は明日まで行われるから、家に帰って講義ノートを見直そう。
***
離れに着いて扉を開けると床に書簡が散乱していた。領から送られて来る書簡は、母屋で受け取ったあと、こうやってまとめてぞんざいに届けられるのだ。
それらを拾い集めるうち、”レティシア様へ”と書かれた私書を見つけた。
手紙は領主館の秘書官からで、時候の挨拶から始まり、とりとめのない領の近況が書かれてあり、どうしてこんな手紙を出したのかと不思議に思っていると、最後でその意図が分かった。
”この頃、ルーファス執事長が体調を崩され、ベッドから起き上がれない日々が続いております。ご本人は何もおっしゃりませんが、お嬢様のことを心配されているご様子です。学園での勉学は大変だとは思いますが、長期休暇の際にでも領にお戻りいただければ、ルーファス様も殊の外お喜びになるでしょう”
それを読んで心にチクリと痛みが走った。
”ルーファスに心配させてしまったわね”
ここに移って暫くはこまめに手紙を書いていたのだけれど、その中でどうしても学園の事に触れなければならず、そうすると楽しくやっていると嘘を書かなければいけない。それが心の重荷になって、最近ではめっきり手紙を書かなくなってしまった。
ため息を吐きながらも、ルーファスが寝込んだのが何よりも心配になった。
”もう歳なんだし、ゆっくり休んで体調を整えるように手紙を書こう”
そう思った時、私書がもう一通あるのに気づいた。その封書を開けて最初の行を読んだ時、レティシアの時が止まった。
”ルーファス執事長様におかれましては、去るウルカヌスの月の二十八日、ご逝去あそばされました”
「ルーファスが・・・どうして?・・・」
震える手で手紙を握り、混乱する頭でその先を読む。それによるとルーファスは、朝メイドが部屋に入ると、すでに亡くなって冷たくなっていたそうだ。死因についての医師の見立ては、老いて寿命が尽きたのだろうとのこと。
手紙は、葬儀を領で執り行うので、可能なら最後のお別れをしてあげてほしいと結ばれてあった。でも二十八日と言ったら二週間前。この手紙は母屋でずっと放置されていたようだ。レティシアは床にへたり込みながら、呆然とその手紙を見つめ続けた。
***
最後の試験は午前で終わり、レティシアは机のインク瓶と羽ペンをケースに入れてカバンにしまった。
あの手紙を読んだ後の記憶が曖昧で、気がついたら朝になっていた。床にへたり込んだまま一夜を明かしてしまったようだ。それから学園まで馬車で連れてこられて試験を受けたのだけれど、その間ずっと必死に心に蓋をしていた。そうしなければ、そのまま崩れ落ちてしまいそうだ。
早くお屋敷に帰りたい。そそくさと講堂を後にして馬車へ向かって学園の庭を横切っていたその時
「きゃぁ!」
すぐ後ろで女子生徒の短い悲鳴が聞こえ、ドボン、と重い水音がした。振り返ると、噴水の中でミレーヌ嬢が尻餅をついている。
「レティシア様、酷いわ!!」
ミレーヌ嬢がよく通る叫び声を上げると、数人の男子生徒たちが血相を変えてこちらに駆け寄ってくるのが見えた。第二王子とその側近候補たちで、その中にはアレクシスの姿もあった。
「ミレーヌ嬢、一体どうしたんだ!」
アレクシスが噴水に踏み入って、ずぶ濡れのミレーヌ嬢を横抱きに抱き上げる。
「レティシア様にご挨拶しただけなのに、いきなり突き倒されたんです。アレクシス様に馴れ馴れしくするなって・・・」
その肩に顔を埋めながら泣き声で訴える。
「これは一体どういうことだ!」
アレクシスが冷たい目でレティシアを睨む。でも彼女は今も必死に思考を停止させていて、夢の中に居るように思えた。とにかく今は早くお屋敷に帰りたい。小さく頭を下げて、そのまま踵を返して馬車へ向かった。
「なんて女だ!」
アレクシスが憤りながら彼女の背中に吐き捨てた。足元に蹲るミレーヌ嬢は、レティシアが何も言わずに去ったのに驚きながらも、満足そうに笑みを浮かべた。でもその場にいた男子生徒たちは誰もそれに気が付かなかった。
レティシアは屋敷に帰ると倒れ込むようにベッドに横たわり、そのまま起き上がれなくなった。
母が亡くなった後、ルーファスはずっと傍にいてくれた。だから彼を唯一の肉親のように思っていたし、彼もレティシアを孫のように思ってくれていたはず。目を閉じると、優しく微笑む彼のいつもの顔が瞼の裏に浮かんだ。
でも幼いときに亡くした母の顔は、今ではおぼろげにしか思い出せない。だからこの優しい笑顔も、いずれ思い出せなくなるかもしれない。そう思ったら、息も出来ない程に胸が締め付けられた。
それでも涙は出てくれなかった。心を満たす深い悲しみを表情に出せなくて、だから悲しみは逃げ場を失い心に溜まり、それが辛くて体を起こす事すら出来なかった。